多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳GoWest』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:シャルル

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    フランスの人口ち経済は15世紀の後半になって、長年の疫病、飢え、戦争の
    痛手から回復した。 シャルル7世の後継者ルイ11世は、フランス貴族の力を奪い、
    租税を徴収し、王領を広げ、常備軍をつくった。

    平和と国王たちの経済政策によって、16世紀初頭には既に、商人や銀行家の中産
    階級が育っていた。 ルネサンス(文芸復興運動)がイタリアで起こり、フランソワ
    1世がフランス人の芸術家を奨励したので、フランスにも広まった。

    カトリック教に対する新教徒(プロテスタント)の宗教改革も、16世紀初頭に、
    スイスの神学者ジャン・カルヴァンの教えを通してフランスにもたらされた。
    フランスのカルヴァン派新教徒ユグノーは、多くの追随者を獲得した。

    90753cbf04f

    フランスの国王とカトリック教徒は、ユグノーを王権への脅威とみなした。 国王は
    ユグノーを滅ぼそうと企て、16世紀後半には、宗教をめぐる内戦が始まり、沢山の
    死者が出た。 ローマ・カトリック教会は1572年、パリで新教徒の群集を攻撃し、
    2,000人も殺した。

    フランソワ1世の3人の孫は、母親であるアンリ2世王妃カトリーヌ・ド・メディシス
    の強い指示で次々と王位に就いた。 最年少の孫が1589年、直径の継承者を残さ
    ないで暗殺されると、聖王ルイ9世の子孫でユグノーの指導者のアンリ・ド・
    ナヴァールが王位を継ぐ。

    これが、ブルボン朝第1代国王のアンリ4世で、新教徒の王を嫌うカトリック教徒を
    なだめるために1593年、カトリックに改宗し、1598年には信仰の自由を認めた。

    フランスは、アンリ4世時代に、再び力を盛り返した。 国王は道路と運河を建設、
    平民の税金を軽くし、貴族の土地所有を減らした。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    1328年にフィリップ4世の後継者、シャルル4世は、後継ぎが居ないままに
    死去した。 シャルル4世のいとこ、ヴァロフ家のフィリップが王位に就き、
    フィリップ6世としてヴァロワ朝の第1代となる。 ところが、イギリス王
    エドワード3世は、フランスのカペー朝フィリップ4世の直系だから、イギリスと
    フランスの両方を統治する資格があるとフィリップ6世の王位継承に意義を
    申し立てて、実力行使に出た。 エドワード3世は1337年、ノルマンディーに
    侵攻し、100年以上続く戦争に火がついた。

    百年戦争が始まると、イギリスの勝利が続いた。 1348年にマルセイユで発生
    した黒死病(ペスト)のため、フランスの戦力は低下した。 港に入る船に
    住むねずみが、ヨーロッパ中に疫病を伝染させていたのだ。 数年間でフランスの
    住民の3分の1近くが疫病で死んだ。

    14世紀後半は、不安、病気、戦争の時代だった。 物価は高騰し、兵士たちは、
    群れを成してフランス国内で略奪を働いた。 フランス国王ジャン2世は、
    イギリスに捕らえられ、フランスはその釈放のため巨額の身代金を支払った。
    もうひとりの国王シャルル6世は、精神異常をきたしながら、42年間も王位に
    就いていた。

    1415年に、イギリス国王ヘンリー5世が、カレー港近くのアザンクールで
    フランス軍を破った後、フランスの大半はイギリスの手に落ちた。 1422年に
    シャルル6世を継いだシャルル7世は、領土を持たない国王だった。 イギリス軍が
    田舎を占領している間、都市から都市へ移動ばかりしていた。

    athgtake

    フランスが悲惨のどん底に落ちていた1420年に、ロレーヌ地方の農家の娘、
    ジャンヌ・ダルクが現れる。 天使の教えに従ったと主張して、シャルル7世の
    宮廷に来たジャンヌは、百年戦争の行方を変えた。 カトリック教会と王に
    対するジャンヌの献身的な愛情は、フランス兵を奮い立たせ、ジャンヌ自身も
    軍隊を率いて、1429年に、オルレアンを包囲していたイギリス軍を粉砕した。

    オルレアンの戦いの後、イギリスの侵略軍は次々に破れ、海岸まで押し戻された。
    だが、ジャンヌは、イギリス軍に捕らえられて処刑されたが、フランスの抵抗を
    表すひとつの象徴となった。

    最後にシャルル7世は、イギリス軍を殆んどフランスから追い払い、百年戦争は
    1453年に終わった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    アッティラが敗退すると、フランク族はライン川からロワール川にまたがる
    ガリア地帯を数十年支配した。 486年、フランク族の国王クローヴィスは、
    北フランスのソワッソンでローマ軍を破ってガリア北部を征服し、この地を
    フランキアと呼んだ。

    冷酷でずる賢いクローヴィス王は、フランク族を終結し、メロヴィング朝の基礎を
    築いた。 496年にフランク族の宗教を捨ててキリスト教に改宗し、フランク帝国も
    キリスト教国となった。 キリスト教の中心はローマであり、ローマ・カトリック
    教会は信徒を支配した。

    クローヴィスの死後、帝国は4人の息子に分割された。 遺産の分割はその頃の
    慣習だったが、相続者たちは、自分の領土を広げるために戦争し続けた。
    フランキアは南部と東部の土地を併合して大きくなったが、分裂状態のメロヴィング
    朝の勢力は衰えて行った。

    国王の行政権は、メロヴィング朝の王たちの最高顧問であった大宰相に移って
    行った。 こうした大宰相の中でも最も力のあったエリスターベルのペピン
    (ペパン)は、優れた指揮官だった。 ペピンが714年に死んだ時、既に強力に
    なっていた王国を継いだのは、息子のシャルル(カール)だった。

    シャルルは、『つち(槌)』を意味するマルテルというあだ名の通り、戦争では
    負け知らずだった。 北イタリアのロンバルディア人がローマを攻略するのを
    防いだので、フランク王たちとローマ・カトリック教会との関係は密接になって
    行った。

    poegffty52

    【シャルルマーニュ(カール大帝)】
    シャルル・マルテルの息子が、フランキアの新しい王朝のカロリング朝を打ち
    立てた。 シャルルと同じ名前の孫シャルルは、ライン川の東側に住んでいた
    ザクセン人、バイエルン人、アヴァール人を征服した。 若いシャルルはまた、
    北アフリカからスペインとポルトガルに侵攻して来たムーア人を、フランス南部で
    食い止めた。 シャルルは武将であり、精力的な統治者だった。 ドイツ、
    北イタリア、現在のフランスの殆んど全部を占領地にした。

    800年にシャルルは、軍隊を率いてローマに赴いた。 ローマの貴族の教皇の間の
    争いを調停するためだった。 シャルルは、教皇に有利になるように争いを解決
    した。 感謝した教皇はサン・ピエトロ寺院で、シャルルに金の王冠を載せ、
    西ローマ帝国の皇帝にした。 その後、シャルルはシャルルマーニュ(カール大帝)
    と言われるようになった。

    シャルルマーニュはその政治手腕と権限で、広い帝国を統治した。 814年に
    亡くなると、領土は相続者たちに分けられた。 孫のシャルル禿頭王の領地となった
    ライン川の西の地域の西フランク王国は、現代フランスの先祖である。

    カロリング朝の力は、9世紀から10世紀初めに掛けて衰え、北ヨーロッパからの
    侵略者バイキングを阻止出来なかった。 裕福な地主たちは防衛のため城を築き、
    私兵を雇った。

    やがてこの貴族たちは、城の周りの地域を統治する領主になった。 農民は、
    侵略者から守ってもらう代わりに、領主の農地で働いた。 農民はまた、領主に
    忠誠を誓い、収穫の一部を年貢として献納した。 領主たちは、その財産と富で、
    フランス国王に影響を与え、自分たちで国王を選出する程になった。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

    14世紀頃、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルグの3国を合わせた地域は、
    ネーデルランド(低い土地)と呼ばれていた。 1369年、フランドル伯の後嗣
    マルグリードが、フランス王の息子のブルゴーニュ(現在のフランス東部)領主と
    結婚した。 これにより、フラマン地域は、ブルゴーニュ家の統治下に置かれる
    ことになった。 マルグリードの夫も、その後継者となった息子も、フラマンの
    政治にはそれほど関わらなかった。

    img01411edited3

    ところが、3代目のブルゴーニュ公フィリップ善良公は、ネーデルランドの政治に
    積極的な役割を演じた。 1419年から1467年まで続いたフィリップの長い統治
    期間に、領土は南と東に広がり、ブラバント、エイノー、ナミュール、
    リュクサンブール、アントウェルペンの諸州を含むようになった。 これらの
    諸州は、単一の国家になった訳ではないが、ブルゴーニュ公の領土として緩やかに
    結ばれていた。

    フィリップは、自分の権威を集中するために、1465年、各州の代表者を
    ブリュッセルに招集した。 この集会は、後のオランダとベルギーの国民議会の
    前身である。 フィリップは、自分の臣下からなる大評議会に、ネーデルランド
    諸州の司法と財政を委任した。 この変革によって、各州の持っていた権限は、
    大幅に奪い取られた。 フィリップの息子のシャルル豪胆公は、1467年に父の跡を
    継いで、ブルゴーニュ公となった。

    maxfamily

    シャルルは、領土を拡大するために、フランス等周辺諸国と絶えず戦争をした。
    戦争費用をまかなうために、重い税金が課された。 シャルルの侵略的行動に
    憤慨した周辺諸国との戦いが続き、シャルルは、1477年に戦死した。

    シャルルの死後、フランスは、ブルゴーニュ家の領土を次々占領し始めた。
    フランスによる占領を避けるために、ネーデルランド各州の代表者達は、
    シャルルの娘で20歳になるマリアの継承権を支援した。 その見返りとして
    マリアは、フィリップ全良公が、かつて奪った各州の権利の一部を返還した。
    マリアはまた、ネーデルランド議会が、議会自身の意志で会議を開くことに
    同意した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ