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    タグ:グリム兄弟

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    グリム童話は、残酷であると言われているが、グリム童話が残酷なのではなく、
    残酷な当時の世の中を物語っているのが、グリム童話なのである。 中世では、
    人の命が軽く扱われていた。 人が殺されたりするのは、日常的で、殺し方も
    残忍だった。 規律を守るために厳しい処罰が科せられた。 刑罰そのものも
    極めて酷いものである。 グリム童話には、残酷と思われる場面が沢山ある。

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    グリム兄弟は、残酷な場面に関しては、子供には影響がないと判断したため、
    書き換えをしなかった。 むしろ、彼等は、残酷な話を子供が読むのは、重要だと
    考えていた。 ところが、初版で痛烈な批判を浴びて、第二版以降は、消えて
    しまった話がある。 これは、書き換えられることなく削除された。 『子供達が
    屠殺ごっこをした話』である。 ある子供が、豚になり、ある子供が、肉屋に
    なって、豚になった子供を殺してしまった。 何とも痛ましいこの話は、
    『子供に読み聞かせ出来ない』と攻撃され、クリム兄弟は、止むなく第二版では、
    この話を削除した。



    残酷な話の筆頭に挙げられるのが、『杜松の木』で、男の子がリンゴの入っている
    木箱を覗き込んだ瞬間、継母がパタンと蓋を閉じると、男の子の首が床に転がった。
    継母は、殺した男の子の死体を刻んで酢で煮込み、夫である男の子の実父に食べ
    させる。 何も知らない父親は、おいしいと言って、煮込みを食べる。 ドイツ
    には、中世からどっしりとした長い箱があった。 衣服を入れる長持ちとして
    使われたが、台所では、貯蔵品を入れていた。 蝶板が付いた蓋があり、パタンと
    閉まる。 この話を読んでパタンと閉まる箱に恐怖心を抱く子供も居るだろう。
    父親が、我が子と知らずに食べることも恐ろしい。



    残酷な描写としては、『盗賊のお婿さん』で人喰い盗賊が娘を切り刻んで食べる
    場面や、『フィッチャー鳥』では、ぶつ切りにされた人間の死体が血のたらいの中に
    入っている場面等、かなり惨たらしい。 『愛しいローラント』では、継母が、
    寝ている自分の娘を継娘だと思って、斧で首をちょん切る場面がある。 後から
    継母が寝室に行って見ると、自分が殺した実の娘が血の海に浸っていた。

    グリム童話に多く登場するのは、美しいお姫様欲しさに難題に挑戦する若者達。
    彼等のほとんどは、難題を解決することが出来ず、容赦なく首を切られて行く。
    求婚者と知恵比べをして負けた者の首を切り取って、杭に刺して行く残酷な
    お姫様の物語である『天竺ねずみ』では、お姫様が首を切らせた若者の数は、
    99人にも上る。 難題や過酷な仕事をこなせなかった者が、首を切られる話は、
    実に多いが、そこには、リアルな首切りの場面の描写はない。 残酷な場面が、
    極めて平坦的に表現されている話もある。
    『手無し娘』では、悪魔が粉挽きの男に娘の両腕を切り取らせるが、腕を切り
    取るのは、まるで紙人形の腕をハサミで切るようでリアルさが全くない。 そして、
    この娘の手も『フィッチャー鳥』でぶつ切りにされた姉二人も最後には元通りに戻
    っている。 それが、グリムのメルヘンである。



    初版では、実母だったのに、第二版以降は、継母に書き換えられた話が2つある。
    『ヘンゼルとグレーテル』で子供達を森に捨てたのは、第三版までは、実母
    だったのが、1840年の第四版からは、継母になった。 『白雪姫』で娘の美しさに
    嫉妬して殺そうとしたのは、初版では実母だったのが、第二版からは、継母に
    書き換えられた。 その書き換えに関して、グリム兄弟は、継母に対する偏見
    ではなく、実際に継母による虐待が多かった実態を訴えている。

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    グリム童話は、世界で最も親しまれている童話で、世界中で聖書の次に
    読まれていた時代もあった。 正式には、『子どもと家庭の童話(Kinder und
    Hausmärchen)』という書名で、グリム兄弟によって1812年に初めて世に
    出された。 有名な話に、『ヘンゼルとグレーテル』、『赤ずきん』、
    『狼と七匹の仔山羊』、『白雪姫』、『いばら姫』、『ブレーメンの音楽隊』、
    『灰まみれ(シンデレラ)』等がある。

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    グリム兄弟は、知人から昔話を聞き取り、古い文献を参考にする等、年月を
    掛けて民話を収集して行った。 それを一冊の本にして世にだしたのが、1812年
    12月20日のことで、86の話が紹介された。 1815年には、、初版の第2巻70話が
    出され、合わせて156の話が初版に収められた。 その後も改訂版が出され続け、
    1857年の第7版では、昔話200話に10話の『子供達のための霊験潭』が加えられて、
    全部で210話が収められている。

    この第7版が、決定版と呼ばれて今日のグリム童話になっている。 決定版には、
    1番から200番まで通し番号が付けられており、Kinder und Hausmärchen の
    頭文字KHMの後に続く番号で何の話であるか、分かるようになっている。
    200話の中には、誰でも知っている話の他、有名ではないが、面白い話が沢山
    含まれている。

    グリム兄弟は、1816年に『ドイツ伝説集』も刊行する。 童話と伝説の違いは、
    童話が、『昔々あるところに』と年代や場所が特定されていないのに対し、伝説は、
    ハッキリとした年代や場所が書かれていること。 ハーメルンのネズミ捕り男の
    話は、童話集ではなく、『ドイツの伝説集』に『ハーメルンの子供達』として
    収められている。

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    【グリム兄弟の生涯】

    グリム兄弟は、9人の兄弟を産んだが、そのうちの3人は、死亡しているため、6人
    兄弟ということになる。 長男のヤーコプは、1785年、次男のヴィルヘルムは、
    1786年にハーナウで生まれた。 兄弟の末弟ルートヴィッヒ・エミール・
    グリムは、有名な画家で、グリム童話の挿絵も描いている。 ハーナウ市の
    書記官だった父親は、1791年、ハーナウ伯爵の領地管理主務官となり、一家は、
    シュタイナウへと引っ越す。 幼少時代を自然豊かなシュタイナウで過ごすことで、
    2人は、メルヘンに対する完成を培われた。 1796年に父親が亡くなり、一家は
    困窮する。 援助の手を差し伸べたのが、カッセルに住む母親の姉で、ヤーコプと
    ヴィルヘルムを引き取ってリュツェウム(当時のギムナジウム)に通わせてくれた。

    カッセルで優秀な成績を収めた2人は、マールブルグ大学へと進み、法律を学んだ。
    そこで、サヴィニーという若い教授と出会う。 彼のもとへ集まる若い学生の中に、
    後に著名なロマンス派の文学者となるアヒム・フォン・アルニムや、クレメンス・
    ブレンターノが居た。 彼等と親しくするなかで、古典文学や民衆から生まれた
    話しに興味を持つようになる。 アルニムやブレンターノは、1806年に民衆詩集
    『少年の魔法の角笛』第一巻を出した。 グリム兄弟は、その第二巻と第三巻発行
    への協力を依頼される。 第二巻と第三巻は、1808年に出された。 この仕事を
    手伝う過程で、2人は、昔話に惹きつけられ、その後も独自に昔話を収集して行った。

    グリム兄弟は、大学を終えると、その間に母と兄弟達が引っ越していたカッセルに
    移る。 ブレンターノは、グリム兄弟が民話を集めているのを知って、1810年、
    2人が集めた民話を『少年のは方の角笛』第三巻の続きの童話に載せたい意向を
    伝えて来た。 ヤーコプもヴィルヘルムもそれに対して、異論はなかったので、
    集めた民話をブレンターノに渡したが、なかなか刊行されなかったため、2人が、
    その後に集めた民話とブレンターノに渡したものを加えた86の話を
    『子供と家庭の童話』と題して1812年に出版した。 この第一巻と第二巻がグリム
    童話の初版本である。 1816年には、『ドイツ伝説集』も刊行される。
    ヤーコプが1819年に出した『ドイツ語文法』は非常に高く評価された。

    グリム兄弟は、ゲッティンゲン大学の招きによって、1829年~30年、ハノーファー
    王国のゲッティンゲンへと移った。大学で教える傍ら、研究書を次々と出して行く。
    そんな折、1837年にハノーファー国王が憲法を独断で廃止するという事件が起こった。
    ゲッティンゲン大学の教授達は、国王に対して抗議声明を出す。 抵抗したのは、
    グリム兄弟を含むゲッティンゲン大学の教授7名であった。 国王は怒り、中心と
    なった教授達を追放した。 ヤーコプは、1837年にカッセルに戻り、翌年に
    ヴィルヘルムも戻って、兄弟は再びカッセルでの生活を始めた。

    既に学者として知られていた2人は、1840年、プロイセン王国からベルリンへ招聘
    される。 そして翌年、兄弟は、揃ってベルリンへと赴いた。 彼等は、
    科学アカデミーの正会員に迎えられ、教授としてベルリン大学でも講義した。
    彼等は、1938年から着手していたドイツ語辞典の編さんに本格的に取り掛かる。
    ところが、この辞典は、余りにも詳し過ぎたため、編さんには長い年月を必要とした。
    弟のヴィルヘルムは、1859年に亡くなったので、まだ、『D』の途中だった。
    兄のヤーコプは、1863年、『F』の途中で世を去った。 ドイツ語辞典は、その後、
    多くの学者達によって引き継がれ、1691年に完成した。 グリム兄弟は、
    ヴィルヘルムの2人の息子達と一緒に、ベルリンのマーティン教会墓地に眠っている。

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