多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳GoWest』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:シベリア

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    無事成田空港を飛び立ち、6時間30分程度で「シベリアの首都」ノボシビルスクに
    到着しました。 シベリア鉄道だとハバロフスクから丸4日も掛かる行程も
    飛行機を使えばあっという間。 眼下に流れているのは、世界第5位の流域面積を
    誇るオビ川。 ノボシビルスクは、このオビ川に橋を建設するために建設された
    街で、125年前の建設当時の名前はノボニコラエフスク。 

    【ノボシビルスク】
    IMG_0816
    IMG_0817
    IMG_0818
    IMG_0819
    IMG_0821
    IMG_0822
    IMG_0823
    IMG_0824
    IMG_0825

    ノボシビルスクは、シベリア最大の都市であるばかりではなく、ロシア科学
    アカデミー他の研究機関が集積する学術研究都市としても有名で、日本の筑波は
    このノボシビルスクを手本として造られた街です。 世界で最も最初期に建設
    された学術研究都市は、このノボシビルスクと筑波とボストンらしいのだが、
    その3つ共行ったことがある人間は、なかなかいないかも知れない。

    25年前にノボシビルスク大学に留学をしていた際にも、ノボシビルスクに
    国際空港が建設されるという話があったものの、このトルマチョーヴォ空港
    ではなく、街の北部にある飛行場を拡張計画であった。 トルマチョーヴォ空港は
    大昔からあり、設備は古かったものの、新しくターミナルビルを建設して、新しく
    なっていた。 空港のあるトルマチョーヴォ村からノボシビルスク中央駅
    (スラブ語では何故か「重要駅」と言う)までは、乗り合いタクシーの
    「マルシルートカ」で約60分掛かる。

    ノボシビルスク
    IMG_0828
    IMG_0829
    IMG_0842
    IMG_0830
    IMG_0832
    IMG_0833
    IMG_0834
    IMG_0836
    IMG_0839

    ロシア第3の都市であるノボシビルスクは、日本の札幌と姉妹都市となっており、
    1990年から交流が始まった。 最終的にノボシビルスク大学に入学する
    切っ掛けとなったのは、1992年に札幌で開催された「コミュニケーション
    ワールド'92北海道2000」という博覧会にノボシビルスクにあるロシア科学
    アカデミー考古学研究所の学術研究員が参加し、トロゴンテリー像の展示を
    行った際に、学生通訳としてアルバイトをしたため、ロシア科学アカデミーの
    副所長にノボシビルスク大学に入りたいと直接交渉したためであった。

    ノボシビルスクに到着した2018年6月25日(日)は、ノボシビルスク建設
    125周年の記念日だった。 この街に住んでいたのは、ちょうど25年前なので、
    その時にもノボシビルスク100周年と言っていたのを思い出した。 この日は、
    街の中心部はお祭り一色で、メインストリートである「赤の大通り」は車両を
    全て封鎖して歩行者天国になっていた。 その歩行者天国では、あちらこちらで
    ライブが開催されており、街全体がお祭り騒ぎだった。

    尚、ロシアでは、ストリートミュージシャンと言えども、音楽学校、あるいは、
    音楽大学(コンセルヴァトワール)を卒業しない限りなれないため、歌の下手な
    歌手、顔の酷い歌手は存在しないw 因みに、ロシアでは、大学の専門以外で
    就職することはまずなく、職種を変えたい場合は、大学に再度入学し直さなければ
    ならない。

    ノボシビルスク
    IMG_0840
    IMG_0843
    IMG_0844
    IMG_0845
    IMG_0846
    IMG_0847
    IMG_0848
    IMG_0850
    IMG_0851

    ノボシビルスクの中心部には、中央市場があるのだが、その真向かいに、巨大な
    ショッピングモールが出来ていた(;^_^A 25年前のノボシビルスクは、ソ連崩壊
    直後のハイパーインフレの真っ最中であったため、この中央市場ですら、まともな
    レベルでは物が売っていない時代であった。 ハイパーインフレとは、どのような
    ものかと言うと、物価の上昇に対して、貨幣の供給が追いつかないため、朝見た
    値段と夕方の値段とが異り、欲しい物が目の前にあった場合、全て買い漁らなければ
    ならないというレベル。

    当時は、2カ月おきに物価が2倍になっており、ソ連崩壊から見て、最終的に物の
    値段が2万倍(2万円が1円の価値になったのと同じ)になった1997年にゼロを4つ
    切り捨てるデノミ政策を行ったのであった。 尚、2ヶ月ごとに物価が2倍に
    なるとは、1年間で物価が32倍になるという意味で、ロシアルーブルはこの時代、
    1日で20ルーブルづつ米ドルに対して下落していた。 1989年当時のソ連
    ルーブルは、1ルーブル約350円だったのだが、今では、1円が約1.7ルーブル
    となっている。 1993年当時のロシアの平均給与は約3,000~6,000円程度
    しかなく、CD1枚が3,500円もした時代であったが、今では、そのCDですら、
    殆んど見せには並ばない時代になった。

    ノボシビルスク大学に在学中は、シベリア猫を飼っていたのだが、この
    ノボシビルスクのどこを探しても、キャットフードなどという物は1つたりとも
    売っていなかったのと、アカデムゴロドク自体に食べ物が全く売っていなかった
    ため、週に1度、バスと地下鉄を乗り継いで、丸1時間掛けて中央市場まで
    食料品の買出しに来ていたという時代であった。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    北朝鮮による相次ぐミサイル発射を受けて、欧州航空会社の各路線にも異変が
    起きている。 日本から欧州に向けて出発する航空便は、成田空港を離陸の後、
    日本海を北上してシベリアに入るコースが一般的だが、2017年8月からは、
    更に東寄りの東北地方上空に沿って北上するルートに変更する動きが相次いでいる。

    【通常の欧州路線(右)とルート変更後の欧州路線(左)】

    00000

    成田空港から欧州に向かう航空機は、新潟県上空を経て日本海を北上し、
    ロシアの沿海地方上空を経由してシベリアに入るルートが一般的だった。
    2017年7月28日深夜の北朝鮮による大陸間弾道ミサイル(ICBM)
    「火星14」型の発射により、欧州各路線に変化が起こった。 「火星14」は
    45分間ほど飛行した後、奥尻島の北西約150キロメートルの日本の排他的
    経済水域内に落下したとみられている。

    同日深夜に羽田空港からパリに向けて出発したエールフランス航空AF293便は、
    「奥尻島の北西を通過後、10分も経たないうちにミサイルが落下した」 と指摘。
    エールフランスは8月2日、当該便が 「飛行計画に沿って運航され、事故が報告
    されていないことを確認している」との声明を発表し、安全面に問題がなかった
    ことを強調した。 その上で、「当局と協力して、エールフランスは常に
    潜在的に危険な空域を分析し、飛行計画に適切に反映させている」 とも説明した。
    直後の8月3日からAF293便は違うルートを飛ぶようになった。

    102333

    成田や関西空港を発着するエールフランス便も、数日後には同様のルートを
    飛ぶようになり、8月中旬までにイベリア航空(スペイン)、ルフトハンザ航空
    (ドイツ)、スイス国際航空(スイス)、スカンジナビア航空(スウェーデン、
    デンマーク、ノルウェー)がこれに追随した。

    スイス国際航空の広報担当者は「ルフトハンザグループの航空会社(スイス、
    ルフトハンザ、ルフトハンザ・カーゴ)は、日本発着便で1年以上前から北朝鮮の
    空域を迂回してきた」と説明し、2017年8月からは「北朝鮮当局による最近の
    ミサイル試験のため、純粋な予防措置として、別途通知があるまでの間は
    日本発着便のルートを若干修正している」とした。

    スカンジナビア航空の日本支社も、ルートが「極力日本海を通らないよう、
    北海道上空を通過」 するように変更されたとしている。

    フィンランド航空は、成田空港を出発する便は8月下旬から北海道上空ルートを
    飛んでいるが、関西、中部の両空港を出発する便は引き続き日本海を北上する
    ルートとなっている。

    日本航空(JAL)、全日空(ANA)、アエロフロート航空(ロシア)、
    アリタリア航空(イタリア)、ブリティッシュ・エアウェイズ(英国)、
    KLMオランダ航空(オランダ)、LOTポーランド航空(ポーランド)、
    ターキッシュエアラインズ(トルコ)の各社は、9月7日時点での変化はない。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ロシア第3の都市、ノボシビルスクとは、シベリア開発のために建設された
    シベリアの中では比較的新しい街で、街が造られた当初は、『ノボニコラエフスク』
    という名前だった。 これと同様に、ソ連崩壊直後に、名前が変えられた都市や
    通り名は数多く、ざっと思い出せるだけでも、数知れない。 

    【 国名 】
    ソビエト社会主義共和国連邦 → 独立国家共同体
    ベロロシア → ベラルーシ
    カザフ → カザフスタン
    キルギス → キルギスタン
    ウズベク → ウズベキスタン
    トゥルクメン → トゥルクメニスタン
    タジク → タジキスタン
    タタール → タタルスタン

    【 都市名 】
    レニングラード → サンクト・ペテルブルグ
    ゴーリキー → ニージニー・ノブゴロド
    スベルドロフスク → エカテリンブルグ
    クイビシェフ → サマーラ
    ザゴールスク → セルギエフ・ポサード

    【 通り名・土地名 】
    カリーニン通り → 新アルバート通り(モスクワ)
    カールマルクス通り → 劇場通り(モスクワ)
    レーニンヶ丘 → 雀ヶ丘(モスクワ)

    123456

    実際は、まだまだあるのだが、これを日本語とロシア語で全て覚え直さなければ
    ならないというのには、かなりの時間を要した。 よって、ロシアでは、今でも
    ペテルブルグのことを普通にレニングラードとも言う。 ソ連がなくなり、最も
    変わったのは、社会システムで、社会主義を捨てて、市場経済へ移行するための
    厳しい現実が待っていた。 ソ連の時代は、国が生産管理をしていたため、商品が
    売れようが売れなかろうが、一切関係がなかったのだが、市場経済ではそうは
    行かない。 売れ残り商品は、すぐに在庫となり、マイナスとなって財政に跳ね
    返って来る。 この期に乗して、それまで国立であった設備の私有化が始まった。

    ソ連の崩壊とは、戦後そのもので、火事場泥棒のごとく、やった者勝ちの新興財閥が
    次々と現れては消えて行った。 国がなくなったということは、それらを取り締まる
    法律がなくなったという意味で、弱肉強食の世界へと一変した。 この際、一番
    バカを見たのは、正直に生きて来た人間で、それまでは、生活保障が余りにも
    充実し過ぎてたがために、犯罪、殺人、自殺などは、表には出て来なかったが、
    一気にそれらの問題が表面化したばかりではなく、世界でも有数の治安の悪い国に
    成り果てた。

    1995500kr

    1991年末に、新生ロシアになってからは、ロシアは2000年頃まで激しいハイパー
    インフレに常に悩まされ続けたため、殺人、強盗、盗み、自殺等は、日常茶飯事で、
    知識層を中心に、年間で数万人規模で、移民が多発した。 それまでは、日本国内
    には、恐らく、100名程度しかロシア人が住んではいなかったのだが、今では、
    推定でも2万5千人以上のロシア語圏の人たちが日本で生活をしている。 それは、
    田舎の嫁不足を解消するために、長らく結婚紹介所がロシア人女性を日本に送り込み
    続けた結果とも言える。

    ソ連の時代は、東京でもロシア人を探すのは困難を極めたが、今では浅草等の
    観光地に行くと、必ずロシア人観光客が居るのには驚かされる。 正に、時代は
    変わったのである。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ロシア帝国の歴史は、絶え間ない膨張の歴史であり、1600年から1900年までの
    間に、ロシアは、毎日130キロ平方メートルの速度で領土を広げた計算となる。
    東西に自然の障害物がないロシアは、いつの時代にも、繰り返しやって来る侵略に
    対して、全くの無防備の状態であった。 力を持つようになってから、ロシアが
    その国境を広げて行ったのは、ひとつには、攻撃を受けやすい自らの中核地帯を
    守るためであった。

    【ロシア拡大の歴史】
    Rus15001900

    イワン雷帝は、ボルガ河畔のカザンに侵攻して、タタール人を打ち破り、シベリア
    への道を開いた。 1581年には、コサックの指導者エルマークが毛皮の豊富な
    シベリア西部まで進んだ。 彼は、840人の兵士を推して先住部族を征服し、
    ロシアの領土を大きく押し広げた。

    ピョートル大帝は、海軍に関心を持ち、オランダとイギリスで造船の勉強をした後、
    ロシア艦隊を創設した。 スウェーデンとの北方戦争(1700~21年)で、彼は
    領土をバルト海にまで広げ、フィンランド南部のスウェーデン領や、現在
    リトアニアとラトビアになっている地域を獲得した。 これによって得た
    フィンランド南部の湿地帯に、大帝は新しい首都である、サンクト・ペテルブルグを
    建設した。 彼はまた、太平洋のカムチャッカ半島と千島列島も獲得した。

    18世紀終わりまでに、ロシアはシベリア、ウクライナ西部、リトアニア、
    ポーランド、タタール、クリミアを自国に組み込んで行った。 1809年には、
    フィンランドが加えられ、19世紀前半には、コーカサスの小国であった、グルジア、
    アゼルバイジャンや、中央アジアの広大な地域がロシア帝国の一部となった。

    1741年頃からは、ロシア人は、豊富な毛皮を求めて、海峡を超え、アラスカにまで
    進出するようになった。 1789年には、ロシアで軍務に就いていたイギリス人の
    ジョーゼフ・ビリングスが秘密の探検隊を率いて、アラスカ先住民とその沿岸部を
    調査した。

    【ナポレオンの時代のヨーロッパの国境線】
    img0

    1812年6月、ナポレオンは50万人の兵力を擁する軍隊を率いて、ロシアへと侵入し、
    9月にはモスクワに近いボロディノへと達した。 激しい戦闘の結果、ロシア軍隊の
    優秀な将軍、グルジア公ピョートル・バグラチオンをはじめ、多くの兵士が重症を
    負った。

    1812年9月にナポレオンは、一旦モスクワの占領に成功したが、自ら火を放つ作戦に
    より、モスクワを守る作戦に出たロシア軍により、冬の補給物資までもを猛火に
    よって焼き尽くされたため、10月には、冬将軍に押されて、撤退を余儀なくされた。
    ナポレオン軍は、寒さと飢えに苦しめられ、90%以上の兵士が逃亡の途中で倒れて
    行った。2年後、アレクサンドル1世率いるロシア軍は、誇らしげにパリに入城し、
    以降、ロシアは、ヨーロッパで大きな役割を果たすこととなる。

    クリミア戦争(1853~56年)では、ロシアは、イギリス、フランス、トルコと
    戦った。 指揮がまずく、補給も十分ではなかったロシア軍は、黒海沿岸の
    セバストーポリまでは1年にも渡る攻防の末に敗れたが、海軍はトルコ軍に勝利を
    収めた。 平和条約によって、クリミアは維持したが、黒海でのロシアの勢力は
    低下した。

    ロシア南部やウクライナでは、逃亡した農奴達がコサックになり、辺境地に入植地を
    作った。 最初のうちは、コサック達は、ロシアの権威に抵抗したが、19世紀には、
    彼らの入植地は、豊かな農村となり、コサック達は、皇帝に忠誠心を示した。

    コサックは、毛皮の長い帽子と羊の皮の外套という独特の制服を着て、刀と長い
    やりを持って戦った。 コサックの男達は皆、騎馬兵部隊で軍務に就くことが
    義務付けられ、忠誠心、勇敢さ、乗馬の巧みさで知られた。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    ブログネタ
    ロシア語 に参加中!
    景気低迷を理由に、欧米メーカーのロシア離れが急速に進んでいる。 米ゼネラル・
    モーターズ(GM)は3月、サンクトペテルブルクの工場閉鎖を発表し、市場に衝撃を
    与えた。 『オペル』ブランドの販売も年内に終了する予定。 仏プジョー・シトロエン・
    グループ(PSA)や独フォルクスワーゲン(VW)も今春、相次ぎ生産台数を削減すると
    報じられた。 日本メーカーも苦戦が続く。

    現時点で、大幅な生産縮小や撤退などは伝えられていないが、販売は高級車を除き、
    急落している。 日本企業の関係者からは、自動車市場の落ち込みはリーマン・ショック
    以来の規模になるとの指摘も出ている。
     
    20071220153305

    ロシアは現在経済制裁の真っ直中に居るため、ルーブルの下落が続いているが、
    元々、ソ連末期~2000年ぐらいに掛けて、何度か経済危機に見舞われているため、
    経済制裁が解除されれば、ロシア市場は、元に戻る。 よって、ロシア進出は、今が
    絶好の機会と見る事が出来るが、むしろ、撤退方向に動いている西側諸国は
    ロシア市場の事をまるで理解していない。

    旧ソ連から独立を果たし、新生ロシアになりたての頃も、日商岩井と丸紅を除き、
    当時ロシアにあった日本企業はほぼ全て撤退したが、その後、元の状態以上まで
    経済が戻っている。

    韓国車の利点は、ロシアと同じくハンドルが左にあるところだけで、車の性能としては、
    到底日本車にはかなわないため、極東での売上台数では、圧倒的に日本車の
    シェアの方が上だが、中国車は、元々殆ど人気がないため、例の『安かろう悪かろう』
    製品である事は、ロシアの消費者には周知の通り。 ロシア製の新車を購入する
    よりも、日本製の中古車を購入した方が車両の性能が良いため、シベリアでは、
    8割方日本車ばかりが走っている。

    1405c09c

    ロシアでは、前々から右ハンドルが規制されると言われ続けており、その昔、
    右ハンドルを規制しようとして、シベリアでは、『極東共和国』の独立宣言まで
    行ったため、ロシア政府としても、おいそれとは、右ハンドルを規制出来ない。
    但し、外国からの中古車輸入を規制する事を目的とした、中古車への課税が
    数年おきに変更されているため、この先も右ハンドル車は、安泰とは言えない。
    現在では、中古車1台に対して、7,000ドルもの関税が掛けられているのだが、
    車体の一部をバラして、部品として運べば、1,000ドル程度まで下がるのだと
    言う。

    カザフスタン等の中央アジアでは、既に右ハンドルに規制が入っており、キルギスでは
    規制がなされていないため、キルギスでも右ハンドル車の比率が非常に高くなっている。
    右側通行の国で右ハンドル車を運転すると、事故を起こす確立が高くなるため、
    右ハンドル車への規制が入らないようにするという点においても、ロシア人には、
    是非とも安全運転をお願いしたい。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ