東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:クレムリン

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    カリーニングラード・フラブロヴォ空港からモスクワ・シェレメチェヴォ
    空港へは、約2時間のフライト+1時間の時差があるため、モスクワ到着が、
    夜中の11時30分過ぎとなり、アエロエクスプレスは午前0時30分が最終列車で
    あるため、タクシーに乗車した。

    【夜中のタクシー乗車時の注意点】
    空港内には、客引きが多数おり、ここで値段交渉をしなければならないのだが、
    空港内の客引きは、既に定価を示すボードを所持しており、当初の値段よりは
    1,000ルーブル値下げして貰ったものの、シェレメチェヴォ空港からタクシーで
    40分程度のベラルーシ駅前にあるホテルまで、4,000ルーブル(約7,000円)も
    取られる結果となった。

    それまでは、何度タクシーに乗っても、大体250ルーブルとか、ワールドカップで
    大渋滞であったカリーニングラード市内ですら、最高で1,000ルーブルまでしか
    請求されなかったのだが、ここ首都モスクワでは、物価が地方とはまるで違う。
    モスクワは、収入に対する物価の高さが世界一の都市であるため、夜中に
    タクシーに乗るのは止めた方が無難。

    【空港からモスクワ市内へ】
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    この日は、ベラルーシ駅前のホテルに宿泊したため、まずは、ベラルーシ駅に移動。
    モスクワのホテルは、どこも高いのだが、今回の旅行で最も高い値段であった
    ホテルは、一番ボロボロで冷房も付いていなかった。

    その後、世界一美しいと言われているモスクワの地下鉄で中心部へと移動。
    モスクワの地下鉄は、有事の際には、核シェルターとなるため、地下4階以上の
    浅い部分は一切通らず、そのため、エスカレーターが異様に長いのが特徴。
    但し、日本のエスカレーターの様に、とんでもなく遅い物はひとつもなく、
    日本の3倍以上の超高速運転をしているため、初めてモスクワを訪れた場合は、
    度肝を抜かれて、なかなかロシアのエスカレーターには乗れない。

    【ボリショイ劇場付近】
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    地上に出ると、すぐ目の前には、ボリショイ劇場と、カール・マルクスの像が
    あった。 社会主義の生みの父であるカール・マルクスが語った最も有名な言葉は
    『全世界の労働者階級たちよ団結せよ!』で、この言葉は、旧ソ連邦の象徴である
    エンブレムにも、15共和国全ての言語で書かれていた。

    29年前は、モスクワに留学をしていたのだが、それ以来、丸29年ぶりに
    ツムデパートへ。 当時は、ソ連末期であったため、深刻な物不足で、
    ろくな物が売っていなかったのだが、29年の時を経て、三越もビックリの
    超高級デパートへと大変貌を遂げていた。 昔は、マルボロとかグラビア雑誌が
    賄賂の代わりだったのだが、今では、その賄賂も物価上昇により、とんでもない
    値段となっておりますw

    【赤の広場】
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    さて、ここからが、モスクワ観光のハイライト☆ 市の中心部にある赤の広場へと
    入ります♪ ワールドカップ開催期間中のため、荷物の持込が規制され、トランクを
    持っては中に入れなかった。 ロシアの建物は、非常に大きいため、見えてからが
    遠く、基本的に、凄まじく歩くこととなるのだが、ロシア人の主な趣味は『散歩』
    なので、数キロ程度であれば、普通に皆歩いております。

    モスクワ中心部の赤の広場~グム百貨店~レーニン廟~聖ワシリー寺院付近。
    クレムリン宮殿の中にも入る予定であったが、ワールドカップ開催期間中の
    ため、警備が非常に厳しく断念。 クレムリン宮殿は、ロシアの政治の中心地で
    あるばかりではなく、モスクワ観光の目玉でもあります。

    クレムリンへの入り口、スパスカヤ塔(一般人はここからクレムリン内へは
    入れない)とグム百貨店とその内部。 グム百貨店へ入るためには、赤の広場
    手前の検問と、グム百貨店手前にある入り口で再度検問を受けなければなら
    なかった。『グム』とは、『国営百貨店』の意味で、カタカナで表記すると、
    『ゴスダールストヴェンヌィー・ウニヴェルサーリヌィー・マガジン』の
    頭文字を取った省略形。

    【モスクワ市内から空港へ】
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    毎時定時に衛兵交代が行われる、『無名戦士の墓』。 無名戦士の墓とは、歴史を
    通して起きた戦争で戦死し、かつ身元が分からない兵士の遺骨を埋葬、または、
    納めた墓。 遺骨は無く、遺品を納めたり、英霊として葬り、祀る墓もある。
    モスクワの無名戦士の墓は、独ソ戦で亡くなった英霊を祭っており、永遠に消えない
    『炎』が燃えている。 また、このお墓には『君の名は分からないが、君の偉業は
    死なない』と記されている。

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    1918年3月ソヴィエト政権がペトログラードからモスクワに移転した。
    ホテル・ナツィオナーリとメトロポーリが摂取され、それぞれ、第一ソヴィエト
    会館、第二ソヴィエト会館と命名された。 ナツィオナーリの住人第一号は、
    レーニン夫婦であった。 1周間後、レーニンは、クレムリンの中に移った。
    メトロポーリのレストランでは、全ロシア中央執行委員会の会議が開かれ、
    レーニン、トロツキーが演説した。 そこの客室の住人の筆頭は、ブハーリンで
    あった。

    ペテルブルグがモスクワに乗り込んで来て、モスクワがペテルブルグ化されたと
    言える。 一方で、これは、ペテルブルグのモスクワ化であった。 クレムリンの
    中では、セナートのモスクワ支所であった建物が人民委員会着の建物と同会議議長で
    ある、レーニン一家の住居にあてられた。 赤の広場から見て、丸屋根の上に国旗が
    掲げられている建物である。

    ソヴィエト政権がモスクワに移って最初のメーデーの日(1918年5月1日)には、
    赤の広場で最初のパレードが行われ、レーニンが挨拶した。 先頭を進んだ赤軍
    兵士が持つのは、1891年式の銃とマクシム機関銃だけだった。 11月7日には、
    十月革命1周年記念のパレードが行われた。 革命後のロシア歴が西暦に改められた
    ため、革命の起こった10月25日は、11月7日となった。 以後、この広場が共産党と
    政府の公式行事、パレードの場となった。

    広場に面したクレムリンの壁際には、1920年から党と政府の要人、コミンテルンの
    功労者が葬られるようになり、25年には、遺骨をクレムリンの壁に収めることが
    始まった。 ソ連期の終わりまで約150人がここに葬られた。 ブレジネフ、
    アンドロポフら党と政府の要人、将軍、学者、文学者等がこれに含まれている。

    革命によって市民の暮らしは大きく変わった。 新し政治体制が確立すると、
    モスクワに住んでいた貴族やブルジョワ達の大部分は、全ての不動産を捨てて
    外国へと逃亡した。 亡命する資力のない者でも、持ち家や財産を国家に没収
    された。 元々、モスクワの市域内には、一戸建てのマイホームのような建物は
    極稀にしか存在しなかった。 殆どの建物は、数家族が住むアパートだった
    のである。

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    革命政権は、革命を害する存在を抑圧する装置を必要とした。 1917年12月に
    出来た反革命サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会がそれである。
    ジェルジンスキーが初代議長となった。 1918年の夏から始まった赤色テロルの
    実施にこの組織は恐るべき力を発揮した。 1919年、この組織が自らの本部の
    建物に選んだのが、大ブビャンカ通りの元ロシア保険会社の本部ビルであった。
    この組織は、1922年にはゲーペーウー(国家政治保安部)へと変わり、34年
    からは、内務人民委員部となる。 名前は変わっても、果たす役割は変わらず、
    この建物は『ルビャンカ』として人々に恐れられた。

    『ルビャンカ』の中身はその後も変わった。 内務人民委員部は、その後は、
    KGB(国家保安委員会)となり、現在では、連邦保安局(FSB)となっている。

    ソ連国家を動かすのは、ソ連共産党であった。 ソ連共産党中央委員会の建物は、
    ルビャンカ広場から程遠くないスターラヤ・プローシャチ(古い広場)にあった。
    1915年に完成したチトフ商会の建物を接収して、党本部にしたのである。
    この後、スターラヤ・プローシャチと言ったら、共産党本部を指すようになった。
    この建物は、現在はロシア大統領府の建物となっている。

    1924年1月21日、レーニンが郊外のゴルキで死ぬと、翌日遺体は、モスクワに
    運ばれ、組合会館に安置された。 弔問者は切れ目なくここを訪れた。 1週間後の
    1月27日葬儀が行われた。 レーニンの遺体は、ジノヴィエフ、カーメネフ、
    スターリン、ブハーリンらに担がれて、赤の広場の中央に造られた木造の廟に安置
    された。 その後、党指導者の間で議論がなされ、レーニンの遺体を永久保存し、
    人々に参観させると主張したスターリン、カリーニン、ルイコフらの意見が
    トロツキー、ブハーリン、カーメネフの反対を押し切って採択された。

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    日露戦争のおける敗北で、ロシアの専制権力の時代錯誤と無能ぶりが明らかになり、
    1905年、革命が起こった。 ニコライ2世は、10月詔書を出して、政治的自由を
    認め、国会の開設を約束した。 1906年に憲法が発布され、立憲専制体制とでも
    言うべき体制が始まった。 しかし、この体制は、うまく機能せず、ロシア帝国は
    生まれ変わることが出来なかった。

    1914年に始まった第一次世界大戦は、体制の解体を進め、ついに1917年3月、二月
    革命が起こって帝政は打倒された。 この革命は、ペテルブルグの労働者と兵士の
    革命であったが、別の面から見れば、モスクワのブルジョワジーがペテルブルグの
    皇帝権力を倒した革命であるとも言える。 革命で生まれた臨時政府のバック
    ボーンは、モスクワのブルジョワジーであった。 最初の臨時政府の商工相は、
    モスクワの綿企業主コノヴァーロフであり、彼は最初のケレンスキー内閣でも、
    副首相を務めた。

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    ロシアの民衆は、戦争に反対していたが、臨時政府は戦争を続けなければなら
    なかった。 対立の強まるところ、11月には、レーニン、トローツキーらのボ
    リシェビキが臨時政府を打倒し、ソヴィエト権力を誕生させた。 ペテルブルグで
    この革命が起こると、モスクワがその革命に反対の立場を取ったのは当然であった。
    十月革命反対派の牙城は、赤の広場から目と鼻の先のモスクワ市会だった。

    モスクワ軍管区司令官がクレムリンの十月革命派にクレムリンの明け渡しを求め、
    武力衝突の末、十月革命反対派の部隊と士官学校生がクレムリンを占領した。
    クレムリン、ホテル・メトロポーリ、モスクワ市会、軍管区司令部、ニキーツキエ
    門等を拠点として、十月革命反対の軍が中心部を制圧した。 11月の第一週が
    過ぎる頃、ペテルブルグから革命派の応援部隊が到着し、攻撃を加えた。 市会や
    ホテル・メトロポーリが砲撃された。

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    革命派が今度は最終通達を突き付け、クレムリンを明け渡さないと砲撃すると
    通告した。 クレムリン砲撃の噂は、首都でも問題となり、教育人民委員会
    ルナチャルスキーは、このような文化の破壊に耐えられないとして、人民委員会を
    辞任した。 実際には、ホテル・メトロポーリは損害が大きかったが、クレムリンは
    門の辺りに着弾し、聖堂に数発弾丸が当たった程度であった。

    革命反対派がクレムリンでの戦闘を回避して、11月15日中にクレムリンから立ち
    去ったのである。 これによって、十月革命はモスクワでも認知されるように
    なった。 ただちに赤の広場のクレムリンの壁の際にモスクワの武力衝突で死んだ
    革命派の遺体240体が埋葬された。

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    赤の広場に立つ旅行者の目をまず引き付けるのは、クレムリンの壁やグム・
    デパートではなくて広場の南側に立つ聖ワシリー大聖堂の特異な姿であろう。
    あの玉ねぎ型の屋根の群れ、それぞれの大胆なデザインと鮮やかな色彩の
    取り合わせは、一度見たら忘れることの出来ない強烈な印象を与える。

    この大聖堂は、ロシアによるカザン・ハン国に対する勝利を記念して1555年
    から61年に掛けて建立された。 カザンを征服してモスクワに凱旋した時の
    ツァーリは、まだ22歳のイワン4世だった。 建築を担当したのは、バルマと
    ポスニクという2人のロシア人である(同一人物とする説もある)。

    元々、対カザン戦争の勝利にちなむ8つの聖堂をひとつの大聖堂にまとめる
    という課題を果たすために、8基の祭壇と円屋根を設ける必要があった。
    そのうち、半分の4基は、大きな円屋根で、他の半分は、それぞれ多少とも
    小さめに造られた。 キリストを称えるという趣旨から、中央にひときわ高く
    テント型の屋根をそびえさせ、その頂上には、小ぶりのドームが付けられた。

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    変わっているのは、それをそれぞれの円屋根の形が、たまねぎ型に統一
    されているものの、全部異なった意匠が施され、色合いも様々なことである。
    構成上の調和は全く無視されている。 勝利の日が10月だったことから、
    この大聖堂は、ポクロフスキーと命名された(旧暦の10月1日がポクロフ=
    聖母庇護祭にあたる)。 もうひとつ怪奇なことは、この大聖堂が落成して
    献堂式を拳行して間もない1558年、癒癩行者として知られたワシリーが
    聖者の列に加えられたのを記念して、堂内の祭壇に祀られた途端に、
    ポクロフスキーという正式な名称を忘れられ、福者(ブラジェンヌィー、
    聖者の位のひとつ)ワシリーと呼ばれるようになったことである。

    癒癩行者は、東方正教会に特有な現象で、狂気のふりをして(あるいは、実際に
    狂気に侵されて)社会通念に反するような奇行を演じたり、奇言を吐いたりする
    者のことである。その中で特に正教会では、聖者と認定していた。

    16世紀の末、モスクワのイギリス商館にフレッチャーという人物が勤務して
    いたが、彼は、その著作の中で次のようにワシリーの噂を伝えている。
    『ロシアにはある種の世捨て人が居て一枚の布切れを腰に巻いている他、裸で
    歩き回っている。 髪の毛は長く垂れて、肩の周りを覆っている。 冬の最中
    にも鉄の首輪や鎖を巻いている者も居る・・・そのうちのひとりバジレオ
    (ワシリーのこと)は、先帝イワン4世が人民に対して残虐な圧政を加え続けた
    ことを絶えず非難していた』。

    イワン雷帝のような専制君主を公然と批判するような行為は、癒癩行者にしか
    許されなかったであろう。 その雷帝が1584年に他界したところから、今は
    亡きワシリーが時代の英雄として担ぎ出されたのに違いない。

    聖ワシリー大聖堂と向かい合って赤の広場の反対側に立っているのが、国立
    歴史博物館である。 中世ロシアの伝統的な建築様式で建てられ、クレムリンに
    調和するように赤レンガで積み上げられている。 ただ、中央の主屋の台形の
    屋根やいくつかのテント型の塔の屋根をはじめ、全ての翼の尖った屋根が純白に
    塗られている。 それが、いかにもパンケーキの上に粉砂糖をふりかけたような
    メルヘン的な印象を与える。

    こちらは、比較的新しく19世紀の70~80年代に建てられたものであるが、
    赤の広場に良く似合っている。 行政上、この歴史博物館のアドレス表示は、
    赤の広場1番地であり、聖ワシリー大聖堂は、この博物館の分館のひとつと
    なっている。

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    都市には市が付き物で、モスクワでは、14世紀の後半から、クレムリンの東側の
    城壁の外が商売の売り買いの場となっていた。 16世紀30年代にクレムリンと
    キタイ・ゴロドがまとめて囲まれた時、市の立つ広場は広げられた市域での
    中心地となった。 支配する者と支配される者が出会う場所という意味でも、
    それは国家の中心とも言えた。

    最初は単に市とか市の広場の名称で文献に現れるが、イワン3世が火事の際、
    火の手がクレムリンに及ぶのを防ぐ意味で、240mの幅の空間に建物を建てる
    ことを禁じたことから、16世紀には、ポジャール(火除け)の広場と呼ばれた。
    今のように赤の広場(赤は『美しい』を意味する)の名前が一般化するのは、
    17世紀の後半からである。

    建物は作れなくても、立売や露店を出して商売することは自由であった。
    時代が下ってからは、堀をまたぐスパスカヤ門の橋の上では、書物や版画が
    売られ、一番北の端のニコリスカヤ門の周りには、ブリヌイ(クレープ)や
    パイのような食べ物売りが集まり、その門の近くにある大砲の台座の脇には、
    クワス(黒パンから作る飲み物)やリンゴ、長革靴、ろうそくを商う店が
    並んでいた。 同業者が固まってひとつの列を成しているのが通例であった。

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    広場を挟んでクレムリンと向き合っているのが、キタイ・ゴロドである。
    赤の広場に建物を作らせない代わりに、16世紀の末、ボリス・ゴドゥノフの
    命令によって広場の脇にクレムリンと平行するように常設のゴスチーヌィー・
    ドゥヴォール(商人館)を建て、そこで商品を展示したり、営業を行わせ
    たりした。 ソ連時代には、グム・デパート(国営百貨店)となった。
    キタイ・ゴロドの一角には、イギリス、イタリア、ドイツ等の外国の商館も
    置かれていた。

    赤の広場のように人が集まる空間は、政治的なパフォーマンスの場にもなった。
    イワン3世とソフィアの孫にあたるイワン4世は、非常に残忍なツァーリだった
    ことで有名で、雷帝というのが彼の通り名であった。 国家を収め始めた
    初期には、宗教会議を招集して法律を定めたり、それまでの年代記を集大成
    したりして積極的な姿勢を示すが、1560年からは、周囲に対して、威圧的な
    態度で臨み、彼の治世の間に赤の広場で処刑された貴族や役人の数は、何百人、
    あるいは、何千人とも言われている。

    アムステルダムで発行された前述のクレムリンの図にも『処刑された人々の
    ための堀ばた教会』の絵が5堂も描かれている。 これらの教会は、18世紀に
    なって取り壊され、その祭壇がワシリー大聖堂に移されたので、今は姿を留めて
    いない。 赤の広場の一角にローブノエ・メストと呼ばれる円形の石壇があるが、
    かつてここは、ツァーリの発布する法令が読み上がられた場所である。

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    17世紀に最も多くの群衆を集めたのは、復活祭1週間前の聖枝祭の行列だった。
    キリストがエルサレムに入ったとされるこの日、総主教が乗るロバの手綱を
    ツァーリが握り、全ての貴族や聖職者や聖歌隊や銃兵隊等が付き従って、
    ウスペンスキー大聖堂からスパスカヤ門を通って、赤の広場に出て、ローブノエ・
    メストまでにぎにぎしく行進したのである。 それは、国家の最高権力者たる
    ツァーリが謙譲の美徳を民衆の前に示すための行事だったと考えられる。
    行進の最後には、ツァーリと総主教がローブノエ・メストに並んで立ち、民衆の
    歓呼の声に応えることで締めくくられた。

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    モスクワ大公は、イワン3世の孫の雷帝イワン4世の時からツァーリと名乗る
    ようになり、クレムリンには、歴代の大公とその家族が暮らしていた。
    ツァーリは、ローマのカエザル・シーザーに由来している称号であり、
    モスクワ大公が代々使用して来た称号である。

    しかし、クレムリンに住んでいたのは、最高権力者だけではなかった。
    1600年にアムステルダムで出版された絵図によれば、今と同様に、正門は
    赤の広場から入るスパスカヤ門(当時の呼び名はフロロフスカヤ門)であった。
    門を入るとすぐ右手にヴェズネセンスキー尼僧院とチュードフ修道院があったが、
    現在、その場所は、新しい建物になっていて、ロシア大統領の官邸となっている。

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    左手には、ロシア各地の大修道院の分院が建っており、現在、その場所は、
    空き地になっている。 広場を通り過ぎると、クレムリンの中でもずば抜けて
    高い81mの『大イワン』と呼ばれる鐘楼がある。 これをイワン大帝と呼ぶのは
    紛らわしく、キリスト教の古い聖者ヨハネ(ロシア語ではイワン)に由来
    している。 この大鐘楼は、物見の塔の役割を果たしていた。 

    鐘楼の先には、ウスペンスキー大聖堂、アルハンゲルスキー大聖堂、
    ブラゴベシェンスキー大聖堂が立ち並び、その背後から国事を行う宮廷、並びに、
    ツァーリと皇族の私的な居住空間となっていた。 後者は、一段と高い丘の上に
    立ち、周囲からは隔絶していた。 この大クレムリン宮殿は、ツァーリの
    モスクワでの居城であった。 現在の建物は、ニコライ1世の命で建てられた
    ものである。 大鐘楼、大聖堂群、多陵宮を除けば、ニコライ1世以前から
    現存している建物は、ほとんどない。

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    ツァーリの宮殿から程遠くない場所には、総主教館があった。 この聖界と
    俗界のトップの他に、1600年の時点で12家の貴族がクレムリン内に邸を与え
    られていた。 モスクワ国家の全ての貴族と高官は、毎日、早朝ツァーリの
    宮廷に伺候することが義務付けられていたたため、クレムリン内に舘がある
    ことは、相当な特権であったと想像出来る。

    前述の大聖堂の他にも、聖堂(教会)と称するものが19堂、修道院分院と
    呼ばれるものが6堂を数えるため、政治と宗教が分かちがたく結び付いていた
    ことが分かる。 現在の外務省に相当する使節官署、財務省に相当する出納寮、
    警察庁に相当する盗賊取締官署等もクレムリンの中に置かれていた。 すなわち、
    全ロシアの中枢が全てクレムリンに集中していたのである。

    現在と比較して、変わったのは外堀で、西の城壁のわきには、ネグリンスカヤ川が
    流れ、東側、つまり、赤の広場の側には、ネグリンスカヤから分水して堀が掘られ、
    モスクワ川から流れ落ちていた。 堀の深さは、10mあり、幅は35mで、
    スカスカヤ門に入るには、跳ね橋を渡る必要性があった。 19世紀の初めに
    なって堀は埋め立てられ、続いてネグリンスカヤ川も河口から3kmの地点まで
    埋め立てられた。

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    乱世の権力闘争を制して、モスクワが覇権を握ったのには2つの要因が
    あったとされている。 まず、地理的条件。 モスクワは、ロシア平原の
    ほぼ中央にあって、周囲を森で囲まれていた。 タタール勢の襲撃を
    受けにくい比較的安全な場所だった。 また、モスクワ川によって
    ロシア各地と結ばれていた。 中世では、河川は重要な交通手段だった。
    交易の中継をすることでモスクワは莫大な経済的な利益を得た。

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    次に挙げられるのが、歴代の君主の巧妙な外交手段である。 その点で
    とりわけ目立ったのは、ダニールの息子でカリター(銭袋)とあだ名された
    イワン1世であった。 イワンはタタールに取り入って、ロシアから
    キプチャク・ハン国に納入すべき貢税の徴収権を手に入れた。 そして、
    豊富な資金に物を言わせて、モスクワ公国に隣接する諸侯から土地を
    買い入れて領土を拡大して行った。 ロシア全土のキリスト教会を
    統轄するキエフ府主教は、タタールの襲来以来、以後ウラジーミルに
    居を移していたが、それが招かれてモスクワに腰を落ち着けたことも、
    新参のモスクワの権威を高めるのに役立った。

    Ivan_Kalita

    それにつれて、クレムリンの内部も次第に拡張されて行く。 考古学的な
    発掘で確められるところでは、イワン1世の代には既にアルハンゲリスキー、
    ブロゴベーシェンスキー、ウスペンスキー等の大聖堂が揃って立ち、
    ハン国の客人を宿泊させるためのタタール館やチュードフ修道院が
    クレムリンの内側に建てられていた。 クレムリンの中に住むのは、
    公の家族と貴族や僧侶で、商業が行われるのは、初めのうちモスクワ川と
    クレムリンの城塞の間の空き地だった。 それが、ポサードと呼ばれた。
    イワン1世の治世になって、市の立つ場所をクレムリンの東側に移した。
    赤の広場の原型が姿を現したのである。

    イワン1世の孫にあたるドミトリー大公の代にモスクワの興隆は一段と
    進み、ドミトリーは、ロシア諸侯の連合軍を率いて、タタール軍を
    南ロシアのドン川の彼方、クリコヴォで打ち破った。 ドミトリー大公は
    この勝利によって、ドンスコイ(ドンの英雄)と呼ばれるようになった。

    ドミトリーの功績のひとつは、クレムリンをほぼ現在の規模にまで
    広げて、1367年の火災で焼け落ちた木の柵の代わりに石炭岩でクレムリンを
    囲ったことである。 「白亜の石のモスクワ」という美称がここから
    生まれた。

    また、14世紀の後半には、モスクワの周りにアンドロニコフ、
    シーモノフ、ロジェストヴェンスキー、スレーチェンスキー等のような
    修道院が次々と開かれた。修道院と言っても、有事の際には、出城の
    役割を果たすように広い敷地を持ち、賢固に築かれていた。 これらの
    修道院は現存していて、あるものは修行の場に、あるものは博物館に
    なっている。 もっとも、現存の建物は、いずれも後代のものである。

    ドミトリー・ドンスコイ大公が没する頃のモスクワの人口は、3万
    ないし4万人に達していたものと推測されている。

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    ロシアは、国全体の人口密度は低いが、人口の約73%が都市部に暮らしており、
    都市化の進んだ国と言える。 主な都市には、モスクワ、サンクト・ペテルブルグ、
    ノボシビルスク等がある。

    【モスクワ】

    ロシアの首都であるモスクワは、ボルガ川の小さな支流であるモスクワ川のほとりに
    発展した人口約900万人のヨーロッパ第一の都市。 1147年に初めて歴史書に登場
    して以来、モスクワは、ロシアを統一し、ロシア帝国を建設する上で重要な役割を
    果たした。 モスクワの街は、クレムリンと呼ばれる要塞を中心に発展した。
    現在のクレムリンは、連邦政府の建物となっている。 クレムリンに隣接する
    赤の広場には、レーニン廟、聖ワシリー寺院、かつて、世界最大と言われた
    グムデパート等がある。 モスクワは、ロシアの文化活動の拠点であり、ロシア
    正教会の中心地でもある。 更に、製造業の中心地でもあり、多くの工場が立ち
    並ぶ。



    【サンクト・ペテルブルグ】
    サンクト・ペテルブルグは、人口約500万人のロシア第二の都市であり、
    フィンランド湾に注ぐネヴァ川のほとりに建設された都市。 ピョートル大帝に
    よって、1703年に建設され、1712年にロシア帝国の首都となった。 運河が
    多く、ヨーロッパ風の建物が立ち並ぶのが特徴となっている。 20世紀に入り、
    第一次世界大戦が勃発すると、ロシアは、ドイツと戦った。 この時、ニコライ
    2世はがサンクト・ペテルブルグというドイツ風の名前を嫌い、ペトログラードに
    改称した。

    その後、共産主義政権が誕生すると、レーニンにちなんで、レニングラードと
    改称され、1991年のソ連崩壊時には、元のサンクト・ペテルブルグという名前に
    戻された。 エルミタージュ美術館、歴代の皇帝が暮らした冬の宮殿、
    ペトロパブロフスク要塞等が観光名所となっている。



    【ノボシビルスク】

    人口約150万人のロシア第三の都市。 『シベリアの首都』と呼ばれる事もある。
    オビ川のほとりに位置し、シベリア横断鉄道を建設中の1893年に建設された。
    現在でもシベリア横断鉄道の重要な停車地であり、産業と交通の拠点となって
    いる。 ノボシビルスクには、シベリア最大の美術館、北半球最大のバレエ劇場、
    有名な交響楽団とジャズグループ等があり、シベリア文化の中心地としても
    知られている。 1950年にロシア科学アカデミーの重要な支部が開設されて以来、
    学術研究都市が建設され、学問が非常に盛んになったロシアを代表する
    学術研究都市。



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