多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳 Samurai Global』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:スペイン

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    ブラジルには、ヨーロッパ人の探検家や植民者がやって来るずっと以前から、
    先住民が>暮らしていた。 北には、アラワク族とカリブ族が、東には、
    トゥピー・グアラニー族がおり、南には、ジェー族が、西にはパーノ族が
    住んでいた。 人々は、豊かな森で狩りを行い、海辺や川では漁をしてして
    暮らしていた。

    熱帯地方の人々は、森をめぐって果実を集め、定住を始めていた人々は、
    キャッサバ芋を栽培していた。 集落もあり、茅葺屋根の小さな長屋が
    集まっていた。 一軒の家に暮らすのは、一家族だけではなかった。
    これらのブラジルの先住民は、100万人とも500万人とも言われる。

    彼等は、石で出来た武器や道具を使う石器時代の生活をしていた。 彼等は、
    工芸に優れた才能を持ち、手近な材料からカゴや壺や装飾品を作った。

    一方、ヨーロッでは、15世に航海と探検の時代が始まった。 航海者達は、
    貿易で栄える強国の後援を受けて、スパイスを求め、アジアへの直接航路を
    探す冒険を重ねていた。

    ブラジルの先住民達は、何一つ知らなかったが、1492年、クリストファー・
    コロンブスは、新大陸に上陸した。 彼は、その土地を東インドかアジアの
    どこかだと思い込んでいた。 このため、この土地の先住民は、ヨーロッパ人
    からインド人(スペイン、ポルトガル語ではインディオ、英語ではインディアン)
    と呼ばれるようになった。

    0c48ba71


    コロンブスの発見が発端となって、ポルトガルとスペインの間に新しい領土の
    獲得戦争が始まった。 この2つのカトリック教国が戦争になるのを未然に
    防ぐために、1493年、法王であるアレクサンデル6世は、ヴェルデ岬諸島の
    西およそ560キロの大西洋上を南北に通る想像上の線を引き、両国の領土国境線
    とした。

    この線から西の全ての新しい領土は、スペインに、東はポルトガルに帰属する
    ことになった。 両国は、この取り決めに賛成したが、やがてポルトガルが
    不満を持ち、境界線を1,500キロほど西に移すように主張した。 この第二の
    境界線は、1494年にスペインに、1506年に法王ユリウス2世によって承認された。
    この境界線は、ブラジル東部が発見され、探検が行われた時に、ポルトガルが
    主権を主張する根拠となった。

    ブラジルが発見されたのは、1500年のことである。 ポルトガルの提督である
    ペドロ・アルヴァーレス・カブラルの艦隊は、アフリカ大陸の南端を経由して
    インドに向かう途中、風に流され、航路を外れた。 カブラルが漂着したのは、
    今のバイア州の海岸だった。 彼等は、この土地をポルトガル領と宣言した。

    1534年、ポルトガル王ジョアン3世は、土地譲渡の制度を設立し、領地を
    カピタニーアと呼ばれる15の行政区に分割した。 北東部では、オリンダや、
    サルヴァドール、更に南には、センヴィテンセに立派な植民地が誕生した。
    1548年、カピタニーアは統一され、国王が任命する総督の支配を受ける
    ことになり、サルヴァドールが首都になった。

    オランダの西インド会社が、一時期ブラジルの北東部を武力で占拠し、
    ポルトガルの統治は途絶えた。 1630年、オランダは、ペルナンブコと
    オリンダを占拠し、マラニョン島からサンフランシスコ川下流域までの一体を
    支配した。 しかし、1654年、ポルトガル本土から援軍を得た植民地軍は、
    支配権を奪い返した。 オランダが正式に講和し、ブラジルから手を引いた
    のは、1661年のことである。

    初期に北東部に入植した人々は、海岸線に沿って、サトウキビの
    プランテーションを作った。 単一農産物を国際市場に向けて大量に生産する
    プランテーション農業は、多くの人々を必要とする。 植民者達は、先住民の
    インディオを奴隷とした。 沢山のインディオが、ヨーロッパ人が持ち込んだ
    病気で死んだり、反抗して殺されたりした。 このために、インディオに
    代わる労働力が必要となり、植民者達は、アフリカからおびただしい数の
    黒人を輸入し、奴隷にした。

    プランテーションのお陰で、農園主達は、巨万の富を得た。 16世紀後半から、
    17世紀全般を通じて、バイアとペルナンブコのカピタニーアは、世界市場の
    主要な砂糖供給地であった。 綿花やカカオからも利益が上がり、
    サルヴァドールとレシフェは、大きな商業都市に成長した。 また、これらの
    都市は、アフリカに近いこともあり、世界の奴隷貿易の中心となった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログ 通訳・翻訳(英語以外)へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    ブログネタ
    今話題のニュース に参加中!

    オランダとベルギーのオランダ語圏では、毎年11月下旬なると、聖ニコラスこと
    『シンタクラース』が黒人の従者ズワルトピートをお供に連れて、蒸気船に乗って
    スペインからやって来ます。 子供達の憧れのシンタクラースは、白馬アメリコに
    乗り、赤いマントに身を包み、聖人の日の前夜となる12月5日の晩、オランダ中の
    良い子達にプレゼントを配り、またスペインへと帰って行きます。

    dddddfffff

    シンタクラースの存在を信じる子供達は、プレゼントを入れてもらうため、暖炉や
    ラジエーターの横に自分達の靴を置いておきます。 靴の側には馬のために
    ニンジンと水が置かれ、子供達はシンタクラースを称える歌を歌ってから眠りに
    つきます。 シンタクラースは、単に『プレゼントを持って来てくれるおじいさん』
    ではありません。 何でも知っていて、良い子には贈り物をくれますが、悪い子には
    お仕置きをするのです。 子供たちの集まるパーティーにシンタクラースが
    現れると、何でも書いてある大きな本を取り出します。 そこには、子供達が
    その年にやった事がちゃんと書いてあり、1年間良い子でいた子供達は、その
    ご褒美を受取ることが出来るという訳です。 逆に、悪い子は、従者が持って
    いる袋に入れられて、スペインへと連れ去られてしまうため、一年間は国に
    帰る事が出来ません。 

    実は、このオランダのシンタクラースこそ、サンタクロースの起源だという説が
    あります。 シンタクラースは、元をたどると4世紀頃の東ローマ帝国の都市ミラ
    (現トルコ領)の司教聖ニコラスの伝説が起源とされています。 数々の奇跡を
    行ったとされる『聖(セント)ニコラス』をオランダ語にすると『シンタクラース』
    となります。

    オランダ語圏では、14世紀頃から聖ニコラスの命日の12月6日を『シンタクラースの
    お祭り』として祝う慣習がありました。 その後、17世紀アメリカに植民した
    オランダ人がシンタクラースのお祭りを伝え、年月が経るにつれ、聖人の乗っている
    白馬がトナカイに代わり、体型がズングリムックリとなった。 名前は
    シンタクラースから転じて、サンタクロースとなったと考えられています。
     


    オランダとベルギーの子供達には、クリスマスが2回も訪れます。 1つはもちろん
    世界的なお祭り12月25日の『クリスマス』。 そしてもう1つは、12月6日の
    『シンタクラースのお祭り』。

    オランダ語圏では、聖ニコラスの日とキリスト降誕祭の両方をお祝いしています。
    その皮切りが、アムステルダム、ブリュッセルなどで毎年11月に開催される
    『シンタクラースの到着』とそのパレードです。

    子供たちは声を合わせて歌ったり、シンタクラースの名を口々に叫んだりし、従者は
    手に持っている袋の中からクッキーなどのお菓子を投げてくれます。 その様子は、
    テレビでも放映されるほどの風物詩です。 その後、シンタクラースは白馬に乗り、
    市内をパレードして回ります。 アムステルダムの行列は30万の人々によって
    迎えられ、約4トンのジンジャーブレッドが、607人の従者によって配られる
    そうです。

    シンタクラースが到着する頃、街のショップウィンドーはシンタクラースにちなんだ
    ディスプレーで飾られ、徐々にお祭り気分が高まっていきます。 職場や学校にも
    シンタクラースが現れます。 オランダでは『シンタクラース・ジャーナル』という
    子供向けの番組が毎晩放映され、国中の子供達のプレゼントを用意する忙しい
    シンタクラースの様子を紹介します。 子供達は心からシンタクラースを待ち
    焦がれるのです。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    フィギュアスケートのシーズン前半戦・世界一を決定する『グランプリ・ファイナル』は、

    2015年12月12日スペイン・バルセロナで男子フリープログラムが行われ、ショート
    プログラムで世界最高点を更新した羽生結弦が219.48点という高得点をマーク。
    合計330.43点で優勝し、男子史上初の3連覇を達成した。

    羽生は冒頭の4回転ジャンプ2つを軽々と決め、後半の4回転+3回転、3回転+2回転
    などのジャンプも見事に成功。 初めてフリーで200点を超えたNHK杯の時よりも、
    後半でさらに
    点数を伸ばした。 点数が発表されると涙が溢れ、膝に抱えたくまの
    プーさんのぬいぐるみに
    顔をうずめた。



    演技後のインタビューでは、『全てのエレメントにおいて、完璧な演技を目指した。
    点数と
    演技は異なるものだから』と英語でコメント。 確固たる自信はどこから来る
    のかとの質問には、
    『とても緊張していた。 私の方こそ、どうやって自信をつける
    のか誰か教えてほしい』などと
    答えた。

    e6846564.jpg


    後に開かれた記者会見では、NHK杯の点数や演技を意識しており、かなりの
    プレッシャーが
    あったことを告白。 『ワールドレコードに追われて演技した感じが
    あった。 点数とか、NHK杯のパフォーマンスがあったからこそ、今回は自分を
    追い込んだ。 しかし、フリーをやっている最中に
    吹っ切れた。 今できることを
    考えながら滑った』などと語った。

    歴史的な記録更新。 自分の演技を見た子供へのコメントを求められたインタビュー
    では、『私も小さいころ、プルシェンコらを見ていた。 どうかスケートを、練習を、
    夢をあきらめないで』
    などとアドバイスした。

    出典:Huffingtonpost

    >>【羽生結弦】~数々の困難を乗り越えての金メダル獲得~

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ 海外移住へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
    スペイン北東部のカタルーニャ州議会選挙は、2015年9月27日に投開票され、
    スペインからの
    分離独立を主張する政党が、135議席の過半数を占めた。 97%の
    票を集計した暫定結果によると、独立賛成派の選挙連合『Junts pel Si(共にイエス)』が
    62議席を、別の独立賛成派の左派CUPが10議席をそれぞれ獲得する見通し。
    同選挙連合と CUPの得票率は合わせて47.8%となり、分離独立運動にとって
    追い風となる。

    880066d9.jpg


    カタルーニャ州政府のアルトゥール・マス首相は、バルセロナ中心部で演説し『独立を
    支持する
    我々と民主主義の勝利だ』と、独立派の勝利を宣言した。 フランスとの国境
    地帯にあるカタルーニャ州は、歴史的にフランスとの結びつきが強く
    、カタルーニャ語が
    使われており、スペインからの独立志向が強い。

    マス首相は、州議会で
    独立派が過半数を占めて1年半以内に独立を宣言すると公約
    していたが、スペイン政府は
    独立を認めない構えで、今後は激しい駆け引きが繰り
    広げられるとみられる。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ 海外移住へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ