東京通詞 ~多言語のススメ~

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    タグ:スウェーデン

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    ハンソンは1945年に死んだが、T・エルランデルの下で社会民主党政権は続いた。
    1930年代から既に計画されていた福祉社会が戦後の改革によって実現した。
    新しい法律の下で、年金制度が改善され、子持ちの家族に対する給料、健康保険、
    住宅補助、教育改革等が次々と実施されて行った。 これらの資金源のために
    政府は、所得税の累進率を厳しくした。 高所得者には最も重い税金を掛けたため、
    スウェーデンには金持ちも貧乏人も殆んど居ないという社会が出来た。

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    国際的には、エルランデルは独立・中立の立場を取り、世界平和のために協力した。
    1946年国連に加盟、1953年~1961年の国連事務総長、ダグ・ハマーショルドは
    スウェーデン人である。 ハマーショルドは航空事故で死んだ。 1950年代
    初めには、スウェーデンはスカンジナビア5カ国間の協力を促進するための組織、
    北欧会議に参加している。

    国境を守るため強力な軍隊をつくったが、西欧の軍事同盟である北大西洋条約機構
    (NATO)には参加していない。 エルランデルは1969年まで、首相兼社会民主
    労働党党首だったが、その後、オロフ・ペルメが首相、党首共に後を継いだ。

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    急速な成長を遂げた時代で、スウェーデンとノルウェーは1814年以来の連合関係を
    維持していた。 しかし、ノルウェーの場合は、スウェーデンに比べて、議会が
    王室よりも遥かに大きな権力を持つようになり、そうした政治的な違いのため、
    両国間の連合関係は機能しなくなって来た。 そして1905年、スウェーデンの
    オスカル王はノルウェーの王冠を捨て、連合は平和的に解体した。 1900年代、
    大半の国民は生活が貧しく、大きな都市ではスラムの住民が多く見られた。
    工業化が進むに連れ、労働者の生活条件は悪くなる一方だった。

    1907年、グスタフ5世は、改革を求める圧力が高まったため、委員会を作って
    社会福祉の法整備の必要性を検討した。 1909年、24歳以上の全ての男性に
    投票権が与えられ、議員選出のための1人1票制度が実施された。 女性の投票権は
    1919年から認められた。 社会問題の解決に対する政府の関心が高まり、1913年に
    政府は初めて、老齢年金を引き上げ、犯罪に対する罰則を改正し、商店の営業
    時間を規制した。

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    【世界大戦】
    第一次世界大戦(1914年~1918年)がヨーロッパで勃発すると、スウェーデンは、
    ノルウェーやデンマークと同じように、中立を宣言した。 当初は、戦争のお陰で
    スウェーデンの産業は刺激を受け、戦争当事国への製品の輸出が大いに伸びたが、
    戦争が終わらないうちにスウェーデンは食糧不足になり、経済困難に陥った。

    社会主義者で労働界のリーダーであるヒャルマール・ブランティングが、戦後の
    実力者として政界に登場、平和的、かつ段階的な社会改革を主張して、一部の
    政治家グループが求める急激な変革に反対した。 1920年代初めには、経済も
    急速に回復を見せ、国は非常に繁栄した。

    ところが、1930年代には、世界的な不況の煽りでスウェーデンの経済も痛手を
    受けた。 そうした社会条件の悪化に反応して国民は始めて社会民主労働党の
    政府を選び、Pハンソンの指導の下に政権が誕生した。 ハンソンは、農民や
    労働者代表の議員達の支持を受け、生活改善のための福祉政策を実施した。

    しかし、幅広い福祉改革が実施されないうちに、第二次世界大戦(1939年~
    1945年)がヨーロッパで始まり、スウェーデンは再び中立を宣言した。 お陰で
    隣国のデンマークやノルウェーとは違って、戦争中のスウェーデンは侵略を免れ、
    紛争の部外者としての立場を維持出来たのである。

    戦時中は資源を有効に使うためスウェーデン政府は、民営産業の統制、管理を
    強化した。 スウェーデンはまた、人道的な努力の一環として、戦争犠牲者の
    難民受け入れにもひと役買い、ユダヤ人をはじめ、ノルウェー人、デンマーク人、
    フィンランド人、その他、バルト海の近くに住む人達に援助の手を差し伸べた。
    ナチの処刑室から2万人のハンガリー系ユダヤ人を救い出したスウェーデンの外交官
    Rワーレンベルイの話は有名である。 戦争が終わると、スウェーデンは
    ノルウェーとデンマークになかりの経済援助を与えた。

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    1800年代は、スウェーデン全土に渡って貧困の時代だった。 ヨーロッパの他の
    国々と同じように、スウェーデンも平和な時期には出生率が上昇、またジャガイモを
    食糧源としたことや、保健衛生の条件が改善されたことで、人口はますます増えた。
    時には、食糧の自給率を上回るペースで人口が増大した。

    スウェーデンの人口は1815年の250万人から、1845年の330万人、1900年までには
    510万人と増えて行った。 1840年から1900年に掛けて85万人が国外へ移住
    したが、これは貧困のためで、行き先は主としてアメリカだった。 スウェーデン
    移民の多くは、アメリカ北中部のミネソタ、イリノイ等に住み着いた。

    同時期、スウェーデン社会に大きな影響を与えるもうひとつの大きな変化が
    起こった。 1800年代末になると、貿易業者や労働者の連合組合が出来出した
    のである。 当時、投票権を持っているのは人口の10%に満たなかった。
    これらの労働組織は、政治的な不満の捌け口にもなった。 労働運動の中では
    労働者の教育の問題も重視され、学校や各種の訓練プランが組合によって作られた。
    1890年代になると、多くのこうした労働者グループを政治的に統合した新しい
    『社会民主労働党』が生まれた。

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    【工業化】
    経済的に色々な問題を抱えながらも19世紀後半、スウェーデンは目覚しい工業化を
    達成した。 スウェーデン人科学者、アルフレット・ノーベルによるダイナマイトの
    発明がなかったら、世界の開発はどれだけ遅れたことか。 ダイナマイトのお陰で、
    スウェーデン自身、道路や鉄路が発達し、そうした交通網の整備されたところへ
    外国資本が加わって、スウェーデンの工業化が促進された。

    製造業が盛んになると雇用が増え、国外への移住者も減り出した。 スウェーデン産
    木材に対する外国からの需要が増えたため、林業も栄え、ノルランドの原生林が
    重要な供給源になった。 スウェーデンはパルプ紙の生産技術をはじめ、鉄鉱石から
    鉄を取り出す技術、良質の鉄鋼生産技術を開発、他のヨーロッパ諸国は
    スウェーデンの鉄鋼を大量に輸入した。 一方、スウェーデン自身も、これらの
    材料から新しい工業製品を作り出し、また多くの消費財も生産し始めた。

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    13世紀、エストニアは、ドイツ騎士団の支配下に置かれた。 19世紀まで、
    都市部ではドイツ貴族が、地方では、ドイツの地主が、上層階級として支配
    していた。 彼らは、言語は違うが、父権主義的な社会を形成していた。
    宗教改革以来、プロテスタント信仰が彼らとエストニアの農民たちを結び
    付けていたのである。

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    1710年にエストニアは、スウェーデンとの北方戦争に勝利を収めたピョートル
    大帝によって征服され、他のバルト諸国同様、第一次世界大戦までロシアの
    一部であった。 その後1920年、帝政の崩壊の時代にエストニアは独立した。
    1939年のヒットラー・スターリン会談では、2人の独裁者の利害によって、
    東部中央ヨーロッパにおける国境問題が話し合われ、その結果、エストニアは、
    ソ連の勢力範囲に入れられ、それを受けて、この地域は、1940年に赤軍の手に
    渡った。

    その後、外部から差し向けられた政府が、憲法と選挙権に反した『選挙』を
    指導し、8月6日には、ソ連に併合された。 その後、工業施設や農業用地が
    収用され、6万人近くのエストニア人が追放された。 1941年にドイツ軍が
    進撃して来た際には、少なからずの人々がソ連への隷属から解放してくれたと
    感じた。

    1944年以降、エストニアは、再びソ連の支配下に戻り、その経済構造や社会
    秩序はソビエト化された。 経済の構造は、農業の集団化と、それと平行して
    行われた工業の国営化によって、根本的に変わった。 また、多くのロシア人が、
    工業開発の人材要員として、また、幹部などの上層階級として次々と移住して
    来た。

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    【目覚めた民族意識と翻る国旗】
    1989年秋、エストニアのソビエト最高会議は、これ以降、エストニアの法律は、
    ソ連の法律に優先し、連邦の法律は、エストニア議会の承認、あるいは、修正を
    経て初めて効力を発すると宣言した。

    段階的に進められて来たエストニア独立は、1990年に独立宣言を採択したことで
    決定的になった。 モスクワでゴルバチョフの改革に反対したクーデターが失敗
    した直後の1991年8月21日、エストニアは、最終的に独立を宣言した。 そして、
    それは同年9月6日、ソビエト国家評議会によって承認された。

    この日、エストニアは独立への長い道のりのクライマックスを迎え、首都タリン
    では、独立国家エストニアの国旗である、青、黒、白の旗が高々と掲げられた。

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    日本の動物保護の法制度は、世界でも稀に見るぐらいに規制が少なく、残酷な
    動物実験や動物虐待に対する罰則も特にない。 各国の動物保護法や国際学会等
    では、苦痛を与える実験に関しては、最も厳しい規制がある。 各国の規制は
    法律による規制であり、日本で言うところの任意の自主規制とは全く異っている。

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    特に欧米諸国では動物愛護活動が非常に盛んに行われており、その中でもイギリスが
    最も先進的と言われている。 動物愛護において、日本は少なからずイギリスからの
    影響を受けており、1973年には、エリザベス女王が来日した際に、ペットに関する
    法整備を急いで進めたという過去の出来事もそれを象徴している。 しかし、日本は
    動物愛護に関しては、イギリスよりも100年以上も遅れているとも言われており、
    動物愛護後進国となっている。

    イギリスも昔は動物虐待が日常的だった
     
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    【イギリス】
    イギリスでは、犬は生涯6回までしか出産させてはならず、ペットショップも
    免許制など、こと細かに法律で定められている。 また、動物虐待防止のための
    王立組織である『RSPCA』が1824年に設立され、さまざまな動物を守る活動が
    行われている。 市民から通報が寄せられると、警察官と共に現場へ出動し、
    改善指導を行なったり、虐待者を裁判に掛けるというシステムも整っている。

    【アメリカ】
    アメリカは州によっても異なるが、例えば、オレゴン州の場合、一番重い動物
    虐待罪の重犯罪を犯した場合、10万ドル(日本円で約1,200万円)の罰金、
    または、5年以内の懲役、更に判決から15年間動物の飼育を禁止、動物虐待防止
    プログラムへの参加、保護された動物の治療費等必要経費の負担、精神科の
    カウンセリング受診が義務付けられる。 また、たくさんの州で動物虐待や
    飼育放棄などを犯罪として取り締まる法的権限を持った『アニマルポリス』と
    いう保護団体もあり、それ以外にも動物虐待を警察と同じ権限で取り締まる
    公的な機関などもある。

    【ドイツ】

    ドイツでは殺処分される犬猫はゼロとなっており、動物愛護に関しては、非常に
    熱心な国となっている。 やはり動物保護法も、一頭飼いの犬には、共同生活に
    対する犬の欲求を満たすために、毎日数度に渡って相当時間、飼い主と交流出来る
    ことが保証されねばならないとか、 身体の部分、とりわけ耳および尾を、特定
    犬種の特徴を完成するために完全もしくは部分的に切断された犬を展示することを
    禁ずるなど、細かく憲法で規定されている。 また、ドイツには犬税が導入
    されている。

    【スウェーデン】
    スウェーデン人の動物保護に対する意識は、非常に高く、犬を6時間以上人間の
    監視無しで置き去りにすることを禁止しており、犬をケージで飼うことも禁止。
    2回帝王切開した犬の繁殖の禁止など、厳しく規定されており、犬の保険加入率
    では、世界一となっている。

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    1600年代初期に、スウェーデン国王グスタヴ2世アドルフの軍事拡張策が成功して、
    スウェーデンはバルト海地方の大国になった。 ドイツとの三十年戦争(1618年~
    1648年)の際、国王は、勇猛な戦士だったフィンランド兵の戦闘の上手さに
    頼って、ドイツに出兵した。 スウェーデンは戦費を調達するために、
    フィンランド人をはじめ、領内の国民全てに過酷な税を課した。

    グスタヴ2世アドルフが1632年に死に、ただ1人の後継者、6歳の王女
    クリスティーナが王位に就いた。クリスティーナが成人になるまで、スウェーデン
    貴族アレクセル・オクセンチャールナは、やはり裕福な貴族で、競争相手の政治家
    ペール・ブラーヘ公の追い落としを図り、新設のフィンランド総督に任命して
    トゥルクに左遷した。

    ブラーヘ総統は、フィンランド人のために全力を尽くした。 スウェーデン語より
    フィンランド語を使うことを奨励し、聖書のフィンランド語完訳を開始した。
    1640年にはフィンランド最初の大学をトゥルクに創設した。 同じ頃、ブラーヘ
    総督は、ラーヘ市をオストロボスニア地方の西部地区の中心都市に決めた。

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    【紛争と改革】
    ブラーヘ総統が退任した1658年までに、スウェーデンには重大な変革が起きて
    いた。 摂政オクセンチャールナが死に、クリスティーナ女王が王位を放棄し、
    継承者のカール10世グスタヴは自国の領土拡大とロシアの拡大阻止のため、
    ポーランドと戦争をしていた。 スウェーデン軍がポーランドと交戦中、
    フィンランド人たちは侵攻して来たロシア軍を破った。 スウェーデンと
    ロシアは1660年、フィンランド東部国境を設定し、ポーランドの一部と
    デンマークをスウェーデンの領土にするカルディス条約を結んだ。

    1672年、若いスウェーデン国王カール11世は、国王独裁を宣言し、伝統的に
    官僚と分担して来た権限を取り上げた。 また、フィンランドでスウェーデン語を
    広めて、スウェーデン文化との結び付きを強めた。 1686年にカール国王は、
    スウェーデンのルター派教会をフィンランドのの公式の教会と決め、その監督を
    任命した。

    スウェーデン国王は、トゥルク教会の監督に、全フィンランドの人に読み書きを
    教える責任を課した。 監督と教区の司祭たちはが真剣に教えた結果、
    フィンランドは、ほぼ全住民が読み書き出来る国のひとつになった。

    読み書き能力の普及を除けば、1600年代末期のフィンランドには、大した進歩が
    なかった。 スウェーデンの支配者たちは、スウェーデンに兵士を提供し、税金を
    支払っているフィンランド人を、ますます省みなくなった。 更に、
    フィンランドは、1696年と1697年の大飢饉で、住民の3分の1が病気で死んだ。

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    15世紀と16世紀を通じて、フィンランド人は、スウェーデン国民として統合化
    して行った。 フィンランド人は、自分たちをスウェーデン国王支配化の他の
    民族と同一だとみなしていた。 この間に、スウェーデン語を話すフィンランド
    生まれの貴族が台頭し、フィンランド領内で権力を持つようになった。

    地方の裁判所の判事や、スウェーデン国王のために、フィンランド領内の城を
    管理する役人になるフィンランド人もおり、スウェーデン国王政府に最高官吏
    として積極的に参加した。 フィンランド貴族達には、領内の財政を運用したり
    海軍を再興したりして、スウェーデン王国を補助した者もいる。 大勢の
    フィンランド人がスウェーデンの首都ストックホルムに住み働いた。

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    15世紀までにトゥルクの司教たちは、フィンランド人にローマカトリック教を
    布教し、多神教のフィンランド人は、次第に一神教のキリスト教に改宗して行った。
    まだ大学がなかった16世紀には、フィンランドは優秀な子弟をヨーロッパ各地の
    教育、宗教の中心地に留学させた。 例えば、フィンランド人の学者ミカエル・
    アグリコラ(1510年~1557年) は、ドイツのウィッテンベルグの大学で
    学んでいる。

    アグリコラは、新約聖書をフィンランド語に翻訳し、また、フィンランド人に
    マルティン・ルターの革命的な宗教思想と新信教の宗教改革を紹介した。 この
    運動は、ローマカトリック教会の権威への挑戦だった。 16世紀に北ヨーロッパ
    各地で、プロテスタントのルター派が広まった。

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    西暦800年頃から、スウェーデン人ヴァイキングの艦隊は、東方のカレリア地方へ
    遠征する時、途中のフィンランド本土にもやって来た。 862年にヴァイキングは、
    後のロシア領ノヴゴロドとキエフの両市を交易の拠点にした。

    この商業を通じてカレリア人は、遥か南の、今のトルコにあったビザンチン帝国と
    往来した。 カレリア社会は、ビザンチン文化の影響を受けた。 例えば、数世紀に
    キリスト教がフィンランドに伝えられた時、カレリア人は、ビザンチン帝国と同じ
    正教派を採用した。

    西方では、12世紀までに王国を築いたスウェーデンの商人達が、スカンジナビア
    文化の影響をスオマライセット人とハマライセット人の慣習に与えて行った。
    この時期のフィンランドは、統一を欠き、主な3つのグループが互いに戦って
    いたため、スウェーデンの結束した力に対抗する事が出来なかった。

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    【スウェーデンの支配】

    1155年にスウェーデンのエーリック国王は、多神教だったフィンランド人にローマ
    カトリックの進行を押し付けた。 また、フィンランド人によるスウェーデン沿岸の
    侵攻を止めさせようとした。 この2つの目的を達成するため、エーリック国王は、
    フィンランド南西部を征服した。 また、トゥルク(スウェーデン語ではオーボー)
    に伝道教区を設立し、イギリス出身のスウェーデンのウプサラ司教へンリーを
    責任者とした。

    13世紀には、スウェーデン人貴族のビルイェル・ヤールは、サルパウスセルカ丘陵の
    戦略地点に、ハメーンリンナ城を築いた。 ここは東西の交易路の中心地だった。
    スウェーデン人が東部フィンランドに支配を広げて行くと、当時既にノヴゴロド
    (現ロシア)を統治し、カレリア地方の領土権を主張するロシア人の反撃にあった。
    ロシア人は、フィンランドで正教の勢力を広めようとしていた。

    1323年、スウェーデンとロシアは、フィンランドを東西に分割するパハキナサーリ
    (現ロシア領ペトロクレポスト)条約に調印した。 スウェーデンは、カレリア
    地方の東部をロシアに割譲したが、両国の戦争は1351年まで続いた。 この年、
    両国は、スウェーデンにその後2世紀間のフィンランド支配を許す新条約を結んだ。

    平和な時代が来ると、多くのスウェーデン人は、フィンランドの西と南の海岸地帯に
    移住し、自国の法律、行政の制度をフィンランドに導入した。 トゥルクが
    フィンランドの中心地になり、スウェーデン語が特に農民、地方官吏、富裕層の
    間で話されるようになった。

    1300年代には、スウェーデン国王は、世襲制から議会による選出に変わっていた。
    1362年にスウェーデンはフィンランドに、議会に代表を送る権利を与えた。 この
    恩典は、スウェーデン政府がフィンランドを、海外領土ではなく、国内の一地方と
    考えていたことを意味した。

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    フィンランドの人口は510万人で、そのやく64%が南部に集中している都市に
    住んでおり、北部は人口が希薄になっている。 多くの中規模の街は、
    海岸沿いにあるが、その重要性は、首都ヘルシンキには及ばない。

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    【ヘルシンキ】
    ヘルシンキは、ウーシマー州の州会で、フィンランド湾に面したでこぼこな
    花崗岩の半島上にある。 沖合いの多数の島も含め、人口は93万人を超える。
    文化活動の中心地で、博物館、美術館、各種の教育機関の他、主に造船、機械、
    陶磁器、繊維など大企業の本社がある。

    ヘルシンキの歴史は長く複雑で、隣国のスウェーデンとロシアとの関係が深い。
    両国は異なった時代にそれぞれフィンランドを支配した。 1808年の火災で、
    初期の定住地区が破壊した。 政府は1816年、ドイツ人建築家C.L.エンゲルを
    雇い市を再建した。 エンゲルは広い道路、大きな公園、高く白いビルの建つ
    ゆったりとした都市を建設した。 後年になって、首都の内部だけではなく、
    周辺にも住宅地区を沢山建設したが、地下鉄が都心部と郊外を結び、市内の
    交通混雑の緩和に役立っている。

    【その他の都市】

    タンペレ(人口17万6千)は、フィンランド第二の都市で、南部のハメ州の中心
    都市となっている。 北側のナシ湖から南側のピュハ湖に注ぐ急流で、2地区に
    分断されている。 1779年に都市の基盤が出来ると、1800年代には重要な
    工業都市に成長した。 現在は、履物、皮革製品、繊維、金物類、紙を生産して
    いる。 大学と技術カレッジがそれぞれ1校づつある。

    フィンランド最古の都市トゥルク(人口16万人)は、フィンランド第三の都市で、
    ボスニア湾のアウラ川の河口にあり、南西部の重要な港となっている。 製造業の
    中心地でもある。 1800年代までフィンランドの首都であったトゥルクは、
    スウェーデンに非常に近いため、住民の約5%は主としてスウェーデン語を
    用いている。

    他にボスニア湾に面した重要な都市は、工業の中心地であるオウル(人口
    10万4千)、古い商業の街ポリ(人口7万6千)、ヴァーサ(人口5万5千)がある。
    ヴァーサ市民の約3分の1は、第一言語がスウェーデン語となっている。

    スポーツ行事で有名なのが、バイヤンネ湖の南端にあるラハティ(人口9万4千)で、
    3月に冬のスポーツ大会が開かれ、国内外の人達が大勢集まる。 バイヤンネ湖の
    北端にあるユヴァスキュラ(人口7万2千)は、フィンランド中央部の森林地帯に
    近く、林業の中心地となっている。

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    フィンランド語でスオミと呼ばれるフィンランド共和国は、スカンジナビア半島と
    ロシア連邦に挟まれた北ヨーロッパの国で、このような地理のため、フィンランドは
    領土を拡張しようとする近隣の大国から侵略されて来た。 フィンランドは、長い
    歴史の中で多くの戦争を経験し、国境は何度も変えられた。

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    国境を接するスウェーデンは、フィンランドを自分の国に組み入れて、13世紀
    半ばから1808年まで統治した。 1808年には、ロシア軍がフィンランドを征服
    したが、ロシア皇帝は、スウェーデンが制定した法律や行政制度は、そのまま
    フィンランドに残した。

    フィンランドで文芸が栄えた19世紀に、フィンランド人の民族意識と文化を誇る
    気持ちが高まった。 民族主義運動を支えとしてフィンランド人は、ロシアの祖国
    完全併合の企てに抵抗した。 1917年に革命家達が、ソ連をつくる第一歩として
    ロシア帝政を倒すと、フィンランドは、ロシアの支配からの独立を宣言した。

    独立国となったフィンランドは、国境紛争、特にソ連との紛争に巻き込まれるのを
    避けようと努力した。 だがフィンランドは、1939年にソ連に侵略されてしまい、
    中立政策を放棄しなければならなくなった。 それから1944年まで、ソ連は
    フィンランドに莫大な金と物資の賠償支払いを求め続けた。

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    それにも関わらず、フィンランド人たちは、第二次世界大戦後に産業を復興し
    近代化した。 また、1950年代初めまでに、フィンランドはソ連に対する賠償
    支払いを完了した。 それ以来、フィンランドは近隣諸国と友好関係を維持する
    ことを最優先とした。 同時にフィンランドは、西ヨーロッパ諸国との通商上の
    協定も発展させた。 これらの努力によって、1990年代半ばまでに経済は健全化し、
    フィンランド人の生活水準は非常に良くなった。

    政府は、国民所得の多くを教育や福祉にあてている。 1人あたりの所得も高く、
    このような数多くの利点を、フィンランド人はこれらも改善し守って行こうとして
    働いている。

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    スウェーデン政府は、壊れた物を修理に出すと税控除を受けられる制度を
    2017年1月から導入しようとしている。 電化製品、自転車から洗濯機、
    衣服や靴など、あらゆる物が対象となる。 修理を依頼する者も修理業者も
    税の優遇を受けられるため、この法案が可決されると、修理費用が大幅に
    抑えられ、修理をより合理的な経済活動へと変換出来ると期待されている。

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    スウェーデンでは何かを修理すると、その修理費に付加価値税が加算される
    システムを取っているが、2016年9月20日、スウェーデンの与党である社民党と
    環境党による連立政権は、自転車、衣服、靴などの修理に課される付加価値税の
    税率を25%から12%に下げる法案を議会に提出した。

    また、冷蔵庫、オーブン、食器洗い機、洗濯機といった家電を修理する業者は、
    その人件費の半分を所得税から還付してもらえるという法案も提出される予定と
    なっているため、もはや古くなったり、壊れたりした物を捨てて、新たに購入する
    ことは、環境に優しくないばかりか、余り合理的ではないのかも知れない。

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    この付加価値税の減税の実施後、400スウェーデンクローナ(約4,700円)
    相当の修理を依頼した場合、50スウェーデンクローナ(約600円)ほど修理費が
    安くなる計算となり、スウェーデンの修理産業を刺激するには十分な額と
    なっている。 また、修理産業を振興させることで、きちんとした教育を
    受けていない移民のための雇用の創出となることも期待されている。

    スウェーデンは、1990年比の年間二酸化炭素排出量をすでに23%削減しており、
    国内の電力の半分以上が再生可能エネルギーによって賄われている。  しかし、
    消費に関連する排出は着実に増加しており、無駄な消費や生産を減らして再活用
    しようという動きは、フランスやドイツでも広がりつつある。

    この法案は、政府の予算案として議会に提出され、12月に可決されれば、2017年
    1月から法律となる。 使い捨て文化は、廃棄物処理の問題もあるのだが、何よりも
    物を大事にするという精神を育てるという意味では、非常に活気的な法律だと
    言える。

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    1790年、フランスの将軍、ナポレオン・ボナパルトが登場し、1804年に
    皇帝ナポレオン1世と称して各国の征服を始めた。 デンマークは、当初、
    中立を守ったが、1807年、フランスの敵国イギリスは、デンマーク艦隊が
    ナポレオンの手に渡るのを恐れて、引渡しを要求した。 デンマークが拒否すると、
    イギリス海軍は、コペンハーゲンを砲撃して、デンマーク艦隊を摂取した。

    国王フレゼレグ6世は、フランスと同盟を結んで、イギリス他各国と戦った。
    1814年、スウェーデンがイギリス側に立ち、ユトランド半島に侵入して
    デンマーク軍を敗北させた。 1815年、ベルギーのワーテルローでのナポレオンの
    敗北によって、戦乱は終わりを告げた。

    戦乱後のキール協定で、デンマークは、スウェーデンにノルウェーを割譲したが、
    元ノルウェー植民地のフェロー諸島、アイスランド、グリーンランドは、
    デンマーク領となった。 戦争で経済が破綻したデンマークは、大国の地位を
    失った。 国民の多くは、国王が判断を誤ったために敗戦の憂き目を見たと
    思ったが、ただちに王権を縮小しようとはしなかった。

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    しかし、デンマーク領ホルスタイン在住のドイツ系住民は、独自の憲法を
    要求した。 1830年代に国王は、この要求に応えてホルスタイン、
    シュレスウィッヒ、ユトランド諸島群がそれぞれ別個の議会を開くのを認めた。
    4つの議会は立法権は持たなかったが、それぞれの地域の地主階級が意見を
    表明することは出来た。

    1840年代までに、人々は教育改革と議会制民主主義を要求するようになった。
    1814年、無償の義務教育制度が確立された。 1848年に国王となったフレゼレグ
    7世は、翌年6月5日、国王の権限を大幅に放棄した。 同じ日、国王は、新憲法に
    署名した。 これによって、一般投票による二院制議会制度が確立した。
    この憲法がはまた集会、信仰、出版の自由を保証した。

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