ロシア第3の都市、ノボシビルスクは、『シベリアの首都』と呼ばれており、
シベリア最大の学術研究都市である。 日本のつくばは、このノボシビルスクを
まねて造ったとも言われており、国立ノボシビルスク大学のレベルは、ロシアでは、
モスクワ大学に次いで、第2位となっている。 理系が非常に強い大学であるため、
現在、ノボシビルスク大学の日本の姉妹校は、同じく理系が強い国立東北大学と
なっている。 尚、ドイツの姉妹校は、オルデンブルグ大学となっており、
大学側が用意してくれた学生寮では、ドイツ人2人と生活を共にすることとなった。

ノボシビルスク大学への入学は、簡単なものではなかった。 特に、外国人が
ロシアの大学に入学をする際には、エイズ検査が必須となっており、その他にも、
大学側からの招待状と学費の前納が大前提だった。 大学への入学後は、ロシア人
学生と一緒の授業を受けたものの、全てのロシア語を理解出来ている訳ではない
ため、かなりのハンデとなった。 その理由から、担当教授とのマンツーマンでの
ロシア語での特別授業が始まった。 そこでは、古代教会スラブ語を習うように
言われたのだが、既に死語である教会スラブ語は、使う場所が全くないため、
教授に頼み込んで、ドイツ語を専攻することにした。

Transsiberian

丁度、学生寮では、ドイツ人2人と生活をしていたため、このことをドイツ人学生に
話したところ、親切にも、無料でドイツ語でのマンツーマンの授業をしてくれた。
この日から、外ではロシア語、学生寮の中では、ドイツ語で話す生活が始まった。
元々、ロシア語とドイツ語は文法的にかなり似ているので、両立はさほど難しく
なかったのと、日本の大学ではやることがなかったため、ドイツ語をかなり本気で
学んでおり、特に苦にはならないどころか、自分の知識が目に見えて増えて行くのが
手に取るように分かったため、毎日が充実していた。

ノボシビルスクは、学術研究都市であるため、行くところと言えば、ショッピング
センター(ロシア語では『商業中心』と言う)と本屋めぐりぐらい。 たまたま、
札幌に昔留学をしていたというカザフ人女性と知り合いになり、度々家にも遊びに
行くようになった。 更に、そのカザフ人の友人の旦那さんの実家があるアルマ・
アタ(当時はカザフの首都、現在の名前はアルマトゥイ)に遊びに行くことになった
のだが、その当時、ロシアとカザフスタンの間には、国境があったものの、国境での
パスポートチェック等は一切なかった。

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当時のロシアは、ロシア・ルーブルを使用していたのだが、カザフスタンは、ソ連
時代のルーブルをまだ使用しており、カザフスタンの通貨である『テンゲ』は、
その1年後ぐらいまで全く流通していなかった。 ノボシビルスクからアルマ・
アタまでは、電車で40時間、運賃は、日本円にして40円であった。 この旦那の
方は、現在、カザフのアクタウに住んでいるが、20年以上も音信不通だったが、
今ではFacebookで繋がっているため、良い時代になったものである。

ソ連崩壊とは何だったのか? その①
ソ連崩壊とは何だったのか? その②

ソ連崩壊とは何だったのか? その③
ソ連崩壊とは何だったのか? その④
ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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