20世紀の初め、ウィリアム・マッキンレー大統領は、アメリカはフィリピン諸島を
永遠に領有するつもりはないと語っている。 自治に向けて一定期間の準備の後、
フィリピンが独立するという考えをアメリカは受け入れていた。 このため、
アメリカのフィリピン統治にとって、教育は最も重要な柱となった。
600人を超す教師が、学校を作るためにアメリカからやって来た。 1908年、
マニアにフィリピン大学が創設されると、何百というアメリカ市民が大学を支持した。
独立を待ち望んだ者にとっては十分なものではなかったが、アメリカによる支配の
最初の時期から、フィリピン人は統治に参加した。 マヌエル・ケソン、セルジオ・
オスメーニャ、マヌエル・ロハスは、アメリカに対して一層の自治を求めた
フィリピンの指導者たちである。
1934年、アメリカ議会でタイディングス=マクダフィー法が通過した。 同法は
フィリピン憲法や立法府の選出、そしてフィリピン人による大統領を制定していた。
フィリピンは共和国となったが、国内的には、フィリピン人が支配するものの、
向こう10年間は、外交と防衛に関しては、アメリカが支配を維持するという
ものであった。
1935年5月、フィリピンの人々は憲法を承認し、11月にはマヌエル・ケソンが
初代大統領に選ばれた。
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