赤の広場に立つ旅行者の目をまず引き付けるのは、クレムリンの壁やグム・
デパートではなくて広場の南側に立つ聖ワシリー大聖堂の特異な姿であろう。
あの玉ねぎ型の屋根の群れ、それぞれの大胆なデザインと鮮やかな色彩の
取り合わせは、一度見たら忘れることの出来ない強烈な印象を与える。

この大聖堂は、ロシアによるカザン・ハン国に対する勝利を記念して1555年
から61年に掛けて建立された。 カザンを征服してモスクワに凱旋した時の
ツァーリは、まだ22歳のイワン4世だった。 建築を担当したのは、バルマと
ポスニクという2人のロシア人である(同一人物とする説もある)。

元々、対カザン戦争の勝利にちなむ8つの聖堂をひとつの大聖堂にまとめる
という課題を果たすために、8基の祭壇と円屋根を設ける必要があった。
そのうち、半分の4基は、大きな円屋根で、他の半分は、それぞれ多少とも
小さめに造られた。 キリストを称えるという趣旨から、中央にひときわ高く
テント型の屋根をそびえさせ、その頂上には、小ぶりのドームが付けられた。

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変わっているのは、それをそれぞれの円屋根の形が、たまねぎ型に統一
されているものの、全部異なった意匠が施され、色合いも様々なことである。
構成上の調和は全く無視されている。 勝利の日が10月だったことから、
この大聖堂は、ポクロフスキーと命名された(旧暦の10月1日がポクロフ=
聖母庇護祭にあたる)。 もうひとつ怪奇なことは、この大聖堂が落成して
献堂式を拳行して間もない1558年、癒癩行者として知られたワシリーが
聖者の列に加えられたのを記念して、堂内の祭壇に祀られた途端に、
ポクロフスキーという正式な名称を忘れられ、福者(ブラジェンヌィー、
聖者の位のひとつ)ワシリーと呼ばれるようになったことである。

癒癩行者は、東方正教会に特有な現象で、狂気のふりをして(あるいは、実際に
狂気に侵されて)社会通念に反するような奇行を演じたり、奇言を吐いたりする
者のことである。その中で特に正教会では、聖者と認定していた。

16世紀の末、モスクワのイギリス商館にフレッチャーという人物が勤務して
いたが、彼は、その著作の中で次のようにワシリーの噂を伝えている。
『ロシアにはある種の世捨て人が居て一枚の布切れを腰に巻いている他、裸で
歩き回っている。 髪の毛は長く垂れて、肩の周りを覆っている。 冬の最中
にも鉄の首輪や鎖を巻いている者も居る・・・そのうちのひとりバジレオ
(ワシリーのこと)は、先帝イワン4世が人民に対して残虐な圧政を加え続けた
ことを絶えず非難していた』。

イワン雷帝のような専制君主を公然と批判するような行為は、癒癩行者にしか
許されなかったであろう。 その雷帝が1584年に他界したところから、今は
亡きワシリーが時代の英雄として担ぎ出されたのに違いない。

聖ワシリー大聖堂と向かい合って赤の広場の反対側に立っているのが、国立
歴史博物館である。 中世ロシアの伝統的な建築様式で建てられ、クレムリンに
調和するように赤レンガで積み上げられている。 ただ、中央の主屋の台形の
屋根やいくつかのテント型の塔の屋根をはじめ、全ての翼の尖った屋根が純白に
塗られている。 それが、いかにもパンケーキの上に粉砂糖をふりかけたような
メルヘン的な印象を与える。

こちらは、比較的新しく19世紀の70~80年代に建てられたものであるが、
赤の広場に良く似合っている。 行政上、この歴史博物館のアドレス表示は、
赤の広場1番地であり、聖ワシリー大聖堂は、この博物館の分館のひとつと
なっている。

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