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    タグ:スウェーデン

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    1600年代初期に、スウェーデン国王グスタヴ2世アドルフの軍事拡張策が成功して、
    スウェーデンはバルト海地方の大国になった。 ドイツとの三十年戦争(1618年~
    1648年)の際、国王は、勇猛な戦士だったフィンランド兵の戦闘の上手さに
    頼って、ドイツに出兵した。 スウェーデンは戦費を調達するために、
    フィンランド人をはじめ、領内の国民全てに過酷な税を課した。

    グスタヴ2世アドルフが1632年に死に、ただ1人の後継者、6歳の王女
    クリスティーナが王位に就いた。クリスティーナが成人になるまで、スウェーデン
    貴族アレクセル・オクセンチャールナは、やはり裕福な貴族で、競争相手の政治家
    ペール・ブラーヘ公の追い落としを図り、新設のフィンランド総督に任命して
    トゥルクに左遷した。

    ブラーヘ総統は、フィンランド人のために全力を尽くした。 スウェーデン語より
    フィンランド語を使うことを奨励し、聖書のフィンランド語完訳を開始した。
    1640年にはフィンランド最初の大学をトゥルクに創設した。 同じ頃、ブラーヘ
    総督は、ラーヘ市をオストロボスニア地方の西部地区の中心都市に決めた。

    Raateroad

    【紛争と改革】
    ブラーヘ総統が退任した1658年までに、スウェーデンには重大な変革が起きて
    いた。 摂政オクセンチャールナが死に、クリスティーナ女王が王位を放棄し、
    継承者のカール10世グスタヴは自国の領土拡大とロシアの拡大阻止のため、
    ポーランドと戦争をしていた。 スウェーデン軍がポーランドと交戦中、
    フィンランド人たちは侵攻して来たロシア軍を破った。 スウェーデンと
    ロシアは1660年、フィンランド東部国境を設定し、ポーランドの一部と
    デンマークをスウェーデンの領土にするカルディス条約を結んだ。

    1672年、若いスウェーデン国王カール11世は、国王独裁を宣言し、伝統的に
    官僚と分担して来た権限を取り上げた。 また、フィンランドでスウェーデン語を
    広めて、スウェーデン文化との結び付きを強めた。 1686年にカール国王は、
    スウェーデンのルター派教会をフィンランドのの公式の教会と決め、その監督を
    任命した。

    スウェーデン国王は、トゥルク教会の監督に、全フィンランドの人に読み書きを
    教える責任を課した。 監督と教区の司祭たちはが真剣に教えた結果、
    フィンランドは、ほぼ全住民が読み書き出来る国のひとつになった。

    読み書き能力の普及を除けば、1600年代末期のフィンランドには、大した進歩が
    なかった。 スウェーデンの支配者たちは、スウェーデンに兵士を提供し、税金を
    支払っているフィンランド人を、ますます省みなくなった。 更に、
    フィンランドは、1696年と1697年の大飢饉で、住民の3分の1が病気で死んだ。

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    15世紀と16世紀を通じて、フィンランド人は、スウェーデン国民として統合化
    して行った。 フィンランド人は、自分たちをスウェーデン国王支配化の他の
    民族と同一だとみなしていた。 この間に、スウェーデン語を話すフィンランド
    生まれの貴族が台頭し、フィンランド領内で権力を持つようになった。

    地方の裁判所の判事や、スウェーデン国王のために、フィンランド領内の城を
    管理する役人になるフィンランド人もおり、スウェーデン国王政府に最高官吏
    として積極的に参加した。 フィンランド貴族達には、領内の財政を運用したり
    海軍を再興したりして、スウェーデン王国を補助した者もいる。 大勢の
    フィンランド人がスウェーデンの首都ストックホルムに住み働いた。

    agricola

    15世紀までにトゥルクの司教たちは、フィンランド人にローマカトリック教を
    布教し、多神教のフィンランド人は、次第に一神教のキリスト教に改宗して行った。
    まだ大学がなかった16世紀には、フィンランドは優秀な子弟をヨーロッパ各地の
    教育、宗教の中心地に留学させた。 例えば、フィンランド人の学者ミカエル・
    アグリコラ(1510年~1557年) は、ドイツのウィッテンベルグの大学で
    学んでいる。

    アグリコラは、新約聖書をフィンランド語に翻訳し、また、フィンランド人に
    マルティン・ルターの革命的な宗教思想と新信教の宗教改革を紹介した。 この
    運動は、ローマカトリック教会の権威への挑戦だった。 16世紀に北ヨーロッパ
    各地で、プロテスタントのルター派が広まった。

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    西暦800年頃から、スウェーデン人ヴァイキングの艦隊は、東方のカレリア地方へ
    遠征する時、途中のフィンランド本土にもやって来た。 862年にヴァイキングは、
    後のロシア領ノヴゴロドとキエフの両市を交易の拠点にした。

    この商業を通じてカレリア人は、遥か南の、今のトルコにあったビザンチン帝国と
    往来した。 カレリア社会は、ビザンチン文化の影響を受けた。 例えば、数世紀に
    キリスト教がフィンランドに伝えられた時、カレリア人は、ビザンチン帝国と同じ
    正教派を採用した。

    西方では、12世紀までに王国を築いたスウェーデンの商人達が、スカンジナビア
    文化の影響をスオマライセット人とハマライセット人の慣習に与えて行った。
    この時期のフィンランドは、統一を欠き、主な3つのグループが互いに戦って
    いたため、スウェーデンの結束した力に対抗する事が出来なかった。

    swedishlands

    【スウェーデンの支配】

    1155年にスウェーデンのエーリック国王は、多神教だったフィンランド人にローマ
    カトリックの進行を押し付けた。 また、フィンランド人によるスウェーデン沿岸の
    侵攻を止めさせようとした。 この2つの目的を達成するため、エーリック国王は、
    フィンランド南西部を征服した。 また、トゥルク(スウェーデン語ではオーボー)
    に伝道教区を設立し、イギリス出身のスウェーデンのウプサラ司教へンリーを
    責任者とした。

    13世紀には、スウェーデン人貴族のビルイェル・ヤールは、サルパウスセルカ丘陵の
    戦略地点に、ハメーンリンナ城を築いた。 ここは東西の交易路の中心地だった。
    スウェーデン人が東部フィンランドに支配を広げて行くと、当時既にノヴゴロド
    (現ロシア)を統治し、カレリア地方の領土権を主張するロシア人の反撃にあった。
    ロシア人は、フィンランドで正教の勢力を広めようとしていた。

    1323年、スウェーデンとロシアは、フィンランドを東西に分割するパハキナサーリ
    (現ロシア領ペトロクレポスト)条約に調印した。 スウェーデンは、カレリア
    地方の東部をロシアに割譲したが、両国の戦争は1351年まで続いた。 この年、
    両国は、スウェーデンにその後2世紀間のフィンランド支配を許す新条約を結んだ。

    平和な時代が来ると、多くのスウェーデン人は、フィンランドの西と南の海岸地帯に
    移住し、自国の法律、行政の制度をフィンランドに導入した。 トゥルクが
    フィンランドの中心地になり、スウェーデン語が特に農民、地方官吏、富裕層の
    間で話されるようになった。

    1300年代には、スウェーデン国王は、世襲制から議会による選出に変わっていた。
    1362年にスウェーデンはフィンランドに、議会に代表を送る権利を与えた。 この
    恩典は、スウェーデン政府がフィンランドを、海外領土ではなく、国内の一地方と
    考えていたことを意味した。

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    フィンランドの人口は510万人で、そのやく64%が南部に集中している都市に
    住んでおり、北部は人口が希薄になっている。 多くの中規模の街は、
    海岸沿いにあるが、その重要性は、首都ヘルシンキには及ばない。

    helsink

    【ヘルシンキ】
    ヘルシンキは、ウーシマー州の州会で、フィンランド湾に面したでこぼこな
    花崗岩の半島上にある。 沖合いの多数の島も含め、人口は93万人を超える。
    文化活動の中心地で、博物館、美術館、各種の教育機関の他、主に造船、機械、
    陶磁器、繊維など大企業の本社がある。

    ヘルシンキの歴史は長く複雑で、隣国のスウェーデンとロシアとの関係が深い。
    両国は異なった時代にそれぞれフィンランドを支配した。 1808年の火災で、
    初期の定住地区が破壊した。 政府は1816年、ドイツ人建築家C.L.エンゲルを
    雇い市を再建した。 エンゲルは広い道路、大きな公園、高く白いビルの建つ
    ゆったりとした都市を建設した。 後年になって、首都の内部だけではなく、
    周辺にも住宅地区を沢山建設したが、地下鉄が都心部と郊外を結び、市内の
    交通混雑の緩和に役立っている。

    【その他の都市】

    タンペレ(人口17万6千)は、フィンランド第二の都市で、南部のハメ州の中心
    都市となっている。 北側のナシ湖から南側のピュハ湖に注ぐ急流で、2地区に
    分断されている。 1779年に都市の基盤が出来ると、1800年代には重要な
    工業都市に成長した。 現在は、履物、皮革製品、繊維、金物類、紙を生産して
    いる。 大学と技術カレッジがそれぞれ1校づつある。

    フィンランド最古の都市トゥルク(人口16万人)は、フィンランド第三の都市で、
    ボスニア湾のアウラ川の河口にあり、南西部の重要な港となっている。 製造業の
    中心地でもある。 1800年代までフィンランドの首都であったトゥルクは、
    スウェーデンに非常に近いため、住民の約5%は主としてスウェーデン語を
    用いている。

    他にボスニア湾に面した重要な都市は、工業の中心地であるオウル(人口
    10万4千)、古い商業の街ポリ(人口7万6千)、ヴァーサ(人口5万5千)がある。
    ヴァーサ市民の約3分の1は、第一言語がスウェーデン語となっている。

    スポーツ行事で有名なのが、バイヤンネ湖の南端にあるラハティ(人口9万4千)で、
    3月に冬のスポーツ大会が開かれ、国内外の人達が大勢集まる。 バイヤンネ湖の
    北端にあるユヴァスキュラ(人口7万2千)は、フィンランド中央部の森林地帯に
    近く、林業の中心地となっている。

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    フィンランド語でスオミと呼ばれるフィンランド共和国は、スカンジナビア半島と
    ロシア連邦に挟まれた北ヨーロッパの国で、このような地理のため、フィンランドは
    領土を拡張しようとする近隣の大国から侵略されて来た。 フィンランドは、長い
    歴史の中で多くの戦争を経験し、国境は何度も変えられた。

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    国境を接するスウェーデンは、フィンランドを自分の国に組み入れて、13世紀
    半ばから1808年まで統治した。 1808年には、ロシア軍がフィンランドを征服
    したが、ロシア皇帝は、スウェーデンが制定した法律や行政制度は、そのまま
    フィンランドに残した。

    フィンランドで文芸が栄えた19世紀に、フィンランド人の民族意識と文化を誇る
    気持ちが高まった。 民族主義運動を支えとしてフィンランド人は、ロシアの祖国
    完全併合の企てに抵抗した。 1917年に革命家達が、ソ連をつくる第一歩として
    ロシア帝政を倒すと、フィンランドは、ロシアの支配からの独立を宣言した。

    独立国となったフィンランドは、国境紛争、特にソ連との紛争に巻き込まれるのを
    避けようと努力した。 だがフィンランドは、1939年にソ連に侵略されてしまい、
    中立政策を放棄しなければならなくなった。 それから1944年まで、ソ連は
    フィンランドに莫大な金と物資の賠償支払いを求め続けた。

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    それにも関わらず、フィンランド人たちは、第二次世界大戦後に産業を復興し
    近代化した。 また、1950年代初めまでに、フィンランドはソ連に対する賠償
    支払いを完了した。 それ以来、フィンランドは近隣諸国と友好関係を維持する
    ことを最優先とした。 同時にフィンランドは、西ヨーロッパ諸国との通商上の
    協定も発展させた。 これらの努力によって、1990年代半ばまでに経済は健全化し、
    フィンランド人の生活水準は非常に良くなった。

    政府は、国民所得の多くを教育や福祉にあてている。 1人あたりの所得も高く、
    このような数多くの利点を、フィンランド人はこれらも改善し守って行こうとして
    働いている。

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    スウェーデン政府は、壊れた物を修理に出すと税控除を受けられる制度を
    2017年1月から導入しようとしている。 電化製品、自転車から洗濯機、
    衣服や靴など、あらゆる物が対象となる。 修理を依頼する者も修理業者も
    税の優遇を受けられるため、この法案が可決されると、修理費用が大幅に
    抑えられ、修理をより合理的な経済活動へと変換出来ると期待されている。

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    スウェーデンでは何かを修理すると、その修理費に付加価値税が加算される
    システムを取っているが、2016年9月20日、スウェーデンの与党である社民党と
    環境党による連立政権は、自転車、衣服、靴などの修理に課される付加価値税の
    税率を25%から12%に下げる法案を議会に提出した。

    また、冷蔵庫、オーブン、食器洗い機、洗濯機といった家電を修理する業者は、
    その人件費の半分を所得税から還付してもらえるという法案も提出される予定と
    なっているため、もはや古くなったり、壊れたりした物を捨てて、新たに購入する
    ことは、環境に優しくないばかりか、余り合理的ではないのかも知れない。

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    この付加価値税の減税の実施後、400スウェーデンクローナ(約4,700円)
    相当の修理を依頼した場合、50スウェーデンクローナ(約600円)ほど修理費が
    安くなる計算となり、スウェーデンの修理産業を刺激するには十分な額と
    なっている。 また、修理産業を振興させることで、きちんとした教育を
    受けていない移民のための雇用の創出となることも期待されている。

    スウェーデンは、1990年比の年間二酸化炭素排出量をすでに23%削減しており、
    国内の電力の半分以上が再生可能エネルギーによって賄われている。  しかし、
    消費に関連する排出は着実に増加しており、無駄な消費や生産を減らして再活用
    しようという動きは、フランスやドイツでも広がりつつある。

    この法案は、政府の予算案として議会に提出され、12月に可決されれば、2017年
    1月から法律となる。 使い捨て文化は、廃棄物処理の問題もあるのだが、何よりも
    物を大事にするという精神を育てるという意味では、非常に活気的な法律だと
    言える。

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    1790年、フランスの将軍、ナポレオン・ボナパルトが登場し、1804年に
    皇帝ナポレオン1世と称して各国の征服を始めた。 デンマークは、当初、
    中立を守ったが、1807年、フランスの敵国イギリスは、デンマーク艦隊が
    ナポレオンの手に渡るのを恐れて、引渡しを要求した。 デンマークが拒否すると、
    イギリス海軍は、コペンハーゲンを砲撃して、デンマーク艦隊を摂取した。

    国王フレゼレグ6世は、フランスと同盟を結んで、イギリス他各国と戦った。
    1814年、スウェーデンがイギリス側に立ち、ユトランド半島に侵入して
    デンマーク軍を敗北させた。 1815年、ベルギーのワーテルローでのナポレオンの
    敗北によって、戦乱は終わりを告げた。

    戦乱後のキール協定で、デンマークは、スウェーデンにノルウェーを割譲したが、
    元ノルウェー植民地のフェロー諸島、アイスランド、グリーンランドは、
    デンマーク領となった。 戦争で経済が破綻したデンマークは、大国の地位を
    失った。 国民の多くは、国王が判断を誤ったために敗戦の憂き目を見たと
    思ったが、ただちに王権を縮小しようとはしなかった。

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    しかし、デンマーク領ホルスタイン在住のドイツ系住民は、独自の憲法を
    要求した。 1830年代に国王は、この要求に応えてホルスタイン、
    シュレスウィッヒ、ユトランド諸島群がそれぞれ別個の議会を開くのを認めた。
    4つの議会は立法権は持たなかったが、それぞれの地域の地主階級が意見を
    表明することは出来た。

    1840年代までに、人々は教育改革と議会制民主主義を要求するようになった。
    1814年、無償の義務教育制度が確立された。 1848年に国王となったフレゼレグ
    7世は、翌年6月5日、国王の権限を大幅に放棄した。 同じ日、国王は、新憲法に
    署名した。 これによって、一般投票による二院制議会制度が確立した。
    この憲法がはまた集会、信仰、出版の自由を保証した。

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    1588年、若くて人気のあるクリスティアン4世が王位に就いた。 王は、
    コペンハーゲンの市街を拡張し、株式交換所や、フレゼレグスボア城など、多くの
    華麗な建築物を建造させた。 しかし、クリスティアン4世の領土的な野望は、
    やがてこの国の財政を重く圧迫することになった。

    1611年、クリスティアン4世は、スウェーデンと戦争を始めたが、敗北の
    連続で、経費ばかりがかさんだ。 1613年から1618年に至る5年間の平和により、
    デンマークの経済力は回復した。 1618年にドイツで三十年戦争が始まると、
    クリスティアン4世とその軍隊は、ドイツのプロテスタント勢力を助けて、
    カトリックの軍と戦った。

    1626年、デンマーク軍は、ドイツのハルツ地方で大敗北を喫した。 3年後、
    ドイツのカトリック諸侯軍は、ユトランド半島を占領し、クリスティアン4世は、
    和議を結ばなければならなかった。 1643年、スウェーデンがデンマークを攻撃し、
    デンマークは、またもや敗北した。

    helsingborg

    1648年に講和条約が結ばれ、デンマークは、ゴットランド島をスウェーデンに
    返還し、現在スウェーデンの中央部となっているイェムトランとヘレダーレンを
    割譲した。 デンマーク海軍は壊滅し、貿易は衰退して国力は傾いた。 元老院は、
    クリスティアン4世の息子フレゼレグ3世を国王に選ぶに先立って、王権に厳しい
    制限を付け、勝手に戦争をする事を禁じた。 それにも関わらず、フレゼレグ
    3世は、1657年、失われた領土を回復しようとスウェーデンに攻撃を加えた。

    1658年、スウェーデン軍は氷結したエーレ海峡を渡ってデンマークに攻め込み、
    フレゼレグ3世は、講和を余儀なくされた。 その結果、デンマークは、
    ノルウェーのトロンヘイム地方を割譲した他、スコーネとボルンホルム島を
    スウェーデンに譲渡した。

    1660年、スウェーデンとの戦争が再度勃発し、オランダと同盟したデンマークが
    有利となった。 講和条約によってスウェーデンは、トロンヘイム地方と
    ボルンホルム島をデンマークに返還したが、スコーネなどエーレ海峡東岸地域は、
    最終的にスウェーデンの領土となった。

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    15世紀のカトリック教会は、権力が強く裕福だった。 教会は所有する地所と
    農地から莫大な利益を得ており、国内で生産される全ての穀物から一定の
    割合で金品を徴収していた。 高位の聖職者の殆どは、貴族の子弟で、
    それがますます裕福になって行くため、一般の人々は、教会に反発を
    抱き始めた。

    20080508

    1479年、クリスティアン1世は、教会から提供させた資金でコペンハーゲンに
    大学を創立した。 教会の権威に反抗する宗教改革の思想はこの大学から
    生まれた。 この思想の信奉者は、プロテスタントと呼ばれ、次第に勢力を
    拡大して行った。 この風潮に対応して、次の国王ハンスは、最初の国会を
    召集した。 この国会では、貴族や聖職者と並んで、一般市民が議席を
    与えられた。

    1513年に国王に選ばれたクリスティアン2世は、聖職者と貴族の勢力を
    抑えるのに努めた。 土地制度の改革が実行され、一般市民が王の顧問に
    任命された。 王はまた、スウェーデンに兵を送って、デンマークの権威の
    回復を図った。 1520年、王はスウェーデン貴族82人を処刑させた。

    スウェーデン人は、この虐殺に激怒し、本格的な氾濫が勃発した。 3年後には、
    スウェーデンは、独立を勝ち取り、スコーネなどわずかな地域だけが
    デンマークの支配下に残った。

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    クリスティアン2世の叔父フレゼレグ1世の時代には、プロテスタントの勢力は
    ますます盛んになった。 この国でのプロテスタントの主な支持者は、地位の
    低い聖職者と中流階級出身者だった。 1533年、フレゼレグ1世が死ぬと、
    宗教対立は絶頂に達した。 彼の息子たちのうち、カトリックのハンスと、
    プロテスタントのクリスティアンのどちらが王位に就くかを巡って国論は二分し、
    内乱が勃発した。

    クリスティアンが、1536年に勝利をおさめて国王のクリスティアン3世となり、
    プロテスタントの一派である福音派教会を国教と定めて、国王はその首長となった。
    クリスティアン3世は、カトリック教会の土地を没収して、王家の権力と財力を
    大いに増大させた。

    しかし、デンマークがスウェーデン、ロシア、ポーランドと次々に戦って、
    バルト海での勢力を拡大させようとしたため、財力はたちまち減少した。
    1563年から70年に掛けて、デンマークは、スウェーデンと北方七年戦争を
    戦ったが、一片の領土も確保出来なかった。

    その後デンマークは、16世紀末まで軍事から一切手を引いた。 平和の続いた
    30年の間に、この国から輸出される穀物と家畜の値段が上昇し、一般市民の
    生活が潤った。

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    クヌッド4世の弟ヴァルゼマール2世が1202年に国王になると、ドイツの
    諸侯との間で抗争が生じた。 ヴァイゼマール2世は、バルト海沿いの
    ドイツ騎士団と戦って、エストニア、メクレンブルク等各地を占領した。

    北ドイツの諸侯は、反撃を開始して、1223年、ヴァイゼマール2世を捕らえて
    監視した。 ヴァイゼマールは、自由を回復するため、征服した領土のうち、
    エストニアを除く大部分を放棄した。

    ヴァイゼマール2世が1241年に死ぬと、再び内戦が頻発した。 王族、貴族、
    聖職者達が権力抗争を始めたのである。 1282年、貴族達は、ヴァイゼマール
    2世の孫にあたる国王エーリック5世に強制して、王権を制限する憲章に
    署名させた。

    hanzadoumeikouekiti

    1286年にエーリック5世の後を継いだ息子のエーリック6世メンヴェドは、
    北海とバルト海沿岸のドイツ商業都市の連合体であるハンザ同盟の勢力を抑え
    ようとした。 王はそのために、国土の一部を抵当に入れて軍備を調達した。
    スコーネまでがドイツ貴族の所有となった。

    1333年、スウェーデンはドイツのホルスタイン公からスコーネを買い取った。
    これは、デンマークへの重大な脅威と考えられた。 エーリック5世の孫
    ヴァイゼマール4世アッターダーは、1346年、エストニアをドイツ騎士団に
    売却し、その金で抵当に入れられていた国土を買い戻した。

    こうして力を付けた王は、1360年、スコーネをスウェーデンから回復し、翌年、
    ゴットランド島にあるハンザ同盟の有力都市、ヴィスビを占領した。 また、
    娘マルグレーテをノルウェー王ホーコン6世と結婚させた。

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    1704年から、フィンランド湾内のコトリン島に海軍基地クロンシュタットの
    建設が始まった。 更にウサギ島の対岸、ネヴァ川の左岸には海軍造船所が
    作られた。 これが後の海軍本部となる。

    ピョートルは国の統治を引き続き、モスクワのクレムリンから行っており、
    戦争のため各地に転戦した。 スウェーデン国王軍との決戦は、遠くウクライナの
    地ポルタヴァで1709年春に戦われた。 ピョートル軍は、カール12世軍を
    撃滅した。 戦争はなお12年続くが、ポルタヴァの勝利以後は、ロシアは
    バルト海沿岸でスウェーデンを圧して行った。

    1710年、ピョートルの軍はペテロパブロフスク要塞の北のスウェーデンの要塞
    ヴイボルクを占領した。 更にこの年、スウェーデン軍からレーヴェリとリガ
    という重要な港湾を奪った。 これによって、バルト海の南岸かがロシアの
    占領地域に入った。

    ペテロパブロフスク要塞は最前線の要塞ではなくなり、この要塞の周りに生まれ
    つつある都市の安全性は強固なものとなった。 この年ピョートルはネヴァ川が
    南の方角に曲がっているところ、かつてのスウェーデンの砦ニエンシャッツがあった
    ところの対岸にアレクサンドル・ネフスキー公の名を冠した修道院を建てさせた。

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    1240年、ノヴゴロドの公アレクサンドルがネヴァ川の流域でスウェーデン軍を
    打ち負かした勝利を讃えて、その戦闘があったと考えられた場所を選んだのである。
    これが後のアレクサンドル・ネフスキー修道院の基である。 更に同じ年、
    ピョートルは海軍造船所の近くにイサーク寺院を建立した。 正教の暦では、
    ダルマチアのイサークという聖人の日が5月30日と定めされていたが、この日が
    ピョートルの誕生日であった。

    1711年には、ピョートルのための最初の宮殿、冬宮がネヴァ川のほとりに建て
    られた。 これは5年後に建て直しになる程度の建築だったが、今やピョートルの
    住居は小屋から宮殿になったのである。

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    この要塞と海軍造船所のある北辺の拠点について、ピョートルは1704年9月28日に
    メンシコフに送った手紙の中に3、4日後に首都ペテルブルグに行くと書いている。
    これがピョートルがペテルブルグについて首都と述べた最初の例外的なケース
    であった。 だからと言って、ピョートルがこの時ペテルブルグを首都にすると
    既に決めていたことにはならない。 いずれにしても、スウェーデン海軍の攻撃は
    1705年夏までは続いていたのである。

    1709年のポルタヴァでの勝利の後、1711年ピョートルはモスクワに元老院を
    設置し、9名の議員を任命した。 貴族会議に代わって、皇帝の命令を遂行し、
    重要案件については皇帝に代わって仮の決定を下す中央統治機関とした。
    この機関が1712年にペテルブルグに移ったのは、翌1713年だが、これは重要な
    決定であった。

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    ネヴァ川は、ラドガ湖から発してフィンランド湾に流れ込む。 全長74kmと
    短いが水量の豊富な大河である。 『ネヴァ』という名称は、フィン語の
    Nevajoki から出ているが、これは、 Neva(沼)という言葉が元となっている。

    確かにこの川の河口は、沼沢地帯であった。 この川の周辺に住んでいたのは、
    フィン人であった。 この地に勢力を伸ばしていたのは、スウェーデン国家と
    ノヴゴロドというロシアの都市国家である。

    1300年、スウェーデンはネヴァ川にオフタ川が流れ込むところにランズクローンの
    砦を造った。 1年後にその砦はノヴゴロド人によって破壊された。 1323年の
    講和で、ネヴァの流域は、ノヴゴロドのものとなり、ラドガ湖からネヴァ川が
    始まる辺りにオレーシュクの砦が造られた。 その状態が1609年まで300年近く
    続いた。

    17世紀始め、ロシアは『動乱』の世となり、国が乱れに乱れた。 ポーランド王の
    軍にモスクワが占領されるという事態も生じた。 1611年、スウェーデンも
    ロシアに兵を進めて、ノヴゴロドまでを占領した。 ネヴァ川流域も
    スウェーデンの支配下に入った。

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    破壊されていたランズクローンの砦の後には、ニエンシャンツの砦が造られた。
    オレーシュクの砦は、スウェーデン風にノーテブルグの砦と改称された。
    1613年、動乱を克服したロシアは、ミハイル・ロマノソフを皇帝に選んだ。
    彼は、4年後にスウェーデンのグスタフ・アドルフとストルホヴォの講和を結び、
    ノヴゴロドを取り戻したが、東カレリアとネヴァ川流域一帯に対するスウェーデンの
    領有を認めた。

    スカンジナビア半島から発して、バルト海沿岸に覇権を広げた強国スウェーデンの
    威光は、1世紀続いた。 反抗の時をうかがっていた各国は、1700年に行動を
    起こした。 ロシアの若き英主ピョートルもこの年にスウェーデンに戦いを挑んだ。
    だが、8月にスウェーデンの要塞ナルヴァを包囲したロシア軍は、ピョートルより
    年少のスウェーデン王カール12世の精鋭部隊に壊滅させられてしまう。
    ピョートルは兵を退き、カール12世がポーランドに転戦している間に、ネヴァ川
    流域のスウェーデン領インゲルマンランドを攻めた。

    1702年10月、ノーテブルグの砦がロシア軍の手に落ち、シュリッセリブルグと
    改名された。 1703年4月には、ロシア軍はニエンシャッツの砦を包囲した。
    ピョートルも七個中隊の兵を引き連れて到着した。 スウェーデン軍は降伏を
    否定して、ロシア軍の砲撃を受け、砦は5月1日(12日)に陥落した。 この時、
    スウェーデン軍の軍艦2隻が救援に来たが、ピョートルは、ニエンシャンツの
    砦を我が物とし、これにシュロットブルグ(城の町)という名を与えた。

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    ピョートルは親政開始後、オランダ等に大使団を派遣し、オランダをあがめていた。
    命名はオランダ語によるものであった。 もっとも、彼にはこの砦の位置が不満
    であった。 海から離れていては、海軍基地と結びつかない。 そこで、ネヴァ川が
    3つに分かれているところの中央にある島エニサーリ(ウサギ)島に注目し、ここに
    要塞を造ることを決め、ただちに着工した。 1703年5月16日(27日)のことで
    あった。 ウサギ島は、ニエンシャンツの砦からは、ほぼ6キロ離れており、
    それだけ海に近い場所にある。

    この日ピョートルは、ここに居なかったので、着工は彼の意を受けた腹心の
    メンシコフの仕事であったが、恐らく、場所選びにはピョートルの意思も加わって
    いたのであろう。 数日後、戻って来たピョートルは、ただちに自分用の住居を
    ウサギ島から遠からぬ川岸に建てさせ、3日で完成した。 松の丸太で作られた
    この小屋が後に『ピョートルの小屋』と呼ばれるものであり、ペテルブルグの
    建築物第一号ということになる。 ピョートルは、ここに滞在する時は、この
    小屋に泊まった。

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    要塞は土で盛った保塁で作られ、急ピッチで建設が進んだ。 6月29日(30日)、
    ピョートルは、建設中の要塞にサンクト・ペテルブルグという名を与えた。
    自分の名ではなく、自分の守護聖人であるペトロから取ったものであった。
    それと共に、この日ペテロともう一人の聖人、パウロの名前を合わせて冠した
    聖堂の建設を始めるように命じた。 これがペテロパブロフスク聖堂となる
    のである。

    木造の質素な聖堂は、要塞共々、1703年の秋には完成した。 その頃には、
    要塞もペテロパブロフスク要塞と呼ばれるようになり、サンクト・ペテルブルグ
    という名は、要塞の周りに住み着く人々の集落を指す言葉になっていた。

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