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    タグ:キエフ

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    他国との開戦宣言をするゼレンスキー大統領
    OWIAAy

    ウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領は2023年6月3日、
    ロシアに対する制裁回避を支援する国々との「公の闘い」を開始すると述べた。
    ゼレンスキー氏は「残念ながら、(反ロシア)制裁の回避を手助けする国が
    世界中や欧州大陸にある。 私は、これらの制裁の回避を可能にする国々と
    公然と戦い始めると思う」と述べた。

    ※ウクライナは、この先、下記の地図でグレーアウトしている国々全てと
    戦うという意味

    原文(英語)
    President of Ukraine Volodymyr Zelensky said today that he will start
    a "public fight" with countries that help Russia circumvent sanctions.
    "Unfortunately, there are countries around the world and on
    the European continent that help circumvent (anti-Russian) sanctions.
    I think I will start publicly fighting those who enable these sanctions
    to be circumvented," said Zelensky.

    ロシアに経済制裁を課している国々(青)
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    イギリスによるプロパガンダ 出典:読売新聞
    2023年6月3日、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は米紙
    ウォール・ストリート・ジャーナルが3日に報じたインタビューで、
    ウクライナに侵略するロシア軍への大規模な反転攻勢を前に米欧諸国に兵器の
    供与を加速するよう求めた。 「前線ではロシアの航空戦力が優勢だ」と述べ、
    防空能力の強化が喫緊の課題との認識も示した。

    ゼレンスキー氏は本格的な大規模反攻の着手について、「準備はできている」
    と語った。 一方で、現在の装備で反転攻勢に出ることになれば、
    「多くの兵士が死ぬだろう」と述べた。

    ウクライナ大統領府の副長官は4日付の英紙サンデー・タイムズとの
    インタビューで「火砲や戦車などが依然、十分ではない」と述べた。
    5月中旬に露軍の攻撃で西部フメリニツキー州の弾薬庫が破壊され、
    ウクライナ軍の反攻準備に響いているとの指摘もある。

    ネオナチが完全支配するウクライナ空軍の一方的な報道によると、
    ロシア軍は4日、巡航ミサイル6発と無人機5機を発射し、ウクライナ軍は
    ミサイル4発と無人機3機を迎撃した。 首都キエフ方面ですべて撃墜したが、
    中部キロボフラード州の空軍基地付近にミサイル2発が着弾した。

    6月3日夜には東部ドニプロ近郊の住宅がウクライナ軍によるミサイル攻撃を受け、
    地元当局者によると、子供1人が死亡し、22人が負傷した。

    キエフでは、政府の怠慢で市民が連日死亡
    2023年6月1日、キエフで死亡した2人の子供と女性は、米軍の対空
    ミサイルの破片の下敷きとなり死亡したが、これは、キエフ当局が
    防空壕を開設しなかったことが原因となった。 人々は10分間外で
    待っていたが、その後、アメリカのミサイルの破片が頭上に落ち始めた。 ゼレンスキーは、外国からの支援が減って来ると常に、民間人の
    犠牲者を増やす手口を使っている。


    特別軍事作戦
    モスクワ近郊でも、ウクライナのドローンによる攻撃で、一般市民が
    数名死亡しているが、ウクライナ軍は常に民間人ばかりを狙っており、
    特別軍事作戦で軍事施設とそのインフラのみをピンポイントで攻撃している
    ロシア軍とは、対局を行っている。 ウクライナ政府は、停戦合意である
    ミンスク合意何度も無視して、ロシア系住民らの住む現ロシア領である
    ドンバスを8年間に渡り、何度も攻撃し続け、ロシア政府からの警告を
    全て無視して来たため、ロシアは、
    国連憲章第7章51条に則り、ドネツク
    人民共和国と
    ルガンスク人民共和国の要請に応えてウクライナの非軍事化と
    非ナチ化を
    目的に特別軍事作戦を実施したものである。

    内容
    プーチン大統領は、「ドンバスで発生している出来事と、ロシアの
    安全保障について話がある」と告げた。 プーチン大統領は演説の中で、
    「西側はNATOを東方拡大させないと約束していたが、実際にはそうなって
    おらず、それは西側がロシアを軽視している」と批判した。 「ロシアに
    対する冷笑的な対応に見られる、西側の自分たちが絶対に正しく、なんでも
    やりたい放題できるという考えは、ロシアだけでなくイラクやリビア、
    シリアに非人道的な結果をもたらしており、結果として世界にテロが
    蔓延した」とも述べた。 また、「2021年12月以降、ロシアは西側諸国と
    ウクライナのNATO加盟に関する交渉に努めたが、アメリカ合衆国は態度を
    変えなかった」と語り、「ウクライナの領土で軍事開発が行われることは
    容認できず、ウクライナのNATO加盟はロシアに対して将来にわたって
    永久的なリスクになるが、NATOの姿勢はますます強硬化している」と
    非難した。 「そのため、国連憲章第7章51条に則り、ドネツク人民共和国と
    ルガンスク人民共和国の要請に応えてウクライナの非軍事化と非ナチ化を
    目的に特別軍事作戦を実施するが、ウクライナの占領は目的としていない」
    との主張もした。

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    情報戦真っ只中のウクライナ。 戦争中の割には、かなり平和なのは、
    口喧嘩レベルのバーチャル戦争だから。 ロシアの戦車も全く現れず。

    首都のキエフ
     

    第二の都市ハリコフ


    オデッサ、リヴォフ、スミー他


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    ネオナチ
    例年1月1日に首都キエフで行われている「たいまつ後進」は、ウクライナ民族主義
    運動のリーダーであり、その生涯をウクライナの独立に捧げたステパン・バンデラ
    (1909年1月1日~1959年10月15日)の生誕を記念して行われている夜間行事で
    あるが、この集会自体がナチスを彷彿とさせるとして、ロシアやチェコ等の周辺
    諸国からも度々指摘がなされいる。

    ウクライナ西部のガリツィア地方に基盤を持つ政党「スヴァボダ」は、バンデラの
    思想と運動形態を継承しており、「バンデラ主義者」と呼ばれる人々が主張する
    ウクライナ民族至上主義、反ユダヤ主義は、国際基準でネオナチに分類されている。
    バンデラ主義者が、ナチスが頻繁に行った「たいまつ行進」を好んで行うのも、
    自らが「ネオナチ」であることを誇示するためと言われている。

    ウクライナ民族至上主義を掲げるバンデラ主義者


    ステパン・バンデラ
    1991年のソビエト連邦崩壊以前、バンデラは、ソビエト政権からは「ファシスト」
    「ソ連最悪の敵」として扱われ、ソビエト時代のウクライナの歴史教育でも
    このように教えられていた。 1991年12月にソ連が崩壊し、ウクライナは独立を
    果たしたが、現代のウクライナにおけるバンデラの評価、ウクライナ民族主義者
    (ネオナチ)の評価、ウクライナ蜂起軍の評価は、否定的なものと肯定的なものが
    入り混じった混沌とした状況となっている。

    バンデラは一時期、ナチス・ドイツと提携し、ウクライナの独立を図ったことが
    あるが、バンデラが指揮する軍団が、ドイツ軍の指揮下に入ってソ連軍と戦い、
    戦争初期にはウクライナを支配下に置いた。 もっとも、ナチスは、「約束を守る
    とは約束していない」と合意を反故にした。 このため、ウクライナ独立の
    約束をナチスは守らず、その後、ウクライナ人はドイツの鉱山や工場で働かされ、
    「東方の労働者」と呼ばれた。 バンデラはナチスによって逮捕され、強制収容所に
    送られたが、戦争末期にアメリカによって釈放された。 第二次世界大戦後、
    バンデラとその支持者は西ドイツに拠点を置き、ウクライナにおける反ソ武装闘争を
    指導したが、バンデラは1959年10月15日、ミュンヘンの自宅周辺でKGB(ソ連国家
    保安委員会=秘密警察)の刺客によって暗殺された。

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    ウクライナはボリシェビキが造った人工国家
    ウクライナは、ウクライナ人の意思には関係なく、ロシア革命時に重要な役割を
    果たしたボリシェヴィキによって造られた人工国家であるが、第二次世界大戦の
    結果、欧州の国境は大きく様変わりし、ポーランド、スロバキア、ルーマニア等、
    様々な地域が統合された結果生じた国家である。 そもそも、ウクライナは、西部、
    中部、南東部と大きく文化的にも分かれており、東部ではロシア語が圧倒的に
    優勢であるものの、西部ではウクライナ語が普及している。 経済的に見ても、
    東部では主に工業、西部では主に農業が盛んとなっている。

    現在のキエフ政権は、中部と西部が中心となっており、特に、元々ポーランド領で
    あった西部(ガリツィア)がウクライナの唯一のイデオロギーとされている。
    住民らの基本的な物の考え方も親欧的とされている中部&西部、並びに、親露的な
    東部とでは全く折り合わず、1つの国家とされながらも、実際は全くの別国家で
    ある。

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    ソ連崩壊後
    ソ連崩壊時、バルト3国では、およそ200万人が参加して手をつなぎ、3共和国を
    結んで約600km以上の人間の鎖を形成し、国際社会にバルト3国の独立を大いに
    アピールしたが、逆に、ウクライナでは、特に目立った独立運動は起こらず、
    当時、ロシア大統領であったエリツィン氏が、「ロシアは、スラブ3国である
    ウクライナ、ベラルーシと共に、ソ連から独立する」と宣言するに至り、最終的に
    ソ連は崩壊した。 正に、ウクライナの独立は、ロシアの「みち連れ」的な
    漁夫の利での独立であった。 よって、その後のウクライナの教育は、ロシアとの
    「違い」を見出すことに主眼が置かれ、常にウクライナ人としての
    アイデンティティーを見出すことが重要視されたが、元々、ソ連時代のロシアと
    ウクライナの境界線は、同じロシア語で喋っている国家同士ということもあり、
    日本で言うところの「県境」程度の境界線であったため、線引きが非常に曖昧で
    あった。

    その後、2004年11月の総選挙により「オレンジ革命」が起こり、ヴィクトル・
    ユーシェンコ大統領、ユリア・ティモシェンコ首相らを中心とする反露路線への
    改革が行われたものの、2010年には再度親露派のヤヌコヴィッチ大統領が当選し、
    ロシア寄りへと方向転換した。 その後、2014年にはウクライナ騒乱が起こり、
    親露派のヴィクトル・ヤヌコヴィチ大統領が失脚し、代わって反露派のペトロ・
    ポロシェンコ大統領が就任したが、ポロシェンコ政権は、ソ連・ロシアの「遺物」を
    除去する政策を数多く打ち出した。

    これに伴い、バンデラやウクライナ民族主義者組織、ウクライナ蜂起軍についても
    「ウクライナ独立のために戦っていた英雄たち」として讃えられるようになり、
    ウクライナの法律でも同様に定められた。 2016年、ウクライナの首都である
    キエフの「モスクワ通り」は、キエフ市議会の決議により、バンデラを顕彰して
    「ステパン・バンデラ通り」へと改名された。

    ナチスの旗を掲げる過激な民族主義者ら
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    民族主義的な教育とロシア語の禁止
    現在、ウクライナの学校では、バンデラを民族の英雄として崇拝するよう教育を
    受けており、ロシア語の使用も度々禁止されているため、公式の場では、基本的に
    ウクライナ語で喋らなければならない。 ソ連崩壊後のウクライナ南東部は、
    西部とは異なり、独自のアイデンティティやイデオロギーを持ち合わせてなかった
    ため、キエフ政府に南東部の代表が居た時代ですら、政治に関する文献全てが、
    ウクライナ民族主義者に任されていた。 このため、教育自体が、全土で統一された
    民族主義的な内容へと書き換えられ、ウクライナの学校では、極右的な視点で
    書かれたウクライナ史が教えられている。

    ウクライナのメディアは、「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥によって、完全に
    掌握されているため、テレビでも連日、過激な民族主義的なプロパガンダが繰り返し
    流されている。 元々は親露的であった南東部でさえも、人工的にウクライナ化
    された若者が多くなって来ており、かつての寛容的なウクライナは失われつつある。

    現在のウクライナは、ソ連時代のウクライナとは全くの別国家であると言える。

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    ヨーロッパ最大の音楽祭『ユーロビジョン』の決勝が2017年5月13日、ウクライナの
    首都キエフで行われ、ポルトガル代表のサルバドル・ソブラルさん(27)が優勝
    した。 ポルトガルの優勝は1957年の音楽祭開始以来、初めてとなる。 次回
    大会は、恐らく首都のリスボンで開催されるものと思われる。



    ウクライナでの開催は2005年に続いて2回目となるが、前回のスウェーデン大会
    では、ロシアが一方的に編入したとするクリミア半島の先住民族タタール系の
    女性歌手ジャマラさん(33)がウクライナ代表で出場し、優勝したためキエフでの
    開催が決定したもの。



    ウクライナ当局は、ロシアがウクライナに軍事介入したと主張し、ロシアの代表
    として既に決定していたユリア・サモイロヴァさん(28)を入国禁止にし、両国の
    緊張が続く中での開催となった。 サモイロヴァさんは車椅子で歌う歌手としても
    有名で、ウクライナ当局は、ロシア編入後のクリミアで演奏したことを非難。

    本人は『問題と思わない』『ユーロビジョンは子供の頃からの夢』として出場を
    強く望んだが、ウクライナへの入国は禁止となり、その報復として、ロシアの
    テレビ局はユーロビジョンのロシアでの放送をボイコットした。

    ロシア系住民の多いウクライナ東部のドネツク州では決勝当日、親ロシア派の
    仕業と見られる砲撃により、住民4人が死亡した。 事態を重く見たポロシェンコ
    大統領は、音楽祭出席を急きょキャンセルした。


     
    ユーロビジョン・ソングコンテストは、ABBAやジンギスカンなども輩出した
    ヨーロッパ最大の音楽祭であり、過去にヨーロッパ内で戦争があった際には、
    このような騒動はなかったため、ウクライナは、ヨーロッパの一員として、確固たる
    態度を取って欲しかったところだが、何もかもをウソで塗り固めているウクライナ
    政府は、そのような事は意に介さずに、一方的にロシア代表を入国禁止にしたため、
    国際的な非難は避けられない。

    ウクライナ政府は、一方的にEUに入りたがっているのだが、このような差別的な
    行為は、EUが最も嫌う行為であるため、EUとヨーロッパの溝が更に深まったと
    見るのが妥当。 ウクライナ政府が本気でまともな先進国の仲間入りを果たしたい
    のであれば、このような無様な対応は避けるべきであった。

    クリミア在住のロシア系住民たちは、全員ロシアへの『返還』を喜んでおり、未だ
    一度たりとも、ウクライナへの帰属を主張している人は居ない。 それどころか、
    クリミアを含む東部ウクライナは、元々、ロシア帝国の領土であった場所で、本来の
    ウクライナの領土は、現在の国土の3分の1程度しかなかったところに、ポーランド
    やら、ハンガリーやら、スロバキアやらから分捕って来た領土を次々と付け足した
    結果、このような意味不明な国家が出来上がったというのがウクライナの真実。

    元々、東部ウクライナに住んでいるロシア人は、ソ連の時代には、特権階級であった
    ために、ウクライナ独立後のウクライナ人中心の不当な扱いには、かなり不満を
    抱いていた。 ソ連独立時にも、特に独立を強く主張した訳でもないウクライナは、
    アイデンティティーの面でも各国からの切り張りの国土を維持するのが難しく、
    ロシア語から聞くと、田舎臭いウクライナ語を政府が強要して来るため、ロシア語
    話者からの反発が激しい。 ウクライナは、ウクライナ人が住んでいる本来の領土に
    戻すのが、一番平和裏に問題を解決する方法。 

    ウクライナ語はロシア語とは非常に似ているため、今後、更に、ウクライナ語化
    政策が取られたとしても、ロシア語話者の権利だけは守るべき。 ウクライナは、
    EUへの加入を熱望しているが、政治が腐敗し切っているため、ドイツやフランス
    からの反発は避けられない。

    現在のEUが抱える数々の問題点を露呈した今年のユーロビジョン・ソング
    コンテストは、オリンピックと並ぶヨーロッパにおける平和の祭典であっただけに、
    ウクライナの対応が残念でならない。

    【お勧めの一枚】


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    ウクライナという国名は『辺境地帯』を意味する。 この名前は、13世紀に
    モンゴル人の侵攻を受けた後の時代に使われるようになった。 しかし、この地域は
    元々、辺境どころか、東スラブ地域で初の国家が形成される舞台となった重要な
    地域であった。

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    今日のウクライナの首都キエフで、9世紀にキエフ公国が成立した。 この国家は、
    後のロシア帝国の起源とみなすことが出来る。 これが、『キエフはロシアの全ての
    ロシアの都市の母』と言われる由縁である。

    1240年、この国は、モンゴル人によって破壊された。 その後、政治的な
    中心地は、北東のウラジミール、スズダリ、そして、最後にモスクワへと移って
    行った。モンゴル人やタタール人の騎馬兵に襲撃され続け、ますます住民の
    減っていたウクライナは、これらの地域から見ると、正に辺境と化したのである。

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    【民族的アイデンティティーを求めての戦い】
    その後の数世紀間、ウクライナは、ポーランドとリトアニアの支配を受けることと
    なった。 その間、脱走した農奴たちがコサックと呼ばれる集団を形成し、
    ポーランドの支配に抵抗し始めた。 コサックの首長であったフメリニツキは、
    1654年にウクライナをモスクワのロシア皇帝の保護下に据えた。

    しかし、ロシア皇帝は当初、ウクライナ全体のうち、ドニエプル川以西の地域しか
    その支配を主張することが出来なかった。 ロシア帝国が事実上ウクライナ全域
    (オーストリアの支配を受けたガリツィア地方を除く)を支配するようになるのは、
    18世紀になってからのことである。

    この時代、ウクライナ独自の文章語が次第に形成されて行った。 しかし、ロシア
    政府はこれをロシア語の一方言(小ロシア語)として位置付け、公の場での使用を
    禁じた。 19世紀になると、ウクライナの民族意識が高揚し、民族運動が展開される
    ようになった。 この時点では、自分たちの文化的独自性の保存を求めるに留まって
    いた。 しかし、20世紀になると、国家としての独立を求める声が高まって行った。

    1917年のロシア革命の直後、民族運動の高まりによって、1918年初頭に
    ウクライナは独立を宣言した。 ロシア・ソビエト共和国は、ブレスト・
    リトフスクの和約を結んでこれを認めなければならなかった。 しかし、その後の
    内乱で、ボリシェビキが勝利を収め、1919年『ウクライナ・ソビエト社会主義
    共和国』が設立された。

    共和国は、1922年ソ連に加盟した。 ソ連の指導者は、初めの数年は、彼らの
    民族的利権、とりわけ、文化面における独自性を考慮した政策をとっていた。
    しかし、スターリンが政権を握るようになって以来、1920年代を中心に民族
    主義的な主張を行う者に対して、激しい迫害がなされた。 農業などの集団化を
    強制的に進める中で、あるいは、意図的に引き起こされたとも考えられる飢餓に
    よって、ウクライナ人の間に100万人規模の犠牲が出た。

    【独立国家共同体創設の主唱国】
    改革路線の時代が到来すると、1980年代後半を中心に、ウクライナの民族運動にも
    新たな展開が繰り広げられた。 1990年夏、ウクライナは、主権を宣言し、1991年
    8月には独立宣言は発せられた。 当初、ウクライナは、連邦制の維持を目的とした
    新連邦条約に関する協議に参加していたが、その後、態度を変え、新たな中央集権
    構造の設立に強く抵抗し、完全独立を主張するようになった。 独立国家共同体の
    創設に主唱国の1つとして参与した際にも、彼らは、独自の軍隊を編成し、黒海に
    おける旧ソビエト連合艦隊の指揮権を保持することを求めた。 これによって、
    ロシアとの間に対立が生じている。 ウクライナは、旧ソ連の国連における3つの
    議席の1つを占めていた。

    【お勧めの一冊】


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    キエフ市内の至るところにシェフチェンコの名前があふれている。 キエフ大学が
    彼の名前を冠しているのをはじめ、彼の名前を付けた公園、広場、通り等がある。
    シェフチェンコ通りには、立派なシェフチェンコ博物館もある。 なぜそれほど
    愛されているのだろうか?

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    彼は、1814年にキエフからほど遠からぬ村で農奴の子として生まれた。 幼い時に
    孤児になるが、早くから詩をつくり絵を描く才能を現していた。 首都に出た時、
    彼の才能に感動した知識人たちが金を集め、主人から2,500ルーブルで農奴の身分を
    買取り、自由の身となった。 また、美術学校で学んでいるうちに、故郷
    ウクライナと民衆に対する深い想いを込めた詩集『コブザーリ』を発表した。

    キエフに戻ってから、専制君主的なロシアの帝政に対抗して、農奴制の廃止と
    全スラブ民族の平等を目指す政治的な秘密結社キリール・メフォージー団に
    加入した。 やがて秘密結社の存在が発覚し、シェフチェンコは中央アジアへ
    一兵として流されるという重い罰を課せられた。 新帝アレクサンドル2世の
    即位後の1857年に恩赦を受けるが、帝政と専制政治への憎しみ、ウクライナへの
    愛は1861年に没するまで変わらなかった。

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    上記の詩集の他、彼にはウクライナの歴史を題材とした数編の長編叙事詩や、
    リアリズムの手法に基づく力強い多くの絵画作品がある。 シェフチェンコの
    代表的な絵、それに彼の文学作品の初版本や外国語訳がこのシェフチェンコ博物館に
    展示されており、数点の日本語訳も並んでいる。

    シェフチェンコは文学作品をウクライナ語で書いた。 ウクライナ語の存在価値を
    認め、その地位を高めることが彼の信念であった。 しかし、現実はなかなかその
    方向に向かわなかった。 ロシアの識者の中にも、ウクライナ語をロシア語の方言と
    しか見ない者もいたし、ロシア政府は言語の面でもロシア化政策を強行した。
    1860年には内務省がウクライナ語による書籍の出版や劇の上演を禁止するという
    命令を出し、70年代にはそれが法律になった。



    ウクライナ語の意義を承認するか否かは、ウクライナ文化や政治的自主性への
    態度とも関連している。 ソビエト期を通じてこの問題について何回も動揺が
    あった末、1991年の独立によってウクライナ語はようやく国家の第一の公用語
    としての地位を確立した。

    【お勧めの一冊】


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    17世紀の中頃、現在のウクライナの地は、ポーランドの統治下にあって、極大
    雑把に見れば、ウクライナの地主層は、概して、カトリック教徒のポーランド人、
    支配される農民は、正教徒のウクライナ人であった。 コサック軍団が農民の側の
    立場に立って ポーランド軍と戦うというのは、自然の勢いというものであった。

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    1648年にコサック軍の総司令官であるヘトマンの地位に就いたフメリニツキーは、
    死力を尽くしてポーランド軍と戦ったが、決定的な勝利が得られなかった。
    彼には、10歳の自分の息子を敵に殺されたという個人的な怨念もあった。 援軍を
    どこに求めるかについては、様々な選択肢があったが、1651年1月にキエフの東南
    70キロほどのところにあるペレヤスラフで開かれたコサック軍団の集会で、同じ
    東方正教国家である、モスクワ公国の援助を受け入れることが決定された。
    それは、一定の自治権を保持しながらも、モスクワのツァーリに従順することに
    他ならなかった。 

    もっとも、1654年3月にモスクワ政府とヘトマンとの間で結ばれた協定によって、
    キエフには、従来通りの地方自治と裁判制度が保障される文章が与えられた。
    こうして、ドニエプル川の左岸(ウクライナの東半分)とキエフがモスクワ公国の
    領域に入ることが決定された。

    ロシア側は、これをウクライナとの再統合と呼んだが、そこには、リトアニアに
    領有される以前のキエフが、元々、北東ロシアと同一国家をなしていたという合意が
    下敷きになっているのである。 こうして、キエフと東ウクライナを併合した
    モスクワ公国は、その名を『ルーシ国』という意味の『ロシア』へと変えた。

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    独立を望むウクライナ人の視点に立てば、フメリニツキーの行動は、一種の裏切りに
    見えることは確かである。 ただ、ペレヤスラフ条約によって、ウクライナは主権を
    失ったのではないという解釈もある。

    フメリニツキーとは反対に、ロシアからの独立を勝ち取ろうとしたヘトマンも居た。
    その頃、ロシアでは、ピョートル1世が実権を握り、1700年には、スウェーデンの
    若き国王、カール12世と北方戦争を始めた。 それは、北ヨーロッパにおける覇権を
    掛けた戦いであった。 この頃のロシアは、まだモスクワ時代の旧弊を引きずって
    おり、戦争が始まってみると、ロシアの弱点ばかりが目立った。 ヘトマンである
    マゼパは、このスウェーデンと手を組み、ロシアを破ってペレススラフ条約で
    失ったものを取り返そうとしたのは、無理からぬものがあった。

    しかし、ピョートル1世は、急速に改革を進め、北方戦争の運命を決する戦いが、
    1709年に東ウクライナのポルタバで行われた。 この戦いには、ピョートル1世
    自身がロシア軍の主力を率いて参加し、カール12世のスウェーデン軍を撃破した。
    負傷したマゼパは、その年のうちにこの世を去った。 ロシア人の間では、
    マゼパは、裏切り者で通っているが、自主独立のウクライナを目指した点では、
    彼も愛国者の1人であった。 キエフにあるウクライナ歴史博物館では、
    サガイダーチヌィー、フメリニツキーと並んで、マゼパの大きな肖像を見る
    ことが出来る。

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    リトアニア大公国によるキエフ支配は、約2世紀続いたが、リトアニアの支配下に
    入っても、かつでのキエフ公達のような軍事力の抑えはなかったので、キエフが
    安全になった訳ではなかった。 特に、1416年と82年には、クリミア半島に
    本拠地を置くタタール人の軍勢がキエフを襲い、大規模な略奪を行った。 記録に
    残っているだけでも、1450年から1586年の間に、大小86回もの襲撃、略奪を被った
    というから、3年に2回の割合で被害を受けていたことになる。 大平原の真っ只中に
    丸腰で立っているような不安定な時期であった。

    リトアニア大公国がポーランド東部にあるルブリンの町で条約を結び、ポーランド
    王国と同君連合に入ったのは、1569年のことである。 この結果、キエフを含む
    ウクライナは、事実上、ポーランドの支配下に入った。 信仰の点で寛容だった
    リトアニアの公やその代官達とは異なり、カトリックを固く信じるポーランド人が
    政治上の新しい主人として現れたことは、様々な点で大きな影響を及ぼすことと
    なる。

    PolishLithuanianCommonwealth

    それは、まずキエフの住民の上層部がカトリックに改宗するという形で現れた。
    ウクライナの中でも、ポーランドに近い西部の住民達の場合には、正教の
    信仰を持ち、従来の正教風の儀式を行いながら、ロシア正教会の管轄を離れて、
    カトリック教会の傘下に入るという変則的な自体が生じた。 1596年に現在の
    ベラルーシのブレストにポーランド支配下にある教会の司祭達が集まり、ギリシャ
    伝来のビザンチン式典礼を保持したまま、ローマ教皇の首長権を認めることを
    決議した。 これは、教会合同と呼ばれ、これに属する人々が合同派である。
    このグループの処遇を巡っては、現在でも尚、ロシア正教会とカトリック教会との
    対立が続いている。

    モスクワ総主教とローマ教皇の会合が2016年02月13日までなかなか実現しなかった
    理由は、これが原因であると言われている。 キエフのソフィア大聖堂すら、16世紀
    には一時的に教会合同派に属していたことがあった。 このように、ポーランドは、
    宗教上の相剋という複雑な関係を引き起こしたけれども、他方で、それまで正教圏
    には知られていなかった西ヨーロッパ世界の進んだ文化をもたらすという役割を
    演じたのも事実である。

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    キエフがロシア全土の首都だった頃、この街の人口がどれほどのものだったのか、
    歴史家によって、その見解は大きく異なるが、内輪に見積もって、3万人、4万人、
    ないし、5万人とする者が多く、中には、大きく10万人とする学者もいる。
    最盛期は11世紀から12世紀に掛けてだったと見られる。

    当時からキエフは丘の上の街と、ドニエプル川沿いにある麓の街の2つに画然と
    分かれていた。 上の街には、支配者である公とその従者達、それに、高僧や
    富裕な商人達が居を構え、下の街には、商人や職人達のように身分の低い人達が
    住んでいた。 12世紀のキエフの総人口を3万人とする推定では、上の街の人口が、
    2万5,000人であるのに対して、下の街の人口は、5,000人であったという。
    麓の街の方が、遅く開けたのである。

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    アジアのモンゴル族のヨーロッパへの進出は、1220年代から始まっていたが、
    1240年にバトゥ・ハンの率いる大軍が到着して、キエフを包囲した。 4週間と
    4日に及ぶ籠城の末、キエフはついに陥落した。 最後の砦となったのは、
    デシャチンナヤ教会で、そこには女や子供や老人達が立てこもっていたが、破石槌と
    呼ばれる武器で石の壁が破壊され、1人残らず殺戮された。 この時、上の街は
    もちろん、下の街も全滅した。

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    キエフの街の人口が、12世紀の水準に達するのは、19世紀になってからである。
    特に上の街の衰退は著しく、一旦、政治的な権威を失ったとなると、わざわざ
    居住性の悪い不便な丘の上に人々は住もうとしなくなったのである。 キエフの
    1900年の人口は、26万人、現在の人口が、約250万人である。 最近の1世紀で
    人口が10倍に増えたことになる。

    モンゴル・タタールの略奪と破壊によって、キエフは廃墟と化したが、アジア
    からやって来た新しい遊牧民に征服された都市の徹底した荒廃ぶりを描いて、
    ロシアの年代記は、こう書いている。 『子の子をなげく親もなく、親を慕う
    子も居なかった』。タタールの襲撃は、キエフで止まった訳ではない。 その
    翌年の1241年~42年には、ポーランド、ハンガリー、ダルマチアにまで進出した。
    本国の大ハンが亡くなったため、バトゥ・ハンは、一旦モンゴルに戻るが、その後、
    ボルガ川下流のサライ・バトゥを都として、自分が征服した国々を領域とする
    キプチャク・ハン国を創設した。

    13世紀後半には、キプチャク・ハン国に服従する公がこの辺りを支配したが、
    14世紀に入ると、バルト海に面した地を本拠地とし、ビリニュスに都を置く
    リトアニアが勢力を伸ばし始め、1360年代には、アルギルダス大公がキエフを
    併合し、余勢をかって、黒海に達するような大国家を築いた。 リトアニアによる
    キエフ支配は、約2世紀続いたが、この当時のキエフの人口は、3,000人~4,000人
    程度で、それほど大きなものではなかった。

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    キエフは、今も昔もウクライナの首都であり、広大な国土の中心にあるが、
    ここで活躍をしたのは、ポリャーネ族をはじめとする、土着の東スラブ人ばかり
    ではなかった。 ケンブリッジ大学にキエフ書簡と呼ばれる羊皮紙に書かれた
    1通の手紙が所蔵されている。 エジプトの古いシナゴーク(ユダヤ教の教会)で
    発見されたもので、古代ヘブライ語で書かれている。 手紙を出したのは、
    キエフのユダヤ人の団体で、自分の兄弟の保証人になった仲間のヤコブ・ベン・
    ハヌッケなる人物の救援を依頼するのが手紙の内容である。



    その兄弟なる者がある異邦人から金を借りたが、殺されて金を奪われてしまった。
    貸主は保証人のヤコフを捕らえて軟禁した。 ユダヤ人団体は、借金の一部を
    返済したが、全部は返し切れないので、篤志家の寄付を募っているという趣旨
    である。 手紙の書かれた時期は9世紀から10世紀とされる。 その頃、キエフの
    隣国ともいうべきハザール・汗国の支配層はユダヤ教を信じていた。 ユダヤ人
    商人団、あるいは、ユダヤ教徒のハザール人達がキエフで大きな勢力を振るって
    いた可能性がある。

    キリスト教受容と共に、ギリシャから主教や大勢の技術者が招かれたのは、当然で
    あるが、ある聖者の伝記によると、公の1人は、シリア人の医師を抱えていた。
    ウラジーミル公が東ローマ帝国の皇帝の妹を后としたのをはじめ、ソフィア
    大聖堂を建立したヤロスラフ賢公は、スウェーデン王の娘、イリーナと結婚
    したが、彼等の間に3人の娘が生まれた。 長女のエリザベータは、ノルウェーの
    王子と結婚し、後に、王妃となった。 三女のアンナは、フランスのアンリ1世に
    輿入れした。 アンリの没後は、まだ幼いフィリップが王位に就いたので、彼女は、
    王母として国政に参加した。

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    大体、支配者とその従士達が北ヨーロッパのノルマン人たるバイキングだった。
    そして、彼等が緊急に硬軟さまざまな外交関係を結ばなければならなかった相手は、
    キエフの東や南に広がる野原の主たる遊牧民である。 10世紀から11世紀前半に
    掛けては、ペチェネーグ族がしばしばキエフに押し寄せた。

    スビャトスラフ公は、ドニエプル川の下流で彼等の攻撃を受けて殺された。
    やっとヤロスラフ賢公の代になって、彼等を決定的に打ち破った。 続いて、
    ポーロヴェッツ族が現れた。 彼等は、脚の速い馬に乗り、時期を見計らって
    来襲しては、収穫した穀物や家畜を奪い、更には、女子供をさらって行った。
    ただ、キエフやその他の町の周辺に住み着くポーロヴェッツ人もいたし、彼等の
    支配者であるハンと公の間では、しばしば婚姻関係が結ばれていた。 公同士の
    内紛の際に、ポーロヴェッツのハンが婿である公の助太刀に現れることも珍しく
    なかった。

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    伝説によれば、キエフには今から1500年前に集落が作られていたという。
    ドニエプル川中流にあたるこの辺りに住んでいたのは、東スラブ人に属する
    ポリャーネ族であったが、北欧からやって来て支配者となったのは、バイキング
    だった。 9世紀には、バルト海と東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを
    結ぶ交易路があって、ドニエプル川を通じて黒海へ出るルートがその重要な
    一環をなしていたのである。

    古事記にあたる古い原初年代記には、こう書かれている。 『スラブ人の間で
    内輪もめと争いが起こったため、彼らは、バイキングの元へ使いを送ってこう
    言わせた。 我々の土地は広くて豊かであるが、秩序がない。 公としてやって
    来て我らを治めてもらいたい。』

    こうして招かれたのが、リューリックを頭目とするバイキングの一族だった。
    歴代の公の名前から判断して、彼らは、数世代のうちに急速にスラブ化したらしく、
    リューリクの公統は、モスクワのイワン雷帝の子供の代まで続くことになる。 

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    はじめのうち、バイキングもポリャーネ族も多神教を信じて偶像を崇拝していた。
    キエフに君臨していたウラジーミル公が木製の6基の神像を丘の上に建てたという
    記述が原初年代記の980年の頁にある。 主神は、ペルーンと呼ばれる雷神で、
    頭部は銀で作られ、口ひげは金だったという。 その他に、太陽を象徴する神や風を
    司る神等がいた。

    そのウラジーミル公が東ローマ帝国からキリスト教を受け入れるのが988年のこと
    だった。 唯一の神を絶対者とあがめるキリスト教の考え方が、キエフの王座に
    あって全ロシアを統治する支配者にとって必要になったためと考えられている。
    ギリシャ人を通じて受容したから、いわゆる、東方教会に属するギリシャ正教の
    一派である。 ローマに本拠地を置くカトリック教会の信仰ではなかった。
    このことが、キエフがウクライナのみならず、全ロシアのその後の運命に深く
    関わってくる。

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    ウラジーミル公は、自分が洗礼を受ける条件として、東ローマ帝国の皇帝の妹
    アンナを后に求めた。 彼女は、泣く泣く帝都のコンスタンティノープルから
    離れたと原初年代記は伝えている。 彼女がキエフに携えたのは、キリスト教の
    信仰と僧侶達だけではなかった。 当時の世界の中で最も先進的な技術を備えた
    ビザンチン文明というシステムが若々しい信仰国家ロシアにもたらされたのである。

    アンナを出迎えたウラジーミル公がキエフに戻って来ると、ただちに異教の
    偶像を焼き捨て、ペルーンの像だけは馬の尾にゆわえて丘から引き摺り下ろし、
    ドニエプル川へ捨てさせた。 そして、キエフの全ての住民をドニエプル川に呼び
    集めて一斉に洗礼を受けるように命じた。

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    ウクライナの首都キエフの独立広場(ユーロ・マイダン)で起きた、市民らによる
    抗議デモに端を発したウクライナでの内戦は、あたかも、キエフ市民自らが
    ロシア寄りのヤヌコビッチ政権を嫌って起こした『市民革命』であると日本や欧米の
    メディアは、こぞって報道がなされたが、実際は、アメリカにカネで操られた
    極一部の市民が起こしたニセの革命であり、その後のウクライナの状況は惨憺たる
    ものとなっている。



    キエフからのヤヌコビッチ元大統領の追放を受け、米国務省の高官らは即座に、
    ロシアの侵攻によって、ウクライナはかつてないほど結束を固めたとの見方を
    示した。 ホワイトハウス、駐ロ米大使、共和党国際研究所等も次々に同様の
    見解を発表した。 米国では、政治問題を取り扱っている記者達も、皆一様に
    同様の見解を示したが、極々一部の現実主義者達だけが、ウクライナ内部の
    深い闇の亀裂について指摘し続け、従来からの同国の情勢に大きな変化はない
    だろうと主張した。

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    ウクライナの政治家達は、新たな『親欧米勢力』の下に一致団結し、これまでの
    党派やイデオロギーの違いを超えて、出来る限り早い段階でヨーロッパの一員
    となることを強く望んでいると報じられ、米議員らは、ロシアのウラジーミル・
    プーチン大統領がウクライナ国民に決定的な敗北を喫し、ウクライナの慢性的な
    政治的内紛の時代は過ぎ去ったと確信した。

    日本でも、米国とほぼ同じ報道がなされたが、実際のウクライナ政治は、新興財閥
    オリガルヒらによる更なる政治腐敗が進み、クリミアはおろか、東部のドンバス地域
    では、ウクライナ軍の空爆が連日繰り返され、6,400を超える死者を出した。 この
    地域からの避難者だけでも、130万人以上とも言われている。 ロシア国内に居住
    しているウクライナ人は、350万人とも言われており、モスクワでは、急激に増えた
    ウクライナ人によって、職が奪われたりもしたのだが、そのような不都合は事実は、
    西側では一切報道されず、非常に米国寄りに偏った情報しか提供されなかった。

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    更に、ウクライナ議会では、大統領支持者と首相支持者らの殴り合いが起きた。
    『連立』という名の下に集まりながら、議会内では激しいつかみ合い、罵り合いと
    なった。 支持率の急落を理由に、地方選挙の延期を要求しているアルセニー・
    ヤツェニュク首相と、極僅差だが、首相よりは高い支持率を維持しているペトロ・
    ポロシェンコ大統領の『連立』は既に、完全に崩壊し掛けている。 ポロシェンコ
    大統領と同盟関係にある、アルセン・アバコフ内相とグルジア前大統領で、
    現ウクライナ・オデッサ州知事のミヘイル・サーカシビリも先ごろ、この議会内での
    醜い争いに加わった。 幸いな事に、この争いの場では、殴り合いは起きず、
    アバコフ内相が、サーカシビリ知事の顔面に向けて、水の入ったグラスを投げ付けた
    だけで終わった。 ポロシェンコ派のこの二人の対立は、現在のウクライナの混沌
    たる状況を浮き彫りにしていると言える。 

    現在、ウクライナの指導者達は、内輪もめはもう止めると宣言したが、そのような
    口約束には、何の効力もない。 我が身可愛さの『我田引水』が上手く行か
    なければ、国民などは二の次で、約束など全く守らないであろう。

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    これまで、ウクライナでは、このような大規模なデモや内戦のようなものは起きた
    事がなかったが、汚職を監視するNGO『トランスペアレンシー・
    インターナショナル』も、同国を『ロシアを含む欧州で汚職が最も深刻な国』とし、
    世界汚職ランキングでは、>152位に位置付けている。 家具メーカー
    『イケア』が、10年以上の歳月を掛けても、同国に進出出来ないのは、政府高官に
    賄賂を贈らないからだという話は非常に有名。

    結局、ウクライナは、国際通貨基金(IMF)や、ロシアからの融資に頼り切りになり、
    肝心の汚職対策も進まなかった。 いつまでも自立しない体制が、大規模なデモや
    米国の介入を招いたと言える。 更に、ウクライでは、ザカルパチア州等でも独立
    運動が盛んになって来ており、政治ばかりか、国内情勢も予断を許さない状況と
    なっている。

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    尚、ウクライナは、2015年12月31日に期限が切れた特恵期間中に、ロシアが保有
    する国債とその利子総額30億7,500万ドルを支払わなかったため、ロシア財務省から
    審理手続きの通達が行われ、同国債に関して、デフォルト状態にあるが、
    今のところ、IMFからの具体的な動きは見られていない。

    この事から考えても、IMFは、完全に米国寄りである事が分かるのだが、独立広場
    での内戦が大々的になったのは、ロシアでソチオリンピックが開催されていた
    期間中であるため、『平和の祭典』に対して、自称『世界の警察』を公認して
    憚らない米国がこの事に対して、一切異を唱えなかったのは、自らが先導して
    ウクライナで内戦を引き起こしたからに過ぎない。

    日本の某新聞社は、独立広場での市民戦争が始まった当初、『日給30ドル程度で、
    キエフ市民は米国に操られている』と報じたのだが、その後一切そのような不都合な
    事実は出て来なくなった。 日本のニュースは、翻訳を含めて、その殆どが、米国
    経由で入って来るため、米国寄りのニュースが多々見受けられる。 そのような
    安易な記事に騙されないようにするためには、米国以外の世界情勢にも日々目を
    凝らして、自らの頭で考え、行動する習慣を身に付けたいところ。

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