仙台港近くの展示場『夢メッセみやぎ』は震災時、イベントの最中だった。
混乱に陥った来場者約700人をイベントの運営者が屋上へ避難誘導することで、
幸いにも死傷者は出なかった。 だが、これがもし数千人規模の大イベント
だったら―。 『避難場所が足りず、大惨事になっていたはず』。
関係者は血の気が引く思いで振り返る。

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逃げる その時 イベント会場(仙台港・夢メッセみやぎ)
出典:河北新報 2011年6月22日

建物がミシミシときしみ、はりがたわんだ。 食器は散乱。 照明が消えると、
パニック状態に陥った人々は出口に殺到した。 2011年3月11日。 メッセ
展示棟は平日ながら大勢の来場者でにぎわっていた。 全国のご当地グルメ
100店を集めた『グルメコロシアム』が開幕。 華やかな食が並ぶ会場を
午後2時46分、激しい揺れが襲った。 会場にいた仙台市青葉区の自営業泉田
智行さん(35)は『多くの女性がしゃがみ込み、泣き叫んでいた』と語る。

『大津波警報が出ています。 落ち着いて。ここを離れないでください』。
揺れが収まった午後3時過ぎ、避難が始まった。 メッセ会議棟と、隣接する
仙台港国際ビジネスサポートセンター(アクセル)の二手に分かれ、会場
スタッフ50人が誘導した。

いち早く動けたのは理由がある。 2日前にあった震度5弱の地震を受け、この日
朝に津波を想定した避難手順を打ち合わせしていた。 障害者、高齢者らの
避難には来場者も協力し、車いすを担いで屋上への階段を上った。

それでも避難は間一髪だった。 『どうせ津波なんて来ない。 帰らせろ』。
車に乗り込もうとする来場者を、スタッフは半ば強制的に押しとどめた。
『無理にでも屋上へ避難させて正解だった』。 イベント主催者である
仙台放送の倉内宏事業部長(46)が振り返る。

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午後3時53分。 隣接する仙台港の輸出用モータープールの車を押し流しながら、
茶色い水が押し寄せてきた。 200人が避難した会議棟周辺には、津波に気付か
ないまま走る車がいた。

『運転手さん 止まってー』『急いで高い場所に上がれー』。 屋上から拡声器で
必死に呼び掛けたが、何台もの車が津波に流されて行く。 宮城県亘理町の主婦
(40)は『車中で聞こえなかったのだろう。 地獄絵図だった』と声を震わせる。
高さ13メートル、2階建ての会議棟も屋上の数メートル下まで水が迫り、女性と
子どもは給水タンクに上らせた。

会議棟入り口に津波で激突した車3台から炎が噴き出し、建物に黒煙が入り込んで
来た。 目の前のコンビナートも火の海になっている。 出店者の渡辺真奈美さん
(43)=北海道利尻富士町=は『建物がいつまで持つか、みな恐怖の絶頂だった』。
吹雪が容赦なく吹きつけ、うずくまる避難者も出てきた。

『もう限界だ』。 歩けるくらいに波が引いたのを見計らい、会議棟の200人は
裏口から、5階建てのアクセルを目指し脱出した。 『今また津波が来たら…』。
渡辺さんは祈るような気持ちだったという。 元々いた人も含め、アクセルには
700人を超える避難者が集まった。 ペットボトル10本程度の水と菓子を分け合い、
一晩をしのいだ。 防寒用に配られたのは新聞紙1人1枚。 幸い医師と看護師が
居合わせ、妊婦や透析患者のケアが出来た。

主催者のマイクロバスで来場者をJR陸前高砂駅へピストン輸送し終えたのは翌日
夕方だった。 アクセルが収容出来るのは、700人が限度とみられる。 『平日
だったのが幸運だった。 数千人の訪れる土日だったら、逃げ場がなく誘導も
無理だった』。 メッセを管理するみやぎ産業交流センターの高橋一夫常務
(63)は胸をなで下ろしつつ、こう指摘する。 『津波はいつか再び来る。水、
食料を備蓄できる避難ビルを早く仙台港に造って欲しい』

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