横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    タグ:ケルト人

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    ドイツに人が定住するようになったのは、今から約65万年前のことであると
    考えられている。 だが、これら初期の人々については、殆んど何も分かって
    いない。 約10万年前になると、狩猟生活をしていたノルマン系の人々が、
    中央ヨーロッパ北部の森林や川の流域に移り住んだ。 現代になってその骨格は、
    デュッセルドルフ近郊のネアンデルタル谷で発見され、発見場所に因んで
    ネアンデルタール人と名付けられた。

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    紀元前400年までには、ケルト人が現在のドイツ南部と西部を含む中央ヨーロッパに
    住み着いて行った。 ケルト人は、農業を営み、家畜を飼い、農耕や戦闘用の
    鉄器を作り、また、鉱石から金、銀、銅を精製していた。

    【チュートン人】
    紀元前100年頃には、北ヨーロッパのチュートン人が、ケルト人を圧迫しながら
    ドイツに移住して行った。 同じ頃、イタリア半島を拠点としながら、勢力を
    伸ばしていたローマ帝国の軍隊が、ライン川西岸のケルト人を征服した。 この
    ライン川は後に、ローマ帝国の属州ガリア(現在のフランス)と、ゲルマニア
    (ローマ人はライン川東岸にあるチュートン人の領土をこう呼んだ)との境を
    成す事になる。

    ゲルマニアの森林が深いため、ローマ人はチュートン人の農地や村落を征服する
    事が出来ないので、ライン川とドナウ川との間に要塞を築き、チュートン人が
    ガリアやイタリアに侵入するのを防いだ。

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    しかし、紀元前4世紀までに、ローマ帝国はチュートン人の攻撃によって次第に
    衰退し、395年、帝国は東西に分断された。 これを機にゴート族やフラン族等の
    ゲルマン民族は攻撃を仕掛け410年、ゴート族はイタリアに進撃を仕掛し、首都の
    ローマを焼き払った。 ローマ皇帝は軍事力強化のため、ローマ軍にゲルマン兵を
    雇い入れ、ゲルマン人の指揮官の下で働かせた。 しかし、このような指揮官の
    ひとりであったオドアケルが、467年ローマに反逆し、首都を攻撃すると共に、
    皇帝を廃して、自らイタリアの支配者となった。 こうして西ローマ帝国は崩壊し、
    フランク族等のゲルマン民族がライン川を渡って、ガリアにあるローマ領を占領する
    ようになる。

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    人はほぼ10万年間も、今のフランスの地域に住んでいた。 ヨーロッパのこの
    地域の最も古い人々の住居は、洞穴だった。 食料を得るために狩をする時の
    武器は、石器だった。 この石器時代の人々は、狩をした動物を生き生きと描いた
    絵を洞穴に残した。

    紀元前3000年頃、フランスの住人たちは、川や海岸沿いに段々と大きな集落を
    つくるようになった。 ドルメンと呼ばれる石の部屋に死者を埋葬し、メンヒル
    として知られている巨大な柱石を立てた。 当時の農民は、メンヒルを季節の
    移り変わりを予知するために用いた。

    並べた石と星の関係を見て、農民は穀物を植え、刈り入れる適切な時期を知る事が
    出来た。 紀元前800年頃、ケルト人と呼ばれる戦闘好きの民族が東方からやって
    来て、たちまちヨーロッパ大陸を支配した。 騎馬軍は鉄の武器を振り回し、
    圧倒的多数を頼みに敵を破った。

    しかし、ケルト人は次第に人口が増え、征服した土地だけでは生きて行けなく
    なって、更に領土を求めて南下した。 そしてケルト人は、ギリシャとローマの
    人々と接触するようになった。 ギリシャとローマは、南ヨーロッパの2つの
    強力な文明国だった。

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    【ローマ帝国とガリア】
    紀元前2世紀のローマは、大軍を抱えて拡張を続ける共和国だった。 ローマ人は、
    紀元前121年に、ギリシャの貿易港だったマルセイユを占領。 マルセイユ地方を
    ガリアと呼んだ。 ガリアの肥沃な平野に住むローマ人の人口は急増した。

    紀元前58年、ローマの将軍ユリウス・カエサルは、ケルト人を破ってガリアを
    ローマ領と宣言するために、大軍を率いてガリアを侵略した。 ケルト人は族長
    ウェルキンゲトリクスの指揮でカエサルに抵抗したが、カエサル軍を追い返す事が
    出来なかった。 紀元前52年、ブルゴーニュ地方のアレジアの戦いでケルト人が
    ローマ人に負けるまで、戦争は続いた。 ローマ人はウェルキンゲトリクスを
    捕虜にして、ケルト人のローマに対する抵抗は終わった。

    ローマ人はすぐ、ガリアの殆んど全域を植民地にした。 ローマ人は、ガリアに
    道路や都市を建設し大きな農園を開拓した。 ケルト人は、商人や農民になって
    成功し、ローマ人の言葉のラテン語を学んで、ローマ人に順応した。 ガリア人は
    やがて、キリスト教も受け入れて行った。 キリスト教は4世紀にはローマ人の
    公式の宗教となった。 数世紀の間、ガリアは平和であり、繁栄を続けた。

    しかし、5世紀の半ばには、ローマ帝国は衰え始める。 非キリスト教徒の
    西ゴート族、フランク族、ブルグンド族の戦士たちが、東ヨーロッパからガリアに
    侵攻し始めた。 この侵略で、ローマのガリア支配は弱まった。

    紀元前450年頃になると、フン族がアジアからガリアに攻めて来た。 アッティラ
    王が率いるフン族は、西へ進軍する時、農園や村落、都市を襲って火を放ち、
    財産を奪った。 フン族の侵略を止めるため、ガリア内に居るフランク族、
    西ゴート族、ブングルド族の軍隊はローマ軍と同盟軍を結成し、450年に、
    シャロンの戦いでアッティラを破った。 だが、戦いの後、ローマのガリア支配は
    ますます弱くなった。

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    少なくとも2500年に渡って、スロバキアには人類が住んでいた。 最も古い定住者が
    確認されているのは、ドナウ川流域での低地帯である。 そこでは、前史時代に
    わずかな穀物を栽培していた。 考古学者は、カルパート山脈の洞窟にも人間が
    居た形跡を発見している。

    紀元前500年頃、遊牧民のケルト人がヨーロッパの北と東からスロバキアへ移り住んで
    来た。 ボイイと呼ばれるケルト人グループが、現在のブラチスラヴァの地に要塞の町を
    築いた。 北のバルト海と南の地中海を結ぶ琥珀交易の道が、この地でドナウ川を
    横切っていた。 戦略上、金属細工、武器や土器の取引を盛んに行った。 ボイイは、
    スロバキアかやボヘミア、モラヴィアに定住した後、チュートン人の大規模な侵略に悩ま
    された。

    現在のドイツ人の先祖であるチュートン人は、ドナウ川上流の山脈や森からやって来た。
    チュートン人の一族、マルコマーニは、紀元前12世紀にボイイを破り、スロバキアにあった
    ケルト人の町を次々と侵略した。 その間にフランク人や他のチュートン人が、ドナウ川
    流域の平野の入って来た。 川に沿って砦を築いたフランク人は、南ヨーロッパを支配
    していた強力なローマ帝国軍の侵入に備えた。

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    【ローマ人とスラブ人】

    1世紀頃、ローマの軍団(陸上部隊)は、ドナウ川の南岸に到達した。 しかし、チュートン
    人を征服する事が出来ず、ローマ人は帝国の北方全線の要塞として、川に沿っていくつ
    かの砦を築いた。 しかし、ローマ帝国は、イタリア半島の南にある首都ローマから統治
    するには、版図を広げ過ぎた。 4世紀になると、ローマ帝国は、ローマを首都とする西と、
    コンスタンティノープルを首都とする東の帝国に分裂した。 両帝国共キリスト教を公認の
    宗教としていた。

    ドナウ川流域の要塞は、ローマの守備のために作られたのだが、流域の平野沿いに
    東からの侵入者がたやすく入り込めた。 4世紀にフン族が、中央アジアの平野から
    中央ヨーロッパに押し寄せた。 アッチラの指揮の下、フン族はローマ人をドナウ平野から
    追い出した。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、アジア系のアヴァール人が
    スロバキア、ボヘミア、モラヴィアを征服した。 6世紀には、何千というスラブ人が
    やって来たスラブ人は、カルパート山脈の狭い峠を通ってスロバキアの平野になだれ
    込んだ。 彼らはアヴァール人と戦って、オクルフリチェという小さな円形の村を作った。

    スラブ人は東、西、南の民族集団に分かれた。 ボヘミアとモラヴィアに定住していた
    チェコ人と、北方に定住したポーランド人、そして、スロバキア人は、皆西スラブ人である。

    623年に3集団は団結して、アヴァール人を中央ヨーロッパから追い出した。 スラブ人の
    リーダー達は、武器売り込み承認のドイツ人サモをリーダーに招いた。 アヴァール人を
    破ってからサモとスラブ人達は、フランク人の侵略を受けていたが、637年の
    ヴァガティスブルグの戦いでフランク人に勝った。

    勝利の後、サモは、スロバキアのドナウ川低地にスラブ人のサモ王国を建国し、支配
    することが許された。 しかし、658年にサモが死ぬと、国はすぐに崩壊した。 その後
    2世紀に渡ってスロバキアは広い範囲に渡って荒廃し、政治的な混乱が続いた。 各地で
    衝突が起こり、スラブ人の農地や町は荒れ、やがて姿を消した。 強力な中央政府が
    ないため、スラブ人領主は自分達の小さな領地を独自に治め、領地拡大のために戦った。

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    現在、イギリスに住む人の多くはケルト人、ローマ人、アングロ・サクソン人、
    デーン人、ノルマン人など、かつてイギリスに侵入し、住み着いたヨーロッパ
    民族の子孫である。 イングランドには、ケルト人が刻んだ石灰石の像や、
    ノルマン人が建てた聖堂など、先祖の造った物が残っている。

    18、19世紀に激しかった貧富の差は、2回の世界大戦で縮まった。 社会的
    差別は尚もあるものの、以前ほど厳しいものではない。 例として、1964年
    以降、どの首相も中流ないし、労働者階級の出であることがあげられる。 また、
    若者は、独自の流行や言葉を生み出し、かつては服装や言葉遣いにハッキリ
    見られた階級差は消えた。

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    20世紀にはヨーロッパ、インド、パキスタン、香港、カリブ諸島から難民として、
    あるいは、かつての植民地からよりよい暮らしを求めて、大勢の人がイングランドに
    移住して来た。 1990年代前半には、移民は500万人にも上った。 その多くは、
    都市のスラム街に住んでおり、少数派であるがために、住居や職を探すのに差別を
    受けることがある。

    民族の違いから来る都市生活の不安も、イギリスにおける新しい問題である。
    ロンドン、リバプール、ブリストル、バーミンガムなどでは、黒人や東洋人の
    住んでいる地区で暴動が起きている。 原因は、失業率の高さなどの経済問題や、
    警察と住民の関係の悪さにあると考えている人が多い。

    しかし、最近の総選挙では、東洋系や黒人の下院議員が誕生しており、また、
    少数民族が地域ごとに、自分達自身の力で問題解決の計画を立て、運営するなど、
    明るい動きも見られる。

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    山間部や川の流域の洞窟に人が住み始めた先史時代に、今のチェコにあたる
    地域、ボヘミアとモラヴィアにも人類が住んでいた。 紀元前500年頃、
    ヨーロッパの北と東から遊牧民ケルト人がやって来た。

    ボイイと呼ばれるケルト人がボヘミアに定住し、その地域とボイイと名付け、
    それがボヘミアの由来と言われている。 ケルト人の集落や最大の都市
    ボイオヘムームは、交易で栄えた。

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    しかし、ボイイ人は、西の地域に定住していたチュートン人(ドイツ系)と
    敵対関係にあった。 紀元前12年には、マルコマーニと呼ばれたチュートン人が
    ボイイを征服した。 ボヘミアとモラヴィアは、その後数世紀に渡って争いが
    続き、不穏な情勢にあった。 侵入する遊牧民と、土地や交易をめぐって衝突が
    絶えなかったからだ。

    別のチュートン人一族がマルコマーニ人を征服して、南の盆地に定住したところ、
    アヴァール人とスラヴ人が東から移動して来た。 ローマ帝国軍の兵士達も、
    ヴァルタヴァ川の流域に前線基地を造るために、ボヘミアの森を通って前進して
    来た。

    ローマ人は、3世紀までにイタリア半島を基地に広大な帝国を築いていた。
    しかし、外部からの侵入と政治的な内乱はローマ帝国を弱体化させ、ローマ
    帝国は、4世紀には東と西に分裂した。

    東西分裂の後、コンスタンティノープル(イスタンブール)は、東ローマ帝国の
    首都となった。 しかし、ローマは、依然として西ローマ帝国の首都であった。
    ふたつの首都共、ローマ帝国が公認したキリスト教の拠点としての地位を持った。

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    4世紀に入ると、チュートン人が南ヨーロッパとイタリアに侵入し、西ローマ
    帝国は滅亡した。 その後、スラヴ人の大集団が移動し始めた。 スラヴ人は
    東、南、西のグループに分かれていた。 東スラヴ人はロシアに、南スラヴ人は
    南東ヨーロッパのバルカン半島に、西スラヴ人は中央ヨーロッパ北部の川の
    流域と平野に集落を作った。

    なかでも、現在のポーランド、ボヘミア、モラヴィア、スロヴァキアにあたる
    地域に定住した西スラヴ人は、最も大きな民族集団であった。 この民族
    大移動の時期に、ボヘミアとモラヴィアに到達したスラヴ人集団のひとつが、
    チェコ人の先祖である。

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    先史時代、現在のオーストリアとなっている地域の渓谷は、氷河に覆われていた。
    紀元前1万年頃、この氷河は溶けて、北へ後退した。 気温の温暖化につれて、
    穴居していた先史人類たちは、森林や渓谷で狩猟や耕作を始めた。

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    そのうちに、人々はこの地域の岩塩を採掘したり、金属の器具や武器を作るように
    なった。 その結果、紀元前3000年頃には、この地域は、ヨーロッパ交易の中心に
    なっていた。 紀元前800年頃、ザルツカンマーグート地域のハルシュタット付近に
    重要な交易中心が出来、熟練した工人たちが作った鉄や青銅の剣は、ヨーロッパの
    西部や北部に輸出された。

    紀元前450年頃、ケルト人と呼ばれる熟練した騎馬戦士が、東からヨーロッパ東部を
    横断してドナウ川の南岸に侵入し、ノリクム王国を建てた。 ケルトの工人たちは
    鉄、銅、青銅を使って武器や日常用具を作った。 岩塩と鉄鉱石の管理で、強力で
    安定した王国となったノリクムは、数世紀に渡って繁栄した。

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    【ローマ統治下のオーストリア】

    ケルト人の土地の北には、今のドイツ人の祖先であるゲルマン人が住んでいた。
    ゲルマン人は、ノリクムの鉱山や定住地を度々攻撃し、ついには、王国を通過して
    王国の南にあるローマ人の都市を度々攻撃した。

    ローマ人は、イタリア半島を根拠地とする民族だが、紀元前1世紀には、地中海
    沿岸のほとんどを征服して大帝国を築きつつあった。 ローマ人たちは、
    ゲルマン人の攻撃を阻止するためにノルクムに侵入し、紀元前15年頃、ケルト人
    たちを征服して、ドナウ川沿いに新しく要塞を築き始めた。 ローマ帝国は、
    この地域に3つの州を創った。 アルプス山地のラエティア、オーストリア中部の
    ノリクム、そして、ノリクムの東でドナウ川の南岸を占めるパンノニアである。

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    この地域のローマ諸州では、安定した軍政の下で、200年に渡って平和が続き、
    往来の激しい交易ルートに沿って、新しい都市が次々に建設された。 商人たちは、
    帝国の他の地域に、岩塩、金属、羊毛、家畜を輸出した。 ローマ人たちは、
    ウィンドボナ(現在のウィーン)とその東のカンヌントゥムに、城壁に囲まれた
    都市を建設した。

    しかし、西暦2世紀の後期になると、繁栄していたノリクムの諸都市は、ローマの
    国境外に住む好戦的な諸民族の攻撃に再びさらされることとなった。 ドナウ川
    越の攻撃は、4世紀一杯続いた。 その間に帝国の指導者層が分裂して、国境
    沿いの諸州への支配力が弱まった。 こうして、この地域での交易は次第に衰えた。

    400年代になると、ローマの軍隊は、北部の諸州から撤退した。 すると、東からは
    スラブ人が、北からはゲルマン人が、ローマの諸州を次々と攻撃した。 5世紀末
    にはローマはすっかり衰退し、アジアから来たフン族の大軍が、アッティアラ
    という名の王に率いられて、ヨーロッパ中部を制圧した。 農地や交易ルートを
    めぐる争いもしばしば戦争の原因となった。

    ゲルマン人たちは、ノリクムとラエティアを征服し、スラブ人たちは、パンノニアに
    定着した。 北東からチェコ人たちがドナウ渓谷に侵入し、また西から移動して来た
    アレマニ人は、オーストリア西部の山岳地帯に幾つもの村落を作った。

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    イギリス諸島は、元からヨーロッパ大陸とは離れていたと思われていたが、
    4万年前は、地続きであった。 紀元前5000年に最後の氷河期が終わり、氷が
    溶けて水位が上がったため、大ブリテン島とヨーロッパ大陸の間に狭い海峡が
    生まれ、イギリスは島国となった。

    当初、大ブリテン島に住んでいたのは、大陸からやって来た人々であった。
    彼らは、石や骨格製の道具を使って巨大な森林を開き、農耕を営んだ。

    紀元前3000年頃にヨーロッパから新たな人々が移住し始め、紀元前2000年前後
    には、今日のドイツから大集団がやって来た。 彼らは、青銅器を使い、石や
    木でヘンジと呼ばれる円形の祭場を作った。 ストーンヘンジはそのひとつで、
    南イングランド中央部のソールズベリーに現存する。

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    約1500年後には、また新たな人々が移住して来た。 ケルト人と呼ばれる
    好戦的な彼らは、北ヨーロッパ出身で、鉄製武器を使い、やがて大ブリテン島を
    征服した。 ケルト人は、クランと呼ばれる氏族に分かれ、氏族間で権力を争った。
    落ち着くと、農耕を営み、紀元前500~100年には、イングランドは農業国
    となった。 言葉はクランで共通のケルト語を使った。

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    【ローマ時代】
    イングランドは、ヨーロッパ本土とは海で隔てられていたため、イタリアに中心
    勢力を持つローマ帝国の支配力は及んでいなかった。 しかし、紀元前55年には、
    ローマ軍指令官ジュリアス・シーザーがイギリス海峡を渡り、短期間だけだが
    イングランド南東部を襲撃、翌年更に大きな軍隊を率いて来た。

    ケルト人は、必死に抵抗したが、ローマ軍に敗北した。 シーザーは、和平条件を
    示したが、ケルト人はフランスの地で反逆活動を行い抵抗した。 シーザーは、
    イングランド支配を諦め引き上げた。

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    紀元前43年、ローマ皇帝クラウディウスは、軍隊をイングランド南東部に出動
    させた。 ケルト人は、ボアディケア女王を中心に、激しく抵抗したが、奮戦
    むなしく、1世紀末には、島を征服された。 ローマ人は新しい領土をケルトの
    1クラン、ブリトンにちなんで、ブリタニアと名付けた。

    征服者となったローマ人は、イングランドに道路を敷き、砦や都市を築いた。
    紀元後120年代には、ローマ皇帝ハドリアヌスの指揮の下、ローマ人は制圧
    出来なかった大ブリテン島最北の民族がイングランドへ侵入するのを防ぐために、
    『ハドリアヌスの長城』と呼ばれる城壁を築いた。

    ローマ支配が進むにつれて、ラテン語がケルト語に入り込んだ。 3世紀には、
    ローマ人宣教師がキリスト教布教のために来島した。

    文化的には強い影響力を持っていたのだが、ローマ帝国は、4世紀には崩壊し
    始めた。 ローマ軍司司令官や貴族達が権力争いをし、ローマの領地に及ぶ
    支配力が弱まった。 イングランド駐屯のローマ部隊は、帝国の他の地域を
    防衛するためにブリタニアを去った。

    4世紀後半、大陸ではゲルマン人達が反抗していたが、ローマ人は強いて鎮圧し
    ようとはしなかった。 5世紀半ばには、ローマはブリタニア支配を放棄していた。

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    【クロマニヨン人からケルト人まで】
    今から3万年前、フランスには、我々の祖先とされている新人に属する
    クロマニヨン人が住んでおり、 狩猟や漁労の生活をしていた。 紀元前9世紀頃
    から、フランスには、鉄器文化を持ったケルト人が移住し、彼らが支配した
    地域は『ガリア』と呼ばれている。 紀元前58年から、ケルト人の指導者
    ウェルキンゲトリクスが反乱を起こすが、破れ、紀元前51年に全土を支配された。

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    【フランク族の支配と封建時代】 
    ローマ帝国の支配により、ガリアの地はローマ化が進すみ、キリスト教も広まった。
    4~6世紀になると、ゲルマン人が侵入し、ガリアは、その中のフランク族が
    支配するようになった。 5世紀末、フランク族のクロービスがメルビング朝を
    起こし、キリスト教に帰依する。

    メルビング朝の宮宰のカール・メルテルは、732年にイスラム軍を破り、フランク
    王国への進入を食い止めた。 その子であるピピンは、751年にカロリング朝を
    起こし、ピピンの子シャルルマーニュ(カール大帝)は、北イタリアから北海に
    およぶ地域を支配し、ローマ教皇から西ローマ帝国の冠を授けられた。

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    843年、フランク王国は3つに分かれ、このうち、に西フランクがほぼ今の
    フランスにあたる。 続いて、987年、カペー朝が起こった。 この王朝の下で
    農業技術が発展し、土地の開拓が進み、農村共同体が出来た。 小領主は、
    大領主に忠誠をつくして保護を求め、主従関係が結ばれた。 この頂点に立った
    カペー朝は、キリスト教の権威を支えに、中世の封建制度を確立した。

    11~12世紀には、ロマネスク様式の教会が、12世紀後半頃からゴシック様式の
    教会が各地に建てられた。 この頃、都市も発展し、市民層の発言力も高まった。

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    現在ベルギーになっている地域では、いくつもの先史時代の遺跡が発見
    されている。 それによれば、この地域の初期の住民の大部分は、農業と
    牧畜に従事していたようである。 西暦前3000年頃までに、東と北から侵略と
    移住が繰り返されて、この地域の人々の生活様式を変えてしまった。 新来の
    人々の一部は、金属加工に熟練していた。 その後、ヨーロッパ北部から
    ケルト人と呼ばれる人々が来て、死者を火葬にして、遺灰を骨壷に収める
    風習を広めた。

    西暦前およそ2000年頃までには、ケルト系の人々がこの地域に住むように
    なっていた。 その中でも、ベルガエ人は、よく知られている。 オランダ
    北部では、ケルト系とゲルマン系の両文化の接触は、ごく普通に行われ、西暦前
    1世紀には、ゲルマン系の民族が現在のフラマン地域圏に入って、ケルト系の
    人々と婚姻関係を結んだ。 それに対して、南部(現在のワロン地域圏)は、
    殆ど完全にケルト系のままだった。

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    【ローマ人の支配】
    西暦前1世紀、優秀な戦士だったベルガエ人は、ローマ帝国の軍隊と戦った。
    この帝国は当時、イタリアから北に向かって領土を広げていた。 西暦前
    58年~51年に掛けては、ローマの将軍、ユリウス・カエサル(ジュリアス・
    シーザー)の率いる軍団が、当時ガリアと呼ばれていたヨーロッパ北部の広い
    地域を征服した。 ローマ人は、やがて、ベルガエ人を服従させ、ベルギカ州を
    建設した。 この地域は、現在のベルギーから、北方のライン川まで広がって
    いた。

    ローマ人は、ベルギカ州内に軍隊の野営地を設置し、広い道路網を建設した。
    ベルギカの住民たちは、税金を支払い、また、兵士を提供した。 軍隊に食料を
    提供するために、ローマ人は大規模な農場を作り、穀物の収穫量を増やした。

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    ベルガエ人は、ローマの統治にやすやすと適応し、ローマ人の使っていたケルト語に
    取り入れられた。 西暦2世紀には、ベルギカ州内の多数の水路沿いに産業と交易が
    栄えた。 現在、いくつかの都市等には、ローマ時代の遺跡に残っている。
    しかし、4世紀の終わり頃には、ローマ政府内の様々な問題のために、帝国の
    防衛が弱体化し始めた。 ゲルマン系の民族グループの内、特に中央ヨーロッパ
    から来たフランク人がベルギカ州内のローマの本拠地を攻撃して、奪い取った。

    この頃までに、ローマ人は、キリスト教を国教として採用しており、この宗教は、
    ヨーロッパの他の地域にも広がり始めた。 ベルギカ州内のローマの支配力は、
    5世紀初期には、更に弱くなり、また、北海の高潮が、スヘルデ河口沿いの低地に
    洪水となって侵入した。 更に、奥の内陸部は、余りにも沼地が多く、農業や
    定住や防衛に適さないため、ローマ軍は、北の前哨戦から撤退して行った。

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    先史時代、現在のオーストリアとなっている地域の渓谷は、氷河で覆われていた。
    紀元前1万年頃、この氷河は溶けて、北へ後退した。 気候の温暖化につれて、
    穴居している先史人類達は、森林や渓谷で狩猟や耕作を始めた。 そのうちに、
    人々は、この地域の岩塩を採掘したり、金属の器具や武器を作るようになった。

    その結果、紀元前3000年頃には、この地域は、ヨーロッパ交易の中心になって
    いた。 紀元前800年頃、ザルツカンマーグート地域のハルシュタット付近に
    重要な交易の中心地が出来、熟練した工人達が作った鉄や青銅の剣は、ヨーロッパ
    西部や北部に輸出された。

    Austriaromana

    紀元前450年頃から、ケルト人と呼ばれる熟練した騎馬戦士達が、東からヨーロッパ
    東部を横断してドナウ川の南岸に侵入し、ノリクム王国を建てた。 ケルトの
    工人達は、鉄、銅、青銅を使って武器や日常用具を作った。 岩塩と鉄鉱石の
    管理で、強力で安定した王国となったノリクムは、数世紀に渡って繁栄した。

    ケルト人の土地の北には、今のドイツ人の先祖であるゲルマン人達が住んでいた。
    ゲルマン人は、ノリクムの鉱山や定住地を度々攻撃し、遂には、ノリクム王国を
    通過して、王国の南にあるローマ人の都市を度々攻撃した。 ローマ人は、
    イタリア半島を根拠地とする民族だが、紀元前1世紀には、地中海沿岸の殆どを
    征服して大帝国を築きつつあった。 ローマ人達は、ゲルマン人の攻撃を阻止
    するために、ノリクムに侵入し、紀元前15年頃、ケルト人達を征服して、ドナウ川
    沿いに新しく要塞を築き始めた。

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    ローマ帝国は、この地域に3個の州を作った。 アルプス山脈ラエティア、
    オーストリア中部のノリクム、そして、ノリクムの東でドナウ川の南岸を
    占めるパンノニアである。 この地域のローマ諸州では、安定した軍制の下で、
    200年に渡って平和が続き、往来の激しい交易ルートに沿って、新しい都市が
    次々に建設された。 商人達は、帝国の他の地域に岩塩、金属、羊毛、家畜を
    輸出した。 ローマ人達は、ウィンドボナ(後のウィーン)とその東の
    カルヌントゥムに城壁に囲まれた都市を建設した。

    しかし、西暦2世紀の後期になると、繁栄していたノリクムの諸都市は、ローマの
    国境外に住む好戦的な諸民族の攻撃に再びさらされることになった。 ドナウ川
    越しの攻撃は、4世紀一杯続いた。 その間に、帝国の指導者層が分裂して、
    国境沿いの諸州への支配力が弱まった。 こうして、この地域での交易は、次第に
    衰えた。

    400年代になると、ローマの軍隊は、北部の諸州から撤退した。 すると、
    東からは、スラヴ人が、北からは、ゲルマン人が、ローマの諸州を次々と攻撃
    した。 5世紀末には、ローマはすっかり衰退し、アジアから来たフン族の大軍が、
    アッティラという名の王に率いられて、ヨーロッパ中部を制圧した。 農地や
    交易ルートをめぐる争いも、しばしば戦争の原因となった。 ゲルマン人達は、
    パンノニアに定住した。 北東からはチェコ人達がドナウ渓谷に進出し、また、
    西から移動して来たアレマニ人は、オーストリア西部の山岳地帯にいくつも
    村落を作った。

    キリスト教は、1世紀初めに、イスラエルのイエス・キリストの教えに基づいて
    成立した宗教である。 代々のローマ皇帝達は、この宗教を敵視し、厳しい
    禁止令を設けて信者達を迫害したが、伝道者達のたゆみない努力でキリスト教は、
    帝国領地内の人々の間に着実に広まり、4世紀末には、帝国の国教として公認
    された。

    ローマ帝国が滅んで、戦乱や侵入が激しくなる中で、キリスト教は、一層の
    広がりを見せ、8世紀には、ローマに住む教皇の下、単一の宗教組織としての
    カトリック教会が成立した。 この宗教がこの地域に伝えられたのは、西隣の
    バイエルンからで、人々は、両地域の境のザルツブルグに教会を建立した。
    798年、ザルツブルグは、独立の大司教管区として定められた。

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    この頃、ゲルマン人の一派フランク族の皇帝でフランスに君臨していた
    シャルルマーニュは、領土を東に広げて、788年、この地域を征服し、ここを
    『オスト・マルク(東の防衛戦)』と名付けた。 東からスラヴ人や
    アヴァール人等への牽制の意味を持つ名称で、後に『エスターライヒ
    (東の王国)』と変えられ、オーストリアの正式な国名となった。

    814年にシャルルルマーニュが死ぬと、相続者達は、帝国の覇権をめぐって
    争った。 817年、オーストリアは、シャルルルマーニュの孫のルートヴィッヒの
    支配するバイエルン王国の一部となった。 843年にヴェルダン条約が締結
    されて相続争いは終わり、ルートヴィッヒは、東ランク王国を創設した。
    これは、現在のオーストリアとドイツを殆ど含む広大な領域となっている。

    878年、ルートヴィッヒの死後の後継者達の争いで、東フランク王国は弱体化した。
    9世紀末、アジア系の遊牧の民、マジャール人は、ドナウ川か沿いに、スラヴ人と
    アヴァール人は、東と南から、それぞれオーストリアに侵入し、数多くの都市や
    農場を破壊した。 955年、ドイツ王オットー1世は、レッヒの戦いで
    マジャール人を破り、オーストリアを独立の領邦、つまり、小国家と定めた。

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