バルカン半島の最初の住民は、20万年前の石器時代の狩猟民族だった。
考古学者たちは、ブルガリア領域内の何ヶ所もの洞窟で先史時代の道具や
武器を発見している。 バルカン山脈のヴラッツアに近いマゴウラ洞窟では、
紀元前3000年に描かれた人間や動物の絵が発見された。

その頃、トラキア人と呼ばれる遊牧民族がマリッツア川渓谷に定住しつつあり、
この人たちがトラキア王国を建設した。 この国家は間もなくギリシャ人の
影響下に置かれることになった。 ギリシャ人たちは、都市や海岸の低地、
それにエーゲ海の島々に住んでいた。 紀元前1000年以降、ギリシャの
植民者たちは、黒海沿岸にも交易用の港をいくつか建設した。

トラキアの王たちは、自分たちの領域を強化するため、ギリシャの有力都市
アナティと同盟した。 しかし、紀元前4世紀になると、トラキアは、ギリシャ
北部にあったマケドニアの国王フィリポスの攻撃を受けて敗北した。

紀元前336年にフィリポスが暗殺されると、その息子のアレクサンドロス大王は、
マケドニア軍を率いてトラキアと小アジアを通過し、中東と中央アジアにまたがる
大帝国を建設した。

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【ローマ人の統治】

アレクサンドロスが紀元前323年に死んで彼の大帝国が崩壊すると、トラキアは
独立を回復した。 しかし、領域内に金鉱があったため、イタリア半島を根拠地に
領域を拡大中だったローマ人に目を付けられた。 ローマ人は紀元前2世紀に
マケドニアを敗北させると、北進してドナウ川に到達した。 ローマはこの地域に
2つの州を建設した。 ドナウ川とバルカン山脈の間にはモエシア、その南には
トラキアである。

ローマの兵士や農民たちは、2つの州内に定住して新しい道路や要塞や都市を
建設した。 この地域の渓谷や平原で収穫された穀物はローマ軍に編入されたが、
それでもモエシアとトラキアには平和が続いた。

紀元前3世紀になると、ローマの力は衰え、遊牧民のゴート人が、北ヨーロッパから
バルカン半島の都市や農地を攻撃した。 やがてアジアから来たフン族がモエシアに
侵入した。 330年、ローマ皇帝コンスタンティヌスは、首府をギリシャの港湾都市
ビザンティウムに移して、ここをコンスタンティノープルと改称した。 その結果、
ローマ帝国は東西に分裂した。

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北方からの侵入に耐えかね、東ローマ帝国は395年にトラキアとモエシアから
軍隊を撤退させた。 5世紀になると、侵入はますます激しくなり、西ローマ帝国は
滅亡した。 東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれるようになり、バルカン半島の
各州は、帝国内に含まれることとなった。 やがて、ビザンティン帝国の
支配者たちは、キリスト教を信じるようになった。

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