多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:ケベック

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    イギリスは新たに獲得した領土をケベックと名付けた。 イギリスの法律に
    基づいた統治され、ケベックに住居するフランス系カナダ人は差別された。
    例えば、フランス系に多いカトリック教徒は公職に就く事が出来なかった。

    しかし、この法律の下では、フランス系住民にイギリスへの忠誠を誓わせる
    ことは出来ないと思われた。 これは、イギリス政府が南の13の植民地
    (現在のアメリカ合衆国東部)について抱えていた問題でもあった。

    ケベック植民地の初期の総督たちの働き掛けで、イギリス政府はケベックの
    統治に関する法律を変えた。 こうして1774年に制定されたケベック法は、
    フランス系住民に宗教の自由とフランス民法の適用を認めたのである。

    1775年にイギリスの統治に反対して反乱を起こした南の13の殖民地は、ケベックの
    フランス系住民も行動を共にするものと期待した。 しかし、彼らは中立の
    立場を守った。 ケベックに駐留するイギリス軍の南下を妨げるため、反乱軍は
    1775年に北部地方を攻撃した。 モントリオールは陥落したが、ケベック市を
    攻め取ることは失敗に終わった。

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    【アッパーカナダとローワーカナダ】

    アメリカ独立戦争の間も、植民地の住民の中には相変わらずイギリスに忠誠を
    誓う者が多かった。 戦争中も戦争後も、王党派と呼ばれる住民は大勢、
    北のノバスコシアとケベックに逃げた。 間もなく、ノバスコシアの王党派は、
    独自の植民地を求めるようになり、1784年にノバスコシアから分かれた新植民地、
    ニューブラウンズウィックが設立された。

    イギリス系とフランス系の植民者は相変わらず対立していた。 1791年に
    イギリス議会はカナダ法を制定した。 これによって、ケベックは、イギリス系の
    アッパーカナダとフランス系のローワーカナダに二分された。

    アッパーカナダは五大湖地方とセントローレンス川上流地域を含み、ローワー
    カナダはセントローレンス川の下流地域を占めた。 新しく建設された2植民地は、
    それぞれの選任議会制度を採ったが、カナダの全植民地を統治するのは、やはり、
    イギリスだった。

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    【植民地の拡張】
    独立戦争がもたらしたものはアメリカ合衆国の建国だけではなかった。 この戦争に
    よって、イギリスの商人たちは、重要な交易地を失い、イギリスとアメリカ合衆国の
    領土が拡張されるに連れて、インディアンは西に移住した。

    その結果、毛皮交易の主導権を握るハドソン湾会社は、新しい毛皮の産地を
    求めて出先機関を更に西に設け、活動範囲を広げて行った。 18世紀の末には、
    ノースウェスト会社が創設され、ハドソン湾会社の競争相手となった。

    通商が発展するに連れて、イギリス領北アメリカ植民地に編入された新しい土地への
    探検が行われた。 1783年、アレクサンダー・マッケンジーはマッケンジー川
    沿いに探検旅行をし、1793年には、太平洋岸に到達した。

    1811年に、デービット・トンプソンがコロンビア川を探検した。 翌年には、
    トマス・ダグラスが現在のマニトバ州にあたるレッド川沿いの土地に数百人を
    入植させ、レッドリバー植民地を建設した。 1821年にはハドソン湾会社と
    ノースウェスト会社が合併した。 この2社は、カナダ西部中部のほぼ全域を
    統治し、通商の権限を握った。

    19世紀を通じて、それまでインディアンが住み着いていた土地は、ほとんど
    ヨーロッパ人の植民地となった。 人口の多い東部の植民地では、インディアンは
    居留地に移住させられ、その数は減った。 インディアンの重要な食肉だった
    野牛の大群も、ヨーロッパ人が移民して来たために減って来た。 これは、狩猟に
    よるインディアンの生活に大きな影響を及ぼした。

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    17世紀の末、ヌーベルフランスの商人たちは、領土の南側にあるイギリス
    植民地の商人たちと、毛皮交易の主導権をめぐって争っていた。 ハドソン湾
    周辺の土地の領有権についても、イギリスとフランスの両勢力が対立していた。

    1670年、イングランド王チャールズ2世により、ハドソン湾会社が設立された。
    同社は、当時の情勢に不満を持つフランスの毛皮商人の助けを得て、ハドソン湾
    沿岸の数地点に出先機関を設け、要塞を築いた。 ここで銃、ナイフ、調理道具と
    毛皮が交換された。

    多くの販路を持つハドソン湾会社は、インディアンや植民地の取引先に気に入られて
    勢力を広げ、フランスにとっては交易の重要な収入源を断たれる脅威となった。
    そのため、フランスが同社の出先機関を攻撃すると、イギリスも仕返しをした。
    この争いは、数十年続き、この地域でのイギリス・フランス間の緊張は高まった。

    1702年から1713年に掛けて、ヨーロッパでも両国間の運命を左右することに
    なった。 この間、新世界では、イギリス・フランス両軍が戦った。
    アン女王戦争と呼ばれるこの戦いは、1713年にユトレヒト条約が結ばれて
    終結した。 同条約により、フランスは、ハドソン湾岸とアカディア
    (後にノバスコシアと改名)、ニューファウンドランドを正式にイギリス領で
    あると認めた。

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    【フランスの最後の敗北】

    こうしてイギリスがフランスの領土を獲得すると、そこへイギリスの交易商人や
    開拓者たちが移住し始めた。 そのため、イギリス・フランス間の緊張は更に
    高まり、1753年に北アメリカ大陸で両国の武力衝突が起きて、1756年には、
    ヨーロッパにまで戦いが広がった。

    この戦争でイギリス側では、植民地の民兵、および、イギリスと同盟を結んでいた
    インディアン部族が戦い、フランス側にもインディアンの部族が付いた。 数の
    上で優勢なイギリスは、北アメリカ大陸からフランス人を追い出すことを狙った。


    イギリス軍は1759年にケベックを、1760年には、モントリオールを攻め取った。
    1763年のパリ条約で、現在のカナダにおけるフランス領は全てイギリスに譲渡
    された。

    既にアカディアを統治していたイギリスは戦争の間、アカディア人を北アメリカの
    各地へ強制的に移住された。 フランス人の子孫であるアカディア人が反イギリス
    活動に出るのを防ぐためである。 その結果、多くのアカディア人は、アメリカ
    合衆国に定住した。 戦争が終わるのを待って故郷に帰ったアカディア人も居たが、
    自分たちの住居や農場や既に他の人々に奪われていた。

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    17世紀のヌーベルフランスの大問題は、入植者が集まらないことだった。 その地は
    何度もイギリス軍やイロコイ族に襲撃されていたため、ヨーロッパ人が移民する
    意欲を失っていたのである。 例えば、ケベック市の住民は、建設後20年経っても
    100人足らずだった。

    1627年にフランス政府は、『ヌーベルフランス会社』(百人会)をつくり、
    新世界との交易を続けさせた。 設立許可書によると、同社はヌーベルフランスの
    人口を毎年300人づつ増やすことが義務付けられていた。 ヌーベルフランスの南に
    当たる領土(現在はアメリカ合衆国の一部)を占領していたイギリスとオランダの
    入植者の数に比べれば、フランスが目標とする数はわずかなものだった。

    1627年に、ヨーロッパでイギリス・フランス間の争いが始まると、イギリス軍は
    北アメリカのフランス領を攻撃し、29年にはケベックを占領した。 32年に
    結ばれた条約により、ケベックはフランスに返されたが、ヌーベルフランスの
    情勢は相変わらず不安定だった。

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    カナダ東部のフランス領は、元々ヘンリー・ハドソンが探検した土地だったため、
    イギリスはその地域の領有権を主張した。 その上、フランス軍とイロコイ族の
    間には衝突が繰り返されていた。 イロコイ族は毛皮交易を南部に移し、
    オランダ人を相手に毛皮を火器などと交換することを望んだ。 イロコイ族は、
    1651年には毛皮交易のインディアン側の主導権を握った。

    1663年、フランス国王ルイ14世は、ヌーベルフランスに軍隊を派遣し、
    イロコイ族の制圧と植民地経営の強化を図った。 イロコイ族の中には、争いに
    嫌気が差し、やむなく平和条約を結ぶ者もあった。 ヌーベルフランスの人口は、
    1679年にはほぼ1万人に達した。

    フランスの毛皮交易の中心になっていたのは、『森を走る人』と呼ばれる若い
    開拓者たちだった。 彼らは、危険を冒して未開の地に踏み入り、インディアンと
    取引した。 この大胆な交易商人たちは、フランス政府の交易免許証を持って
    いなかったが、インディアンの言葉と習慣に通じていたため、容易く毛皮を手に
    入れることが出来たのである。

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    毛皮貿易が段々と盛んになると、フランス人は新世界の領土を拠点とし、フランス
    帝国を築き上げることを目指した。 しかし、フランスはその領土の支配権を
    完全に握っていた訳ではない。 フランス王アンリ4世は、アカディア地方
    (今日のノバスコシアとニューブラウンズウィッグの一部で、北アメリカでの
    最初のフランス領植民地)の所有権を強化するために、新世界の土地を裕福な
    フランス人に譲渡し、本格的な植民地経営に取り組ませた。

    1605年、サミュエル・ド・シャンプランは、ポールロワイヤル(今日の
    ノバスコシア州アナポリスロイヤル)に植民地を築いた。 1608年に
    シャンブランは、ケベック市を建設し、セントローレンスバレーにおける毛皮
    交易の主導権を握るための拠点とした。 また、毛皮交易を盛んにする手段として、
    イロコイ族を支援した。

    1609年にシャンブランの率いるフランス軍が銃で、イロコイ族の酋長を2人殺した
    (銃は当時北アメリカにはじめて持ち込まれた新兵器だった)。 それ以来、
    イロコイ族とフランスは長年敵同士となった。

    シャンブランは、ケベックの毛皮貿易を発展させ、『ヌーベルフランス』と呼ばれ
    ていた地域にフランス人を入植させた。 また、大規模な探検を何度か行い、
    1615年にはヒューロン族の領土まで赴いた。

    1615年、フランスからカトリックの宣教師がやって来て、インディアンの間で
    布教活動をはじめた。 10年後には、イエズス会の宣教師たちがカナダに上陸した。
    1642年には、フランスの他の派の宣教師たちが、モントリオールにカトリック
    教徒の植民地を築いた。

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    ヨーロッパ人の到来は、インディアンの文化に深刻な打撃を与えた。 天然痘など
    海外から持ち込まれた病気によって、多くのインディアンたちは、自由に食料を
    採ったり、これまでの習慣に従った生活をしたりすることが出来なくなった。

    毛皮交易をめぐる競争によって、インディアンの部族間の対立が激しくなった。
    キリスト教の宣教師は、先住民の文化や信仰を認めず、ヨーロッパの社会組織と
    宗教制度を押し付けた。 こういう変化のお陰で、インディアンの部族間の連帯は
    ますます弱まった。

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    カナダには多くの大都市があるが、そのほとんどが国土の南半分に位置している。
    全人口の約75%が都市に住み、大半が東部各州の都会に居住している。

    カナダの首都はオンタリオ州のオタワだが、最大の都市は、同じオンタリオ州の
    トロントで、過去には、モントリオールが最大の都市であった。 両市の人口は、
    都市の周辺部までを含めるとトロントの方が大きいが、都市部だけの場合では、
    長年モントリオールの方が上回っていた。

    但し、トロントは、1998年1月1日に周辺都市部と広域合併をしたため、現在では、
    名実共にトロントがカナダ最大の都市となっている。 カナダ第3の都市は、
    バンクーバーとなっており、トロントとバンクーバーは、国連調査の世界で最も
    住みやすい都市ランキングでも、常に上位を維持している。

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    【オタワ】
    オタワ川の南側に位置するオタワ(人口約101万人)は1857年以来、カナダの
    首都である。 その名前は、インディアンのオジブウェー族の言葉『アタワ
    (交易する)』に由来する。 1800年代に、イギリスの技師によってリドー
    運河が開通し、オタワ川とオンタリオ湖が結ばれた後、この地にイギリス人の
    居住地が出来た。

    オタワは1900年代の大火でほとんど全部焼けてしまったが、その後、カナダの
    工業、政治、観光の中心地として再建された。 市内の工場では、通信機器、
    紙、家具、加工食品、化学薬品などを製造している。

    市内には公園が多く、公的な儀式が度々行われるので、観光客も多い。 年間
    行事としては、5月の『春祭り』と、夏季に国会の正面入り口の前で行われる
    衛兵交代の儀式などがある。

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    【トロント】
    トロントは、オンタリオ湖の北東岸にあり、船が頻繁に出入りする港である。
    全市の人口は、約560万人で、カナダで最も多い。 1793年にアッパーカナダ・
    イギリス植民地の首都が設けられ、瞬く間に発展した。 トロントという名称は、
    インディアンのヒューロン族の言葉で、『出会いの場所』を意味する。

    トロントは、カナダの製造業と金融業の中心地で あり、出版業と映画制作が
    発達し、工業地区では加工食品、衣類、木製品が生産される。 また、文化都市
    としても重要であり、ロイヤル・オンタリオ博物館やオーキーフ・センターと
    呼ばれる演劇の殿堂をはじめ、カナダで最も有名な文化活動の場が集まっている。

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    【モントリオール】

    モンとリール全体の人口は、332万人で、トロントには及ばないが、都市部だけの
    人口は100万人に達し、パリに次いで、世界第2位のフランス語都市でもある。

    モントリオールは、セントローレンス川の両岸にまたがり、交通の中心地である。
    川を下れば、大西洋に出る事が出来、セントローレンス水路によって、五大湖とも
    結ばれ、鉄道もここから東西に伸びている。

    モントリオールには、はじめインディアンのアルゴンキン族とイロコイ族が住み
    着いていたが、17世紀にフランス人がこの地に来て、カナダにおけるフランス領
    植民地の拠点を設けた。

    その後、1760年にイギリスが占領したため、モントリオールには、フランスと
    イギリスの伝統が両方ともある。 フランス系とイギリス系の住民はお互いに
    許せないところがあり、暴力沙汰を引き起こした事もある。 市民の中には、
    カナダにおけるフランス語圏とイギリス語圏を分離されるべきだという説を
    支持する者もいる。

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    【バンクーバー】

    カナダ第3の都市、バンクーバー(人口約183万人)は、太平洋に接続するカナダの
    重要な港である。 太平洋の暖流と穏やかな気候の影響で、冬季にも湾内の航路は
    凍る事がない。 ここはモントリオールやトロントは違い、一年中港として使える
    のである。

    北アメリカとアジア諸国との間の貿易が拡大した1960年代と70年代には、太平洋に
    面するという立地条件のお陰で、バンクーバーのカナダ経済に対する重要性が増した。
    また、カナダ東部と結ばれる鉄道も完成したため、国内の地位も向上した。

    70年代と80年代には、金融業と製造業が発展し、今日では、オンタリオ州以西で
    最大の金融、および、工業の中心地となっている。 広大な森林の資源を利用して、
    製紙・製材業が盛んで、木製品も大量に作られている。その他にも、豊かな天然
    資源に恵まれ、石油、石炭産業に原料を提供している。

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    カナダでは毎年7月1日が『カナダの日』(建国記念日)となっているが、2017年
    7月1日、カナダは建国から150周年の節目を迎える。 毎年、カナダの日では、
    首都オタワの国会議事堂前での式典をはじめ、カナダ各地でイベントやパレードが
    行われ、街中にカナダ国旗や楓をペイントした人々が溢れ、盛大に記念日を
    祝います。

    イギリスのヴィクトリア女王がイギリス系とフランス系住民の融和を目指して新たに
    建設されたのが、現在の首都のオタワであり、英語とフランス語の境界線上にある。
    カナダの公用語は、英語とフランス語となっており、バイリンガル教育も盛んに
    行われているが、ケベックでは、現在でもフランス語のみが公用語となっている。
    英語話者はフランス語を、フランス語話者は英語を学校で習わなければならない。
    海外から年間約25万人の移民を受け入れ続けているカナダは、世界一の移民超大国で
    あり、カナダに居ない民族はないとまで言われている。

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    【カナダの略歴】
    1497年、イギリスの探検家ジョン・カボットがニューファンドランド島のセント・
    ジョンズに上陸。 そして1534年、フランスの探検家ジャック・カルティエが
    ガスペ半島に到達し、ヌーヴェル・フランスを宣言。 1864年にシャーロット
    タウンで最初の建国会議が開催されてから3年後の1867年、ついにカナダ連邦が
    誕生した。

    16世紀にフランスがセント・ローレンス川中流域にフランス植民地ヌーベル・
    フランスを建設したが、アメリカに植民地を広げていたイギリスが次第に
    カナダへと領土を拡大する動きが広まりフランスと対立を深めて行った。
    最終的には1763年のパリ条約により、カナダはイギリスの植民地と定められた。
    それ以降、カナダはイギリス領となり約100年間イギリスの支配下にあった。

    カナダ建国の切っ掛けとなったのは1812年の米英戦争である。 カナダ併合を
    狙っていたアメリカに対抗するため、1867年7月1日英国議会は、当時イギリスの
    自治領であったカナダをカナダ連邦と定めたことが独立への一歩となった。
    当初はオンタリオ州、ケベック州、ニューブランズウィック州、ノバスコシア州の
    4州から成り立っていた。

    その後、マニトバ州、ブリティッシュ・コロンビア州、プリンス・エドワード・
    アイランド州と徐々に領土を広げ、1885年の大陸横断鉄道の完成により現在の
    カナダが誕生したのである。 アルバータ州とサスカチワン州も連邦に加わり、
    第一次世界大戦の後にカナダは外交権を与えられ法的にイギリスから独立を
    果たした。 その後、先住民族を中心とするユーコン準州、北西準州、ヌナブト
    準州が新設された。



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    ヨーロッパで話されているフランス語の発音や語彙に慣れていると、ケベックで
    耳にするフランス語には少し違和感を感じるかも知れない。 また、もしかすると、
    その逆もあるかも知れない。 もちろん、どの国や地域で話されようと、
    フランス語はフランス語なのだが、ケベックの場合、イギリス領のおよそ
    百数十年間、様々なレベルでフランスとの公的交流を絶っていたという事実がある。
    そのため、言語としての独自性が強いのである。

    ケベックのフランス語の特徴は、主に発音と語彙に端的に現れている。 発音の
    一例を挙げると、フランス語の母音I(イ)とU(ユ)の前にTやDが来る、TI(ティ)
    TU(テュ)DI(ディ)DU(デュ)と発音されるが、ケベックでは、多くの場合、
    TIはツィ、TUはツュ、DIはズィ、DUはズュと発音される。

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    さて、ケベックで話されているフランス語は、次の3つのレベルに分類される。

    ①標準的フランス語
    これは、表現や選択がヨーロッパの、主としてフランスで話されている
    フランス語に近い。 テレビやラジオのアナウンサーやレポータが話すフランス語が
    これにあたる。 また、知識人もこのフランス語を話すことが多い。

    ②ジュアル(Joual)
    ジュアルを厳密つに定義することは、大変困難である。 一般的に、ジュアル
    とは、後述の大衆フランス語に含まれるものである。 ジュアルという言葉は、
    フランス語で馬を表すシュヴァール(Cheval)という単語をケベックの人が
    発音すると、ジュアルと聞こえるというところから来ている。 この由来からも
    分かるように、ジュアルは話し言葉を表すことが多く、同時に少し自虐的な
    ニュアンスさえ含むのである。 ジュアルは、都市圏の若者や労働者の間で多く
    話されるスラングの一種であり、意味不明なフランス語の使用や音節の省略等が
    その特徴としてあげられる。

    そして、ジュアルは、言語のレベルを超えてイデオロギー的な側面を持ち、むしろ、
    この点の方が社会に大きな影響を与えて来たと言える。 1960年代に入ると、
    ケベックの青年文学者ブループ『パルティ・プリ』と呼ばれる文学集団を作る。
    イギリスの支配下に置かれて以降、ケベクックは政治、経済等多くの領域で
    イギリス系他州に常に遅れをとり、同州内にあっては、数的にマジョリティとは
    言え、現実的には、支配的なイギリス系との間で社会格差が生じ、苦悩していた。

    こうして、進むべき未来をまだ描くことが出来ずにいるケベックの閉塞的な状況を、
    彼らはケベックのフランス語が伝統的に持っている牧歌的て、美しい表現や語彙を
    全て排除し、ジュアルを多用して行った。 それはいわば、『言語の劣化』だった。

    ③大衆フランス語
    前述の標準フランス語が規範文法を重んじているのに対して、ケベックの人々が
    日常生活の中で普通に話しているフランス語が大衆フランス語である。 大衆
    フランス語は、ケベックの社会の現実に即して、言語のあらゆる可能性を排除する
    ことなく用いられる。 そのため、ケベックに固有なフランス語表現等がこの中に
    入って来る。 また、極めて特徴的なことは、英語からの直接的な『借用』や、
    『読み換え』等が大変多く見られるという点である。 この事実は、ケベックが
    置かれている地理的、社会的状況を踏まえれば、むしろ当然なことかも知れない。



    【今後のケベック・フランス語】
    フランス語に関する認識は、変わりつつある。 以前は、フランスで話されている
    フランス語が唯一基準となるフランス語であるとする考え方が主流であった。
    しかし、今や、フランス語圏の文化的、社会的多様性がフランス語をより一層
    豊かで、強固なものにしているという捉え方に移行しつつある。 つまり、国際
    フランス語という考え方である。 この国際フランス語という枠組みの中で重要な
    役割を果たしているのが、まさにケベックである。  ケベック州政府は、ケベック
    特有のフランス語をラルース等のフランス語辞書の語彙に加えるようにフランス語
    圏の国際委員会に働き掛け、それと同時に、新語の開発でもフランス語圏の主導的
    役割を果たしている。

    例えば、ソフトウェアを現すLogicielという語彙がある。 これは、現在は、
    フランスを始め、フランス語圏では当たり前のように用いられているIT用語である。
    この用語は、実は、ケベックで作られたものである。 ケベックでは、
    フランス語は、単なるコミュニケーションツールを超えるものと深く理解
    されている。 ケベックは、これからも独自のフランス語の歴史を作り上げ、
    そして、世界のフランス語圏の中でますます
    重要な地位を占めて行くと
    思われる。

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    モントリオールからセントローレンス川を230キロほど下ると、ケベック州の
    州都であるケベック市がある。 ケベックというのは、先住民の言葉で
    『川が狭まる所』という意味で、丘から見下ろすと、確かに、ここは川幅が
    狭まっているのが分かる。 ケベック市の下流は殆ど海のようであり、狭く
    なっていると言っても、上流も大型船舶が航行出来るだけの十分な広さがある。

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    ケベック市は、人口規模では、モントリオールの3分の1にも満たず、(2006年
    調査では49万人)、周辺部を入れても71万人程度で、州人口の1割にも満たない。
    しかし、ここから北米に『フランス的事実』が広がって行ったのである。 また、
    ここは、1759年にフランス軍がイギリス軍に敗北した場所でもある。 更に、
    この街で1864年にカナダ連邦形成に連なる『ケベック決議』が採択された。
    その意味で、ケベック市というのは、歴史の重みがあり、単なる州都を超える
    特別な地位を占めている。

    ケベック市の基は、1608年、サミュエル・ド・シャンプランによって築かれた。
    2008年には、ちょうど400週年にあたり、それを記念して盛大な記念式典が
    開かれた。 この街は、イギリス領となるまでは、北米におけるフランス
    植民地の中心地であった。 そして、19世紀中頃までには、ニューヨーク、
    ニューオリンズに次ぐ北米第三の港として隆盛を誇るようになった。

    輸出品の4分の3は、木材で、そこでは、イギリス系商人のために、多数の
    フランス系カナダ人やアイルランド系住民が働いていた。 しかし、1860年頃に
    なると、木材特恵関税の廃止等、いくつもの要因が重なって、木材取引は衰退し、
    ケベック市の経済力も衰えて行った。

    それに伴い、イギリス系やアイルランド系は、主として、モントリオールに移って
    行った。 だが、20世紀初頭には、産業化が進み、カナダでも有数の工業都市に
    なった。 経済の中心は、工業からサービス、金融、観光等へ移り、今日に
    至っている。 官公庁に携わる仕事も多い。 現在はカナダ7位の経済規模の
    都市となっている。

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    北米で唯一城壁に囲まれた都市ケベック市。 この街は、ユネスコにより、
    1985年に北米初の世界遺産に選ばれた。 城壁の内側には旧市街が、外側には、
    近代的な市街が広がる。 旧市街は、ダルム広場、その前にそびえ立つシャトー・
    フロントナック、ノートルダム大聖堂をはじめとした教会、そして、プチ・
    シャンプラン通り等。 恐らく、この辺りは、北米でも最もヨーロッパ的な地区
    であろう。

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    モントリオールは、フランス語では、『モン・レアル』と言い、それは、
    ジャック・カルティエが1535年にここの山を『モン・レアル』と呼んだことに
    由来する。 16世紀のフランス語では『王の山』という意味で、その名前が、
    島の名前となり、やがて、町の名前となって、今日に至っている。 それを英語
    読みしたのが、『モントリオール』となっている。

    セントローレンス川の巨大な中洲に位置するこの街は、2006年の調査では、
    人口162万人、周辺部も入れると、約360万人で、カナダ第2の都市である。
    これは、750万人というケベック州全体の半分近くを占める。

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    ダウンタウンには、ガラス張りの高層ビルが立ち並び、ここがビジネスの中心地で
    あることが良く分かる。 ここから少し離れた場所に、旧市街がある。 石畳、
    そびえ立つノートル・ダム寺院、そこを走る観光用の馬車、まるでヨーロッパの
    古い街に来たかのような錯覚を覚える。 超近代的な高層ビル街と旧市街が隣り
    合わせにあるところ、それもまた、モントリオールの魅力である。
    モントリオールは、2006年にユネスコから、『シティー・オブ・デザイン』に
    指定された。

    642年にメゾン・ヌーヴォ、および、ジャンヌ・マンスがモントリオール島に
    ヴィル・マリという街を建設した。 これがモントリオールの始まりとされ、
    その後、フランスが北米に領土を広げるための基地となった。 イギリス領に
    なってからも経済、文化の中心地として発展を続け、19世紀中頃には、カナダで
    並ぶものがない地位を築いた。

    そして英語系の大企業もここに本拠地を構え、カナダ経済に大きな影響力を
    振るっていた。 その後、幾多の変貌を遂げたが、経済的には、1967年に1つの
    ピークを迎える。 それは、万国博覧会の年であった。

    6ヶ月に渡って繰り広げられたこの博覧会を契機として、モントリオールの人々の
    目が世界に開いた。 また、モントリオールは、ケベック各地から芸術家を
    引き付け、音楽、演劇、スペクタクル、展覧会、出版等、あらゆる分野で、
    文化を生み出す中心地として重要な存在となった。

    1976年の夏季オリンピック大会もまた、世界の注目を集めたが、これは
    モントリオールにとって、大きな財政負担となり、以後、長期に渡って経済を
    苦しめる結果となった。 その頃を境に、モントリオールは、カナダ最大都市で
    経済の中心地という座をトロントに譲った。

    更に1977年の『フランス語憲章』によるフランス語化政策の推進が、そこに
    拍車を掛け、いくつもの英語系大企業がトロントに本社を移し、英語
    コミュニティに属する人々が多数流出してしまった。

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    その後、1990年頃まで経済成長は低調だったが、フランス語系
    ビジネスエリートの台頭により、1990年代には回復し、今日では、商工業、
    金融、国際取引、テクノロジー等の分野で中心都市となっている。 特に、
    航空宇宙産業、エレクトロニクス、テレコミュニケーション、製薬等の分野に
    強みを発揮している。

    更に、マルチメディア産業に関しては、北米の中心地として脚光を浴びている。
    実際、『モントリオール・ジャズフェスティバル』を始めとして、この都市には
    国際的に注目を浴びる文化的な催しが沢山ある。 映画やテレビ制作の拠点
    でもあるし、世界有数のサーカス団、シルク・ド・ソレイユの本拠地でもある。

    ケベックのみならず、カナダの芸術文化の発信地として、この街は燦然とした
    輝きを放っている。 また、モントリオールには、国連の専門機関である国際
    民間航空機関(ICAO)をはじめ、60にも及ぶ国際機関の本部が置かれている。

    モントリオールは、カナダでも強い経済力を持っているため、移民を引き付け、
    その結果として、マルチエスニックな様相を呈している。 2006年の国勢調査に
    よれば、モントリオールの人口の24.5%が移民一世となっており、これは、
    カナダ全体の16.2%よりもかなり高い。

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    カナダは、13の州と準州から成る連邦国家であり、10の州と3の凖州から
    成っている。 政治体制は、イギリスにならっている。 公式には、イギリス
    国王が国家元首だが、カナダ総督が代行を務める。 総督の任期は5年で、
    その権限は、非常に限定されている。 連邦政府は、少なくとも、5年おきに
    国政選挙で国会に最多数の議席を得た政党が構成する。

    近年、最も勢力の強い正統は、自由党、進歩保守党だが、それより小規模の
    改革党や、ケベック連合もかなりの支持を得ている。 首相は、政府の省庁を
    指揮する大臣から内閣を率いる。 現在の首相は、ケベック出身のジャスティン・
    トルドー氏で、自由党からの選出となっている。

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    【10州】
    ニューファウンドランド・ラブラドル
    ノバ・スコシア
    プリンス・エドワード・アイランド
    ニューブラウンズウィック
    ケベック
    オンタリオ
    マニトバ
    サスカチュワン
    アルバータ
    ブリティッシュ・コロンビア

    【3凖州】
    ノースウェスト・テリトリーズ
    ユーコン・テリトリー
    ヌナブト

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    各州には、州都と州政府があり、州知事が居る。 オタワの連邦政府は、国防や
    外交政策等、全カナダ国民に関する事柄に対処している。 各州には、礼儀的な
    権限のみを持つ副総督が居る。 選挙で選ばれた議会と政府は、州知事が長を
    務めており、教育、司法、公民権、所得税、固定資産税等の州レベルの事柄を
    管轄している。

    より小規模な評議会が郡、地区、市、郡区、村の運営を行っている。 連邦政府の
    カナダインディアン・北方開発大臣が、ファースト・ネーションズに便宜を図る
    ための計画を指揮している。

    カナダの輸出品の大部分は、アメリカ向けだが、アジアへ小麦を、また、
    ヨーロッパへ工業製品の輸出も行っている。 主な輸出製品は、自動車、産業機械、
    化学薬品等である。 輸入品には原油、化学薬品、消費財等がある。

    【カナダの全輸出に占める割合】
    アメリカ 84.2%
    日本 2.1%
    イギリス 1.8%
    その他 11.9%

    【カナダの全輸入に占める割合】
    アメリカ 56.7%
    中国 7.8%
    メキシコ 3.8%
    その他 31.7%

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    1931年、カナダは、独立国家となった。 イギリス女王エリザベス2世が国家
    元首だが、あくまでも、礼儀的な職務のみを行う。 1960年代にフランス系の
    ケベック州の独立運動による国民投票が行われ、1980年と1995年の2度とも、
    ケベックの独立は否決された。

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    ファースト・ネーションズのグループもまた、より広範な平等と土地の権利を
    求めて運動して来た。 1980年代以降、ファーストネーションズは、自治を認め
    られることが多くなって来た。 1999年には、昔からイヌイットが住んで来た
    地域に、新たにヌナブット準州が設立された。

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    カナダは、国際社会でも大事や役割を演じている。 カナダは、1914年~1918年の
    第一次世界大戦、1939年~1945年の第二次世界大戦では、アメリカ、イギリスと
    ともに戦った。国際連合(UN)、北大西洋機構(NATO)の主要メンバーでも
    ある。 また、1950~1953年の朝鮮戦争では、国際連合軍に参加し、世界中の
    平和維持活動にも参加している。

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    カナダでは、1967年にモントリオールで万国博覧会『エキスポ67』を、そして、
    1976年には、やはりモントリオールでオリンピックを開催した。 これらの
    イベントには、世界中から沢山の人が訪れ、カナダは、賞賛を浴びた。 そして、
    21世紀に入った今、カナダは、世界の舞台でしっかりと名声を確立している。
    隣国アメリカの強い影響を受けながらも、カナダは、独自で六色のある文化、
    経済、政治を発展させている。

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    現在のカナダ東部海岸を最初に探検したのは、1497年、イギリス国王ヘンリー7世の
    命を受け、ニューファンドランドやケープ・ブレトン島周辺を探索した、ジェノバ生まれの
    航海士、Jカボットである。 カボットの探検隊は、後に同地域がイギリス領となることの
    発端となった。

    フランスは、イギリスの動きに少し遅れて、1524年、フランス国王のフランソワ1世の
    命を受け、フロリダからニューファンドランドまでを航海し、その『新大陸』を『ノヴァ・ガリア』
    と名付けた。 1534年には、ジャック・カルティエが、ニューファンドランドからセント
    ローレンス湾の沿岸、リシュリュー湾周辺を探検している。 カルティエは、現ケベック州の
    ガスペ半島の先端である、ガスペ岬に上陸し、この地に『フランス国王万歳』と彫り込んだ
    十字架を建て、同地をフランス領とする事を宣言している。 これを持って、『ヌーヴェル・
    フランス』の歴史の始まりとされている。 その後、サムエル・ド・シャンプランがケベックを
    創設し、以降、この地が北米におけるフランスの植民地活動の拠点となって行く。

    【ヌーベル・フランスの領土】(青い部分全て)

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    現在、『ケベック問題』と呼ばれるカナダの最大の政治的課題は、17世紀から18世紀
    中期に掛けてのカナダ東部沿岸地域における英仏の覇権争いに端を発していると
    言える。 英仏の衝突は、ケベックの陥落(1759年)、そして、1763年のパリ条約
    (1763年)によって、一応の決着を見せ、『ヌーベル・フランス』は、スペインとイギリスに
    移譲された。 その後、カナダでは、イギリスの覇権が確率されたが、ケベック州の
    人口の約8割を占めるフランス語系住民達のナショナリズムは、その後のカナダ政府の
    文化政策、移民の動向、エスニック集団の扱いに大きな影響を与えて来た。

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    カナダの総人口のうち、民族的には、イギリス系が最も多数となっているが、一口に
    イギリス系と言っても、その内訳は複雑で、カナダへの移民は、アイルランド人、
    スコットランド人、ウェールズ人の順となっている。 イギリス系カナダ人がケベック
    以外のカナダで安定した覇権を確立して行った分岐点のひとつは、アメリカ合衆国
    からの執拗な攻撃を食い止めた1812年戦争からであると言える。 アメリカ軍は、
    アメリカに親近感を持つものの多い、『ウェスト・カナダ』(現在のオンタリオ州)をまず
    攻撃した。

    しかし、イギリス軍は、有能な司令官アイザック・ブロックの巧みな作戦と、イギリス側に
    付いた先住民の協力によって持ち堪え、いくつかの曲折を経て、1817年のラッシュ・
    バゴット協定と1818年の協定によって、英領北アメリカ(現在のカナダ)とアメリカの
    間の国境確定が、ロッキー山脈の東側の麓までで、ほぼ確定されている。 この1812年
    戦争では、フランス系カナダ人は、革命的で脱宗教的なフランス共和国とヨーロッパで
    戦うイギリス人に好感を持ち、イギリス軍と共にアメリカ軍と戦っている。

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    1812年戦争までは、アメリカ13植民地からの英語系の移民が多かったが、その後は、
    第二次イギリス系の波がカナダへと押し寄せた。 1815年から1850年までの
    35年間の間に80万人近いイギリス系移民がやって来た。 彼らは、イギリスが
    フランスを破った、ワーテルローの戦いの後に職を失ったイギリス軍の将校たち、
    アイルランドの職人や貧民、スコットランドの職人や小作人、イングランドの工場労働者
    たちであった。

    1815年から38年の間にイギリスから新しく到着した人々の多くは、スコットランド人で、
    それでの王党派が多かったノバスコシア、プリンス・エドワード島、ニュー・ブラウンズ
    ウィックや、セントローレンス湾岸に定着して行った。

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