多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

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    タグ:スペイン

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    エンリケ探検チームが編成しつつある頃、ヨーロッパとアジアの貿易を
    牛耳っているのは、アラブ人やイタリア人だった。 アラブ人がアジアの
    品物を集め、それをイタリア人がヨーロッパへ転売する専売権を持っていた。
    エンリケは、そうした独裁体制を打破出来ると見て、ポルトガルからアフリカ
    大陸を回って遠くインド、アジアに足を伸ばせば良いと考えた。

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    1460年、エンリケは死んだが、ポルトガル人の航海熱はさめず、1488年、
    バルトロミュ・ディオスがアフリカ大陸の最南端、喜望峰を回ってインド洋に
    出た。 その10年後、ディアスの仲間であったバスコ・ダ・ガマがインド大陸に
    到達、その航海費用の60倍にも値する船荷を積んでポルトガルに戻った。
    その後は、アラブ人やイタリア人が仲介せずに、アジアの宝石類や貴重な
    香料が直接手に入るようになった。

    16世紀になると、ポルトガルはヨーロッパの中の主要な貿易国となり、海軍力も
    つけたが、隣国のスペインもヨーロッパの人たちが新世界と呼ぶ西半球へ征服の
    航海に乗り出した。 そこで、利害の衝突を避けるため、ローマ法王アレキサンダー
    6世は、新領土を2つのローマ・カトリック国間で分割する協定を作った。

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    1500年、強風でペドロ・アルバレス・カブラルの乗った船が航海を外れ、
    カブラルは南米のブラジルに上陸、法王の作った協定に従って、ブラジルは
    ポルトガルの領土と認められ、残りの南米大陸はスペインのものとなった。

    アジアでは探検家、アルフォンソ・デ・アルブケルケがポルトガルの権益を広げ、
    1510年にインド西岸の貿易拠点、ゴアを占領、そこをアジアにおける、
    ポルトガルの通商、および、宣教の本拠地にした。 更に1511年、
    アルブケルケは、マレー半島の主要貿易港、マラッカも占領してしまった。
    貿易協定によって、アジアの品物はポルトガルに売られ、そこからヨーロッパ
    各地に転売されて行った。

    貿易のお陰で、ポルトガルの諸王は、懐が豊かになり、アジアからの貴重な香料、
    絹、アフリカからは金やコショウ、それに労働力としての人間が運ばれて来た。

    アフリカ大陸の西および南岸いったいには、ポルトガルの植民地が出来、
    アフリカからの労働力は、ブラジルまで運ばれ、砂糖きびやコーヒーの栽培を
    はじめたポルトガル人入植者たちはに使われた。 ポルトガルは、本国には
    ワイン、オリーブ油、コルク、魚ぐらいしか売るものがなく、収入の大半は
    海外の植民地から吸い上げていたのである。

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    残る14世紀の発展は、カスティーヤ王国との戦いが何度かあって、中断の憂き目に
    あった。 やがて、ガリシア、アラゴン、ナバラという新しい王国が、現在の
    スペインの中に形成されたが、カスティーヤ王国は、ずば抜けて大きく、強力な
    権力もあった。

    1383年、アルフォンソ王朝最後の王、フェルディナンド1世が死ぬと、夫人が後を
    継いだ。 夫人は、カスティーヤ王国のもとに嫁いでいる自分の娘に子供が出来る
    まで統治を続ける意向だった。 しかし、人望のある南部の地主で、アビス騎士団の
    団長でもあるジョアンに反対され、ジョアンは強力な軍を使ってフェルディナンド
    女王を追放してしまった。

    これに呼応して、カスティーヤ王国も王位を狙ってポルトガルに軍隊を差し
    向けたが、結局1385年、ジョアンがコルテスでポルトガルの王に選出された。

    ポルトガルにとって、主要な貿易相手国であるイギリスは、このアビス王家を支援、
    1386年、両国間の永久同盟を内容とするウィンザー条約が実現した。 この
    条約は、その後1387年に、ジョアン王がイギリスのフィリッパ妃と結婚する
    ことによって、一層堅固なものとなった。

    20160714

    【航海王子エンリケ】

    ジョアンとフィリッパとの間には5人の息子が出来、長男ヂュアルテが王位を継承、
    弟たちのうち、次男はアビス騎士団長を継いだ。 3男は広くアジア、アフリカへ
    航海に出掛け、4男はムーア人の牢の中で死んだ。

    このうち、最も有名なのが、航海に出掛けたエンリケ。 科学と探検を大いに
    奨励し、航海王子として名声を高めた。

    若い時、エンリケは1415年のセウタ攻略でその猛勇ぶりを見せ、ムーア人の要塞で
    北アフリカの貿易中心地でもあったセウタを占領した。 その後引退して、
    ポルトガル南西のサグレスに引っ込んだ。 エンリケは経験、知識に富んだ航海士や
    地図の専門家、数学者などを王室に連れて来て、航海学の向上を図った。
    エンリケはまた、自分の収入を増やすためにも海洋を利用しようと考えたのである。

    エンリケの兄のポルトガル国王は、セウタ攻略での功績を称えてアルガルベ地方
    からの収入を彼に与えた。 これらの資金を基にして、エンリケ王子は航海学校を
    運営した。 また、兄弟の中には、エンリケ王子以外にも広く航海に出て行った
    者もいて、それがまたエンリケ自身にとっての励みにもなった。

    ポルトガルの船乗りたちはリスボンやサグレスから出掛け、まず1419年に
    マディラ、1427年にアゾレス諸島にそれぞれ上陸した。 また、船乗りたちは、
    アフリカ大陸のガンビア川とセネガル川を探検、こうした航海によって、
    ポルトガル人は世界地理への知識を広め、金や塩を手に入れ、そしてアフリカの
    人たちを労働力として確保するようになって行った。

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    ポルトガルの初期の歴史は、スペインの歴史と共通したところが少なくない。
    かつては1つの国家だったのが、その後、ポルトガルとスペイン両国の領土に
    それぞれ分かれたところもある。 イベリア半島には何千年も前から人が
    住んでいたことが分かっている。 ポルトガル西部の古代の塚からは、
    陶器類や武器が発見されている。

    560102

    記録に残る最古の先住民はイベリア人。 今からざっと5000年前、
    北アフリカや地中海東部から移り住んだ人たちだ。 イベリア半島にたどり
    着くと間もなく、小さな集団ごとに分かれて、ポルトガルの各地方に散って
    行った。 例えば、ドウロ川の北には、ガリシア人と呼ばれた遊牧や農業を
    営む人たちが住みついた。

    ドウロ川とテージョ川に挟まれた地帯には、ルシタニア人と呼ばれる別の
    グループが集まり、戦闘的な激しい性格の彼らは、他のイベリア人たちから
    自分の村むらを守って戦った。 紀元前9世紀を過ぎた頃から、ルシタニア人
    たちは、北ヨーロッパのケルト人たちと接触するようになった。

    ケルト人たちはその頃、ヨーロッパ大陸の各地に移住して来ていた。
    ケルト人たちは、金属加工の技術や、優れた牧畜の方法をポルトガルに
    もたらした。 ケルト人とルシタニア人は、数百年に渡って結婚により
    血を分け合い、外界とほとんど接触しなかった。

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    日本の鉄道は、主に新幹線で採用されている標準軌(1,435mm)と在来線で
    採用されている狭軌(1,067mm)区間があるため、この両区間を通して
    走行する手立てがないため、駅で乗換えをするしかないが、現在、両方の
    線路上を走行可能な車両を開発すべく、国土交通省の施策で日本鉄道建設公団
    (現・鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の委託により、フリーゲージトレイン
    技術研究組合が車両の開発を進めている。

    フリーゲージトレイン(Free Gauge Train, FGT)とは、和製英語で、本来の
    英語ではゲージ・チェンジャブル・トレイン(Gauge Changeable Train)、
    または、ゲージ・コンバータブル・トレイン(Gauge Convertible Train (GCT))
    と言う。

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    現在開発中の車両は、不具合の発生により、耐久走行試験が中断しているが、
    有識者で構成される『軌間可変技術評価委員会』が2016年11月18日、国土
    交通省で開かれたが、耐久走行試験の再開時期は示されず、営業運転での
    実用化が皿に遅れる可能性が高まった。

    フリーゲージトレインは、車軸に取り付けられている二つの車輪の間隔を
    変えることで、2本のレール幅(軌間)が異なる新幹線と在来線の両方を走る
    ことが出来る車両で、九州新幹線西九州ルートの武雄温泉~長崎間(2022年度
    開業予定)と長崎本線などの在来線を走って博多~長崎間を直通する列車に
    使用することが予定されている。

    2014年4月からは、第3次試験車両が九州新幹線・軌間変換・在来線(鹿児島本線)
    を繰り返し走って60万kmを走行する『3モード耐久走行試験』が始まったが、
    同年11月、約3万kmを走行した時点で車軸と軸受けの接続部に摩耗痕が見つかる
    などのトラブルが発生し、耐久走行試験も中断している。

    2015年12月には軌間可変技術評価委員会で不具合の原因と対策案が了承され、
    摩耗対策として開発した改良台車などの検証試験が始まった。 これを受けて
    2016年3月には、国交省やJR九州などの関係6者が西九州ルートの今後の進め方
    について合意。 武雄温泉~長崎間の開業当初はフリーゲージトレインを導入せず、
    武雄温泉駅で在来線特急と新幹線列車を乗り換える方式を導入するとした。

    国交省の今回の発表によると、改良台車の室内回転試験を実施したところ、通常の
    状態では、約3万7,500km走行させても摩耗が確認されなかったが、実際の走行時の
    振動を模して荷重を増やした条件で回転させたところ、約9,000km走行した段階で
    摩耗が発生した。 改良台車は『摩耗対策に一定の効果は認められる』としつつ、
    『現時点で60万km相当走行出来る耐久性を有すると判断するのは難しい』とした。

    こうしたことから国交省は、現状では『このまま耐久走行試験に移行する条件は
    満たされていない』とし、まず約1万kmの検証走行試験などを実施。 改めて
    評価委での評価を受けた上で、3モード耐久走行試験の再開を目指すことにした。
    検証走行試験は2017年夏をめどに実施する方針となっている。

    【スペイン】
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    実用的な成功例として最も早く軌間可変車両を世界で実現したのはスペインで、
    スペインの在来線は、軌間1668mmの広軌で建設されたため、日本の新幹線と同じ
    標準軌(1,435mm)を採用している欧州他国への乗り入れには国境での台車交換が
    必要だった。

    これを解決したのが、1968年に登場した軌間可変機構を備えた1軸連接客車
    『タルゴIII RD』形。 『タルゴ』はもともと、曲線の多いスペインの在来線(広軌
    1,668mm)を高速走行することを目的に開発された客車で、カーブでの通過を
    スムーズにするために左右の車輪を結ぶ車軸がなく、それぞれが独立して回転する
    独特のシステムを採用していたが、車軸のない構造だったことが軌間可変機構には
    有利となった。

    『タルゴ』の軌間可変機構は国際列車用として開発されたが、1992年以降スペイン
    国内で急速に整備された高速新線(新幹線)網は基本的に軌間1,435mmの標準軌と
    なっているため、近年は高速新線と在来線の直通列車用として国内でも軌間可変
    車両の需要が高まっている。 現在は両端に軌間可変機構を備えた機関車を
    連結した『タルゴ』編成も活躍している。

    2013年7月に脱線事故を起こした高速列車『Alvia(アルビア)』も、タルゴ客車の
    両端に機関車を連結した構造の『タルゴ250(メーカーでの名称)』と呼ばれる
    タイプの車両だったが、軌間可変機構は事故とは無関係となっている。

    スペインの軌間可変車両は、『タルゴ』だけと思われがちだが、軌間可変機構を
    備えた電車やディーゼルカーも既に営業運転を行っている。 同国の車両メーカー、
    CAF社の軌間可変システム『BRAVA』は日本のFGTと同様に車軸のある構造で、
    スペイン国鉄(renfe)のS120形高速電車、594.2形ディーゼルカーなどに使用されて
    いる。 CAF社は同システムを既存車両の改造にも使用出来るとしており、実際に
    594.2形ディーゼルカーは広軌用だった車両を改造して登場した。



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    カタルーニャ語は、スペイン語、フランス語、ポルトガル語などと同じく
    ロマンス語の1つで、その地理的位置を反映して、スペイン語とフランス語の
    中間的な特徴を少なからず持っている。 まず、発音は、スペイン語、
    フランス語の母音がそれぞれ5つ、16であるのに対し、カタルーニャ語の
    母音は8つとなっている。 スペイン語と違い、曖昧母音 ə もあるが、
    フランス語のような鼻母音はない。

    語彙では、『食べる』は comer(西)、menjar(カ)、manger(仏)となるが、
    『ビール』は、cerveza(西)、cervesa(カ)、bière(仏)となり、単語によって
    西仏どちらかに似ていることが分かる。 文法に関しても同じで、英語のbe動詞に
    あたるものは、スペイン語ではser と estar の2つがあり、フランス語では être
    1つとなる。 スペイン語には見られない副詞的代名詞の hi、en があるのは、
    フランス語に似ている。

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    もちろん、カタルーニャ語独自の特徴もあり、スペイン語ともフランス語とも
    異なり、カタルーニャ語は anar (行く)+不定詞で過去を表す。 このように
    全体的には、お互いに近い関係にある3言語だが、それぞれの話者が初めて
    出会って、自分達の言葉で話すと、ほとんど理解出来ないが、書けば理解度が
    増す。

    また、カタルーニャ語は隣接する大言語、スペイン語からの言語的干渉に常に
    さらされている。 例えば、スペイン語で義務を表す tener(持つ)+que
    (接続詞)という表現の影響で、本来カタルーニャ語にはない tenir+que+
    不定詞という表現を使う人が少なくない。 このような例は、他にも少なくない。



    【カタルーニャ語の今】
    カタルーニャ語の言語人口は、約600万人で、デンマーク語、フィンランド語などを
    上回っている。 カタルーニャ語の使用能力となると、それぞれの地域の歴史的
    背景、政治・社会的現状により異なる。 バルセロナを中心とするカタルーニャ
    自治州、マリョルカ島などのバレアレス諸島、アンドラでは高く、フランスや
    イタリアに含まれる地域ではかなり低いと言える。

    例えば、カタルーニャ自治州の場合、2003年の時点でカタルーニャ語を聞いて
    理解出来る人は住民の97.4%、話すことが出来る人は84.7%、読むことが出来る
    人は90.5%、書くことが出来る人は62.3%であった。 フランス領北カタルーニャ
    では、2004年の時点でそれぞれ65.3%、37.1%、31.4%、10.6%となっている。

    現存する最古のカタルーニャ語の文章は、11世紀のウルガニャー説教集で、その後、
    中世に哲学者ラモン・リュイなどが出るに至って、文学語として確立された。
    方言としては、大きく東部方言と西武方言に分けられる。 現在の標準
    カタルーニャ語は、東部方言の中の中央方言(バルセロナ周辺の方言)に基づいて
    定められている。

    カタルーニャ語は長い歴史の中で、何度も存亡の危機を経験したが、中でも最大の
    危機はスペイン内戦(1936-39)後に成立したフランコ独裁政権による弾圧だった。
     しかし、それも何とかしのぎ、フランコ体制後に制定された現行の民主的憲法
    (1978年制定)とカタルーニャの自治憲章に基づき、現在カタルーニャ語は、
    スペイン語と共に自治州の公用語とされている。



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    スペイン自治州のひとつであるバスクは、フランスとの国境ピレネー山脈の
    西側に位置し、北は大西洋ビスケー湾に面している州である。 一般にバスクと
    呼ばれる地域は、現存する他の言語と明確な関係性を持たない、いわゆる孤立した
    言語とされるバスク語を話し、かつ固有な文化を持つ民族が住んでいるという
    意味で、スペイン自治州だけではなく、国境を挟んだフランス側を含めて指す。

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    バスク人は、ヨーロッパ言語やインド言語を話す民族がヨーロッパ大陸に進出
    する以前から 、この地方に住んでいた。 ことに民族衣装の一部として使われ、
    第二次世界大戦頃からは、軍部に普及し、今では、世界各国の軍隊において広く
    用いられるようになったベレー帽は、このバスクが発祥の地である。

    19世紀の産業革命以降、この地で産出される鉄鉱石により、バスク地方の
    ビルバオは早い時期から重工業地帯として発展した。 これは、同時に雇用の
    拡大を促したが、バスク人以外の民族が大量に流入することで、バスク固有の
    文化や伝統が破壊されることを恐れるバスク人の民族運動に火を付けること
    にもなった。

    固有の言語、固有の文化を持って来たバスクに自治政府が生まれたのは、1936年に
    起こったスペイン内乱が切っ掛けだった。 だが、ナチス、ドイツ、イタリアに
    支持されたフランコを指導者とする反乱軍に破れ、自治権獲得どころか、地方議会
    第一党だった穏健政党の国民党の解体、更には、バスク語までもが禁止されるなど、
    厳しい弾圧を受けた。

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    斧にとぐろを巻くへびをシンボルにしたバスク分離独立派の組織ETA(バスク
    祖国と自由)は、1959年にこのような弾圧の中から生まれた。 彼らは、バスク
    国民党から分かれた武装過激派組織で、スペインやフランスからの分離独立を
    目的とする。 1973年には、マドリードで、フランコの継承者であり、当時の
    首相だったルイス・カレロ・ブランコの車を爆破し殺害するなど、テロ組織
    として成長を始めた。 以来彼らは、分離独立に反対する政府関係者や軍、
    警察関係者、ジャーナリスト、知識人などへのテロ行為はやむを得ないとした。

    ETAの資金源は、誘拐、強盗、ゆすり、武器取引、それに、強制的な税の徴収
    である。 特に、『革命税』は、有名人や企業、商店から徴収するもので、
    従わない企業には、爆破テロや社員誘拐で対抗するなど、相当荒っぽいものと
    なっている。 1960年代からこれまで標的とされ、殺害された人は、800人を超す。

    独特の文化を背景にバスクの独立を求める動きに対する同情や理解は、フランコ
    独裁が続いた1975年頃まではあった。 しかし、それ以降は、無差別テロを繰り
    返すETAに対して反対デモが全土に広がった。 孤立化したETAは、1998年には、
    一旦無期限停戦を宣言したものの、翌1999年には、一方的にこれを破棄、政治家、
    軍人、ジャーナリストなどを標的にしたテロ活動を再開して、40人以上を殺害した。

    21世紀に入っても、2006年には、マドリードのバラハス国際空港での爆破テロ
    事件、2007年には、フランスで、スペイン治安部隊員を射殺、2009年には、
    マジョルカ島で車を爆発させ、警備隊員2人を死亡させるなどの事件を起こして
    いる。

    2010年9月、ETAはビデオで声明を出し、武装闘争の停止を決めたと発表した。
    声明によると、スペイン政府と和平交渉再開の用意があると述べたとされる。
    スペイン政府の当局者は、事態打開への一歩前進だが、恒久的な武装解除が示されて
    いないとして、慎重な姿勢を崩さないという。 ETAがテロ活動に完全に終止符を
    打つのは難しいだろうという懐疑的な意見がまだ多い。

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    1700年、フェリペ4世の後継者カルロス2世が死んで、スペイン系
    ハプスブルグ家は絶えた。 後継者を巡って、フランスとオーストリアの
    君主が争い、スペイン継承戦争(1701~1714)が始まった。 この戦争が
    終わった後、ユトレヒト条約によって、ベルギー領域は、オーストリア系
    ハプスブルグ家の領土となった。

    1740年に、オーストリア系ハプスブルグ家の君主となった、女帝の
    マリア・テレジアは、リベラルで思いやりのある政策をとった。 ベルギー
    領域では、新しい社会化計画によって、教育の機会が広がり、刑務所組織が
    改革された。 また、産業は近代化され、経済は活気を取り戻した。

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    これらの政策の恩恵を受けたのは、主としてフランス語を話す人々で、彼等は、
    国内の政治、経済、教育を支配するようになった。 フラマンやブラバンドの
    ようにオランダ語を話す州でも、カトリックの貴族と教会の聖職者は、
    フランス語を使い、フランス語は、教養ある人々の言語とみなされた。
    そのために、オランダ語しか話せない人々の社会的な地位は低く見られた。

    マリア・テレジアの息子で後継者のヨーゼフ2世は、新興の自由を認めるために、
    カトリック教会や修道院を閉鎖した。 これは、ベルギー領域の宗教的な伝統に
    反するものであった。 保守的なカトリック教徒の多くは、弁護士のヘンドリック・
    ヴァン・デル・ノートの指導の下にこの政策に反抗した。 彼等は、当時成長中の
    階級だった商人や弁護士や医師達と力を合わせて、1789年にハプスブルグ家の
    支配に対して、反乱を起こした。 しかし、政治的、経済的な相違のために、
    反乱者側は分裂し、ヨーゼフ2世の後継者は、1790年にベルギー領域を再占領した。

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    反乱軍の勝利に抵抗し、スペイン軍は、1576年にアントウェルペンを略奪した。
    ベルギーを含む全ネーデルランドは、カトリックもプロテスタントも協力して
    スペインからの独立を決意した。 まず、内部の宗教的な対立を解決する必要上、
    1576年、各州の代表達は、ゲント盟約を結び、宗教の自由を法的に定めた。

    1577年、ネーデルランド諸州は、満場一致で、フェリペ2世が全スペイン軍を
    撤退させて、宗教的自由を認めない限り、スペイン側の新しい総督、
    オーストリアのヨハンを認めないと宣言した。 フェリペはこの条件に同意した。
    しかし、各州の連合は短命に終わった。 主にカトリック教徒の多い南部諸州の
    指導者達は、北部諸州を支配下に収めたカルヴァン主義者達に対して、根強い
    不信感を持っていた。 1579年、南部のカトリック系諸州のいくつかが、アラス
    同盟を組織してスペイン王の権威を受諾した。 南部諸州の分裂は、2、3週間後、
    北部諸州がスペインからの独立を宣言するに至って、ますます深くなった。

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    1580年代には、新任のネーデルランド総督アレッサンドロ・ファルネーゼが、
    ネーデルランド諸州での宗教的分裂を利用して、ゲント、ブリュッセル、
    アントウェルペンの3市を征服した。 3市のいずれにもフォルネーゼは、
    プロテスタント達が自発的にその都市を出て、北に移住することを認めた。
    しかし、スペインの北部諸州を再占領しようという試みは成功せず、北部諸州は、
    ネーデルランド独立連合諸州を名乗るに至った。 これが、後のオランダ
    である。

    独立連合諸州の産業は繁栄し、オランダのいくつかの港湾都市は間もなく、
    交易の中心地としてのアントウェルペンの地位を奪った。 その間に、スペインは、
    オランダとの戦争の経費を調達するため、南部諸州に重い課税を課したので、
    諸州の経済状態は、悪化した。

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    【戦争の被害】
    こうして、ネーデルランド南部諸州は、オランダとは異なった道を歩むこと
    となり、これが、現在のベルギーの成立に繋がった。 ベルギー領域は、
    スペイン系ハプスブルグ家の領土として残り、1633年、国王フェリペ4世の
    統治下に入った。 フェリペ4世は、30年戦争(1618~1648)の最終段階で、
    ベルギー領域を戦乱に巻き込んだ。 フランスは、オランダ等と協力して、
    最終的にスペイン軍を敗北させた。

    この勝利によって、オランダは、戦後の平和条約で有利な条件を獲得した。
    スヘルデ河口を含むブラバンド州都フラマン州の一部は、オランダに与えられた。
    オランダは、地域の商業上の優位を確保するため、アントウェルペンの港を
    封鎖し、ベルギー領域の経済は、更に衰退した。 30年戦争が終わっても、
    領域内のフランスとスペインの敵対関係が続いた。

    17世紀の後半、フランスは、ベルギー領域を南部から少しづつ併合して行った。
    1678年、フランスは、イーペルとゲントの両都市を占領した。 1697年、
    ライスワイク条約によって、フランス軍のベルギー占領は、最終的に集結した。
    50年間、フランスとスペインの戦場となったベルギー南部の広い地域は、廃墟と
    なってしまった。

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    長い統治と宗教的な争いに疲れたカール5世は、1555年に退位し、ハプスブルグ
    王家は、2つに分裂した。 カールの弟は、ヨーロッパ中央部の領土を継承して、
    オーストリア系ハプスブルグ家を始め、カールの息子のフェリペ2世は、
    スペイン王とネーデルランドの統治者を兼任して、スペイン系ハプスブルグ家の
    始祖となった。 スペインで育ったフェリペは、ネーデルランドの文化に殆ど
    理解を持たなかった。 彼は、ネーデルランドにスペイン軍を駐屯させ、都督等の
    地位にスペイン人を起用した。 フェリペはまた、フランスとの戦争の費用を
    支払うため、ネーデルランドに重い税金を課した。

    更に、フェリペは、カトリック教会の力を強めるために、カトリックの司教達に
    諸州の土地を分け与えた。 そして、フラマン地域圏のカルヴァン主義者達を
    抑圧するために、異端糾問所(教会の高位聖職者達による裁判)を組織した。
    その施策のために、沢山の人々が信仰上の理由で投獄されたり、処刑されたりした。
    このため、ネーデルランド北部の多くのカルヴァン主義者達が国外に逃れた。

    2332

    ネーデルランドの貴族達は、宗教的な意見の違いを超えて集結し、フェリペ2世に
    対して、異端糾問所の廃止、宗教的自由の承認、議会の招集を要求した。
    フェリペの顧問のひとりは請願する貴族達を『乞食ども』と呼んだ。 革命的な
    運動の成長につれて、支持者達は、挑戦的に自ら『乞食党』と名乗るようになった。

    繊維産業の衰退と食料品の価格の高騰に憤慨した一般市民達もカトリック教会の
    財産を強奪や破壊したりして反乱を支持した。 そのため、宗教的な紛争が再燃し、
    スペインの統治に対する姿勢に分裂が生じた。 カルヴァン支持者達は、オラニエ公
    ウィレムの周辺に集まり、カトリック教徒達は、スペインの統治を支持した。

    1567年、フェリペ2世は、アルヴァ公を指揮官とする1万人の軍隊を
    ネーデルランドに派遣した。 アルヴァ公は、査問委員会を組織し、8,000人の
    市民を処刑した。 この強圧的な手段によって、アルヴァ公は、ネーデルランドの
    支配権を再び確立した。 ウィレムは、『海の乞食党』を組織し、1572年
    スペインの軍艦を攻撃して、ブルッヘ等のネーデルランド南部のいくつかの都市を
    占領した。 ネーデルランド北部の指導者達は、これに勢いづいて、スペイン
    からの独立を宣言した。

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    1477年、マリアはハプスブルグ家のマクシミリアン大公と結婚した。
    ハプスブルグ家はオーストリアを根拠地とする強力な王家で、13世紀後半以降、
    代々神聖ローマ帝国(現在のドイツ)の皇帝となっている家柄だった。
    ハプスブルグ家の権威は、ローマ教皇を戴くカトリック教会と強く結び付いていた。
    この結婚の後、ネーデルランドに対するマリアの支配権が強められ、議会の
    影響力は衰えた。

    1482年にマリアが死ぬと、マクシミリアンは、自分達の若い息子フィリップの
    代理として、ネーデルランドを支配した。 1480年代後期から、90年代初期に
    掛けて、諸都市の中でもとりわけ力の強いブルッヘ、アントウェルペン、
    ゲントの3都市がマクシミリアンに抵抗し、マクシミリアンは、軍隊を送って
    これを鎮圧した。

    1496年、フィリップは、スペイン王の娘ホワナと結婚した。 スペインは特に
    カトリック教会の影響の強い国だった。 2人の間に生まれたカール5世は、
    1519年までに神聖ローマ帝国、ネーデルランド、スペイン、および、その
    植民地等、広大な領地を継承するに至った。

    berugii

    【カール5世とカルヴァン主義】

    カール5世が統治を始めた時、アントウェルペンは、西ヨーロッパで最も繁栄した
    交易中心地のひとつだった。 アントウェルペンの港は、ヨーロッパ産の商品
    ばかりではなく、南アフリカのスペイン植民地や、西アフリカのポルトガル
    植民地の商品も扱った。 ベルギーの繊維産業は、一時衰退していたが、
    この時期に鋳造業、じゅうたん製造業、印刷業等が盛んになった。

    カール5世は、フラマン地域圏を含むネーデルランド全土の支配権を強化した後、
    これを自分の広大な領域の中の半独立的な部分として扱った。 彼は、各州に
    大評議会を設けて徴税と行政の指導に当たらせた。

    6104320

    この頃カトリック教会の腐敗を指摘し、教会を改革しようとする人々が現れ
    始めた。 このような人達をプロテスタントと呼ぶ。 この結果として、ドイツと
    スイスの各地に、ローマ教皇から独立したプロテスタントの教会が次々誕生した。
    しかし、べルギーの人民達はずっとカトリック教徒であり続けた。

    16世紀になって、フラマン地域を含むネーデルランドにも、カルヴァン主義と
    呼ばれるポロテスタント思想が入って来た。 カルヴァン主義は、スイスの
    ジュネーヴを根拠地とするジャン・カルヴァンが説いたもので、神の意志への
    厳格な服従と勤勉等を原則としていた。 1540年には、カルヴァン主義は、
    アントウェルペンまで広がり、カルヴァン主義者達は、自身の宗教的な自治体を
    組織しようと計画した。 カール5世やそれ以降のハプスブルグ家の君主達は、
    カルヴァン主義をカトリック教会のみならず、彼等自身の権威への脅威とみなした。

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    【宗教改革と反乱】
    ハプルブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民たちは、
    領主から強制される過酷な労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ帝国を
    構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。 各地に
    分散したハプスブルク家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
    トルコからの脅威に絶えずさらされていた。 この頃、ドイツ北部やスイスでは、
    ルター等の主張する宗教改革の運動が盛んで、プロテスタントと呼ばれる新しい
    宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の多くは、この運動を教会の領地や
    財産を我が物とし、教皇の権力から独立する絶好の機会と考えていた。

    kaikakugo

    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応集結した。
    この和議で、ドイツの君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが認め
    られた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
    権威を維持することが出来た。 神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール
    5世は、この和議に不満で、翌年退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。
    ハプスブルク家の大領土は、これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに
    分かれることとなる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
    カトリックとの対立関係は、なおも続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
    貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
    いくつかの州では、大半の住民や聖職者は、強力な君主制とカトリック教会に
    好意をよせた。 ハプスブルク家の人々も、宗教改革運動を自分達の権威と
    考えて、カトリック系の指導者達との連帯を強めた。

    16世紀、当時のハプスブルク家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を率いて
    オーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
    フェルディナントは、ボヘミア王となった。 しかし、1619年に
    フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ボヘミアの
    プロテスタント達は、別の領邦の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にべーメンの反乱軍を打ち破った。
    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い反乱が続いた。

    ハプスブルク家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
    プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
    おさめ、フェルディナント2世の後継者、フェルディナント3世は、紛争から
    手を引くことにした。 1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの
    君主達が領邦内の宗教を選択する権利を再確認した。

    【領土拡張と内政改革】
    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、
    ウィーンの東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲した
    ので、ハプスブルク家の皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、
    オーストリア、ドイツ、ポーランドの連合軍は、ウィーン周辺から、トルコ
    軍を駆逐した。 これ以後、オーストリアは、ハンガリー等の東南
    ヨーロッパのトルコ領を次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルク家の繁栄に対して、スペイン系ハプスブルク
    家は、血統が途絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫を
    スペインの王位に据えようとしたため、オーストリアとフランスとの間に
    戦争が始まった。 スペイン継承戦争と呼ばれるこの戦争は、1713年に
    終わったが、その結果、オーストリアは、ネーデルランド等を
    勝ち取った。

    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を
    消耗させた。 その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と
    経済的弱体が著しかった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、
    カールは、それをうまく支配出来ず、各州の議会は、しばしばカールの
    意志に反抗し、ハンガリーとボヘミアの自治を求める動きは、彼の権威を
    損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機に
    さらされた。 カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘であるマリア・
    テレジアをハプスブルク家の後継ぎとして宣言した。 1740年にカールが
    死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き継いだ。 その直後、ドイツ北部の
    プロイセン王国のフリードリヒ2世は、ボヘミアの富裕な属州シュレージエンの
    割譲を要求して、オーストリアに攻め込んで来た。 フランス、スペイン
    等の諸国がプロイセンに味方し、オーストリア継承戦争が始まった。

    mariateresia

    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアは、
    やむなくフリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアは、
    その後シュレージエンの回復を図って七年戦争を起こしたが、この戦争も
    1763年にフリードリヒの勝利に終わった。

    七年戦争の結果、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を
    向けた。 発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが、彼女の
    政策だった。 マリア・テレジアは、また、法律を改革し、カトリック教会の
    資産を発足させて、オーストリア市民の全てが教育を受けられるようにし、
    義務教育を導入した


    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を多閉鎖し、侵攻と表現の
    自由を広く認めることを宣言した。 彼は、更に、オーストリアの諸産業の
    近代化に努め、諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、
    農民達を領主への義務の多くから開放した。

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    ブラジル南部地域への入植は、初めは北東部と同じ形で行われていた。 しかし、
    天然資源が豊かな南部は、異なった形で発達した。 17世紀後半に、
    ミナスジェライス州で金が見つかると、大勢の人達がこの地方に定住するように
    なった。 これらの人々は、プランテーションを開いたり、作物を輸出したりせず、
    店や小農園を経営して、金鉱を探す人々に商品やサービスを提供した。

    スペインは、政府の代理人に鉱物資源の採掘を管理させたが、ポルトガルは、
    冒険心に富んだ事業主に、採掘を任せていた。 そうした事業主の中には、
    ブラジル北東部の人々も混じっていた。 西インド諸島の砂糖が安いために、
    国際競争に敗れ、サトウキビプランテーションを手放した人々だった。

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    現在、サンパウロと言われている場所には、あらゆる人々がが集まっていた。
    17世紀を通して、彼等は、しばしば何千人という規模で、バンディアと呼ばれる
    探検隊を組織し、新しい資源を求めて、ブラジル内陸部を探検した。 これらの
    人々は、バンデランテと呼ばれ、勇敢なパイオニアとして尊敬されている。

    ほとんどの人は、金やダイヤモンドのような鉱物の採掘のために、組織された。
    このような作業は、ひとつの場所で何年間も続くことが良くあったので、結果的に
    バンデランテ達は、沢山の村や町を建設した。 彼等の活動のお陰で、
    ポルトガルの支配は、法王の決めた境界線を遥かに超えることになったが、
    1750年のマドリード条約で、スペインは、現在のブラジルにほぼ相当する地域
    でのポルトガルの主張を正式に認めた。

    【ポルトガルの支配】
    ブラジル植民地に対するポルトガルの支配は、中南米の多くの地域を支配する
    スペインの統治とは、まるで異なっていた。ポルトガル政府は、カピタンと
    呼ばれる統治者に、地元の出来事を処理する広い権限を与えた。 これは、
    中央集権的なスペイン植民地とは、対象的だった。 独立に向けたブラジルの
    歩みも、スペイン植民地とは異なっていた。 ブラジルには、多くのスペイン
    植民地のような独立のための長い戦争は必要なかった。 ブラジルを独立に
    導いた一連の出来事の始まりは、1807年に起きた、ナポレオンのポルトガル侵略
    だった。

    ポルトガル王はジョアン6世は、王室をそっくりブラジルに移し、自分かその
    子孫が、ポルトガル王として、国に戻れる日が来ることを待つことにした。
    やがてナポレオンは失脚し、1821年、ジョアン6世は、ポルトガルに戻った。
    国王は、まだ20歳を過ぎたばかりの王子ドン・ペドロをブラジルの執政に任命し、
    時が来たら独立を宣言するようにと言い残した。

    翌1822年9月7日、ドン・ペドロは、国民の要求に応えて、独立を宣言した。
    1ヶ月後、彼は、ブラジルの立憲皇帝、終身守護色ペドロ1世となり、ブラジルは、
    ポルトガル王と血の繋がった皇帝を戴く独立王国となった。 しかし、独裁的
    だったペドロ1世は、ブラジル国民に人気がなかった。 フランス革命や、
    アメリカの独立戦争や、スペイン領南アメリカ各地での独立戦争に啓蒙された
    国民は、旧世界の君主の独裁を嫌い、自分達の運命を自分達の手で決めたいと
    願うようになった。

    不満の高まりの中、1831年にペドロ1世は退位し、ポルトガルに帰って行った。
    在位期間は9年間であった。 父親がそうしたように、彼は、息子のドン・ペドロ
    (ペドロ・デ・アルカンタラ)にその地位を譲った。 息子のドン・ペドロは、
    まだ6歳だった。 それからの9年間、ブラジル帝国は、3人の執政によって統治
    されたが、その政治は、全体としては、国民の意志を反映したものだった。
    1840年、15歳になったドン・ペドロは、ブラジル皇帝として即位した。 初めての
    ブラジル生まれの元首であった。

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    【ペドロ2世】(1840年~1889年)
    ペドロ2世は、50年近くも安定した統治を続けた。 中南米植民地の支配者で、
    彼ほど国民から敬愛され、尊敬されている人はいない。 質素を好み、気取りの
    ないその人柄は、あらゆる階層の国民から支持された。 ペドロ2世は、知的
    好奇心が強く、科学や文学の学会を創設した。 アメリカの詩人ロングフェローを
    はじめ、世界的な思想家や文学者と熱心に文通し、スウェーデンの北極探検家
    ノルデンシェルドとは、気象観測情報を交換した。 トロイの遺跡の発見者である
    ドイツのシュリーマンとは、激しい論争をしながら、暖かい友情を育んだ。

    ペドロ2世は、エジプト学に熱心で、そのためにアラビア語やペルシャ語を学び、
    バビロニアの象形文字も研究した。 また、アマゾン盆地を年度も訪れるうちに、
    インディオのトゥピー族や、グアラニー族の言葉を覚え、日常会話が出来るように
    なった。

    ペドロ2世は、長い在位期間の間に、ブラジルを国際社会で安定したものとした。
    国の政策は継続的で安定したものとなり、外国の投資家は、安心してブラジルの
    資源開発に投資した。ブラジルの工業と商業は、ペドロ2世の政治とあいまって、
    大いに発展した。 彼は、鉄道建設を進め、電話の架設工事への投資を主張した。
    電話は、皇帝の親しい友人であるグラハム・ベルの発明であった。

    1856年にパラグアイ戦争が起きると、ブラジルは、アルゼンチン、ウルグアイと
    共に3国同盟を結び、パラグアイに対抗した。 戦争は、1870年に終わり、
    同盟国側が勝利した。 しかし、この紛争は、高くついた。 戦費の負担に対する
    国民の不満が、やがて主君性が終わる一因となった。 しかし、より大きく影響
    したのは、奴隷制の問題だった。 ペドロ2世の要請で、ブラジルは、1851年に
    奴隷貿易を禁止する法律を決めた。 しかし、この法律は、奴隷の輸入を禁止する
    だけだったので、ブラジル人は、まだ奴隷を私有していた。

    奴隷制度の完全な廃止は、さまざまに議論されていたが、経済力のある有力者の
    多くは、これに反対だったのだ。 奴隷制度を支持する人々からの働き掛けを
    逃れるために、ペドロ2世は、ヨーロッパへ休暇旅行に出掛け、その間は、娘の
    イザベラ王女に皇帝の代理を命じた。 1888年、イザベラ王女は、奴隷廃止例に
    署名した。

    かつての奴隷所有者の反発と軍部の不満が高まる中で、1889年、ペドロ2世は
    退位した。 皇帝の地位にあった時から、ペドロ2世は、ブラジルをアメリカ
    合衆国のような民主共和制による自治の国にしようと考えていたため、やがては、
    退位を求められることを覚悟で、民主的な政治勢力を励まし続けた。 ペドロ
    2世の統治が終わる時が来ても、血生臭い事件は起きなかった。 それどころか、
    貧しい者も高い地位にある者も、涙を流して敬愛する皇帝の亡命を見送った。

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