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現在カリーニングラードと呼ばれている街は、ロシア連邦西部にあるバルト海に
接する港湾都市で、ポーランドとリトアニアに挟まれたロシアの飛地となっており、現在は
人口約42万人ほど。 元々は、1255年にドイツ人の東方植民によって建設された
都市で、その後、ハンザ同盟に所属するバルト海の貿易都市となった。 1946年
まで使われていた旧都市名は、ケーニヒスベルク。 20世紀前半までは、ドイツの
東北部辺境の重要都市であった。

バルト海沿岸の諸都市と交易をし、繁栄したが、住民はポーランド王国を支持して
ドイツ騎士団と対立、1410年のタンネンベルクの戦いの結果、第一次トルンの
和約が交わされ、この周辺の領地は、全てポーランド王国の従属国となり、
1466年の第二次トルンの和約により、ケーニヒスベルクはポーランド王の直接の
所有物となり、住民による自治権を与えられた。



1660年にポーランド王国は、それまで194年に渡って支配をしていたプロシア領に
対する宗主権を放棄し、ポーランドから独立したケーニヒスベルクは、プロイセン
公国となった。 この地には、元々プルシ人という先住民が住んでおり、その
先住民の名を取って『プロイセン』と名乗るようになったもの。 1701年、
プロイセンを尊重してケーニヒスベルクで王に即位したフリードリヒ1世は、
この地でプロイセン王国を作った。 これが、現在でも東プロイセンが
『ドイツ人の心の故郷』と言われる由縁となっている。

プロイセン王国は、1772年にポーランドから西プロイセンを奪い、18世紀末には、
ロシア、オーストリアと共に、ポーランドを分割した。 1871年には、普仏戦争で
フランスを破ったプロイセン国王がドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に即位し、ドイツ
帝国が成立する。
 


第一次世界大戦後、旧ドイツ帝国の東部領土が割譲され、ドイツやオーストリア
によって分割されていたポーランドが独立を果たすと、ポーランド北部のバルト海に
面した地域にあたる旧プロイセン公国の領域のうち、自由都市として残された
ダンツィヒを除いた「西プロイセン」は、ポーランドの海への出口として
ポーランドに割譲された。 ケーニヒスベルクを中心とする『東プロイセン』は、
ドイツ領として残されたが、ドイツ本国との陸上路が閉ざされ、孤立した
飛び地となった。

後にドイツで政権を握ったアドルフ・ヒトラーは、飛び地解消を名目に、ポーランド
からの領土返還を要求したが、領土要求が拒否されため、ドイツ軍がポーランドに
侵攻し、更には、英仏がドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦が始まった。
これにより、東プロイセンは再びドイツ本土と陸路で結ばれた。 

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独ソ戦中盤までケーニヒスベルクは比較的平和が保たれたが、戦争末期には東部
戦線の激しい戦場となった。 1944年8月29日から30日にかけてのイギリス軍機
189機による空襲により、市中心部が大打撃を受け、旧市街の大半が完全に破壊
された。

ソ連赤軍が東プロイセンに進撃を始めた1944年10月頃からは、約37万人にのぼる
市民の西部ドイツへの脱出が始まった。 1945年1月末にはケーニヒスベルクは
完全に包囲されたが、市民は鉄道と港湾を使ってバルト海経由でケーニヒスベルク
からの脱出を続けた。 1945年4月6日から4月9日まで、ソ連軍は4日間にわたり
南北から最後の突撃を行い、残されたドイツ軍は降伏しケーニヒスベルクは
陥落した。

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ドイツの戦後処理が話し合われたポツダム会談において、ケーニヒスベルクは
ソ連邦への帰属が決定された。 東プロイセンは南北に分割され、南部は
ポーランド領に、ケーニヒスベルクを含む北部はソ連のロシア・ソビエト連邦
社会主義共和国に編入された。 戦後もドイツ系市民約2万人が残留していたが、
1947年にスターリンが市内に残留していたドイツ系市民の追放を決定し、翌年に
かけてドイツ系残留市民は全員鉄路で旧東ドイツ地域にへと移送された。
それと前後して、大量のソ連市民が移住した。

1946年7月4日、ソ連領となったケーニヒスベルクは、当時のソビエト連邦
最高会議幹部会議長ミハイル・イワノヴィッチ・カリーニンにちなんで、
カリーニングラード市、区域全体はカリーニングラード州とロシア語名に
改称された。 その後、ドイツ時代の遺物としてケーニヒスベルク城、
ケーニヒスベルク大聖堂などの歴史的建造物がほとんど破壊され、城の跡地には
ソビエトの家が建設された。

カリーニングラードは、冷戦時代までは軍事都市として、州全体が外国人の
立ち入りが規制される閉鎖都市だった。 ソ連でも重要な不凍港としてバルト
艦隊の拠点となり、造船業が発達したが、ソ連崩壊後にリトアニアが独立した
結果、カリーニングラード州は今度はソ連・ロシア連邦の飛び地となってしまった。

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冷戦後の需要の悪化で造船業が衰退して失業率が急激に悪化した。 ソ連崩壊
直後にロシアは、ここをポーランド領とする案を用意、その代わりにドイツは
シュチェチンを得るという話まであったが、結局そのまま放置された。 93年
からは、経済特区に指定されたが、政治や経済での混乱が続いたため、投資は
呼び込めず、軍需産業を中心とした国営企業は多くが破綻し、20万人が駐屯
していた軍隊は10分の1まで削減され、98年の同州のGDPは、89年と比較して、
マイナス57%まで落ち込んだ。

カリーニングラードの経済は崩壊し、この町が東ヨーロッパの中心部に位置
するということもあり、麻薬取引、人身売買、盗難車の取引中継地など、東欧・
旧ソ連全域を舞台にしたさまざまな犯罪の拠点に使われるほど治安が悪化、HIV
などの感染症も蔓延し始めた。 更に、ソ連からの独立により、バルト三国から
追い出されたロシア系住民が大量に流入し、人口43万人の約4割が貧困にあえいだ。

犯罪率もロシア平均をおよそ20%上回り、売春や麻薬の蔓延でエイズ感染も
拡大した。 更に、軍事都市時代の有害な廃棄物が放置されており、住めない
土地が各地に広がっていた。 もはやこの都市の存在が、ロシアにとっても
ポーランド、リトアニアなど周辺諸国にとっても頭痛の種となっていた。

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ロシアがソ連からの独立を果たして10年、カリーニングラードに経済特区が
設けられ、輸入関税を免除するなど外貨獲得を目指した。 しかし、2004年に
周囲を取り囲むリトアニアとポーランドが共にEUに加盟したため、カリーニン
グラードとロシア本土との通行にリトアニアがビザを科すようになったため、
周囲との通行に障害が生じ、先の見通しが立たないとまで言われたものの、
その後、ロシア本土との通行にリトアニアのビザ取得が簡素化されると、
カリーニングラードの経済は驚異的な成長を遂げた。

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