東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の多言語翻訳『東京通詞』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:スラブ

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1860年代には、北ドイツのプロシア王国、並びに、イタリアとの戦いに敗れ、
    スラブ人とハンガリー人の反乱もハプスブルク帝国を弱体化した。 1867年、
    帝国が崩壊するのを恐れた皇帝フランツ・ヨーゼフは、新しくオーストリア・
    ハンガリー帝国を樹立することに同意した。 その結果ハンガリーは、独立した
    議会、行政、司法機関を獲得した。

    オーストリア・ハンガリー帝国
    desvg

    しかし、この動きはスロバキアの自由独立への希望を打ち砕いた。 スロバキア
    支配の決意を新たにしたハンガリー指導者は、先祖の名に因んでマジャール化運動を
    始めた。 ハンガリー語のみが公用語となり、スロバキア語の学校は閉鎖された。

    この政策と、打ち続く貧困は、多くのスロバキア人がアメリカへ移住する要因と
    なり、残った人達は農場や工場で不満分子となった。 スロバキアの民主主義は
    労働者の間に育ち、1800年代の終わり頃にスロバキア国民党が結成された。
    党は、オーストリア・ハンガリーに住むスラブ民族の独立を支持するロシアと
    同盟を組んだ。

    【新共和国】
    1900年代初め、オーストリア・ハンガリー帝国内のスラブ諸民族は、混乱の渦に
    巻き込まれていた。 1914年に派プルブルクの皇太子がセルビア人に暗殺された。
    この事件は、独立したスラブ人の国セルビアと、オーストリアとの戦争の引き金と
    なった。 ドイツとオーストリア・ハンガリーは同盟を結び、ロシアがセルビアを
    支持した。 イギリス、フランス、イタリアはドイツ同盟国を敵に回し、第一次
    世界大戦(1914~1918年)が始まった。

    チェコ人もスロバキア人もハプスブルクの支配下にあったが、同じスラブ民族の
    ロシア人やセルビア人と戦うことを拒否した。 多数のスロバキア人が
    オーストリア軍を脱走し、チェコスロバキア軍隊を編成し、1917年までに
    ロシア側に付いて戦ったが、ロシアに社会主義革命が起こり、ロシアは戦争から
    手を引いたため、情勢が変わった。

    thumb1

    戦争中、チェコの民族主義者達トマシュ・マサクリとエドアルド・ベネシュは
    イギリスに逃れ、スロバキアの指導者ミラン・シュテファニクと共に独立する案を
    作った。 2年後、アメリカでマサクリは、、チェコとスロバキアの独立宣言を
    承認するピッツバーグ協定に署名した。 マサクリは連邦の枠内でスロバキアの
    自治を約束した。

    1918年秋、ドイツとオーストリア・ハンガリーの敗北が明らかになり、
    チェコスロバキア国民評議会はプラハへ移った。 評議会は10月、スロバキア、
    ルテニア、モラビア、ボヘミアを含むチェコスロバキアの建国を宣言した。
    同年11月に戦争は終わり、オーストリア帝国は崩壊し、ハンガリーは独立した。
    トリアノン条約により、ハンガリーは正式に、スロバキア領土を失った。

    戦勝国はドイツとオーストリアの降伏に厳しい条件を付けた。 両国共、領土を
    失い、戦争の賠償支払いを強要された。 その頃、ロシア内部で共産主義者と
    皇帝派との内戦が続いていた。 最終的に共産主義者達が勝ち、ロシア、
    ウクライナ等、いくつかの共和国を含むソビエト連邦を樹立した。

    58名のスロバキア国民議会は、トマシュ・マサクリを新国家の大統領に選出した。
    マサクリが自治を約束したのにも関わらず、スロバキア人は新国家の独立を余り
    喜ばなかった。 チェコの指導者は、チェコ人が多数を占める中央政府を強化
    したからだ。 その上、チェコ人はスロバキアの行政上の高い地位も独占した。

    政府は1920年代にスロバキアに分離した立法府を作ったが、殆んど実権が
    なかった。 裏切られたと感じた多くのスロバキア人は、自身の国家建設を
    目指すようになった。

    スロバキアのカトリック神父アンドレイ・フリンカが率いるスロバキア人民党が
    設立され、フリンカは国民議会議員に選出されて、スロバキア独立のために闘った。
    彼の努力は不成功に終わったが、人民党はスロバキアでも、最も活動的な
    政治グループとなった。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ウクライナは、元々は、ロシアのルーツとなる、ルーシがあった国で、日本で
    言うところの『侍』に当たる軍事的共同体、『コサック』もウクライナと南ロシアが
    そのルーツ。 ルーシの首都は、現在のウクライナの首都であるキエフで、
    東方から遥々遠征して来たモンゴル軍によって攻め滅ぼされるまでは、
    ヨーロッパでは、ロンドンに次ぐ大都市であったが、モンゴル軍によって徹底的に
    破壊されたため、その後、数世紀に渡り、キエフは都市として復活出来なかった。
     
    一方のロシアは、モンゴル人、並びに、アジアから遠征してくる途中でスラブ人と
    混血したタタール人に370年近くも支配されたが、その間、北のモスクワ公国が
    台頭し、先にモンゴル・タタールからの独立を果たした。 元々、ルーシの中心地で
    あったウクライナは、約400年間もの間、ポーランド・リトアニアに支配された。

     

    ウクライナの宗教は、ロシアと同じ東方正教であったため、ポーランドからの独立を
    勝ち取るために、隣国であるモスクワ公国の力を借りたのだが、ポーランドからの
    独立は勝ち取ったものの、そのままモスクワ公国へと吸収され、そのモスクワは、
    『ルーシ』の旧領を取り戻したという意味で、ルーシの後継者の『ルーシ国』
    という意味の『ロシア』を名乗り始めた。 尚、人種的には、大ロシア人を
    ロシア人、小ロシア人をウクライナ人と呼ぶため、ロシア人とウクライナ人は
    極めて近い人種となっている。 唯一の違いは支配者がモンゴル人であったか、
    ポーランド人であったかだけ。

    ロシア帝国の時代もソ連の時代も、ウクライナは、ロシアの一部でしかなかったが、
    1991年末のソ連の崩壊により、ウクライナはようやく独立を果たしたものの、
    元々、バルト三国の漁夫の利的な独立で、そもそも独立運動などなしで独立を
    果たしたため、国としての基盤が全く整ってはいなかった。 その後、20年
    以上を経て、ようやく70年以上も死に絶えていたウクライナ語が復活し、
    ウクライナの国としてのアイデンティティーが生まれたが、それが余りにも
    強過ぎたため、完全に極右化した。


    独立時からロシアに対しては、余り良い感情を持っていなかったウクライナ人
    だったのだが、その隙をアメリカに突かれて、ロシアとの全面的な軍事対立へと
    突き進んだ。 ソ連時代はウクライナ語は禁止され、西部の極々一部を除き、
    ウクライナ人は全員ロシア語のみで話していたが、その後、オレンジ革命に
    よって、公の場でのロシア語は禁止となり、テレビには全てウクライナ語の
    字幕が義務付けられた。 唯一の公用語となったウクライナ語だが、普及率は
    低く、未だにロシア語だけが通じる状況が続いているのだが、ウクライナは
    ロシアと全面的に対立してしまったため、今後はウクライナ語の強化に努める
    しかないのであろう。

    尚、『ウクライナ』とは、ウクライナ語では『国』を表しているが、ロシア語
    では『田舎』という意味しかなく、ウクライナ語もロシア語から聞くと、
    とんでもない田舎の方言にしか聞こえないため、ウクライナのロシア語話者達は、
    なかなかウクライナ語では喋ろうとはしない。 ウクライナ語をネイティブ
    として話せるのは、ソ連崩壊後からウクライナ語で教育を受けた若い世代か、
    かなりの高齢者だけとなっているため、全体としては、ロシア語しか話せない
    人の方が多い。

    ntries

    クリミアは、元々、ロシア系住民が多数を占めており、ウクライナ支配を嫌った
    住民達が住民投票により、ウクライナからの独立を宣言した後、住民達の意思で
    ロシアへと返還されたもの。 元々、クリミアは、ウクライナ人のフルシチョフが
    勝手にウクライナに併合したものだが、ソ連時代は、ロシアとウクライナの
    国境など、日本の県境程度のものでしかなかったため、全く重要視されなかった。

    東部にあるドンバス地域は、ウクライナからの独立を宣言しており、ウクライナ
    政府の管轄からは完全に離れている。 ウクライナは、漢字では『鳥克蘭
    (うくらん)』と書くが、カタカナでは、『ウクライーナ』が一番表記的に近い。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    18世紀末、ブルガリア民族主義が復活して来た。 新しく学校が建てられ、
    そこでは教師たちがブルガリア語を使って国の古い民謡や抒情詩を通じて
    歴史を教えるようになった。 歴史に関する著作がいくつも発表され、
    ブルガリア人の民族意識が高まった。

    マケドニア生まれのパイシー神父は『スラブ・ブルガリア史』を著して、
    トルコ支配に対する民族意識を目覚めさせた。 この頃、ロシア帝国は領土を
    南のバルカン半島へ広げようとしていた。 ロシア人は、黒海地域の港と
    貿易を支配して、ロシアの広大な平野をエーゲ海や地中海と結ぼうと考えていた。
    ロシア皇帝は、ギリシャ正教を信じるロシア人の指導者として、トルコに圧力を
    掛け、ブルガリア人の宗教と政治上の自由を広げるように迫った。

    imagemainjhg

    トルコは、広大な領土を支配するのに疲れて弱体化し、支配下にあったギリシャや
    ルーマニアが次々と反乱を起こした。 独立運動の闘士ゲオルギ・ラコフスキーは、
    セルビアとルーマニアでゲリラ組織を訓練し、バルカン山脈を横断して反乱の
    火の手を上げた。 ヴァシル・レフスキーは、ブルガリアの農村地帯に入って
    革命家たちの地下組織をつくり上げた。

    反乱は最初は失敗を続け、ラコフスキーは、1867年に死に、レフスキーは捕ら
    われて1873年に処刑された。 3年後、反乱は残酷に鎮圧された。 1877年、
    ロシア皇帝は、ブルガリア人の要請に応じてトルコに宣戦し、ロシア軍はバルカン
    半島に侵入した。 ブルガリアとロシアの両軍は、トルコ軍と激突して、勝利を
    重ねた。

    1878年、トルコはサン・ステファノ条約に調印した。 この条約によって、
    トルコはバルカン半島の領土を全て奪われ、ブルガリアは、トラキアと
    マケドニアを領域に加えることになった。 しかし、ヨーロッパの多くの国々は、
    オスマン・トルコ帝国の没落は、ロシアのバルカン支配に通じると考えた。

    3ヵ月後、ベルリン会議が開かれて、ヨーロッパ列強は、ブルガリアに強制して、
    トラキアとマケドニアをトルコに返還させた。 ブルガリアは北部だけ独立を
    認められたが、東部は東ルメリアという名称で、トルコ支配下の半独立国と
    なった。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    6世紀になると、黒海の北の平原に居たスラブ人がドナウ川に到達した。
    ビザンチン帝国はこの地域にいくつもの要塞を建設していたが、スラブ人の
    勢力は強く、モエシアとトラキアはスラブ人の侵入を受けた。

    7世紀になると、トルコ系の言語を話すアジア系のブルガール人がこの地域に
    侵入して来た。 ハンと呼ばれる指導者に率いられたブルガール人たちは、
    熟練した戦士たちで、モエシア防衛のために送り込まれたビザンチン軍を
    たちまち打ち破った。

    umdfgfdgd

    やがてブルガール人とスラブ人たちは、相互に婚姻を結ぶようになり、
    スラブ語が共通言語となった。 681年、ハンのアスパルフは、ブルガリア
    北東部のプリスカを首府とする第一次ブルガリア王国を建国した。 王国内に
    置かれた10の州は、それぞれ大貴族たちに統治されることになった。

    この頃から人々の階級の分化が進み、ポヤールと呼ばれる地主たちは、農奴と
    呼ばれる土地を持たない農民たちから、収穫量の一定割合を強制的に徴収する
    ようになった。

    ブルガリア王国は、ビザンチン帝国から頻繁に攻撃を受けた。 811年、ハンの
    クルムの率いるブルガリア軍は、ビザンチン軍を打ち破り、皇帝ニケフォロスを
    戦死させた。 クルムは勢いに乗じて、コンスタンチノープルに迫った。
    クルムの後継者たちは、王国の領域を拡大して、西はセルビアとマケドニアの
    一部、北は現在のルーマニアの一部にまで及んだ。

    863年、ハンのボリス1世は、キリスト教に改宗し、臣下たちにも改宗を強要した。
    この頃、キリスト教の指導者内には、教義をめぐる激しい論争が続き、教会は
    ローマ教皇を首長とするカトリックと、ビザンチウムの大司教を中心とする
    ギリシャ正教に分裂した。

    ボリス1世は教皇に、ブルガリアに大司教を置くことを求めたが、拒否されると、
    ローマの教会と絶縁して、ギリシャ正教の教義を採用した。

    rila06

    10世紀初頭には、ブルガリアはバルカン半島内で最強で、裕福な国家に
    なっていた。 スラブ人とブルガール人は完全に融合して単一のブルガリア人
    となり、ギリシャ人やアルメニア人の商人たちまでが領内の都市に定住し始めた。

    コンスタンチノープルとの接触で導入されたビザンチン文化は、ブルガリアの
    美術や文学や教育を刺激した。 10世紀はじめ、伝道師クレメントは、
    ブルガリアではじめての識字学校を開き、一種のアルファベットを人々に教えた。
    この文字は、クレメントの教師名にちなんで、キリル文字と呼ばれるようになった。

    ブルガリア王国とビザンチン帝国との関係は密接だったが、893年に国王と
    なっていたシメオンは、ビザンチン皇帝軍を打ち破って、マケドニアとトラキアを
    王国領に編入した。924年、ブルガリアは、セルビアを占領して併合した。

    927年シメオンが死ぬと、ブルガリアは弱体化し、969年、北東からロシア人が
    侵入して来て、ブルガリア王国の一家を捕虜にした。 これを自国への脅威と
    考えたビザンチン皇帝ヨアネス1世チミスケスは、ロシア人を攻撃して撃退し、
    ブルガリアの東半分を帝国領に併合した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    2016年9月29日(木)~10月1日(土)まで、東京駅前のKITTEにて、
    記念すべき第一回目のチェコフェスティバルが開催された。 同じ東欧の
    ポーランド祭は、数年前から開催されているものの、東欧の中でも人気の
    高いチェコのフェスティバルがこれまでなかったのは、かなり意外かも
    知れない。

    IMG_3371
    IMG_3380
    IMG_3376
    IMG_3360
    IMG_3354
    IMG_3351
    IMG_3348
    IMG_3350
    IMG_3343
    IMG_3327
    IMG_3334
    IMG_3347

    この日は、ピアノ、プレゼンテーション、民族舞踊、民族音楽他のイベントが
    行われ、スラブの文化を満喫することが出来ました。 同じスラブの国でも、
    ロシアとは、似ているようで全然違うチェコの魅力とは、中世の古い街並みが
    そのまま現在まで残っているところと、カトリック教会であるところなのでは?
    言語的には、ロシア語とチェコ語はかなり似ており、そのまま喋っても大体意思
    疎通が出来るレベル。 

    チェコは、大きく分けると、ボヘミアとモラヴィアに分かれるが、今回は、
    ボヘミアよりもモラヴィア色が強く、民謡も民族舞踊もモラヴィアが中心であった。



    【お勧めの一冊】


    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    『南スラブ人の国』を意味するユーゴスラビアは、1929年から2003年までの間
    存在した国家で、70年余りの間に、ユーゴスラビア王国(1929年)、
    ユーゴスラビア民主連邦(1943年)、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
    (1963年)など、5回国名が変わり、2003年2月に地球上からその国名が消滅した。

    yugomap

    最も安定した時代は、チトー大統領の時で、チトーは、『労働者にとってだだ
    1つの資本主義国との違いは、ソビエトでは失業が無い、ただそれだけである』と
    発言、その後もスータリンの指導に反し、経営概念を元に資本の所有者は労働者、
    経営者は労働者が求人するとした企業の自主管理と、各共和国に大幅な自治権を
    与えた独自の自主管理社会主義を建設して行った。

    この当時のユーゴスラビアは『7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、
    3つの宗教、2つの文字、1つの国家』と呼ばれた。 1つの国家として、これほど
    複雑な表現を持つ国は他にはなかった。 裏を返せば、統治の難しさを表した
    言葉でもあった。

    Mostarbridge

    【連邦制の崩壊と民族対立】
    1980年、チトーの死去とその後の東欧革命の中で、ユーゴスラビアも徐々に崩壊に
    向かう。 1990年に行われた自由選挙では、各共和国に民主主義色の強い政権が
    生まれた。 ユーゴスラビア時代、政治、経済の最大の拠点となったべオグラードを
    首都に持つセルビアでは、民族主義勢力が推すスロボダン・ミロシェビッチが政権が
    生まれた。 クロアチアでは、フラニュ・ツジマンの民族主義政党が議会の3分の2を
    占める。 ボスニア・ヘルツェゴビナではムスリム(イスラム教徒)が多数派となり、
    モンテネグロやコソボ自治州では、ミロシェビッチ派のクーデターでの支配下に入る
    など、モザイク国家だったユーゴスラビアの崩壊は修復不能の状態に陥った。

    【お勧めの一冊】


    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ポラニエ人は最初、およそ20の共同体を作って定住していたが、やがて
    ヴィスワ川とオドラ川流域の盆地に新しい都市を幾つも作った。 そのうち、
    南のクラクフと西のポズナニ近くに、比較的大きなポラニエ人国家が建設された。

    バルト海沿いには、交易の中心地も出現した。 ポラニエ人達は、堅固な城を
    築いて、ドイツのカトリック系十字軍からの攻撃を防いだ。 十字軍は、
    宗教戦士の集団で、スラブ人を力ずくでカトリック教に改宗させようとしていた。

    je09051

    この侵略に対抗して、ポラニエ人達は、9世紀半ばにピアストの下に集結した。
    ピアストは、ポーランドの民話や伝説に登場する民族の英雄である。 10世紀
    までにピアストの一族は、平原部や湖沼地域、それにバルト海沿岸に掛けての
    地域の人々を支配下に治めた。 966年、ミエシュコ1世は、初代の
    ポーランド公として、ポズナニに近いグニエズノを国家の首府と定めた。

    ミエシュコは、ドイツ系十字軍からの攻撃を止めさせるため、現在のドイツに
    あった神聖ローマ帝国と同盟を結んだ。 ミエシュコは、また南方のスラブ人
    国家チェコとも同盟して、そこの王女と結婚した。 そして、新妻の宗教である
    キリスト教に改宗して、伝道師をポーランドに招いた。

    1025年、カトリック教会の指導者であるローマ教皇は、ミエシュコの息子で
    後継者のボレスワフ1世に王冠を授け、ポーランドが主権国家であることを
    公式に認めた。 ポーランド人達は、カトリック教会で使われているラテン文字を
    取り入れて、自分達の話しているスラブ系のポーランド語を記録し始めた。

    BorderPoland

    ボレスワフ1世は、勇敢で野心的な支配者で、ドイツに攻め入り、また、王国の
    領域を東のドニエプル川流域まで広めた。 この川は、南のウクライナに流れて
    黒海に注ぐ。 こうして、ドニエプル川を通じてポーランドは、黒海の諸港と
    交易が出来るようになり、王国はますます繁栄した。

    同じ頃、教会の指導者間の争いが基で、ヨーロッパのキリスト教世界は、2つに
    分裂した。 11世紀には、東ヨーロッパにギリシャ正教会が創設され、
    コンスタンティノープルが中心地となった。 ヨーロッパ東部のスラブ人達の
    多くは、ギリシャ正教徒となったが、ポーランドとチェコは、ローマ教皇と
    結んで、カトリック教会内に留まった。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ