サラエヴォ駅前にそびえ立つAvaz Twist Towerは、入場料は1マルク(約135円)で、
サラエヴォの街並みを高所から見下ろすことが出来ます。 このタワーからは、
サラエヴォ・オリンピックスタジアムと共に、墓地も見えました。

1984年に開催されたサラエヴォ・オリンピックのメインスタジアムでメイン
テーマ曲を歌ったのが、旧ユーゴの国民的歌手であるヤドランカ・
ストヤコヴィッチでした。 現在は、同じボスニア連邦とされるものの、
未承認国家のスルプスカ共和国の首都、バーニャ・ルーカで眠っています。

【サラエヴォ】

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この墓地があった場所は、元々は、オリンピックのサブ競技場であった場所で、
内戦により、余りにも死者が出てしまったため、仕方なくこの場に埋葬したもの。
戦時中は、銃弾の飛び交わない早朝や深夜に遺体の埋葬が行われました。
スタジアム内には、オリンピック博物館が併設されています。 サブ競技場は、
全てお墓にされてしまったため、スタジアム周辺は、この様な風景になって
います。 墓地の向こう側に見えているのが、オリンピックの塔。

このお墓を見ていると、違う民族(実際は、殆んど同じ民族で宗教が違うだけ)
と言う理由だけで、次々と殺された人達の無念さが伝わって来ます。 墓標を
見ると、20代~30代で死亡した人達が多かったことが分かります。
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ユーゴスラビアは、東欧の中では、最も進んだ国で、大昔から日本人にはビザが
必要ない唯一の国でしたが、進み過ぎていたがために、周辺国と足並みが揃わず、
そこをアメリカに付け入られたため、泥沼の戦争となりました。 ポーランドや
チェコがもう少しだけ早くユーゴに追い付いていたら、また全く別の道を歩んで
いたと思うと、残念でなりません。

昔、そのことをヤドランカに話した時に、『ユーゴは昔は進んでいたのに、今では
500年前まで戻ってしまった』と言っていたのを思い出しました。 父親が
セルビア人で母親がクロアチア人のヤドランカは、最後まで自分は『ユーゴ人』だと
言っていましたが、最後は、バーニャ・ルーカに行くことになったため、最終的
には、この景色を見て、どう思ったのかについては、知る術がありません。
もし、自分が同じ立場だったら、やはり、バーニャ・ルーカに行くと思います。

【オリンピックスタジアム】

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サラエボともこれでお別れ。 最後に、キオスクのおばさんとボスニア語で話して
いたのですが、急に『あなた、ボスニア語が凄く上手いけど、ここで習ったの?』と
聞かれたため、『ロシア語が分かるので、ボスニア語も大体分かる』と答えた
ところ、『私もロシア語でちょっとだけ喋れる』と言い出したため、ロシア語で
話したところ、元々、父親がタタール人で、子供の頃にロシアのカザンから、
親族全員でサラエヴォに引っ越して来たとのこと。 ロシア連邦タタールスタン
共和国も同じイスラム教ですが、完全にヨーロッパ化しているため、ボスニアの
本格的なイスラム教とは、全く違うものの、やはり、イスラム教徒は、同じ
イスラム教圏内が良いらしく、この後のモスタルでは、その現実をまざまざと
見せ付けられることとなりました。 サラエヴォからモスタルへは、バスで
3時間半弱。 尚、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の国旗、スルプスカ共和国には、
全くありませんでした。

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