多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:ゴルバチョフ

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    世界の2大超大国であったソビエト社会主義共和国連邦(CCCP)は、1991年12月
    25日に崩壊した。 1991年の夏にモスクワで軍事クーデーターが起こり、当時
    ソ連大統領であったゴルバチョフ氏が軟禁され、それを助け出した元ロシア大統領の
    エリツィン氏への権力の移行が鮮明となった。 この時点では、まだソ連は崩壊
    などしないだろうと思われていたものの、その後、バルト3国で始まった独立運動に
    より、バルト3国はソ連からの独立を勝ち取った。

    そこから遅れて、今度は、エリツィン氏が率いるロシアが独立を主張し始め、同じ
    スラブ民族の国である、ウクライナとベロロシア(独立後にベラルーシへと改名)
    を誘い、スラブ3国はソ連から独立すると明言し、その後、その他のソ連加盟国が
    次々と独立を宣言したため、ソ連は崩壊した。

    ソ連消滅s

    そもそも、ソ連とはどういう国だったのか? ソ連は、世界で初めて、社会主義
    革命によって誕生した社会主義の国であった。 社会主義とは、一言で分かり
    やすく言うと、国民全員が国家公務員ということ。 貧富の差もなく、福祉が
    充実し、理論上は楽園だったが、スターリンの時代から、恐怖支配が横行し、
    個人の自由を許さない全体主義へと変貌した。 極端な例では、ドイツ語の辞書を
    所持していただけで、スパイ容疑を掛けられて、シベリアへ追放された例もある。
     
    社会主義では、資本主義とは異なり、国が一括して生産管理を行うため、物不足が
    頻繁に起きた。 私がソ連時代のモスクワに留学をしていたのは、89年~90年に
    掛けてだったため、正にソ連時代の末期であった。 当時は、深刻な物不足であった
    ため、お金だけでは物資を購入することが出来ず、お金の他にクーポン券が必要
    だった。

    外国人の場合、当時は外貨ショップがあったため、多少値段が高くとも、そこである
    程度の品物は購入出来たが、当時、一般市民が外貨を所持することは、不法投棄と
    みなされ、逮捕の対象となった。 売春はソ連には存在しないことになっていた
    ため、それを取り締まる法律がなく、野放しであった。
     
    ソ連末期の時代は、厳格な言語統制を敷いていたため、ソ連の政治批判はタブーで、
    壁にマイクが仕掛けてあるので、ロシア語でソ連の批判はしないようにと常々
    言われた。 それを改革したのが、当時の大統領であった、ゴルバチョフ氏だった
    のだが、余りにも急激に色々な改革を進めてしまったために、一気に箍が外れ、
    歯止めが掛からなくなった。 それまでは、モスクワでも女性が夜に1人で歩いて
    いても大丈夫だったのだが、ゴルバチョフ以降は、一気に治安が悪化し、殺人、
    犯罪が一気に明るみに出るようになった。

    ソ連末期は、至るところで行列が出来、生活物資を確保するのも大変であった。
    当時、ようやくスーパーマーケット方式の店が登場したばかりだったが、
    それまでは、店員に一々何が欲しいのかを伝え、それを伝票に書いて貰い、更に
    それをレジで清算してから、再度その店員のところへ戻って、品物を受け取る
    という方式であったため、ロシア語が喋れないことは、ほぼ死を意味した。
    店員様が神様の国であったため、店員に気に入られない場合は、当然、物は
    売っては貰えなった。 品物が売れようが売れまいが、店員の給与は一切変わら
    ないため、閉店時間の30分前には客を店内に入れないようにして、掃除を始め、
    定時キッカリには、全員が帰宅するというシステムだった。 これは、今でも
    さほど変わってはいない。
     
    店が繁盛しようがしまいが、一切何も変わらないため、むしろ、客が来ると面倒な
    仕事が増えるという理由から、食堂などでは、わざと髪の毛を入れたり、ハエを
    入れたり、ゴキブリを入れたり、挙句の果てには、国から配給された筈の肉を勝手に
    持ち帰ってしまうために、勝手にネズミの肉を客に出したりと、労働生産性が一切
    報われない社会の悪い面ばかりが目立つようになった。 市民の間では、外の食堂や
    レストランでは絶対に食事をしないようにという噂が広まり、外食をしているのは、
    外国人だけという時期もあった。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    1985年3月、54歳のゴルバチョフがソ連共産党第一書記長となった。 彼は、
    1986年4月のチェルノブイリ原発事故を契機に、革命としての全面的な
    ペレストロイカとグラスノスチ(情報公開)、国際政治の新思考を主張して、
    人々を熱狂させ、変革の時代を開いた。 その革命の中で、モスクワの通りの名、
    地名などを革命前の古い名前に戻された。 1990年にゴーリキー通りが
    トヴェルスカヤ通りに戻されたのは、その代表例であった。

    1991年8月、フィナーレは、ゴルバチョフ派の副大統領、国防相、KGB議長らの
    クーデターで始まった。 カリーニン大通りとモスクワ川が交差する角に
    『ホワイト・ハウス』と呼ばれる白亜の殿堂がある。 これは、1965年から
    建設が始まり、1979年に完成したロシア共和国ソヴィエト会館であった。

    80年代からは、ここには、ロシア共和国最高会議が置かれていた。
    ペレストロイカの中で、エリツィン大統領のロシア共和国が主権宣言をするに
    及んで、この建物が俄然注目を集めるようになった。 そして、1991年の
    クーデターが起こると、ホワイト・ハウスは、クレムリンに陣取っていた
    連邦クーデター派に対するロシア共和国の抵抗の拠点となった。

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    この建物の前の戦車の上で、エリツィンは、クーデター勢力に闘争宣言を
    発表し、市民にこの建物の死守することを呼び掛けた。 闘争の結果、
    クーデター派は、あっけなく敗北し、エリツィン大統領の『ロシア革命』は
    勝利した。 1991年8月、その勝利を祝う集会もこのホワイト・ハウスの周りで
    行われた。 8月の革命は、殆どが無血であった。 ホワイト・ハウスから
    遠くないカリーニン大通りの脇に、1991年の闘争の犠牲となった2名の死者の
    碑がある。

    1991年12月25日、ソ連は崩壊した。 ゴルバチョフ大統領は、ソ連大統領の
    ポストを辞任し、クレムリンの上のソ連国旗が降ろされた。 後継国家となった
    のは、エリツィンのロシア連邦である。 だが、その2年後、クレムリンに
    入った大統領のエリツィンとホワイト・ハウスの最高会議との間に衝突が
    起こった。 ついに、1993年10月、両者は、武力衝突するに至った。
    エリツィンは、戦車隊にホワイト・ハウス砲撃を命じた。 30分間の砲撃で、
    最高会議側は白旗を掲げ、降伏した。

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    大統領が勝利した後、ホワイト・ハウスは政府に摂取され、1994年からロシア
    連邦政府会館となっている。 ロシア国家ドゥーマは、旧ゴスプランの建物に
    移った。 この激動の時代に、ソ連の各地では、レーニン像の撤去が行われたが、
    モスクワでは、レーニン廟も残ったし、マルクス、エンゲルスの像も、レーニンの
    像も残った。 撤去されたのは、ルビャンカ前のジェルジンスキー像とカリーニン
    通りのスヴェルドロフ像だけである。 そして、ルビャンカの近く、綜合技術
    博物館の前に、スターリン時代にラーゲリに送られ、処刑され全ての犠牲者を
    悼む記念碑『全体主義体制犠牲者記念碑』が1990年に建てられた。

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    新しいロシア連邦政府によって建てられたのは、救世主キリスト聖堂である。
    実は、地下鉄クロポトキンスカヤ駅の斜め前のモスクワ・プールの場所に、
    1931年末まで救世主キリスト聖堂があった。 これが再建されたのである。

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    1991年8月、共産党強硬派は、ゴルバチョフ大統領の改革路線に反対して
    クーデターを起こした。 新たに選出されたロシア共和国大統領ボリス・
    エリツィンは、クーデターに対抗して、モスクワの最高会議会館に立てこもった。
    モスクワ市民は、エリツィン支持を叫んで集結し、3日のうちにクーデターは
    失敗に終わった。

    1991年末にソ連は崩壊して、エリツィンを指導者とするロシア連邦が生まれた。
    1993年10月、エリツィンは、彼の改革に激しく反対する強硬派の議会を解散した。
    今度は、共産主義者と民主主義者が最高会議会館を占拠し、エリツィンは、これに
    対して、実力を行使し。 約150人の死者が出た結果、強硬派は敗北した。

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    それ以後、ロシアは、市場経済に向かって突き進み、犯罪と汚職が横行するなど、
    様々な問題を抱えながらロシアは変貌を遂げ、人々の生活は良くも悪くも変わり
    つつある。

    1992年、ロシアは、国有経済から自由市場経済への急転換を目指した。 最初は
    混乱と物価の高騰が起こり、通貨のルーブルの価値は急落した。 その後、一旦は
    持ち直したが、2000年代に入るまで、ロシア経済は混乱の真っ只中に居た。

    新しいビジネスが始まり、建物が修復されて、ロシアの都市は、その様相を急速に
    変えた。 ソ連時代に破壊されたクレムリン宮殿の壮大な階段、赤の広場の
    復活の門、救世主キリスト教会などの重要な歴史的な建物も元通りに再建された。

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    【ミハイル・ゴルバチョフ】

    1985年、新しいソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフは、改革
    (ペレストロイカ)、開放(グラスノスチ)の政策を慎重に取り入れた。
    ゴルバチョフは、改革に反対する共産主義者と一層の民主主義を求める急進
    主義者の両方から攻撃を受け、1991年8月のクーデターから4ヶ月後に退任した。
    しかし、新しいロシアを生み出したのは、ペレストロイカであったことに
    間違いはない。

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    【ボリス・エリツィン】

    建設技術者であったボリス・エリツィンは、1960年代にウラル地方の
    スヴェルドロフスクの党第一書記、1980年代には、ゴルバチョフの元でモスクワの
    共産党書記長となった。 1987年には、ゴルバチョフによって解任されるが、
    その4年後、ソ連最大のロシア共和国の大統領となった。 エリツィンは、ロシア
    史上最初の国民によって選ばれた指導者である。 1996年6月に行われた民主的な
    選挙では、隊長は十分ではなかったにも関わらず、再度大統領に再選された。

    1991年8月のクーデターから、12月31日までの4ヶ月は、ロシア史上でも最も混乱に
    満ちた時期だった。 その間に、共産党は解体され、ソ連邦を構成していた共和国は
    分解して、ゆるい関係の独立国家共同体(CIS)を作り、ソ連邦の最後の指導者
    であるゴルバチョフが辞任した。 ソ連の赤い国旗がクレムリンから降ろされ、
    そこに新しいロシアの国旗が掲げられた。 民主的なロシア連邦誕生の瞬間である。

    それまでのソ連邦を構成していた他の14共和国が分離独立しても、ロシアは、世界
    最大の国であり、潜在的な資源も極めて豊富に存在している。 ソ連邦の15共和国の
    うち、バルト3国を除く12共和国がCISへ加盟し、その後、グルジアとウクライナが
    脱退した。 トゥルクメニスタンは、当初から非公式な加盟国であったため、現在の
    CISの正式な加盟国は、9カ国となっている。

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    1918年に、ボリシェビキらによって、モスクワは、首都に返り咲いた。 1924年に
    レーニンが死ぬと、共産党の主導権をめぐる闘争が始まった。 最も有能なトロツキーは、
    戦略家のヨシフ・スターリンに敗れた。 スターリンは、他の2人の指導者と協力して、
    トロツキーの力を奪うと、次に別の人間と手を組んで、この2人をも追い出した。
    トロツキーは、1929年に、国外に追放された。

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    更に、スターリンは、急速な工業化と農業の集団化を進めて、権力を強化して行った。
    1934年、ボリシェビキの最高幹部のひとりだったセルゲイ・キーロフの暗殺を皮切りに、
    大粛清が始まった。 秘密警察NKVD(後のKGB)が全権を握り、悪名高いモスクワの
    本部が大量逮捕の指揮を取った。 そして、ボリシェビキの有名な古参達が皆、裁判に
    掛けられたり、銃殺されたりした。

    ロシア正教は、1917年までは、ロシアの国教とされていた。 ソ連時代には、多くの
    教会が破壊され、司祭たちは、銃殺されたり、投獄されたりした。 教会は、閉鎖された
    ばかりではなく、1920年代の後半には、破壊が始まった。

    スターリンの粛清によって、何百万という無実の人々が処刑され、あるいは、辺境の
    労働収容所に送られた。 この恐怖政治の後に、今度は、第二次世界大戦の悪夢が
    やって来た。 ソ連は侵略され、モスクワはドイツ軍によって陥落寸前まで行き、
    レニングラード(サンクト・ペテルブルグ)は、長期に渡たる攻囲に苦しんだ。

    第二次世界大戦が終わると、西側同盟国との友好関係が崩れて冷戦が始まった。
    1953年にスターリンが死ぬと、関係は改善され始めたかに見えた。 しかし、フルシチョフ
    による1962年のキューバ・ミサイル危機は、西側との関係を再度悪化させた。

    この関係が大きく改善されるようになるのは、1985年にゴルバチョフが等の指導者と
    なり、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)の政策を取り入れてからのこと
    だった。

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    ブログネタ
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    ソ連崩壊を決定的にしたのは、ソ連邦を構成していた15共和国中最大の国、
    ロシアが主権宣言を行ったためで、ゴルバチョフ氏がそれまで推し進めていた
    情報公開によって、一気に西側の情報が国内に溢れてしまったため、その急激な
    流れに歯止めが効かなくなった。 ゴルバチョフ氏の当初の考えでは、ソ連を
    崩壊に導くつもりは、毛頭なかったと思うが、民主化の流れは、怒涛のごとく
    押し寄せて、一気にソ連を飲み込んだ。

    それまでのソ連では、買い物をするのにも、スーパーマーケット方式の店が全く
    なかったため、一々レジに3回並ばなければならず、ソ連末期の時代には、食料を
    手に入れるためのクーポン券がなければ、販売すらしては貰えなかった。 外貨
    ショップのべリョースカが、外国人にとっては、食料を自給自足するための
    「ダーチャ」の代わりであったのは、つい25年ほど前の話。 マルボロやグラビア
    雑誌の切り抜きが、賄賂としてまかり通ったのも、この時代。 元々、ソ連では、
    都合の悪い事は、存在しない事になっていたため、法整備すらまともにはされては
    いなかった。 何もかもウソで塗り固めていたが、それでも、一般市民は、それが
    ウソだと分かっていたため、最終的には、ソ連が崩壊したと言うよりも、ウソの
    世界が崩壊したと言った方が分かりやすい。



    ロシア、ウクライナ、白ロシア(現在の名前はベラルーシ)の東スラブ3国は、
    ソ連から独立し、スラブ連合を樹立するとエリツィン氏が宣言し、残りの
    各共和国も、バルト3国とグルジアを除き、それに追随して、新たに緩やかな
    国家連合である、『独立国家共同体』を形成したため、ソ連はその歴史に幕を
    降ろした。 ソ連の崩壊は、実質、このスラブ3国だけで決定した。 他の
    旧ソ連邦の国々は、ほぼゼロからのスタートだったのだが、ロシアだけは、
    旧ソ連邦の負の遺産のほぼ全てをそのまま引き継いだため、天文学的な大赤字を
    背負ってのソ連からの独立であった。

    その後、ソ連の崩壊と共に、ロシアは、地獄の底まで落ちたが、余りの赤字額の
    多さのため、一生掛けても絶対にその赤字を返済出来ないとまで言われたが、
    オイルマネーの波に乗り、その後に彗星のごとく現れた、プーチン氏一代だけで、
    全ての天文学的な赤字を解消した。 その後、何度も通貨危機、テロ等にも
    見舞われたロシアだが、2000年以降からは、経済的にも安定し、かなりの経済
    成長を遂げていたため、25年前のロシアと現在のロシアとでは、全く別の国。

    この25年間で、最も変貌を遂げた国は、間違いなく、ロシア。 24年前までの
    正式名称は、『ロシア・ソヴィエト社会主義共和国連邦』で、通称『エル・エス・
    エフ・エス・エル』と呼ばれていた。

     

    ウクライナは、ロシア人にとっては、最も信用出来る自分たちのパートナー
    であった筈が、ウクライナが漁夫の利を得てソ連から独立を果たしてからは、
    何かにつけて、対立した。 白ロシアは、ソ連から独立をした際に、国名を
    ベラルーシに改めた。 カザフ共和国、キルギス共和国等々も、共和国の部分を
    チュルク語で「国」を表す『スタン』に改めた。

    何もかもソ連、または、ロシアのせいに出来る他の共和国とは異なり、ロシアの
    場合は、例え、失敗をしたとしても、隣国のせいには出来ないため、旧ソ連邦の
    中では、やはり、自分たちが一番でありたいというプライドがある。

    最近の自称ロシア研究家を見ていて、非常に疑問に感じるのは、ロシアと共に
    地獄の底を見てはおらず、単に英語の文章を日本語へと直訳しては、そのまま
    世に垂れ流しているため、ロシアへの風当たりが強い。 25年前も今も、ロシアに
    対する偏見がなくならないのは同じだが、ロシアでは、ロシア語で喋らない限り、
    まともには相手にされないため、せいぜいお客さん程度の扱いで終わって
    しまったか、または、お互いに片言同士の英語で喋ってしまったため、本当の
    ロシアの姿が見えずに終わったのではと感じる。

     

    ロシア国内には、約180の民族、約100の言語が存在し、人の考え方も多種多様
    であるため、一概には言えないが、元々、ロシア人は、非常に親切な人が多いため、
    逆に親切にして貰えなかったとするならば、その人のロシア人に対する接し方が
    間違っていたのであろう。 ロシアに行って、100%良い思い出だけがある訳では
    ないが、それでも、嫌な目にあった数よりも、親切にして貰った数の方が遥かに
    多いため、ロシアは、好き嫌いという以前に、自分の一部。 88年頃に、当時
    共産党第一書記長であった、エリツィン氏が根室を訪れて、『北方領土は日本の
    領土である』と言ったのを覚えている人は、今の日本にはどれぐらい居るのか。
    25年前は、ロシア語ではなく、ソ連語と良く言われた。 何でソ連語なんか勉強
    しているのですか?とも言われたが、それは、もう遠い遠い過去のお話し。

    現在のロシアの国歌は、旧ソ連の国家とは、歌詞が違うだけだが、それは、
    ロシアが、ソ連の継承国である証。 25年前は、ソ連を批判する事すら許され
    なかったが、今では自由に批判出来る。 昔のソ連のビザは、訪問都市を全て
    記載しなければならず、それ以外の都市へ行く事は許されなかったが、今では、
    それもなくなった。

    10年ちょっと前までは、ロシアの通貨であるルーブルの国外への持ち出しは一切
    出来なかったが、今では、都内の銀行でも気軽にルーブルへ換金する事が出来る。
    ロシアを見ていると、時代は代わったのだと、つくづく感じる。

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    ソ連崩壊を決定的にしたのは、ソ連邦を構成していた15共和国中最大の国、ロシアが
    主権宣言を行ったためで、ゴルバチョフ氏がそれまで推し進めていた情報公開によって、
    一気に西側の情報が国内に溢れてしまったため、その急激な流れに歯止めが効かなく
    なった。 ゴルバチョフ氏の当初の考えでは、ソ連を崩壊に導くつもりは、毛頭なかったと
    思うが、民主化の流れは、怒涛のごとく押し寄せて、一気にソ連を飲み込んだ。

    それまでのソ連では、買い物をするのにも、スーパーマーケット方式の店が全くなかった
    ため、一々レジに3回並ばなければならず、ソ連末期の時代には、食料を手に入れる
    ためのクーポン券がなければ、販売すらしては貰えなかった。 外貨ショップの
    べリョースカが、外国人にとっては、食料を自給自足するための「ダーチャ」の代わりで
    あったのは、つい25年ほど前の話。 マルボロやグラビア雑誌の切り抜きが、賄賂と
    してまかり通ったのも、この時代。 元々、ソ連では、都合の悪い事は、存在しない事に
    なっていたため、法整備すらまともにはされてはいなかった。 何もかもウソで塗り
    固めていたが、それでも、一般市民は、それがウソだと分かっていたため、最終的には、
    ソ連が崩壊したと言うよりも、ウソの世界が崩壊したと言った方が分かりやすい。



    ロシア、ウクライナ、白ロシア(現在の名前はベラルーシ)の東スラブ3国は、ソ連から
    独立し、スラブ連合を樹立するとエリツィン氏が宣言し、残りの各共和国も、バルト3国と
    グルジアを除き、それに追随して、新たに緩やかな国家連合である、『独立国家共同体』を
    形成したため、ソ連はその歴史に幕を降ろした。 ソ連の崩壊は、実質、このスラブ3国
    だけで決定した。 他の旧ソ連邦の国々は、ほぼゼロからのスタートだったのだが、
    ロシアだけは、旧ソ連邦の負の遺産のほぼ全てをそのまま引き継いだため、天文学的な
    大赤字を背負ってのソ連からの独立であった。

    その後、ソ連の崩壊と共に、ロシアは、地獄の底まで落ちたが、余りの赤字額の多さの
    ため、一生掛けても絶対にその赤字を返済出来ないとまで言われたが、オイルマネーの
    波に乗り、その後に彗星のごとく現れた、プーチン氏一代だけで、全ての天文学的な
    赤字を解消した。 その後、何度も通貨危機、テロ等にも見舞われたロシアだが、2000年
    以降からは、経済的にも安定し、かなりの経済成長を遂げていたため、25年前のロシアと
    現在のロシアとでは、全く別の国。

    この25年間で、最も変貌を遂げた国は、間違いなく、ロシア。 24年前までの正式名称は、
    『ロシア・ソヴィエト社会主義共和国連邦』で、通称『エル・エス・エフ・エス・エル』と呼ばれ
    ていた。

     

    ウクライナは、ロシア人にとっては、最も信用出来る自分たちのパートナーであった筈が、
    ウクラインが漁夫の利を得てソ連から独立を果たしてからは、何かにつけて、対立した。
    白ロシアは、ソ連から独立をした際に、国名をベラルーシに改めた。 カザフ共和国、
    キルギス共和国等々も、共和国の部分をチュルク語で「国」を表す『スタン』に改めた。
    何もかもソ連、または、ロシアのせいに出来る他の共和国とは異なり、ロシアの場合は、
    例え、失敗をしたとしても、隣国のせいには出来ないため、旧ソ連邦の中では、やはり、
    自分たちが一番でありたいというプライドがある。

    最近の自称ロシア研究家を見ていて、非常に疑問に感じるのは、ロシアと共に地獄の
    底を見てはおらず、単に英語の文章を日本語へと直訳しては、そのまま世に垂れ流して
    いるため、ロシアへの風当たりが強い。 25年前も今も、ロシアに対する偏見がなくなら
    ないのは同じだが、ロシアでは、ロシア語で喋らない限り、まともには相手にされない
    ため、せいぜいお客さん程度の扱いで終わってしまったか、または、お互いに片言
    同士の英語で喋ってしまったため、本当のロシアの姿が見えずに終わったのではと
    感じる。

     

    ロシア国内には、約180の民族、約100の言語が存在し、人の考え方も多種多様である
    ため、一概には言えないが、元々、ロシア人は、非常に親切な人が多いため、逆に親切に
    して貰えなかったとするならば、その人のロシア人に対する接し方が間違っていたので
    あろう。 ロシアに行って、100%良い思い出だけがある訳ではないが、それでも、嫌な目に
    あった数よりも、親切にして貰った数の方が遥かに多いため、ロシアは、好き嫌いという
    以前に、自分の一部。 88年頃に、当時共産党第一書記長であった、エリツィン氏が根室を
    訪れて、『北方領土は日本の領土である』と言ったのを覚えている人は、今の日本には
    どれぐらい居るのか。。 25年前は、ロシア語ではなく、ソ連語と良く言われた。 何で
    ソ連語なんか勉強しているのですか?とも言われたが、それは、もう遠い遠い過去の
    お話し。

    現在のロシアの国歌は、旧ソ連の国家とは、歌詞が違うだけだが、それは、ロシアが、
    ソ連の継承国である証。 25年前は、ソ連を批判する事すら許されなかったが、今では
    自由に批判出来る。 昔のソ連のビザは、訪問都市を全て記載しなければならず、
    それ以外の都市へ行く事は許されなかったが、今では、それもなくなった。 10年ちょっと
    前までは、ロシアの通貨であるルーブルの国外への持ち出しは一切出来なかったが、
    今では、都内の銀行でも気軽にルーブルへ換金する事が出来る。 ロシアを見ていると、
    時代は代わったのだと、つくづく感じる。

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