横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    タグ:スウェーデン

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    13世紀、エストニアは、ドイツ騎士団の支配下に置かれた。 19世紀まで、
    都市部ではドイツ貴族が、地方では、ドイツの地主が、上層階級として支配
    していた。 彼らは、言語は違うが、父権主義的な社会を形成していた。
    宗教改革以来、プロテスタント信仰が彼らとエストニアの農民たちを結び
    付けていたのである。

    estoni

    1710年にエストニアは、スウェーデンとの北方戦争に勝利を収めたピョートル
    大帝によって征服され、他のバルト諸国同様、第一次世界大戦までロシアの
    一部であった。 その後1920年、帝政の崩壊の時代にエストニアは独立した。
    1939年のヒットラー・スターリン会談では、2人の独裁者の利害によって、
    東部中央ヨーロッパにおける国境問題が話し合われ、その結果、エストニアは、
    ソ連の勢力範囲に入れられ、それを受けて、この地域は、1940年に赤軍の手に
    渡った。

    その後、外部から差し向けられた政府が、憲法と選挙権に反した『選挙』を
    指導し、8月6日には、ソ連に併合された。 その後、工業施設や農業用地が
    収用され、6万人近くのエストニア人が追放された。 1941年にドイツ軍が
    進撃して来た際には、少なからずの人々がソ連への隷属から解放してくれたと
    感じた。

    1944年以降、エストニアは、再びソ連の支配下に戻り、その経済構造や社会
    秩序はソビエト化された。 経済の構造は、農業の集団化と、それと平行して
    行われた工業の国営化によって、根本的に変わった。 また、多くのロシア人が、
    工業開発の人材要員として、また、幹部などの上層階級として次々と移住して
    来た。

    1915445

    【目覚めた民族意識と翻る国旗】
    1989年秋、エストニアのソビエト最高会議は、これ以降、エストニアの法律は、
    ソ連の法律に優先し、連邦の法律は、エストニア議会の承認、あるいは、修正を
    経て初めて効力を発すると宣言した。

    段階的に進められて来たエストニア独立は、1990年に独立宣言を採択したことで
    決定的になった。 モスクワでゴルバチョフの改革に反対したクーデターが失敗
    した直後の1991年8月21日、エストニアは、最終的に独立を宣言した。 そして、
    それは同年9月6日、ソビエト国家評議会によって承認された。

    この日、エストニアは独立への長い道のりのクライマックスを迎え、首都タリン
    では、独立国家エストニアの国旗である、青、黒、白の旗が高々と掲げられた。

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    日本の動物保護の法制度は、世界でも稀に見るぐらいに規制が少なく、残酷な
    動物実験や動物虐待に対する罰則も特にない。 各国の動物保護法や国際学会等
    では、苦痛を与える実験に関しては、最も厳しい規制がある。 各国の規制は
    法律による規制であり、日本で言うところの任意の自主規制とは全く異っている。

     imgoi7
    特に欧米諸国では動物愛護活動が非常に盛んに行われており、その中でもイギリスが
    最も先進的と言われている。 動物愛護において、日本は少なからずイギリスからの
    影響を受けており、1973年には、エリザベス女王が来日した際に、ペットに関する
    法整備を急いで進めたという過去の出来事もそれを象徴している。 しかし、日本は
    動物愛護に関しては、イギリスよりも100年以上も遅れているとも言われており、
    動物愛護後進国となっている。

    イギリスも昔は動物虐待が日常的だった
     
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    【イギリス】
    イギリスでは、犬は生涯6回までしか出産させてはならず、ペットショップも
    免許制など、こと細かに法律で定められている。 また、動物虐待防止のための
    王立組織である『RSPCA』が1824年に設立され、さまざまな動物を守る活動が
    行われている。 市民から通報が寄せられると、警察官と共に現場へ出動し、
    改善指導を行なったり、虐待者を裁判に掛けるというシステムも整っている。

    【アメリカ】
    アメリカは州によっても異なるが、例えば、オレゴン州の場合、一番重い動物
    虐待罪の重犯罪を犯した場合、10万ドル(日本円で約1,200万円)の罰金、
    または、5年以内の懲役、更に判決から15年間動物の飼育を禁止、動物虐待防止
    プログラムへの参加、保護された動物の治療費等必要経費の負担、精神科の
    カウンセリング受診が義務付けられる。 また、たくさんの州で動物虐待や
    飼育放棄などを犯罪として取り締まる法的権限を持った『アニマルポリス』と
    いう保護団体もあり、それ以外にも動物虐待を警察と同じ権限で取り締まる
    公的な機関などもある。

    【ドイツ】

    ドイツでは殺処分される犬猫はゼロとなっており、動物愛護に関しては、非常に
    熱心な国となっている。 やはり動物保護法も、一頭飼いの犬には、共同生活に
    対する犬の欲求を満たすために、毎日数度に渡って相当時間、飼い主と交流出来る
    ことが保証されねばならないとか、 身体の部分、とりわけ耳および尾を、特定
    犬種の特徴を完成するために完全もしくは部分的に切断された犬を展示することを
    禁ずるなど、細かく憲法で規定されている。 また、ドイツには犬税が導入
    されている。

    【スウェーデン】
    スウェーデン人の動物保護に対する意識は、非常に高く、犬を6時間以上人間の
    監視無しで置き去りにすることを禁止しており、犬をケージで飼うことも禁止。
    2回帝王切開した犬の繁殖の禁止など、厳しく規定されており、犬の保険加入率
    では、世界一となっている。

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    1600年代初期に、スウェーデン国王グスタヴ2世アドルフの軍事拡張策が成功して、
    スウェーデンはバルト海地方の大国になった。 ドイツとの三十年戦争(1618年~
    1648年)の際、国王は、勇猛な戦士だったフィンランド兵の戦闘の上手さに頼って、
    ドイツに出兵した。 スウェーデンは戦費を調達するために、フィンランド人をはじめ、
    領内の国民全てに過酷な税を課した。

    グスタヴ2世アドルフが1632年に死に、ただ1人の後継者、6歳の王女クリスティーナが
    王位に就いた。クリスティーナが成人になるまで、スウェーデン貴族アレクセル・
    オクセンチャールナは、やはり裕福な貴族で、競争相手の政治家ペール・ブラーヘ公の
    追い落としを図り、新設のフィンランド総督に任命してトゥルクに左遷した。

    ブラーヘ総統は、フィンランド人のために全力を尽くした。 スウェーデン語より
    フィンランド語を使うことを奨励し、聖書のフィンランド語完訳を開始した。 1640年には
    フィンランド最初の大学をトゥルクに創設した。 同じ頃、ブラーヘ総督は、ラーヘ市を
    オストロボスニア地方の西部地区の中心都市に決めた。

    Raateroad

    【紛争と改革】

    ブラーヘ総統が退任した1658年までに、スウェーデンには重大な変革が起きていた。
    摂政オクセンチャールナが死に、クリスティーナ女王が王位を放棄し、継承者の
    カール10世グスタヴは自国の領土拡大とロシアの拡大阻止のため、ポーランドと
    戦争をしていた。 スウェーデン軍がポーランドと交戦中、フィンランド人たちは侵攻
    して来たロシア軍を破った。 スウェーデンとロシアは1660年、フィンランド東部国境を
    設定し、ポーランドの一部とデンマークをスウェーデンの領土にするカルディス条約を
    結んだ。

    1672年、若いスウェーデン国王カール11世は、国王独裁を宣言し、伝統的に官僚と
    分担して来た権限を取り上げた。 また、フィンランドでスウェーデン語を広めて、
    スウェーデン文化との結び付きを強めた。 1686年にカール国王は、スウェーデンの
    ルター派教会をフィンランドのの公式の教会と決め、その監督を任命した。

    スウェーデン国王は、トゥルク教会の監督に、全フィンランドの人に読み書きを教える
    責任を課した。 監督と教区の司祭たちはが真剣に教えた結果、フィンランドは、ほぼ
    全住民が読み書き出来る国のひとつになった。

    読み書き能力の普及を除けば、1600年代末期のフィンランドには、大した進歩が
    なかった。 スウェーデンの支配者たちは、スウェーデンに兵士を提供し、税金を
    支払っているフィンランド人を、ますます省みなくなった。 更に、フィンランドは、
    1696年と1697年の大飢饉で、住民の3分の1が病気で死んだ。

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    15世紀と16世紀を通じて、フィンランド人は、スウェーデン国民として統合化して行った。
    フィンランド人は、自分たちをスウェーデン国王支配化の他の民族と同一だとみなしていた。
    この間に、スウェーデン語を話すフィンランド生まれの貴族が台頭し、フィンランド領内で
    権力を持つようになった。 地方の裁判所の判事や、スウェーデン国王のために、
    フィンランド領内の城を管理する役人になるフィンランド人もおり、スウェーデン国王政府に
    最高官吏として積極的に参加した。 フィンランド貴族達には、領内の財政を運用したり
    海軍を再興したりして、スウェーデン王国を補助した者もいる。 大勢のフィンランド人が
    スウェーデンの首都ストックホルムに住み働いた。

    agricola

    15世紀までにトゥルクの司教たちは、フィンランド人にローマカトリック教を布教し、多神教の
    フィンランド人は、次第に一神教のキリスト教に改宗して行った。 まだ大学がなかった
    16世紀には、フィンランドは優秀な子弟をヨーロッパ各地の教育、宗教の中心地に留学
    させた。 例えば、フィンランド人の学者ミカエル・アグリコラ(1510年~1557年) は、
    ドイツのウィッテンベルグの大学で学んでいる。

    アグリコラは、新約聖書をフィンランド語に翻訳し、また、フィンランド人にマルティン・ルターの
    革命的な宗教思想と新信教の宗教改革を紹介した。 この運動は、ローマカトリック教会の
    権威への挑戦だった。 16世紀に北ヨーロッパ各地で、プロテスタントのルター派が
    広まった。

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    西暦800年頃から、スウェーデン人ヴァイキングの艦隊は、東方のカレリア地方へ
    遠征する時、途中のフィンランド本土にもやって来た。 862年にヴァイキングは、
    後のロシア領ノヴゴロドとキエフの両市を交易の拠点にした。

    この商業を通じてカレリア人は、遥か南の、今のトルコにあったビザンチン帝国と
    往来した。 カレリア社会は、ビザンチン文化の影響を受けた。 例えば、数世紀に
    キリスト教がフィンランドに伝えられた時、カレリア人は、ビザンチン帝国と同じ正教派を
    採用した。

    西方では、12世紀までに王国を築いたスウェーデンの商人達が、スカンジナビア文化の
    影響をスオマライセット人とハマライセット人の慣習に与えて行った。 この時期の
    フィンランドは、統一を欠き、主な3つのグループが互いに戦っていたため、スウェーデンの
    結束した力に対抗する事が出来なかった。

    swedishlands

    【スウェーデンの支配】


    1155年にスウェーデンのエーリック国王は、多神教だったフィンランド人にローマ
    カトリックの進行を押し付けた。 また、フィンランド人によるスウェーデン沿岸の
    侵攻を止めさせようとした。 この2つの目的を達成するため、エーリック国王は、
    フィンランド南西部を征服した。 また、トゥルク(スウェーデン語ではオーボー)に
    伝道教区を設立し、イギリス出身のスウェーデンのウプサラ司教へンリーを責任者と
    した。

    13世紀には、スウェーデン人貴族のビルイェル・ヤールは、サルパウスセルカ丘陵の
    戦略地点に、ハメーンリンナ城を築いた。 ここは東西の交易路の中心地だった。
    スウェーデン人が東部フィンランドに支配を広げて行くと、当時既にノヴゴロド
    (現ロシア)を統治し、カレリア地方の領土権を主張するロシア人の反撃にあった。
    ロシア人は、フィンランドで正教の勢力を広めようとしていた。

    1323年、スウェーデンとロシアは、フィンランドを東西に分割するパハキナサーリ
    (現ロシア領ペトロクレポスト)条約に調印した。 スウェーデンは、カレリア地方の
    東部をロシアに割譲したが、両国の戦争は1351年まで続いた。 この年、両国は、
    スウェーデンにその後2世紀間のフィンランド支配を許す新条約を結んだ。

    平和な時代が来ると、多くのスウェーデン人は、フィンランドの西と南の海岸地帯に
    移住し、自国の法律、行政の制度をフィンランドに導入した。 トゥルクがフィンランドの
    中心地になり、スウェーデン語が特に農民、地方官吏、富裕層の間で話されるように
    なった。

    1300年代には、スウェーデン国王は、世襲制から議会による選出に変わっていた。
    1362年にスウェーデンはフィンランドに、議会に代表を送る権利を与えた。 この
    恩典は、スウェーデン政府がフィンランドを、海外領土ではなく、国内の一地方と
    考えていたことを意味した。



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    フィンランドの人口は510万人で、そのやく64%が南部に集中している都市に
    住んでおり、北部は人口が希薄になっている。 多くの中規模の街は、海岸沿いに
    あるが、その重要性は、首都ヘルシンキには及ばない。

    helsink

    【ヘルシンキ】

    ヘルシンキは、ウーシマー州の州会で、フィンランド湾に面したでこぼこな花崗岩の
    半島上にある。 沖合いの多数の島も含め、人口は93万人を超える。 文化活動の
    中心地で、博物館、美術館、各種の教育機関の他、主に造船、機械、陶磁器、繊維など
    大企業の本社がある。

    ヘルシンキの歴史は長く複雑で、隣国のスウェーデンとロシアとの関係が深い。
    両国は異なった時代にそれぞれフィンランドを支配した。 1808年の火災で、初期の
    定住地区が破壊した。 政府は1816年、ドイツ人建築家C.L.エンゲルを雇い市を
    再建した。 エンゲルは広い道路、大きな公園、高く白いビルの建つゆったりとした
    都市を建設した。 後年になって、首都の内部だけではなく、周辺にも住宅地区を
    沢山建設したが、地下鉄が都心部と郊外を結び、市内の交通混雑の緩和に
    役立っている。

    【その他の都市】


    タンペレ(人口17万6千)は、フィンランド第二の都市で、南部のハメ州の中心都市と
    なっている。 北側のナシ湖から南側のピュハ湖に注ぐ急流で、2地区に分断されている。
    1779年に都市の基盤が出来ると、1800年代には重要な工業都市に成長した。
    現在は、履物、皮革製品、繊維、金物類、紙を生産している。 大学と技術カレッジが
    それぞれ1校づつある。

    フィンランド最古の都市トゥルク(人口16万人)は、フィンランド第三の都市で、ボスニア湾の
    アウラ川の河口にあり、南西部の重要な港となっている。 製造業の中心地でもある。
    1800年代までフィンランドの首都であったトゥルクは、スウェーデンに非常に近いため、
    住民の約5%は主としてスウェーデン語を用いている。

    他にボスニア湾に面した重要な都市は、工業の中心地であるオウル(人口10万4千)、
    古い商業の街ポリ(人口7万6千)、ヴァーサ(人口5万5千)がある。 ヴァーサ市民の
    約3分の1は、第一言語がスウェーデン語となっている。

    スポーツ行事で有名なのが、バイヤンネ湖の南端にあるラハティ(人口9万4千)で、3月に
    冬のスポーツ大会が開かれ、国内外の人達が大勢集まる。 バイヤンネ湖の北端にある
    ユヴァスキュラ(人口7万2千)は、フィンランド中央部の森林地帯に近く、林業の中心地
    となっている。

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    フィンランド語でスオミと呼ばれるフィンランド共和国は、スカンジナビア半島とロシア
    連邦に挟まれた北ヨーロッパの国で、このような地理のため、フィンランドは領土を
    拡張しようとする近隣の大国から侵略されて来た。 フィンランドは、長い歴史の中で
    多くの戦争を経験し、国境は何度も変えられた。

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    国境を接するスウェーデンは、フィンランドを自分の国に組み入れて、13世紀半ばから
    1808年まで統治した。 1808年には、ロシア軍がフィンランドを征服したが、ロシア皇帝は、
    スウェーデンが制定した法律や行政制度は、そのままフィンランドに残した。

    フィンランドで文芸が栄えた19世紀に、フィンランド人の民族意識と文化を誇る気持ちが
    高まった。 民族主義運動を支えとしてフィンランド人は、ロシアの祖国完全併合の
    企てに抵抗した。 1917年に革命家達が、ソ連をつくる第一歩としてロシア帝政を倒すと、
    フィンランドは、ロシアの支配からの独立を宣言した。

    独立国となったフィンランドは、国境紛争、特にソ連との紛争に巻き込まれるのを避け
    ようと努力した。 だがフィンランドは、1939年にソ連に侵略されてしまい、中立政策を
    放棄しなければならなくなった。 それから1944年まで、ソ連はフィンランドに莫大な
    金と物資の賠償支払いを求め続けた。

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    それにも関わらず、フィンランド人たちは、第二次世界大戦後に産業を復興し近代化した。
    また、1950年代初めまでに、フィンランドはソ連に対する賠償支払いを完了した。 それ
    以来、フィンランドは近隣諸国と友好関係を維持することを最優先とした。 同時に
    フィンランドは、西ヨーロッパ諸国との通商上の協定も発展させた。 これらの努力に
    よって、1990年代半ばまでに経済は健全化し、フィンランド人の生活水準は非常に良く
    なった。

    政府は、国民所得の多くを教育や福祉にあてている。 1人あたりの所得も高く、
    このような数多くの利点を、フィンランド人はこれらも改善し守って行こうとして働いている。

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    スウェーデン政府は、壊れた物を修理に出すと税控除を受けられる制度を2017年
    1月から導入しようとしている。 電化製品、自転車から洗濯機、衣服や靴など、
    あらゆる物が対象となる。 修理を依頼する者も修理業者も税の優遇を受け
    られるため、この法案が可決されると、修理費用が大幅に抑えられ、修理をより
    合理的な経済活動へと変換出来ると期待されている。

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    スウェーデンでは何かを修理すると、その修理費に付加価値税が加算される
    システムを取っているが、2016年9月20日、スウェーデンの与党である社民党と
    環境党による連立政権は、自転車、衣服、靴などの修理に課される付加価値税の
    税率を25%から12%に下げる法案を議会に提出した。

    また、冷蔵庫、オーブン、食器洗い機、洗濯機といった家電を修理する業者は、
    その人件費の半分を所得税から還付してもらえるという法案も提出される予定と
    なっているため、もはや古くなったり、壊れたりした物を捨てて、新たに購入する
    ことは、環境に優しくないばかりか、余り合理的ではないのかも知れない。

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    この付加価値税の減税の実施後、400スウェーデンクローナ(約4,700円)
    相当の修理を依頼した場合、50スウェーデンクローナ(約600円)ほど修理費が安く
    なる計算となり、スウェーデンの修理産業を刺激するには十分な額となっている。
    また、修理産業を振興させることで、きちんとした教育を受けていない移民のための
    雇用の創出となることも期待されている。

    スウェーデンは、1990年比の年間二酸化炭素排出量をすでに23%削減しており、
    国内の電力の半分以上が再生可能エネルギーによって賄われている。  しかし、
    消費に関連する排出は着実に増加しており、無駄な消費や生産を減らして再活用
    しようという動きは、フランスやドイツでも広がりつつある。

    この法案は、政府の予算案として議会に提出され、12月に可決されれば、2017年
    1月から法律となる。 使い捨て文化は、廃棄物処理の問題もあるのだが、何よりも
    物を大事にするという精神を育てるという意味では、非常に活気的な法律だと言える。

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    1790年、フランスの将軍、ナポレオン・ボナパルトが登場し、1804年に
    皇帝ナポレオン1世と称して各国の征服を始めた。 デンマークは、当初、
    中立を守ったが、1807年、フランスの敵国イギリスは、デンマーク艦隊が
    ナポレオンの手に渡るのを恐れて、引渡しを要求した。 デンマークが拒否すると、
    イギリス海軍は、コペンハーゲンを砲撃して、デンマーク艦隊を摂取した。

    国王フレゼレグ6世は、フランスと同盟を結んで、イギリス他各国と戦った。
    1814年、スウェーデンがイギリス側に立ち、ユトランド半島に侵入して
    デンマーク軍を敗北させた。 1815年、ベルギーのワーテルローでのナポレオンの
    敗北によって、戦乱は終わりを告げた。

    戦乱後のキール協定で、デンマークは、スウェーデンにノルウェーを割譲したが、
    元ノルウェー植民地のフェロー諸島、アイスランド、グリーンランドは、
    デンマーク領となった。 戦争で経済が破綻したデンマークは、大国の地位を
    失った。 国民の多くは、国王が判断を誤ったために敗戦の憂き目を見たと
    思ったが、ただちに王権を縮小しようとはしなかった。

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    しかし、デンマーク領ホルスタイン在住のドイツ系住民は、独自の憲法を
    要求した。 1830年代に国王は、この要求に応えてホルスタイン、
    シュレスウィッヒ、ユトランド諸島群がそれぞれ別個の議会を開くのを認めた。
    4つの議会は立法権は持たなかったが、それぞれの地域の地主階級が意見を
    表明することは出来た。

    1840年代までに、人々は教育改革と議会制民主主義を要求するようになった。
    1814年、無償の義務教育制度が確立された。 1848年に国王となったフレゼレグ
    7世は、翌年6月5日、国王の権限を大幅に放棄した。 同じ日、国王は、新憲法に
    署名した。 これによって、一般投票による二院制議会制度が確立した。
    この憲法がはまた集会、信仰、出版の自由を保証した。

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    1588年、若くて人気のあるクリスティアン4世が王位に就いた。 王は、
    コペンハーゲンの市街を拡張し、株式交換所や、フレゼレグスボア城など、多くの
    華麗な建築物を建造させた。 しかし、クリスティアン4世の領土的な野望は、
    やがてこの国の財政を重く圧迫することになった。

    1611年、クリスティアン4世は、スウェーデンと戦争を始めたが、敗北の
    連続で、経費ばかりがかさんだ。 1613年から1618年に至る5年間の平和により、
    デンマークの経済力は回復した。 1618年にドイツで三十年戦争が始まると、
    クリスティアン4世とその軍隊は、ドイツのプロテスタント勢力を助けて、
    カトリックの軍と戦った。

    1626年、デンマーク軍は、ドイツのハルツ地方で大敗北を喫した。 3年後、
    ドイツのカトリック諸侯軍は、ユトランド半島を占領し、クリスティアン4世は、
    和議を結ばなければならなかった。 1643年、スウェーデンがデンマークを攻撃し、
    デンマークは、またもや敗北した。

    helsingborg

    1648年に講和条約が結ばれ、デンマークは、ゴットランド島をスウェーデンに
    返還し、現在スウェーデンの中央部となっているイェムトランとヘレダーレンを
    割譲した。 デンマーク海軍は壊滅し、貿易は衰退して国力は傾いた。 元老院は、
    クリスティアン4世の息子フレゼレグ3世を国王に選ぶに先立って、王権に厳しい
    制限を付け、勝手に戦争をする事を禁じた。 それにも関わらず、フレゼレグ
    3世は、1657年、失われた領土を回復しようとスウェーデンに攻撃を加えた。

    1658年、スウェーデン軍は氷結したエーレ海峡を渡ってデンマークに攻め込み、
    フレゼレグ3世は、講和を余儀なくされた。 その結果、デンマークは、
    ノルウェーのトロンヘイム地方を割譲した他、スコーネとボルンホルム島を
    スウェーデンに譲渡した。

    1660年、スウェーデンとの戦争が再度勃発し、オランダと同盟したデンマークが
    有利となった。 講和条約によってスウェーデンは、トロンヘイム地方と
    ボルンホルム島をデンマークに返還したが、スコーネなどエーレ海峡東岸地域は、
    最終的にスウェーデンの領土となった。

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    15世紀のカトリック教会は、権力が強く裕福だった。 教会は所有する地所と
    農地から莫大な利益を得ており、国内で生産される全ての穀物から一定の
    割合で金品を徴収していた。 高位の聖職者の殆どは、貴族の子弟で、
    それがますます裕福になって行くため、一般の人々は、教会に反発を
    抱き始めた。

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    1479年、クリスティアン1世は、教会から提供させた資金でコペンハーゲンに
    大学を創立した。 教会の権威に反抗する宗教改革の思想はこの大学から
    生まれた。 この思想の信奉者は、プロテスタントと呼ばれ、次第に勢力を
    拡大して行った。 この風潮に対応して、次の国王ハンスは、最初の国会を
    召集した。 この国会では、貴族や聖職者と並んで、一般市民が議席を
    与えられた。

    1513年に国王に選ばれたクリスティアン2世は、聖職者と貴族の勢力を
    抑えるのに努めた。 土地制度の改革が実行され、一般市民が王の顧問に
    任命された。 王はまた、スウェーデンに兵を送って、デンマークの権威の
    回復を図った。 1520年、王はスウェーデン貴族82人を処刑させた。

    スウェーデン人は、この虐殺に激怒し、本格的な氾濫が勃発した。 3年後には、
    スウェーデンは、独立を勝ち取り、スコーネなどわずかな地域だけが
    デンマークの支配下に残った。

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    クリスティアン2世の叔父フレゼレグ1世の時代には、プロテスタントの勢力は
    ますます盛んになった。 この国でのプロテスタントの主な支持者は、地位の
    低い聖職者と中流階級出身者だった。 1533年、フレゼレグ1世が死ぬと、
    宗教対立は絶頂に達した。 彼の息子たちのうち、カトリックのハンスと、
    プロテスタントのクリスティアンのどちらが王位に就くかを巡って国論は二分し、
    内乱が勃発した。

    クリスティアンが、1536年に勝利をおさめて国王のクリスティアン3世となり、
    プロテスタントの一派である福音派教会を国教と定めて、国王はその首長となった。
    クリスティアン3世は、カトリック教会の土地を没収して、王家の権力と財力を
    大いに増大させた。

    しかし、デンマークがスウェーデン、ロシア、ポーランドと次々に戦って、
    バルト海での勢力を拡大させようとしたため、財力はたちまち減少した。
    1563年から70年に掛けて、デンマークは、スウェーデンと北方七年戦争を
    戦ったが、一片の領土も確保出来なかった。

    その後デンマークは、16世紀末まで軍事から一切手を引いた。 平和の続いた
    30年の間に、この国から輸出される穀物と家畜の値段が上昇し、一般市民の
    生活が潤った。

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    クヌッド4世の弟ヴァルゼマール2世が1202年に国王になると、ドイツの
    諸侯との間で抗争が生じた。 ヴァイゼマール2世は、バルト海沿いの
    ドイツ騎士団と戦って、エストニア、メクレンブルク等各地を占領した。

    北ドイツの諸侯は、反撃を開始して、1223年、ヴァイゼマール2世を捕らえて
    監視した。 ヴァイゼマールは、自由を回復するため、征服した領土のうち、
    エストニアを除く大部分を放棄した。

    ヴァイゼマール2世が1241年に死ぬと、再び内戦が頻発した。 王族、貴族、
    聖職者達が権力抗争を始めたのである。 1282年、貴族達は、ヴァイゼマール
    2世の孫にあたる国王エーリック5世に強制して、王権を制限する憲章に
    署名させた。

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    1286年にエーリック5世の後を継いだ息子のエーリック6世メンヴェドは、
    北海とバルト海沿岸のドイツ商業都市の連合体であるハンザ同盟の勢力を抑え
    ようとした。 王はそのために、国土の一部を抵当に入れて軍備を調達した。
    スコーネまでがドイツ貴族の所有となった。

    1333年、スウェーデンはドイツのホルスタイン公からスコーネを買い取った。
    これは、デンマークへの重大な脅威と考えられた。 エーリック5世の孫
    ヴァイゼマール4世アッターダーは、1346年、エストニアをドイツ騎士団に
    売却し、その金で抵当に入れられていた国土を買い戻した。

    こうして力を付けた王は、1360年、スコーネをスウェーデンから回復し、翌年、
    ゴットランド島にあるハンザ同盟の有力都市、ヴィスビを占領した。 また、
    娘マルグレーテをノルウェー王ホーコン6世と結婚させた。

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