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日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:スイス

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    スイスの作家ヨハンナ・シュピリ原作の『ハイジ』を実写版で忠実に再現。
    日本では『アルプスの少女ハイジ』以来、約40年振りとなる。 『ハイジ』が
    書かれたのは1880年で、今から約135年も前の話で、今も変わらぬ人を
    思い遣る心は、子供に読ませたい古典童話ナンバーワンとなっている。

     

    【ストーリー】
    アルプスの山の大自然に囲まれ、ガンコだけれど優しい祖父や、麓に住む
    ヤギ飼いのペーターと楽しく暮らしていたハイジ。ところがある日突然、
    大富豪のお嬢様のクララの話し相手として、フランクフルトの都会へ連れて
    行かれることになります。 足が悪く車いす生活を送っていたクララは、
    明るく素直なハイジに励まされ、元気を取り戻して行きます。

    やがてハイジとクララは固い友情で結ばれますが、ハイジは日に日に山へ
    帰りたいという想いが強くなって行くのでした。 そんな時、お屋敷では
    幽霊騒動が持ち上がります。 夢遊病と診断されたハイジは、山へと帰って
    行きますが、その後、ハイジを追って、クララも山へやって来ます。
    アルプスの山々や雄大な自然に囲まれて、次第に元気を取り戻すクララは、
    遂に立つことが出来るようになります。

    【アルムおんじの暗い過去】


    原作にしか書かれていないアルムおんじの暗い過去とは、殺人だった。。
    広大な土地を持つ裕福な家に生まれたアルムおんじは、若い頃から気性が
    荒く、飲んだくれた挙句の果てに、賭け事で身を滅ぼしてしまう。 全ての
    土地と家を取り上げられて、おんじの両親は、悲しみの余り、相次いで
    亡くなります。 泣く泣く故郷を離れる事となったおんじは、ナポリで
    外国人の傭兵に就きます。 そこで些細な事が切っ掛けとなり、人を
    殴り殺してしまいます。 そのまま軍隊を逃げ出し、人知れず身を隠して
    15年ほど生活をし、ようやく結婚もしたところ、すぐに奥さんを亡くして
    しまいます。 ハイジの父親である息子も事故で亡くしてしまい、
    その後、その事故が原因で、ハイジの母親のアーデルハイドもすっかりと
    体調を崩してしまい、やがて亡くなってしまいます。 こうして、
    アルムおんじは、人里離れて山奥で1人暮らす事となったのです。 

    【マイエンフェルト】

    実際にスイスにあるハイジの山小屋は、この映画とは似てはおらず、日本の
    アニメと全く同じなのだが、丸太をくり抜いた窓は、今では、サッシに
    なっているものの、それ以外は、アニメそのまま。 ハイジの山小屋は、
    スイスのマイエンフェルトに実際にあります。

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    国連と米コロンビア大学は、2017年3月20日、世界155の国や地域を対象にした
    世界幸福度ランキングを発表した。

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    報告書の幸福度ランキングでは、ノルウェーがデンマークを抜いてトップ、
    日本は昨年度からランクを2つ上げて51位だった。 一方、サハラ以南諸国と
    シリア、イエメンが下位となった。

    【トップ10の国】

    ②デンマーク
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    ③アイスランド
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    ④スイス
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    ⑤フィンランド
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    ⑥オランダ
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    ⑦カナダ
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    ⑧ニュージーランド
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    ⑨オーストラリア
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    ⑩スウェーデン
    39e9bf793e

    この他、ドイツ16位、英国19位、フランス31位、米国14位だった。
    日本は51位、シンガポール26位、タイ32位、台湾33位などとなった。

    【ワースト10の国】
    146位 イエメン
    147位 南スーダン
    148位 リベリア
    149位 ギニア
    150位 トーゴ
    151位 ルワンダ
    152位 シリア
    153位 タンザニア
    154位 ブルンジ
    155位 中央アフリカ共和国

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    1815年のウィーン会議で、ナポレオンに占領されていたジュネーヴ、バレー、
    ヌーシャテルの旧同盟州が新たにスイス連邦に加わえられることが決定され、
    22州の連邦が成立する。 この時、スイスの永世中立と独立も承認された。

    ウィーン会議では、スイス憲法の問題は取り上げられなかった。 ナポレオンの
    敗退後、スイス憲法は効力を失い、スイスの領土は殆んど2、3の有力な家に
    よって支配され、半ば独立した州(カントン)のゆるやかな連合体に戻った。

    工場労働者や農民から、政府の民主化に強化する要求が盛んに出され、それに
    連れて再び宗教と社会の対立が激しくなった。 1880年代になると、改革運動が
    強まり、政府が倒される州もあった。

    1834年に、最も自由な都市州において、教会の所有する土地への課税、信仰の
    自由、教会から独立した公立学校制度を要求する運動が高まった。 これに
    反感を抱いた保守的なカトリック派の7州が同盟を結んで、この運動に対抗した。
    連邦政府は、同盟の解散を命じるが、7州が拒絶したため、1847年に、3週間に
    渡って内乱が起きた。 7州の同盟軍は敗北し、翌年、新憲法が制定された。

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    【1848年憲法】
    新憲法は、州と連邦政府間の権限を慎重に分けるものだった。 将来ヨーロッパで
    いかなる紛争が起きても、スイスの中立を守るため、外敵の攻撃に備える軍隊と
    防衛制度を区別する条項が盛り込まれた。 更に、商取引の効率を上げるため、
    慣習と度量衡と通貨にそれぞれ同一の基準が設けられた。

    新憲法によって、スイスが抱えていた最もやっかいな政治上の問題が解決し、
    経済活動に集中出来るようになった。 その結果、19世紀中頃には、景気が著しく
    向上した。 自由貿易政策により貿易が増大し、産業も発展した。 スイスは、
    貿易相手国がスイスからの輸入品に関税を掛けなかった。 スイスは、小国だが、
    自由貿易の政策のお陰で、外国に多くの市場を獲得出来たのである。

    政府の制約を受けないスイスの商業は、瞬く間に発展した。 教育を受けた
    商人階級と政府の力で、政界の産業界と市場の変化にうまく対応することが出来た。

    自国の製品を輸出するため、鉄道と道路網が整えられ、生産性を高めるため
    機械化して、諸外国と有利な通商協定を結んだ。 スイスの繁栄には観光も
    役立った。 アルプスの雄大な自然を求めて、外国から大勢の人々が観光や
    保養にやって来たからである。

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    経済活動が拡大するにつれて、同盟内の社会的対立が増大し、表面に現れて
    来た。 ジュネーヴ、ベルン、ルツェルンでは、小作人たちが移住して来て
    人口が増え、社会は極めて不安定な状態となった。

    Malmaison

    富裕な支配層が、新たに増えた自由市民の権利を認めなかったため、市民は
    参政権を与えなければ税金を払わないと抵抗した。 それと同時に、カトリックと
    プロテスタントの間でも、時折、小競り合いが生じていた。 1798年にフランスで
    革命が起こり、その影響は全ヨーロッパに及んだが、特にスイスの受けた影響は
    大きかった。 革命の後、司令官ナポレオンが率いるフランス軍は、スイスを
    侵略する。 ナポレオンは州の自治体制を廃止して、新しい中央政府を樹立させ、
    スイスをヘルベチア共和国と名付けた。

    フランスが制定した新しいスイス憲法によって、諸侯は、権力を失った。 更に、
    それまで都市諸州を支配していた封建商人の権力も弱まった。 スイス人は、
    新憲法を支持したが、フランスによる占領には強く反対した。

    フランスによって樹立された中央政権的な政府は、民族も宗教も文化も州に
    よって大いに異なるスイスの国情に合わず、すぐに混乱をきたした。

    20FR1935

    混乱をおさめるため、1803年にナポレオンは、各州の代表をパリに集めて、
    調停条約を結ばせ、憲法を改正させた。 この条約に基づいて、各州に自治権を
    認める連邦制が出来上がった。 連邦政府は、外交や軍事、通貨を定め、戦いと
    和平を司った。

    この時、新たに6州に自治権が与えられ、合計19州からなる連邦制が成立した。
    また、条約は、市民は法の前で平等に取り扱われなくてはならないと規定した。
    これによって、スイスの封建制度は、永久に終わりを告げたのである。

    このようにな改革を実現してくれたことへのお返しとして、スイスは、自国の
    兵士をフランス軍に提供することに同意した。 だが、1815年に、ナポレオンが
    ヨーロッパ連合軍に敗北して統率力がなくなると、スイス新憲法は、たちまち
    効力を失った。

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    16世紀に宗教改革を成し遂げたことによって、スイス同盟の結束は強化され、
    その世紀末には、同盟は13州に増えた。 ヨーロッパの他の国々では、新教と
    旧教の対立が切っ掛けで、三十年戦争(1618年~1648年)になるが、スイスは
    中立の立場をとった。 三十年戦争を終わらせたウェストファリア条約で、
    スイスの独立と中立が法的に認められた。



    やがて、スイス各州の指導者によって、全州をゆるくまとめる政府がつくられ、
    国会と呼ばれる総会が開かれ、各州から2人の代表が送られた。 だが、国会は
    定期的に召集されるものではなく、元々強い権力を与えられていなかったので、
    各州の重要な決定は依然として州政府が行っていた。 更に、宗教も州によって、
    ローマカトリックかプロテスタントに分かれていた。

    住民のほとんどがカトリック信者であった農村州では、住民は『ランツゲマインデ』
    と呼ばれる州民集会に直接参加して、法案などを投票で決めた。 ベルン、
    フルブール、ゾーロツェルン、ルツェルンなどのようなプロテスタントの多い
    都市州では、富裕な地主の一族が州政府を支配していた。

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    チューリヒ、バーゼル、シャウハウゼンの各州も政治の仕組みはこれと同じ
    だったが、支配者は地主ではなく、交易で富を築いた商家だった。 スイス同盟は、
    国家として団結が掛かったため、州との間で対立が生じることもあったが、何とか
    安定を保ち、紡織と時計産業の発展に力を注いだ。

    18世紀になると、スイスの産業は繁栄した。 小作人は乳牛を育て、穀物を栽培し、
    町の製造業者に食料を売った。 また、羊を飼い、紡績業が盛んな州に羊毛を供給
    した。

    18世紀末には、チューリヒ、グラールス、バーゼルの繊維産業が活発になる。
    ジュネーヴとジュラ山脈地方の小規模な時計製造業は、国際的な産業に発展した。

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    15世紀と16世紀にヨーロッパ各地で生じた経済活動の変化には、社会と宗教の
    変化も重なっていた。 それまで何百年に渡って、スイスはじめ他の国々は、
    ローマカトリックの忠実な教徒だった。

    だが、僧侶の中には、金持ちになって悪いことをし、互いに権力を張り合う
    ものが出て来る。 それに対して、他の宗教の指導者達が抗議し、協会の
    運営について改革を求めた。 その要求が、宗教改革の始まりとなったのである。

    スイス同盟内で宗教の改革を最も熱心に進めたのは、チューリヒ出身の
    ツウィングリというカトリックの僧侶である。 ツウィングリは、ドイツと
    フランスの改革者と共に、カトリック教会の贅沢な儀式を止め、聖書を信仰の
    もとにするより簡素な宗教、つまり、プロテスタントの信仰を目指した。

    ツウィングリが唱えたプロテスタントの哲学は、間もなく他のドイツ語圏の
    スイス都市に伝わる。 だが、特に農村のカトリック教徒の多くは、この改革は、
    自分達の信仰を攻撃するものであると考え、ツウィングリとその運動を恐れた。
    スイスは、カトリック教徒とプロテスタントに二分され、両者は戦いによって、
    その対立を解決しようとした。

    1531年、カトリック派の農村州ウーリ、シュウィーツ、ウンターワルデン、
    グラールス、ツーク、アペンツェルが結束して軍隊つくり、チューリヒの
    カッペルでツウィングリの一派と戦った。 ツウィングリは戦死するが、
    後の和平協定により、スイス人に信仰の自由が認められた。

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    ツウィングリの死後、もう一人のプロテスタントの改革者であるフランス人の
    カルバンが、自分自身の信仰の教えを更に広めるために、ジュネーヴに移った。
    カルバンは、教会と政治は密接な繋がりを持つべきだと考えた。 やがて
    ジュネーヴの有力者達は、カルバンにその考えを実践する機会を与えた。

    宗教改革に熱心である上に行政の能力もあったカルバンは、ジュネーヴの政治と
    宗教を組織し直した。 これによって、市の政策を決定する権利は教会から
    独立した市参事会に与えられ、市参事会は、改革された教会の教えに従って市を
    統治することになる。

    法律の制定にも教会の意見が反映されたので、カードゲームやバックガモン
    (すごろくに似たゲーム)、飲酒など、カルバンが罪深いと考えた行為が禁止
    された。 カルバンはまた、宗教の学院を創設し、これが後のジュネーヴ大学に
    なった。

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    1300年代にオーストリアを征服し、そこを新しい根拠地にしていた
    ハプスブルグ家の狙いは、ウーリ地方南部のサンゴッタルド峠を通るアルプス
    越えの重要ルートを管理する事だった。 1315年に、ハプスブルグ軍は、
    シュウィーツ地方で、同盟軍と衝突し(モルガンテンの戦い)、敗北した。

    14世紀の後半には、ベルン、ルツェルン、ツーク、チューリヒ、グラールスの
    各州が、スイス同盟に加わり、同盟の領域は広がった(いわゆる『8州
    (カントン)同盟』)。 軍事力を増強した同盟軍は、1386年、88年と続いて
    ハプスブルグ軍を打ち破る。同盟軍はまた、ヨーロッパの他の軍勢を相手に
    領土をめぐって何度か戦いを交わし、そのつど勝利をおさめた。

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    同盟体が拡大するに連れて、州の代表達の間で、勢力範囲についてほぼ同意が
    取り交わされていた。 ところが、1400年代の中頃、チューリヒ州は、境界の
    東方と南方の領地を吸収するため、ハプスブルグ家と再び同盟を結ぶ。 同盟軍は、
    それに対抗し、チューリヒとの間で何度か激しい戦いが交わされた。

    1450年についにチューリヒは敗北を認め、スイス同盟に復帰した。 その後、
    同盟軍は、1470年代に、フランス北東部のバーガンディー公国と戦った。
    オーストリアとフランスの援軍を得て、同盟軍は、勝利をおさめる。 戦いで、
    スイス側に付いたフリブールとゾーロツェルンの2地域が、1481年、スイス同盟に
    加入する。

    1490年代に、オーストリア皇帝マキシミリアン1世は、再び神聖ローマ帝国の
    支配権を握ろうとする。 当時スイス同盟は、少なくとも、名目上は、まだ
    神聖ローマ帝国に属していた。

    オーストリア軍がスイス同盟の東方の地域、グラウビュンデンを攻撃すると、
    同盟軍は、反撃に出る。 同盟軍は、勝利をおさめ、事実上、神聖ローマ帝国
    からの独立を獲得した。

    1500年代に入り、スイス同盟は、オーストリア、フランス、イタリアを相手に、
    イタリア北部の広大で肥沃な平野を獲得する争いに関わる。 1515年、同盟軍は、
    フランス軍に敗北し、8000以上の兵を失った。

    その語の和平条約で、スイスは、領土の南方の広大な土地ティチーノを手に入れる。
    この条約によって、スイスとフランスの間の自由貿易が広がった。

    やがて農村から都市へ移住する人が増え、織物やガラス、木、金属製品の生産に
    従事したため、スイスの産業は発展した。 また、スイス兵は戦いに熟練して
    いたので、他の国の兵士として働きに出るようになる。 特に、当時戦力を拡大
    する必要性があったフランス軍には、大勢のスイス兵士が加わって戦った。

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    11世紀になると、強力な諸侯が皇帝の権力に抵抗し始めた。 帝国は次第に
    スイス地域の支配力を失い、封建制度の下に勢力を増した諸侯が、広大な
    領地を統治するようになる。 諸侯によって至るところに街が造られ、
    ヨーロッパの多くの地域との間に重要な交易が始まった。 村人達は、街の
    市場に家畜を連れて行き、スイスとイタリアの農村から運ばれて来た穀物と
    交換した。

    13世紀になる頃には、諸侯の中でも、特に強力なサボイア家、ツェーリンゲン家、
    キイーブルグ家、ハプスブルグ家の4家がスイスの大部分を支配していた。
    なかでも、ハプスブルグ家が最も勢力を伸ばし、領地を広げて行く。

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    1237年に、ハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝になる。
    その頃、小作人の中で、領地から逃亡するか、農作物を売って得た金で、
    自由の身になる者が大勢出た。 これらの小作人達は、スイス中部の
    シュウィーツ、ウーリ、ウンターワルデンの3州に移住した。

    神聖ローマ帝国の権力を握っていたハプスブルグ家は、自由と自治を得ていた
    この3州を侵略し始める。 1291年に、3州の指導者達は、同盟を結んだ。
    3州は、ハプスブルグ家に対抗して、独立国の建国を目指していたため、互いの
    対立を解決し、防衛し合うことを誓約したのである。

    3州は民主的な連合体を形成し、立法制度を打ち立てた。 各地域の住民は、
    1年に一度集会を開き、選挙によって代表を選び、和平や戦いに関する事柄を
    決めたのである。

    大きい街は、依然としてハプスブルグ家が統治していたので、同盟に加わった
    のは、主に農村部の村の住民だった。 他の地域の人々は、ハプスブルグ家に
    対抗する3州同盟の成り行きをじっと見守っていた。

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    紀元前58年にヘルベチア族は、恐らくゴール地方(現在のフランス)の
    財宝を求めて東方に進出する。 すると、ローマ帝国の軍隊がヘルベチア族を
    攻撃し、やがてヘルベチア地方を占領した。 一方、ローマ軍は、ジュリアス・
    シーザー指揮の下、ヨーロッパ大陸の他の地域に住む民族を征服して領土を
    広げて行く。 紀元前15年には、ラエチア族も制服された。

    ヘルベチアは、ローマ帝国の支配下に入るが、自治は認められていた。 また、
    ローマ帝国の領土の一部として、ヘルベチアは繁栄する。 牧畜を行い、穀類や
    果物を栽培し、ワインを製造した。 新しい道路が開けて、交易が盛んになり、
    小さな市場を持つ街の人口が増えた。

    german

    紀元前253年に、ライン川の北に定住するゲルマン部族のアラマン族が、
    ヘルベチア族の定住地を次々と侵略する。 ローマ軍は、これに対抗して戦い、
    ヘルベチアの領土を取り返した。 しかし、この戦いに掛かった費用を
    取り戻すため、ローマの役人はヘルベチア人に高い税金を払わせ、無給で
    働かせた。

    Charlemagne

    【ゲルマン民族による統治】
    フランク王国の支配下で、スイス地域に住む人々は、段々とキリスト教に
    改修し、ローマカトリック教会に所属した。 9世紀には、カロリング家の
    カール王(後のカール大帝)が現在のスイス、フランス、オランダ、
    オーストリア、イタリア、そして東ヨーロッパの殆どの地域を含む広大な
    キリスト教徒の領土を統一し、大帝国が誕生した。 ローマ教皇もカール王の
    力を認め、800年には神聖ローマ帝国の皇帝として王冠を授けた。

    王国各州に任命された諸侯(貴族階級)は、広大な領土を所有し、外敵の
    侵入に備えて兵を雇った。 諸侯は、領地内での支配権を握っていたが、
    王には服従した。 王位は、世襲で続き、王国に対する諸侯達の忠誠も
    代々受け継がれた。

    領地には、諸侯の下に家老、職人、小作人がいて、階級制度が出来
    上がっていた。 小作人は、農奴と呼ばれ、諸侯のために無報酬で働く
    代わりに、食料を与えられ、保護を受けた。 その身分は、法的に領地に属し、
    領地を離れることは許されなかった。

    小作主も領主に保護され、その返礼として農園の収穫物の一部を差し出した。
    封建制度と呼ばれるこの政治と社会の仕組みは、その後、数百年間続いた。

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    スイスは、ヨーロッパ大陸の中心に位置するため、大陸内の各地を結ぶ
    交差点になっている。 その結果、これまで多くの民族がこの国を訪れたり、
    定住地にしたり、征服して来た。 この地域で35万年前の遺跡が発見
    されていることから、その時期に既に人が住んでいたことが証明される。

    それから何千年か経つと、この辺りは巨大な氷河に覆われ、植物が全滅する。
    時折氷河が部分的に後退することがあり、ジュラ山脈とミッテルランドの
    地帯を狩猟民族が移り住んでいた。

    countries

    紀元前13世紀には、氷河はほとんど解け、人が定住し始めた。 チューリヒ湖や
    その他の湖の岸辺に人々は小さな村をつくって住んだ。 家族で畑を耕し、
    家畜を育て、野性の動物を狩り、川や湖で魚を採って生活をしていた。
    やがて、石の斧などの武器や、銅や錫を細工した装身具も作るようになる。

    紀元前500年頃には、この地域にケルト文明が定着する。 その中心は、
    ヌーシャテル湖周辺のラ・テーヌという土地であった。 ヘルベチア族と
    呼ばれたケルト系の定住者たちは、かなり発達した形態の宗教を持ち、
    複雑な習慣に従い、手の込んだ金属の工芸品を作っていた。 この宗教は、
    ヘルベチア教と呼ばれるようになり、それを通じて、ケルト文明は
    ヨーロッパの多くの土地に広がって行く。

    ケルト民族がスイス地域の西部と中央部を支配するようになると、東部
    山地にラエチア族が定住する。 戦いを好む強力なこの部族は、他の文明
    とは接触しなかった。

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    スイスの人口716万人の3分の2以上は、都市に住んでいて、その大半は、
    ミッテルランドに集中している。 チューリヒが最大の都市で、ベルンと
    ジュネーブは、チューリヒほど人口が多くないが、国際的にも商業、文化、
    産業の中心地となっている。

    スイスは、都市によって独自な人種構成を持ち、話される言語も異なる。
    例えば、チューリヒ、ベルン、バーゼルでは、ドイツ語が話されているが、
    ジュネーブで最も良く耳にする言葉は、フランス語である。 南部の都市
    ルガーノの住民はイタリア語を話す。

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    【チューリヒ】
    スイス最大の都市で、人口は33万人、この地域には、早くても紀元前4500年に
    人が住み着き、小麦を作り、牛と豚を育てた。 紀元前1世紀には、ローマ帝国の
    一部となる。 12世紀はじめには、絹、麻、羊毛、皮を交易する一大中心地と
    なっていた。

    14世紀に、チューリヒはスイス同盟に加わる。 ドイツの文化と文学の中心
    ともなり、また、繊維、工学技術、金融を中心とする商工業都市としても重要
    となる。 また、様々な活動の中心としてヨーロッパでも最も有名な都市の
    ひとつである。 街の中心を通るバーンホフ通りは、13世紀に築かれた城壁の
    堀の跡である。

    チューリヒの古い地域には、歴史的な建物が多い。 リマト川の両岸には、
    グロースニュンスター寺院とフラウミュンスター寺院が向かい合って建っている。
    この川沿いには、ザンクト・ペーター教会や、ギルド時代の建物も残っている。
    チューリヒは、優れた博物館や美術館があることでも有名である。 スイス
    国立博物館には、先史時代から現代までのスイス文化に関する様々な展示品が
    陳列されている。

    チューリヒ美術館には、スイス出身の国際的に有名な近代画家と彫刻家の作品が
    集められている。 連邦工科大学としては、世界的に有名であり、チューリヒ
    大学は、スイス最大の大学である。

    この文化、および、経済都市にも近年、麻薬取引とエイズに関連する問題が増え
    ている。 チューリヒ当局は、犯罪と麻薬の乱用を厳重に取り締まっている。

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    【その他の都市】
    首都ベルンは、人口約18万人で、アーレ川を見下ろす位置にある。 12世紀
    には、ゲルマン民族の一部族アレマン族の政治の中心地だった。 1405年の
    大家事で街の中心部は全焼したが、その後再建され、その大部分が現在も
    当時の姿のまま残っている。 1848年にスイス同盟の首都となった。 街には、
    手の込んだ建物や石の彫刻の付いた美しい噴水、中世の建物等があちこちに
    見られる。

    その他、1530年に建てられた仕掛け時計のある時計塔、連邦議会議事堂、
    クマ公園もベルンの名所である。 クマは古くからこの街のシンボルで、ベルン
    という名前は、クマを意味するドイツ語から名付けられたと伝えられている。

    ジュネーブは、人口約17万人で、国際機関が集まる国際都市である。
    代表的なのは、第一次世界大戦後に、国際連盟本部として建てられた現在の
    国連ヨーロッパ本部、国際赤十字、国際労働機関、世界保健機関、世界教会
    協議会である。

    街は、ローヌ川を挟んで、旧市街と新市街に分かれる。 旧市街には、サン・
    ピエール大聖堂など、歴史的建物が目立ち、900年代に建設された当時の面影を
    残している。 ジュネーブ大学と市庁舎は、1500年代に建てられた。 新市街は、
    ローヌ川の右岸にあり、多くの国際企業や代理店が入る近代的建物が並んでいる。

    バーゼルは、人口約17万人で、古くから宗教の中心地であり、1501年にスイス
    同盟に加わった。 現在は、金融業と工業の中心地として重要な役割を果たして、
    また、化学工業も盛んである。 1460年に建設されたバーゼル大学は、スイス
    最古の大学で、優れた研究機関として海外でも評価が高い。

    スイス南部の都市ルガーノは、人口約9万人で、イタリア語圏のティチーノ州
    最大の都市である。 ここには、2300年前から人が定住していた。 何世紀
    にも渡って、ローマとイタリアに支配されていたが、1500年代にスイス同盟に
    吸収された。

    1803年に成立したスイス連邦には、ティチーノ州が参加した際、ルガーノは、
    同州の一部となった。 都市の主な経済活動は、観光と金融となっている。
    製造業では、チョコレートとたばこが有名である。

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    スイスは、中央ヨーロッパの山の多い国である。 歴史も人種も近隣の国々と
    共通する部分が多い。 はじめは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国に統治されて
    いたが、15世紀になると、3つの自治州(スイスではカントンと呼ばれている)が
    ゆるい同盟を結び、連邦を形成した。

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    しかし、神聖ローマ帝国から完全に独立して訳ではなく、政治、宗教の面で
    帝国との間に争いが続いていた。 当時、神聖ローマ帝国とオーストリアを
    統治していたハプスブルグ家は、このスイス連邦を再び完全に支配しようと
    したが、うまく行かなかった。

    ハプスブルグ家との戦いは、1500年代まで続く。 その頃、ローマカトリック
    教会に属していたヨーロッパの多くの国々が、重大な宗教上の問題を解決する
    ために、宗教を改革する運動に乗り出した。

    この運動が高まり、スイスにプロテスタントと呼ばれる新しい形のキリスト教が
    誕生した。 プロテスタントは、カトリックから分離したため、2つの宗教の間で、
    幾度も宗教戦争が繰り広げられた。

    やがて、スイスは、ローマカトリック教会との対立を解決するが、その後も、
    国外から度々脅かされた。 17世紀末には、フランス皇帝ナポレオン・
    ボナパルトの支配下に入る。 ナポレオンは、スイス連邦をまとめて中央集権
    国家を建設させ、スイス憲法を制定させる。

    その後、ナポレオンは、ヨーロッパ連合に敗れ、スイスの独立が連合軍により
    承認された。 この時、同時にスイスは国際間の対立には一切関与せず、永久に
    中立を維持するという政策を認められたのである。 しかし、スイスは、
    ヨーロッパの出来事には全く関わらなかった訳ではない。 例えば、第一次、
    第二次世界大戦の間には、難民を受け入れ、医療を提供した。

    Swissmap

    スイスは、多くの民族から成る国であるため、その点でも様々な問題があった。
    公用語には、ドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語があるという事実を
    見ても、多民族国家である事が分かる。

    スイス憲法は、様々な民族に公平な利益を与えるため、各州に大幅な自治を
    認めている。 国際的に中立を守り、各州には連邦政府が持つ以外の権利を
    与える事により、長年かなり平和な状態を維持して来た。

    政治が安定しているため、昔は貧しい国であったスイスは、めざましく産業が
    発展した。 その結果、機械と時計の製造では、世界有数の生産国となり、
    スイスの銀行は世界最大の利益をあげている。 経済が発展しているお陰で、
    スイス人の生活水準は、世界最高の部類に入る。

    それでも、スイスの将来には色々な難しい問題がある。 移民政策、ヨーロッパ
    諸国との連合、犯罪の増加、医療問題等について、国民の間で様々な議論が
    交わされている。 だが、多人種多言語の国民が調和して暮らし、繁栄している
    という意味で、恐らく、スイスは世界の最も良いお手本であろう。

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