横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:キリスト教

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    486年には、フランク族の王クローヴィスがそれまでガリアを支配していた
    ローマ人を破り、北ヨーロッパにフランク王国を建設した。 クローヴィスは、
    キリスト教に改宗したことでも知られている。 キリスト教は中東から
    ヨーロッパに伝えられた宗教であるが、フランク族は宗教上、西欧キリスト
    教会の主座を占めるローマ教皇に服従していたのである。

    クローヴィスの死後、王国は息子たちの間で分割され、勢力は弱まった。
    そこでゲルマン民族の中には、フランク族からの独立を主張する者が多く表れ、
    例えば、北ドイツに勢力のあったサクソン族は、キリスト教に激しく反発した。

    768年にフランク族の支配者となったカール大帝は、サクソン族を破り、中央
    および西ヨーロッパに領地を広げた。 こうして、800年にはローマ教皇レオ3世
    からローマ教皇の冠を授けられ、西ローマ帝国の復活を果たしたが、これは
    かつての西ローマ帝国と性格の異なるものであった。 数年の間にカール大帝は
    ゲルマン民族を統一し、西ヨーロッパにおける戦争や侵略に終止符を打った。

    また、首都アーヘンにて中央集権政治を確立、学校や修道院の建設を命じ、
    教育や学問を奨励した。 こうして進歩的な支配者であったカール大帝の
    監修の下、初めてドイツ語の辞書が編纂された。

    084010

    カール大帝の死後、後継者たちは領地の支配をめぐって争い、843年には、
    孫3人が帝国を三分割することを取り決めたヴェルダン条約を締結した。
    この条約によって、ルートヴィッヒ2世はライン川東岸を含む東フランクを、
    ロタールはライン川西岸の中部フランクを、カール2世(禿頭王)は西フランク
    (後のフランス王国)を、それぞれ獲得することになった。

    9世紀になると、東方からの侵略者が東フランク王国に襲撃を企てるようになった。
    ドイツの諸侯は、王国を守るのに手柄があるごとに、王国から称号や領地を
    授けられ、これらの諸侯はやがて、ドイツ内に独立した公国をつくって行った。
    その中でも最も強大なサクソン、シュヴァーベン、フランケン、バイエルン、
    ロートリンゲンなどがあった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    インド洋と太平洋の間にあるためフィリピンは、海上交易を行う人々にとって
    便利な寄港地だった。

    フィリピンの南西、スマトラ島にあったスリ・ビジャヤ王国からも沢山の商人が
    やって来て、紀元前600年代までには、スリ・ビジャヤは太平洋の主要な交易勢力と
    なった。

    スリ・ビジャヤはフィリピンを含め、東南アジア全域に渡る海上ルートを支配した。
    スリ・ビジャヤによるフィリピンおよび東南アジア一帯の交易支配は、およそ
    500年に渡って続いた。 ビサヤ諸島というのは、彼らの名前から取ったものだ。
    彼らは、フィリピン諸島の宗教にも影響を与えた。

    スリ・ビジャヤ人は、紀元前6世紀にインドでゴータマ・ブッダにより始められた
    仏教をフィリピンに紹介した。 ヒンズー教を奉じるマジャパヒト王国は、
    1200年代の後半にジャワ島に出現した。 間もなく、フィリピンにおける海上
    ルートの支配者として、スリ・ビジャヤ人にとって代わった。 マジャパヒトの
    指導者たちは、支配地域にヒンズー教を取り入れようとはしなかったが、ヒンズー
    文化の多くの要素がフィリピンにも入った。

    例えば、フィリピン人の正装であるバロン(独自のシャツ)は南インド出身の
    ヒンズー人が身に着けている上着を改めたものだ。 フィリピン人はまた、
    ヒンズー教の言語であるサンスクリットから多くの言語を取り入れている。

    0ng7

    【アラブと中国商人たち】
    スリ・ビジャヤとマジャパヒトの影響が強かった時代、アラブ人と中国商人たちも
    フィリピンにやって来た。 14世紀までには、アラブ人学者たちがフィリピン諸島の
    南部に上陸し、イスラム教を広めた。

    イスラム教は7世紀にアラビアで生まれた。 15世紀の中頃までには南の島々、
    特にミンダナオ島で多くの人々がイスラム教徒となった。 インド、マラッカ、
    ボルネオなどからもイスラム教徒の商人がやって来て、イスラム教を広めるのを
    手伝った。

    一方、中国人商人たちは、北からフィリピンにやって来た。 その多くはルソン島に
    上陸すると、絹や磁器をフィリピンの木材や金と交換した。 明の時代(1368年~
    1644年)、商人たちはルソン島に居住地をつくった。 例えば、リンガエン港は、
    その名を当時の有力な商人、リン・ガイエンから取ったものだ。

    15世紀の始めには、中国人指導者た北の島々のいくつかを治める程、中国の影響は
    強大となった。 中国人は南から来たイスラム教徒と衝突し、結果的には、多くの
    居住地を失うことにもなった。 1500年代の初めまでには、イスラム教徒たちは、
    勢力をルソン島のほぼ全域に広めた。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    アッティラが敗退すると、フランク族はライン川からロワール川にまたがる
    ガリア地帯を数十年支配した。 486年、フランク族の国王クローヴィスは、
    北フランスのソワッソンでローマ軍を破ってガリア北部を征服し、この地を
    フランキアと呼んだ。

    冷酷でずる賢いクローヴィス王は、フランク族を終結し、メロヴィング朝の基礎を
    築いた。 496年にフランク族の宗教を捨ててキリスト教に改宗し、フランク帝国も
    キリスト教国となった。 キリスト教の中心はローマであり、ローマ・カトリック
    教会は信徒を支配した。

    クローヴィスの死後、帝国は4人の息子に分割された。 遺産の分割はその頃の
    慣習だったが、相続者たちは、自分の領土を広げるために戦争し続けた。
    フランキアは南部と東部の土地を併合して大きくなったが、分裂状態のメロヴィング
    朝の勢力は衰えて行った。

    国王の行政権は、メロヴィング朝の王たちの最高顧問であった大宰相に移って
    行った。 こうした大宰相の中でも最も力のあったエリスターベルのペピン
    (ペパン)は、優れた指揮官だった。 ペピンが714年に死んだ時、既に強力に
    なっていた王国を継いだのは、息子のシャルル(カール)だった。

    シャルルは、『つち(槌)』を意味するマルテルというあだ名の通り、戦争では
    負け知らずだった。 北イタリアのロンバルディア人がローマを攻略するのを
    防いだので、フランク王たちとローマ・カトリック教会との関係は密接になって
    行った。

    poegffty52

    【シャルルマーニュ(カール大帝)】
    シャルル・マルテルの息子が、フランキアの新しい王朝のカロリング朝を打ち
    立てた。 シャルルと同じ名前の孫シャルルは、ライン川の東側に住んでいた
    ザクセン人、バイエルン人、アヴァール人を征服した。 若いシャルルはまた、
    北アフリカからスペインとポルトガルに侵攻して来たムーア人を、フランス南部で
    食い止めた。 シャルルは武将であり、精力的な統治者だった。 ドイツ、
    北イタリア、現在のフランスの殆んど全部を占領地にした。

    800年にシャルルは、軍隊を率いてローマに赴いた。 ローマの貴族の教皇の間の
    争いを調停するためだった。 シャルルは、教皇に有利になるように争いを解決
    した。 感謝した教皇はサン・ピエトロ寺院で、シャルルに金の王冠を載せ、
    西ローマ帝国の皇帝にした。 その後、シャルルはシャルルマーニュ(カール大帝)
    と言われるようになった。

    シャルルマーニュはその政治手腕と権限で、広い帝国を統治した。 814年に
    亡くなると、領土は相続者たちに分けられた。 孫のシャルル禿頭王の領地となった
    ライン川の西の地域の西フランク王国は、現代フランスの先祖である。

    カロリング朝の力は、9世紀から10世紀初めに掛けて衰え、北ヨーロッパからの
    侵略者バイキングを阻止出来なかった。 裕福な地主たちは防衛のため城を築き、
    私兵を雇った。

    やがてこの貴族たちは、城の周りの地域を統治する領主になった。 農民は、
    侵略者から守ってもらう代わりに、領主の農地で働いた。 農民はまた、領主に
    忠誠を誓い、収穫の一部を年貢として献納した。 領主たちは、その財産と富で、
    フランス国王に影響を与え、自分たちで国王を選出する程になった。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    人はほぼ10万年間も、今のフランスの地域に住んでいた。 ヨーロッパのこの
    地域の最も古い人々の住居は、洞穴だった。 食料を得るために狩をする時の
    武器は、石器だった。 この石器時代の人々は、狩をした動物を生き生きと描いた
    絵を洞穴に残した。

    紀元前3000年頃、フランスの住人たちは、川や海岸沿いに段々と大きな集落を
    つくるようになった。 ドルメンと呼ばれる石の部屋に死者を埋葬し、メンヒル
    として知られている巨大な柱石を立てた。 当時の農民は、メンヒルを季節の
    移り変わりを予知するために用いた。

    並べた石と星の関係を見て、農民は穀物を植え、刈り入れる適切な時期を知る事が
    出来た。 紀元前800年頃、ケルト人と呼ばれる戦闘好きの民族が東方からやって
    来て、たちまちヨーロッパ大陸を支配した。 騎馬軍は鉄の武器を振り回し、
    圧倒的多数を頼みに敵を破った。

    しかし、ケルト人は次第に人口が増え、征服した土地だけでは生きて行けなく
    なって、更に領土を求めて南下した。 そしてケルト人は、ギリシャとローマの
    人々と接触するようになった。 ギリシャとローマは、南ヨーロッパの2つの
    強力な文明国だった。

    071951205b8

    【ローマ帝国とガリア】
    紀元前2世紀のローマは、大軍を抱えて拡張を続ける共和国だった。 ローマ人は、
    紀元前121年に、ギリシャの貿易港だったマルセイユを占領。 マルセイユ地方を
    ガリアと呼んだ。 ガリアの肥沃な平野に住むローマ人の人口は急増した。

    紀元前58年、ローマの将軍ユリウス・カエサルは、ケルト人を破ってガリアを
    ローマ領と宣言するために、大軍を率いてガリアを侵略した。 ケルト人は族長
    ウェルキンゲトリクスの指揮でカエサルに抵抗したが、カエサル軍を追い返す事が
    出来なかった。 紀元前52年、ブルゴーニュ地方のアレジアの戦いでケルト人が
    ローマ人に負けるまで、戦争は続いた。 ローマ人はウェルキンゲトリクスを
    捕虜にして、ケルト人のローマに対する抵抗は終わった。

    ローマ人はすぐ、ガリアの殆んど全域を植民地にした。 ローマ人は、ガリアに
    道路や都市を建設し大きな農園を開拓した。 ケルト人は、商人や農民になって
    成功し、ローマ人の言葉のラテン語を学んで、ローマ人に順応した。 ガリア人は
    やがて、キリスト教も受け入れて行った。 キリスト教は4世紀にはローマ人の
    公式の宗教となった。 数世紀の間、ガリアは平和であり、繁栄を続けた。

    しかし、5世紀の半ばには、ローマ帝国は衰え始める。 非キリスト教徒の
    西ゴート族、フランク族、ブルグンド族の戦士たちが、東ヨーロッパからガリアに
    侵攻し始めた。 この侵略で、ローマのガリア支配は弱まった。

    紀元前450年頃になると、フン族がアジアからガリアに攻めて来た。 アッティラ
    王が率いるフン族は、西へ進軍する時、農園や村落、都市を襲って火を放ち、
    財産を奪った。 フン族の侵略を止めるため、ガリア内に居るフランク族、
    西ゴート族、ブングルド族の軍隊はローマ軍と同盟軍を結成し、450年に、
    シャロンの戦いでアッティラを破った。 だが、戦いの後、ローマのガリア支配は
    ますます弱くなった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    アルメニアの名前は、紀元前6世紀、岩に刻まれたペルシャ語の文字の中に初めて
    現れる。 アルメニア民族はこの頃、現在の地に住み着いたようである。
    もっとも、彼らは、現在のアルメニア共和国の国境を越えて、トルコやイランの
    一部にまで広がっていた。

    exterior719

    アルメニアは、当初、ペルシャ帝国の一部であったが、紀元前2世紀から1世紀の間に
    有力な王国を形成した。 しかし、その後、この王国は、ローマ帝国の宗主権を認め
    なければならなかった。 301年、アルメニアは、キリスト教を国教とする歴史上
    最初の国となった。 400年頃、今日も用いられているアルメニア文字の歴史は
    ここに始まる。 この国は、旧ソ連地域の中で最古の文字文化を持つ国でもある。

    以後の数世紀間、アルメニアの支配権をめぐって、ペルシャ、ビザンチン、アラブが
    戦いを繰り返した。 9世紀にアルメニアは、ある程度の独立を果たしたが、
    その後、再び他民族の襲撃を受け、また数世紀に渡ってペルシャとオスマン帝国が、
    アルメニアをめぐって争った。

    19世紀になると、ロシアがこの国の支配権を獲得する。 ロシアは、1828年には
    トルコに属していた地域を奪った。 トルコの支配下に留まったアルメニア人
    たちは、1895年から翌年に掛けて弾圧され、特に1915年から1916年に掛けての
    残忍な迫害では、およそ150万人ものアルメニア人が命を奪われたと推定される。

    2d132a7dc0fc

    【独立への長い道のり】
    ロシア革命(1917年)の直後、1918年3月、ロシア地域のアルメニアは独立を
    宣言した。 この時、民族主義政権党のダシナクツチュン党が権力を掌握
    していた。 1920年、既に共産化していたアゼルバイジャンとの国境付近で
    暴動が扇動され、暴動の主導者たちは、赤軍の支援を求めたが、このやり方は、
    他の近隣諸国で共産主義者たちが取ったのと全く同じやり方である。

    そして、赤軍の進攻後、『アルメニア・ソビエト社会主義共和国』設立が宣言
    された。 1921年に民族主義者による暴動が起こったが、武力で弾圧された。
    1922年、この共和国は、アゼルバイジャン、グルジアと共に、
    『ザカフカス・ソビエト社会主義連邦共和国』を発足させた。 この連邦は、
    1936年に解消され、アルメニアは、単独のソ連邦構成共和国の地位を得た。

    1920年代には、他国と同様アルメニアも、あらゆる分野で文化的な自立を認め
    られていたが、1930年代になると、スターリンによって同化政策が遂行され、
    全ての民族的運動が弾圧された。

    こうした傾向は、1980年代の改革政治によって、初めて改められた。 しかし、
    民族自立の気運が、かえって、かつての地域紛争の火種を再び拡大することにも
    なった。 アゼルバイジャンとの対立は、今日もなおくすぶっている。 もっとも、
    両国は1991年に互いに交渉を続けることで合意している。

    アルメニアは、旧ソ連の中では最も激しい民族運動の展開された国の中に
    数えられる。 1990年8月、他のほとんどのソ連構成共和国に先駆けて独立宣言を
    行い、新連邦条約の交渉には参加しなかった。

    1991年9月に行われた国民投票では、95%の国民が、独立に賛成票を投じた。
    そして、1991年12月、アルメニアは、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ポーランド語は、チェコ語、スロバキア語と同じ西スラブ系言語となっており、
    第二次世界大戦以降、教育が普及したため、ポーランド語は文語口語とも
    標準語化されたが、地域的な方言は今も残っている。 例えば、シュロンスク
    地方は、ポーランド語とドイツ語の混成語となっている。 カルパート山脈の
    ゴラーレ人も独特の方言を持っている。

    ポーランド人にとって、文学は民族の誇りを表現する重要な手段となっている。
    この国の最初の文学作品は、歌と語りによる叙情詩と叙事詩であった。 国民の
    キリスト教改宗後は教会も民衆も、ラテン語で文学を書くことが多くなった。

    15世紀の中頃までには、ラテン語に代りポーランド語が文学言語となった。
    16世紀の詩人、ヤン・コハノフスキーは、ラテン語とポーランド語と両方を
    使った。 ミコワイ・レイ(1505~1569年)は『ポーランドの父』と呼ばれ、
    ポーランド語だけで詩と散文を書いた。 それ以降も歴史、宗教、詩などの
    分野で重要な作品が多く現れた。



    ポーランド文学は、19世紀になると、ますます重要性を増した。 詩人たちは、
    分割と外国人支配に抵抗して、祖国の文化と愛国心を鼓舞した。 アダム・
    ミツキエヴィッチは、独立の闘志コシチューシコを歌った叙事詩『パン・
    タデウシ』で祖国への深い愛情を表現した。 ヘンリク・シエンキェヴィッチは
    小説『クォ・ヴァディス』で1905年に、チェスワフ・ミウォシュは詩の作品で
    1980年にそれぞれノーベル文学賞を受賞した。

    作家たちの多くは、外国に亡命し、他の国の文化にも重要な貢献をした。
    ヨゼフ・コンラッド・コジェニョフスキは、イギリスへ移住し、ジョゼフ・
    コンラッドのペンネームで多くの海洋小説を書いた。

    ポーランド生まれのアイザック・シンガーは、ユダヤの伝統的な神話や伝説を
    作品化した。 ジャージー・コジンスキも同じくアメリカ合衆国へ移住した
    作家だが、第二次世界大戦中のポーランド人たちの苦難を小説『ペインデット・
    バード』に表した。

    ポーランドの共産主義政権は、権力を握っている間は作家やマスコミに大きな
    制約を課したが、多くの作家たちは、作品を地下で出版し続けた。 現在の
    ポ-ランドは東欧で最も出版業の盛んな国のひとつであり、3000近くの雑誌と
    新聞を発行している。 年間の書籍販売数は、2億部で、この中には共産主義
    時代には入手出来なかった大衆小説も含まれている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    6世紀になると、黒海の北の平原に居たスラブ人がドナウ川に到達した。
    ビザンチン帝国はこの地域にいくつもの要塞を建設していたが、スラブ人の
    勢力は強く、モエシアとトラキアはスラブ人の侵入を受けた。

    7世紀になると、トルコ系の言語を話すアジア系のブルガール人がこの地域に
    侵入して来た。 ハンと呼ばれる指導者に率いられたブルガール人たちは、
    熟練した戦士たちで、モエシア防衛のために送り込まれたビザンチン軍を
    たちまち打ち破った。

    umdfgfdgd

    やがてブルガール人とスラブ人たちは、相互に婚姻を結ぶようになり、
    スラブ語が共通言語となった。 681年、ハンのアスパルフは、ブルガリア
    北東部のプリスカを首府とする第一次ブルガリア王国を建国した。 王国内に
    置かれた10の州は、それぞれ大貴族たちに統治されることになった。

    この頃から人々の階級の分化が進み、ポヤールと呼ばれる地主たちは、農奴と
    呼ばれる土地を持たない農民たちから、収穫量の一定割合を強制的に徴収する
    ようになった。

    ブルガリア王国は、ビザンチン帝国から頻繁に攻撃を受けた。 811年、ハンの
    クルムの率いるブルガリア軍は、ビザンチン軍を打ち破り、皇帝ニケフォロスを
    戦死させた。 クルムは勢いに乗じて、コンスタンチノープルに迫った。
    クルムの後継者たちは、王国の領域を拡大して、西はセルビアとマケドニアの
    一部、北は現在のルーマニアの一部にまで及んだ。

    863年、ハンのボリス1世は、キリスト教に改宗し、臣下たちにも改宗を強要した。
    この頃、キリスト教の指導者内には、教義をめぐる激しい論争が続き、教会は
    ローマ教皇を首長とするカトリックと、ビザンチウムの大司教を中心とする
    ギリシャ正教に分裂した。

    ボリス1世は教皇に、ブルガリアに大司教を置くことを求めたが、拒否されると、
    ローマの教会と絶縁して、ギリシャ正教の教義を採用した。

    rila06

    10世紀初頭には、ブルガリアはバルカン半島内で最強で、裕福な国家に
    なっていた。 スラブ人とブルガール人は完全に融合して単一のブルガリア人
    となり、ギリシャ人やアルメニア人の商人たちまでが領内の都市に定住し始めた。

    コンスタンチノープルとの接触で導入されたビザンチン文化は、ブルガリアの
    美術や文学や教育を刺激した。 10世紀はじめ、伝道師クレメントは、
    ブルガリアではじめての識字学校を開き、一種のアルファベットを人々に教えた。
    この文字は、クレメントの教師名にちなんで、キリル文字と呼ばれるようになった。

    ブルガリア王国とビザンチン帝国との関係は密接だったが、893年に国王と
    なっていたシメオンは、ビザンチン皇帝軍を打ち破って、マケドニアとトラキアを
    王国領に編入した。924年、ブルガリアは、セルビアを占領して併合した。

    927年シメオンが死ぬと、ブルガリアは弱体化し、969年、北東からロシア人が
    侵入して来て、ブルガリア王国の一家を捕虜にした。 これを自国への脅威と
    考えたビザンチン皇帝ヨアネス1世チミスケスは、ロシア人を攻撃して撃退し、
    ブルガリアの東半分を帝国領に併合した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ポーランド人が10世紀にキリスト教を信仰するようになって以来、カトリック
    教会は、大きな影響力を持つようになった。 教会への忠誠心によって、
    ポーランド人は19世紀の分裂と外国支配の時期にも、民族としての自覚を保つ
    ことが出来た。 その後、共産主義政府が宗教活動を制限するようになっても、
    一部の教会や神学校は、人々の間で存続した。 教会の指導者たちは反体制
    運動に参加した。 1878年、ポーランド教皇、ヨハネ・パウロ2世となると、
    自分の影響力と人気を活用して、改革を推進させた。

    img1220

    クリスマスとイースターは、主要な宗教的祭日である。 8月15日の聖母
    被昇天の祝日には、多くのカトリック教徒がチェンストホヴォにあるヤスナ・
    グラ修道院に行き、『黒の聖マリア』の霊廟に礼拝する。 信仰の厚い人たちは、
    この聖母マリ像が17世紀のスウェーデンの侵略を阻止したと信じ、以来
    『黒の聖母マリア』は、ポーランド民族の象徴となった。

    ポーランド人の95%以上がカトリック教徒である。 残りの大部分はギリシャ
    正教徒、プロテスタント、または、ユダヤ教徒となっている。

    何世紀もの間、ポーランドはユダヤ人たちの信仰と知識と文化の重要な中心
    だった。 しかし、第二次世界大戦中、ユダヤ系住民たちは、ナチスの迫害に
    よって、蹂躙され、この戦争で生き残ったユダヤ人たちの大部分は、ポーランド
    国外に移住して行った。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    15世紀と16世紀を通じて、フィンランド人は、スウェーデン国民として統合化して行った。
    フィンランド人は、自分たちをスウェーデン国王支配化の他の民族と同一だとみなしていた。
    この間に、スウェーデン語を話すフィンランド生まれの貴族が台頭し、フィンランド領内で
    権力を持つようになった。 地方の裁判所の判事や、スウェーデン国王のために、
    フィンランド領内の城を管理する役人になるフィンランド人もおり、スウェーデン国王政府に
    最高官吏として積極的に参加した。 フィンランド貴族達には、領内の財政を運用したり
    海軍を再興したりして、スウェーデン王国を補助した者もいる。 大勢のフィンランド人が
    スウェーデンの首都ストックホルムに住み働いた。

    agricola

    15世紀までにトゥルクの司教たちは、フィンランド人にローマカトリック教を布教し、多神教の
    フィンランド人は、次第に一神教のキリスト教に改宗して行った。 まだ大学がなかった
    16世紀には、フィンランドは優秀な子弟をヨーロッパ各地の教育、宗教の中心地に留学
    させた。 例えば、フィンランド人の学者ミカエル・アグリコラ(1510年~1557年) は、
    ドイツのウィッテンベルグの大学で学んでいる。

    アグリコラは、新約聖書をフィンランド語に翻訳し、また、フィンランド人にマルティン・ルターの
    革命的な宗教思想と新信教の宗教改革を紹介した。 この運動は、ローマカトリック教会の
    権威への挑戦だった。 16世紀に北ヨーロッパ各地で、プロテスタントのルター派が
    広まった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    830年にモイミールという名のスラブ首長が、現在のチェコである、ボヘミアとモラヴィア、
    更には、スロヴァキア、ポーランドにあたる地域にまたがる大モラヴィア帝国を建設した。
    東フランクからの絶え間ない威圧に対抗して建設されたスラブ人の国だと言われている。

    大モラヴィア帝国は、東のビザンチン帝国と密接な関係を作るためにビザンチン教会を
    取るか、または、西のローマ教会を取るか、東西ふたつのキリスト教がぶつかる舞台と
    なった。 モイミール一派は、ローマ教会を受け入れたが、後継者のラチスラフ一派は、
    大モラヴィア帝国にビザンチン教会の伝道師を招いた。

    863年に到着した伝道師キリルとメトディウスは、スラブ人にスラブ語で、キリスト教の
    祈祷と儀式を伝えた。 彼らは聖書の翻訳に、キリルが作ったグラゴール文字を使った。



    同じ頃、ドイツ遠征中のラスティスラフは、ドイツ王に捕らえられた。 彼の甥である
    スヴァトプクは、ドイツ王と和平を結び、臣下のスラブ人をローマ教会のカトリックへと
    改宗させた。 南スラブ人、東スラブ人は、ビザンチン教会に留まり、チェコ人は、ローマ・
    カトリック教徒になった。

    984年にスヴァトプクが死んだ後、中央アジアのマジャール人がヨーロッパに侵入して
    来た。 屈強なマジャール騎馬軍は、大モラヴィア帝国を一気に滅ぼした。 ヨーロッパ
    南東にハンガリー王国を打ち立てたマジャール人は、現在のスロヴァキアを占領し、
    その後、約1000年間に渡って支配した。

    great-moravia

    【プシェミスル家とボヘミアの統一】 

    大モラヴィア帝国が滅亡した頃、チェコ人が住むボヘミア、モラヴィア一帯では、有力な
    豪族プシュミスル家が権力を広げ、同家のヴァーツラフ公は、チェコ人をまとめて、
    ボヘミア公国(後に王国となる)を創った。 大モラヴィア帝国を滅亡させた東の
    マジャールの脅威からボヘミアを守るために、929年、ヴァーツラフはドイツ国王
    ハインリッヒ1世に臣従の誓いをたてた。 怒った弟ポレスラフは、ヴァーツラフを殺害
    した。

    しかし、ボヘミア公国の支配を南ポーランドまで広げた弟は、悔い改め、ヴァーツラフを
    聖者に叙し、ボヘミアの守護神として祀った。

    962年にローマ法王が、ドイツ王オットー1世を皇帝としてローマ帝国を復活させようと
    したのが神聖ローマ帝国である。 ドイツを中心に、中央・東ヨーロッパの多数の都市、
    領主国、公国にまたがる神聖ローマ帝国は、今のEUのような国家共同体である。
    11世紀に、一時的にプシェミスル家に代わってボヘミア王に迎えられたポーランド王
    ヴラチスラフは、ボヘミア公国を神聖ローマ帝国に編入し、安全保障を条件に貢納の
    義務を負うことになった。

    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    スラブ人は、6世紀に中央アジアから来たアヴァール人の侵入で大損害を受けた。
    アヴァール人は、ボヘミア一帯も支配していた。 7世紀はじめに現れたドイツ人の
    商人サモが、チェコ人と結んでアヴァール人を破り、ボヘミア地帯にサモ王国を
    つくったのが、はじめてのチェコ人の国である。 しかし、その後100年以上に
    渡ってチェコ人は、アヴァール人、ポーランド人、フランク人なとど地域の
    支配権を争った。 尚、サモ王国は、7世紀に出現した歴史的に実証し うる最初の
    スラブ人国家となっている。

    samo

    チェコ人にとって西にあるフランクは強い国で、805年になると、ボヘミアと
    モラヴィアは外敵からの防衛を条件に、フランクの支配者カール大帝
    (シャルルマーニュ)に貢納するようになり、フランク王国防衛の最前線地方に
    なった。 優れた武将であったカール大帝は、アヴァール人を破り、ヨーロッパの
    北部と西部をフランクに編入した。 ローマ教会と繋がりが強いフランクは、
    スラブ人を力ずくでキリスト教に改宗した。

    814年のカール大帝の死後、フランク王国は分割された。 孫のルードヴィッヒは
    東フランクの統治者になり、現在のドイツの地域に相当する複数の有力な公国を
    与えられ、頻繁にチェコ人の領土やボヘミアとモラヴィアの間題に介入した。

    【お勧めの一冊】



    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    紀元前58年にヘルベチア族は、恐らくゴール地方(現在のフランス)の
    財宝を求めて東方に進出する。 すると、ローマ帝国の軍隊がヘルベチア族を
    攻撃し、やがてヘルベチア地方を占領した。 一方、ローマ軍は、ジュリアス・
    シーザー指揮の下、ヨーロッパ大陸の他の地域に住む民族を征服して領土を
    広げて行く。 紀元前15年には、ラエチア族も制服された。

    ヘルベチアは、ローマ帝国の支配下に入るが、自治は認められていた。 また、
    ローマ帝国の領土の一部として、ヘルベチアは繁栄する。 牧畜を行い、穀類や
    果物を栽培し、ワインを製造した。 新しい道路が開けて、交易が盛んになり、
    小さな市場を持つ街の人口が増えた。

    german

    紀元前253年に、ライン川の北に定住するゲルマン部族のアラマン族が、
    ヘルベチア族の定住地を次々と侵略する。 ローマ軍は、これに対抗して戦い、
    ヘルベチアの領土を取り返した。 しかし、この戦いに掛かった費用を
    取り戻すため、ローマの役人はヘルベチア人に高い税金を払わせ、無給で
    働かせた。

    Charlemagne

    【ゲルマン民族による統治】
    フランク王国の支配下で、スイス地域に住む人々は、段々とキリスト教に
    改修し、ローマカトリック教会に所属した。 9世紀には、カロリング家の
    カール王(後のカール大帝)が現在のスイス、フランス、オランダ、
    オーストリア、イタリア、そして東ヨーロッパの殆どの地域を含む広大な
    キリスト教徒の領土を統一し、大帝国が誕生した。 ローマ教皇もカール王の
    力を認め、800年には神聖ローマ帝国の皇帝として王冠を授けた。

    王国各州に任命された諸侯(貴族階級)は、広大な領土を所有し、外敵の
    侵入に備えて兵を雇った。 諸侯は、領地内での支配権を握っていたが、
    王には服従した。 王位は、世襲で続き、王国に対する諸侯達の忠誠も
    代々受け継がれた。

    領地には、諸侯の下に家老、職人、小作人がいて、階級制度が出来
    上がっていた。 小作人は、農奴と呼ばれ、諸侯のために無報酬で働く
    代わりに、食料を与えられ、保護を受けた。 その身分は、法的に領地に属し、
    領地を離れることは許されなかった。

    小作主も領主に保護され、その返礼として農園の収穫物の一部を差し出した。
    封建制度と呼ばれるこの政治と社会の仕組みは、その後、数百年間続いた。

    【お勧めの一冊】



    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ