古代、この地域は、メディア人の帝国とペルシャ人の帝国に属していた。
8世紀には、アラブ人に征服され、イスラム化が進んだ。 それに続く時代は、
モンゴル、ペルシャ、オスマン帝国に従属する多数の小国家に分裂した。
18世紀以降、ロシアがこの地域で勢力を得て、ハンの支配する個々の国々を
次第に征服して行った。

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1829年、ロシア・ペルシャ戦争の結果、アゼルバイジャン北部は、ロシア帝国に
併合されたが、南部はペルシャが支配を続けた。 ロシアは、再三に渡って南部
地域も占領しようと試みた(最後の試みは第二次世界大戦)が、結局成功しな
かった。

ロシア地域のアゼルバイジャンは、19世紀には、一時的に世界一の石油産地
となった。 ロシア革命後の1918年、民族主義党派のムサーワート党の指導の下、
独立した共和国を設立した。 しかし、1920年、共産主義者たちはが彼らの牙城で
あったバクーでクーデターを起こし、例によって、ソビエト・ロシアに援軍を
求めた。 こうして、赤軍が進攻し、その直後、『アゼルバイジャン・ソビエト
社会主義共和国』の設立が宣言された。

1922年、共和国はアルメニア、グルジアと共に、『ザカフカス・ソビエト社会主義
共和国』を創設した。 1936年には、この連邦は解消され、3つの構成国は、
それぞれソ連邦構成共和国となった。

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【アルメニアとの宿命的対立】
1980年代の改革気運の名まで、民族自立の運動が高まると、アゼルバイジャン人と
アルメニア人との宿命的とも言える対立が再燃した。 彼らは、言葉だけではなく、
宗教的にも文化的にも全く異質な民族だからである。 両民族の扮装は、ナゴルノ
カラバフ自治州で始まった。

約80%の割合でアルメニア人が住んでいるこの地域では、1922年にソビエト政権に
よってアゼルバイジャンに割譲されたという経緯がある。 この背後には、分割して
統治しやすくするという考え方があったに違いない。 政治集会やデモが繰り
返された末、1988年にナゴルノカラバフ自治州は、アゼルバイジャンから独立し、
アルメニアへ帰属することを決定した。 アゼルバイジャン最高会議もソ連最高
会議もこれを無効とし、対立は流血の惨事へと発展して行った。
アゼルバイジャンの都市バクーとスムガイトでは、アルメニア人の住民に対する
凶行が繰り広げられた。

ナゴルノカラバフにはソ連軍が進攻し、この地域は、モスクワのソ連中央政府が
直轄するという体制が敷かれた。 しかし、事態は収拾に向かうどころか、
アゼルバイジャン、アルメニア両共和国は、事実上の戦時体制をとった。

数十万人のアルメニア人が、アゼルバイジャンからアルメニアへ亡命し、また、
同様に多くのアルメニアに住むアゼルバイジャン人も国境を越えて行った。
ソ連崩壊後も、この対立は根強く残っている。 とは言え、1991年に両共和国は、
この地域の問題に関して、直接交渉を行うことで合意している。

新連邦条約に関する交渉に代表を送ったアゼルバイジャンだが、1991年8月に
独立宣言を行った。 そして、1991年12月、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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