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    タグ:サラエボ

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    世界には、「領土・国民・主権」といった条件を満たしているにも関わらず、
    独立を果たすことが出来ていない「未承認国家」がいくつが存在するが、
    今回は、そのうちの1つ、旧ユーゴスラビア連邦を構成していたボスニア・
    ヘルツェゴビナ内に存在するスルプスカ共和国を紹介します。

    270000

    スルプスカ共和国
    スルプスカ共和国とは、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する自治体の
    1つで、旧ユーゴスラビアに住んでいたセルビア人、クロアチア人、
    ムスリム人の主要3民族のうち、セルビア人を主体とした共和国となっている。
    「スルプスカ」の意味は、「セルビア人」を現しているため、
    「セルビア人共和国」と呼んでも良いのだが、隣国の「セルビア共和国」と
    明確に区別するため、主に「スルプスカ共和国」と呼ばれることが多い。

    スルプスカ共和国の領土(赤い部分)
    443904512

    【ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争】
    ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるサラエボ包囲は、現代の戦争の中で
    最も長期に渡る都市包囲であったが、丘の上に陣取り、街を包囲していたのは、
    セルビア人勢力であるスルプスカ共和国軍と、ユーゴスラビア人民軍で、
    1992年4月5日から1996年2月29日まで続いた。 その後、セルビア人勢力は、
    新たに独立したばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ連邦への参加を拒否し、
    セルビア人による国家、「スルプスカ共和国」の樹立を宣言した。

    スルプスカ共和国は、ボスニア連邦政府とは異なる独自の大統領、政府、
    立法府を持ち、ボスニア・ヘルツェゴビナの全面積の49%を占めるが、
    隣国との境界線は、1995年11月にデイトン合意が交わされ、ボスニア・
    ヘルツェゴビナ紛争が終結した時点での軍事上の前線に概ね基づいているため、
    その境界線には古くからの歴史的な由来はなく、1990年代の紛争の結果に
    よるものとなっている。

    このため、スルプスカ共和国の領域はボスニア・ヘルツェゴビナの歴史的な
    地域区分をまたいだものとなっており、その境界線は歴史的な地域区分や
    かつての行政上の区分を分断しており、旧ユーゴスラビア連邦における泥沼の
    内戦の結果、誕生した新たな未承認国家となっている。

    スルプスカ共和国の国旗(セルビアと同じ)
    1826652160

    【事実上の首都】
    スルプスカ共和国の法律上の首都は、サラエボのすぐ隣りにあるイストチノ・
    サラエボとなっているが、内戦後は、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の
    完全な住み分けが進み、サラエボにはセルビア人はほぼ住んでいないため、
    事実上の首都は、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦第2の都市、バニャ・ルカと
    なっている。 紛争中には、およそ4万人のセルビア人がクロアチアから逃れて
    来ており、同時期、バニャ・ルカからは、ほとんどのクロアチア人やムスリム人が
    逃れ、16のモスクが破壊された。

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    2016年5月3日、旧ユーゴスラビアを代表する国民的歌手であるヤドランカ・
    ストヤコヴィッチがALS(筋萎縮性側索硬化症)の呼吸不全により死亡した。

    1983年のサラエボ・オリンピックのテーマソングを歌ったことにより、一躍有名
    となったヤドランカは、大の日本好きで、俳句や浮世絵に興味を抱き、1984年と
    1988年に来日を果たすが、1988年の来日、レコーディング中に祖国であった
    ユーゴスラビアが内戦により崩壊したため、そのまましばらく祖国へは帰れなく
    なった。

    IMG_1131

    その後、日本へと活動の中心を移し、22年間という長きに渡って積極的に
    音楽活動を行っていた。 元々、大学での専攻が芸術と心理学であったため、
    音楽活動の傍ら、日本でも絵画の創作活動も行っていた。 その一環として、
    子供達と一緒に絵を完成させるという活動も行っており、数々の作品を残した。
    この活動では、ヤドランカが下絵を描き、子供たちが、その上から絵を描いて
    完成させるという手法がとられた。



    旧ユーゴスラヴィアでは、知らない人は居ないと言われる程、人気があった
    ヤドランカだが、1989年の祖国崩壊から帰国に至るまでの道のりは、決して
    あまいものではなかった。 2000年近くになるまで、祖国の地を踏むことすら
    叶わず、サラエボで再びコンサートを開いたのは、1999年のことであった。

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    2011年3月末、クロアチアでのアルバム発売のプロモーション活動等のため
    渡欧した際にALSと診断され、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで治療をしつつ、
    音楽活動を継続。 すぐに帰るはずであった日本に、今度は帰れなくなって
    しまった。 3.11の東日本大震災発生直後であったため、常に日本を気にして
    いたという。

    病が徐々に進行する中、アーティスト仲間によるチャリティコンサートが何度も
    開催され、ドキュメンタリー番組も多数制作された。 2016年5月3日、ALS
    による呼吸不全の為逝去。 享年65。

    国民的歌手であったヤドランカの訃報は、ボスニアのみならず旧ユーゴ全域に
    テレビ、ラジオ、新聞のトップニュースとして伝えられた。 5月7日はサラエボで
    作曲家協会による追悼式があり、日本の大使も弔辞を述べた。

    5月9日にはバニャ・ルカで追悼式と国葬がとり行われ、現在の国境に関係なく
    大統領はじめ、総理大臣、有名アーティスト、著名人が多数参列し、数百人の
    ファンが彼女の死を悼んだ。 本人の遺言で棺にはギターが納められた。



    2016年7月21日~24日に掛けて、四ツ谷にあるP3 art and enviromentにて、
    『ありがとうヤドランカ~追悼作品展 & LIVE』が行われ、遺品となった絵画の
    展示とライブ、トークショーが開催された。 7月24日は、ヤドランカの誕生日
    であったため、この日を目標として、 ヤドランカの死後、急ピッチで準備が
    進められ、当日は、ヤドランカのベスト盤の発売も行われた。

    【ヤドランカ・ベスト盤】



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