横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:キエフ

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ヨーロッパ最大の音楽祭『ユーロビジョン』の決勝が2017年5月13日、ウクライナの
    首都キエフで行われ、ポルトガル代表のサルバドル・ソブラルさん(27)が優勝
    した。 ポルトガルの優勝は1957年の音楽祭開始以来、初めてとなる。 次回
    大会は、恐らく首都のリスボンで開催されるものと思われる。



    ウクライナでの開催は2005年に続いて2回目となるが、前回のスウェーデン大会
    では、ロシアが一方的に編入したとするクリミア半島の先住民族タタール系の
    女性歌手ジャマラさん(33)がウクライナ代表で出場し、優勝したためキエフでの
    開催が決定したもの。



    ウクライナ当局は、ロシアがウクライナに軍事介入したと主張し、ロシアの代表
    として既に決定していたユリア・サモイロヴァさん(28)を入国禁止にし、両国の
    緊張が続く中での開催となった。 サモイロヴァさんは車椅子で歌う歌手としても
    有名で、ウクライナ当局は、ロシア編入後のクリミアで演奏したことを非難。

    本人は『問題と思わない』『ユーロビジョンは子供の頃からの夢』として出場を
    強く望んだが、ウクライナへの入国は禁止となり、その報復として、ロシアの
    テレビ局はユーロビジョンのロシアでの放送をボイコットした。

    ロシア系住民の多いウクライナ東部のドネツク州では決勝当日、親ロシア派の
    仕業と見られる砲撃により、住民4人が死亡した。 事態を重く見たポロシェンコ
    大統領は、音楽祭出席を急きょキャンセルした。


     
    ユーロビジョン・ソングコンテストは、ABBAやジンギスカンなども輩出した
    ヨーロッパ最大の音楽祭であり、過去にヨーロッパ内で戦争があった際には、
    このような騒動はなかったため、ウクライナは、ヨーロッパの一員として、確固たる
    態度を取って欲しかったところだが、何もかもをウソで塗り固めているウクライナ
    政府は、そのような事は意に介さずに、一方的にロシア代表を入国禁止にしたため、
    国際的な非難は避けられない。

    ウクライナ政府は、一方的にEUに入りたがっているのだが、このような差別的な
    行為は、EUが最も嫌う行為であるため、EUとヨーロッパの溝が更に深まったと
    見るのが妥当。 ウクライナ政府が本気でまともな先進国の仲間入りを果たしたい
    のであれば、このような無様な対応は避けるべきであった。

    クリミア在住のロシア系住民たちは、全員ロシアへの『返還』を喜んでおり、未だ
    一度たりとも、ウクライナへの帰属を主張している人は居ない。 それどころか、
    クリミアを含む東部ウクライナは、元々、ロシア帝国の領土であった場所で、本来の
    ウクライナの領土は、現在の国土の3分の1程度しかなかったところに、ポーランド
    やら、ハンガリーやら、スロバキアやらから分捕って来た領土を次々と付け足した
    結果、このような意味不明な国家が出来上がったというのがウクライナの真実。

    元々、東部ウクライナに住んでいるロシア人は、ソ連の時代には、特権階級であった
    ために、ウクライナ独立後のウクライナ人中心の不当な扱いには、かなり不満を
    抱いていた。 ソ連独立時にも、特に独立を強く主張した訳でもないウクライナは、
    アイデンティティーの面でも各国からの切り張りの国土を維持するのが難しく、
    ロシア語から聞くと、田舎臭いウクライナ語を政府が強要して来るため、ロシア語
    話者からの反発が激しい。 ウクライナは、ウクライナ人が住んでいる本来の領土に
    戻すのが、一番平和裏に問題を解決する方法。 

    ウクライナ語はロシア語とは非常に似ているため、今後、更に、ウクライナ語化
    政策が取られたとしても、ロシア語話者の権利だけは守るべき。 ウクライナは、
    EUへの加入を熱望しているが、政治が腐敗し切っているため、ドイツやフランス
    からの反発は避けられない。

    現在のEUが抱える数々の問題点を露呈した今年のユーロビジョン・ソング
    コンテストは、オリンピックと並ぶヨーロッパにおける平和の祭典であっただけに、
    ウクライナの対応が残念でならない。

    【お勧めの一枚】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ウクライナという国名は『辺境地帯』を意味する。 この名前は、13世紀に
    モンゴル人の侵攻を受けた後の時代に使われるようになった。 しかし、この地域は
    元々、辺境どころか、東スラブ地域で初の国家が形成される舞台となった重要な
    地域であった。

    boringcoun

    今日のウクライナの首都キエフで、9世紀にキエフ公国が成立した。 この国家は、
    後のロシア帝国の起源とみなすことが出来る。 これが、『キエフはロシアの全ての
    ロシアの都市の母』と言われる由縁である。

    1240年、この国は、モンゴル人によって破壊された。 その後、政治的な
    中心地は、北東のウラジミール、スズダリ、そして、最後にモスクワへと移って
    行った。モンゴル人やタタール人の騎馬兵に襲撃され続け、ますます住民の
    減っていたウクライナは、これらの地域から見ると、正に辺境と化したのである。

    3ghjgf

    【民族的アイデンティティーを求めての戦い】
    その後の数世紀間、ウクライナは、ポーランドとリトアニアの支配を受けることと
    なった。 その間、脱走した農奴たちがコサックと呼ばれる集団を形成し、
    ポーランドの支配に抵抗し始めた。 コサックの首長であったフメリニツキは、
    1654年にウクライナをモスクワのロシア皇帝の保護下に据えた。

    しかし、ロシア皇帝は当初、ウクライナ全体のうち、ドニエプル川以西の地域しか
    その支配を主張することが出来なかった。 ロシア帝国が事実上ウクライナ全域
    (オーストリアの支配を受けたガリツィア地方を除く)を支配するようになるのは、
    18世紀になってからのことである。

    この時代、ウクライナ独自の文章語が次第に形成されて行った。 しかし、ロシア
    政府はこれをロシア語の一方言(小ロシア語)として位置付け、公の場での使用を
    禁じた。 19世紀になると、ウクライナの民族意識が高揚し、民族運動が展開される
    ようになった。 この時点では、自分たちの文化的独自性の保存を求めるに留まって
    いた。 しかし、20世紀になると、国家としての独立を求める声が高まって行った。

    1917年のロシア革命の直後、民族運動の高まりによって、1918年初頭に
    ウクライナは独立を宣言した。 ロシア・ソビエト共和国は、ブレスト・
    リトフスクの和約を結んでこれを認めなければならなかった。 しかし、その後の
    内乱で、ボリシェビキが勝利を収め、1919年『ウクライナ・ソビエト社会主義
    共和国』が設立された。

    共和国は、1922年ソ連に加盟した。 ソ連の指導者は、初めの数年は、彼らの
    民族的利権、とりわけ、文化面における独自性を考慮した政策をとっていた。
    しかし、スターリンが政権を握るようになって以来、1920年代を中心に民族
    主義的な主張を行う者に対して、激しい迫害がなされた。 農業などの集団化を
    強制的に進める中で、あるいは、意図的に引き起こされたとも考えられる飢餓に
    よって、ウクライナ人の間に100万人規模の犠牲が出た。

    【独立国家共同体創設の主唱国】
    改革路線の時代が到来すると、1980年代後半を中心に、ウクライナの民族運動にも
    新たな展開が繰り広げられた。 1990年夏、ウクライナは、主権を宣言し、1991年
    8月には独立宣言は発せられた。 当初、ウクライナは、連邦制の維持を目的とした
    新連邦条約に関する協議に参加していたが、その後、態度を変え、新たな中央集権
    構造の設立に強く抵抗し、完全独立を主張するようになった。 独立国家共同体の
    創設に主唱国の1つとして参与した際にも、彼らは、独自の軍隊を編成し、黒海に
    おける旧ソビエト連合艦隊の指揮権を保持することを求めた。 これによって、
    ロシアとの間に対立が生じている。 ウクライナは、旧ソ連の国連における3つの
    議席の1つを占めていた。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    キエフ市内の至るところにシェフチェンコの名前があふれている。 キエフ大学が
    彼の名前を冠しているのをはじめ、彼の名前を付けた公園、広場、通り等がある。
    シェフチェンコ通りには、立派なシェフチェンコ博物館もある。 なぜそれほど
    愛されているのだろうか?

    g003p03

    彼は、1814年にキエフからほど遠からぬ村で農奴の子として生まれた。 幼い時に
    孤児になるが、早くから詩をつくり絵を描く才能を現していた。 首都に出た時、
    彼の才能に感動した知識人たちが金を集め、主人から2,500ルーブルで農奴の身分を
    買取り、自由の身となった。 また、美術学校で学んでいるうちに、故郷
    ウクライナと民衆に対する深い想いを込めた詩集『コブザーリ』を発表した。

    キエフに戻ってから、専制君主的なロシアの帝政に対抗して、農奴制の廃止と
    全スラブ民族の平等を目指す政治的な秘密結社キリール・メフォージー団に
    加入した。 やがて秘密結社の存在が発覚し、シェフチェンコは中央アジアへ
    一兵として流されるという重い罰を課せられた。 新帝アレクサンドル2世の
    即位後の1857年に恩赦を受けるが、帝政と専制政治への憎しみ、ウクライナへの
    愛は1861年に没するまで変わらなかった。

    0070490089

    上記の詩集の他、彼にはウクライナの歴史を題材とした数編の長編叙事詩や、
    リアリズムの手法に基づく力強い多くの絵画作品がある。 シェフチェンコの
    代表的な絵、それに彼の文学作品の初版本や外国語訳がこのシェフチェンコ博物館に
    展示されており、数点の日本語訳も並んでいる。

    シェフチェンコは文学作品をウクライナ語で書いた。 ウクライナ語の存在価値を
    認め、その地位を高めることが彼の信念であった。 しかし、現実はなかなかその
    方向に向かわなかった。 ロシアの識者の中にも、ウクライナ語をロシア語の方言と
    しか見ない者もいたし、ロシア政府は言語の面でもロシア化政策を強行した。
    1860年には内務省がウクライナ語による書籍の出版や劇の上演を禁止するという
    命令を出し、70年代にはそれが法律になった。



    ウクライナ語の意義を承認するか否かは、ウクライナ文化や政治的自主性への
    態度とも関連している。 ソビエト期を通じてこの問題について何回も動揺が
    あった末、1991年の独立によってウクライナ語はようやく国家の第一の公用語
    としての地位を確立した。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    17世紀の中頃、現在のウクライナの地は、ポーランドの統治下にあって、極大
    雑把に見れば、ウクライナの地主層は、概して、カトリック教徒のポーランド人、
    支配される農民は、正教徒のウクライナ人であった。 コサック軍団が農民の側の
    立場に立って ポーランド軍と戦うというのは、自然の勢いというものであった。

    kazakikuban

    1648年にコサック軍の総司令官であるヘトマンの地位に就いたフメリニツキーは、
    死力を尽くしてポーランド軍と戦ったが、決定的な勝利が得られなかった。
    彼には、10歳の自分の息子を敵に殺されたという個人的な怨念もあった。 援軍を
    どこに求めるかについては、様々な選択肢があったが、1651年1月にキエフの東南
    70キロほどのところにあるペレヤスラフで開かれたコサック軍団の集会で、同じ
    東方正教国家である、モスクワ公国の援助を受け入れることが決定された。
    それは、一定の自治権を保持しながらも、モスクワのツァーリに従順することに
    他ならなかった。 

    もっとも、1654年3月にモスクワ政府とヘトマンとの間で結ばれた協定によって、
    キエフには、従来通りの地方自治と裁判制度が保障される文章が与えられた。
    こうして、ドニエプル川の左岸(ウクライナの東半分)とキエフがモスクワ公国の
    領域に入ることが決定された。

    ロシア側は、これをウクライナとの再統合と呼んだが、そこには、リトアニアに
    領有される以前のキエフが、元々、北東ロシアと同一国家をなしていたという合意が
    下敷きになっているのである。 こうして、キエフと東ウクライナを併合した
    モスクワ公国は、その名を『ルーシ国』という意味の『ロシア』へと変えた。

    dd8u87qq

    独立を望むウクライナ人の視点に立てば、フメリニツキーの行動は、一種の裏切りに
    見えることは確かである。 ただ、ペレヤスラフ条約によって、ウクライナは主権を
    失ったのではないという解釈もある。

    フメリニツキーとは反対に、ロシアからの独立を勝ち取ろうとしたヘトマンも居た。
    その頃、ロシアでは、ピョートル1世が実権を握り、1700年には、スウェーデンの
    若き国王、カール12世と北方戦争を始めた。 それは、北ヨーロッパにおける覇権を
    掛けた戦いであった。 この頃のロシアは、まだモスクワ時代の旧弊を引きずって
    おり、戦争が始まってみると、ロシアの弱点ばかりが目立った。 ヘトマンである
    マゼパは、このスウェーデンと手を組み、ロシアを破ってペレススラフ条約で
    失ったものを取り返そうとしたのは、無理からぬものがあった。

    しかし、ピョートル1世は、急速に改革を進め、北方戦争の運命を決する戦いが、
    1709年に東ウクライナのポルタバで行われた。 この戦いには、ピョートル1世
    自身がロシア軍の主力を率いて参加し、カール12世のスウェーデン軍を撃破した。
    負傷したマゼパは、その年のうちにこの世を去った。 ロシア人の間では、
    マゼパは、裏切り者で通っているが、自主独立のウクライナを目指した点では、
    彼も愛国者の1人であった。 キエフにあるウクライナ歴史博物館では、
    サガイダーチヌィー、フメリニツキーと並んで、マゼパの大きな肖像を見る
    ことが出来る。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    リトアニア大公国によるキエフは、約2世紀続いたが、リトアニアの支配下に
    入っても、かつでのキエフ公達のような軍事力の抑えはなかったので、キエフが
    安全になった訳ではなかった。 特に、1416年と82年には、クリミア半島に
    本拠地を置くタタール人の軍勢がキエフを襲い、大規模な略奪を行った。 記録に
    残っているだけでも、1450年から1586年の間に、大小86回もの襲撃、略奪を被った
    というから、3年に2回の割合で被害を受けていたことになる。 大平原の真っ只中に
    丸腰で立っているような不安定な時期であった。

    リトアニア大公国がポーランド東部にあるルブリンの町で条約を結び、ポーランド
    王国と同君連合に入ったのは、1569年のことである。 この結果、キエフを含む
    ウクライナは、事実上、ポーランドの支配下に入った。 信仰の点で寛容だった
    リトアニアの公やその代官達とは異なり、カトリックを固く信じるポーランド人が
    政治上の新しい主人として現れたことは、様々な点で大きな影響を及ぼすことと
    なる。

    PolishLithuanianCommonwealth

    それは、まずキエフの住民の上層部がカトリックに改宗するという形で現れた。
    ウクライナの中でも、ポーランドに近い西部の住民達の場合には、正教の
    信仰を持ち、従来の正教風の儀式を行いながら、ロシア正教会の管轄を離れて、
    カトリック教会の傘下に入るという変則的な自体が生じた。 1596年に現在の
    ベラルーシのブレストにポーランド支配下にある教会の司祭達が集まり、ギリシャ
    伝来のビザンチン式典礼を保持したまま、ローマ教皇の首長権を認めることを
    決議した。 これは、教会合同と呼ばれ、これに属する人々が合同派である。
    このグループの処遇を巡っては、現在でも尚、ロシア正教会とカトリック教会との
    対立が続いている。

    モスクワ総主教とローマ教皇の会合が2016年02月13日までなかなか実現しなかった
    理由は、これが原因であると言われている。 キエフのソフィア大聖堂すら、16世紀
    には一時的に教会合同派に属していたことがあった。 このように、ポーランドは、
    宗教上の相剋という複雑な関係を引き起こしたけれども、他方で、それまで正教圏
    には知られていなかった西ヨーロッパ世界の進んだ文化をもたらすという役割を
    演じたのも事実である。

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    キエフがロシア全土の首都だった頃、この街の人口がどれほどのものだったのか、
    歴史家によって、その見解は大きく異なるが、内輪に見積もって、3万人、4万人、
    ないし、5万人とする者が多く、中には、大きく10万人とする学者もいる。
    最盛期は11世紀から12世紀に掛けてだったと見られる。

    当時からキエフは丘の上の街と、ドニエプル川沿いにある麓の街の2つに画然と
    分かれていた。 上の街には、支配者である公とその従者達、それに、高僧や
    富裕な商人達が居を構え、下の街には、商人や職人達のように身分の低い人達が
    住んでいた。 12世紀のキエフの総人口を3万人とする推定では、上の街の人口が、
    2万5,000人であるのに対して、下の街の人口は、5,000人であったという。
    麓の街の方が、遅く開けたのである。

    mongol1

    アジアのモンゴル族のヨーロッパへの進出は、1220年代から始まっていたが、
    1240年にバトゥ・ハンの率いる大軍が到着して、キエフを包囲した。 4週間と
    4日に及ぶ籠城の末、キエフはついに陥落した。 最後の砦となったのは、
    デシャチンナヤ教会で、そこには女や子供や老人達が立てこもっていたが、破石槌と
    呼ばれる武器で石の壁が破壊され、1人残らず殺戮された。 この時、上の街は
    もちろん、下の街も全滅した。

    1e66d10f9f

    キエフの街の人口が、12世紀の水準に達するのは、19世紀になってからである。
    特に上の街の衰退は著しく、一旦、政治的な権威を失ったとなると、わざわざ
    居住性の悪い不便な丘の上に人々は住もうとしなくなったのである。 キエフの
    1900年の人口は、26万人、現在の人口が、約250万人である。 最近の1世紀で
    人口が10倍に増えたことになる。

    モンゴル・タタールの略奪と破壊によって、キエフは廃墟と化したが、アジア
    からやって来た新しい遊牧民に征服された都市の徹底した荒廃ぶりを描いて、
    ロシアの年代記は、こう書いている。 『子の子をなげく親もなく、親を慕う
    子も居なかった』。タタールの襲撃は、キエフで止まった訳ではない。 その
    翌年の1241年~42年には、ポーランド、ハンガリー、ダルマチアにまで進出した。
    本国の大ハンが亡くなったため、バトゥ・ハンは、一旦モンゴルに戻るが、その後、
    ボルガ川下流のサライ・バトゥを都として、自分が征服した国々を領域とする
    キプチャク・ハン国を創設した。

    13世紀後半には、キプチャク・ハン国に服従する公がこの辺りを支配したが、
    14世紀に入ると、バルト海に面した地を本拠地とし、ビリニュスに都を置く
    リトアニアが勢力を伸ばし始め、1360年代には、アルギルダス大公がキエフを
    併合し、余勢をかって、黒海に達するような大国家を築いた。 リトアニアによる
    キエフ支配は、約2世紀続いたが、この当時のキエフの人口は、3,000人~4,000人
    程度で、それほど大きなものではなかった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    キエフは、今も昔もウクライナの首都であり、広大な国土の中心にあるが、
    ここで活躍をしたのは、ポリャーネ族をはじめとする、土着の東スラブ人ばかり
    ではなかった。 ケンブリッジ大学にキエフ書簡と呼ばれる羊皮紙に書かれた
    1通の手紙が所蔵されている。 エジプトの古いシナゴーク(ユダヤ教の教会)で
    発見されたもので、古代ヘブライ語で書かれている。 手紙を出したのは、
    キエフのユダヤ人の団体で、自分の兄弟の保証人になった仲間のヤコブ・ベン・
    ハヌッケなる人物の救援を依頼するのが手紙の内容である。



    その兄弟なる者がある異邦人から金を借りたが、殺されて金を奪われてしまった。
    貸主は保証人のヤコフを捕らえて軟禁した。 ユダヤ人団体は、借金の一部を
    返済したが、全部は返し切れないので、篤志家の寄付を募っているという趣旨
    である。 手紙の書かれた時期は9世紀から10世紀とされる。 その頃、キエフの
    隣国ともいうべきハザール・汗国の支配層はユダヤ教を信じていた。 ユダヤ人
    商人団、あるいは、ユダヤ教徒のハザール人達がキエフで大きな勢力を振るって
    いた可能性がある。

    キリスト教受容と共に、ギリシャから主教や大勢の技術者が招かれたのは、当然で
    あるが、ある聖者の伝記によると、公の1人は、シリア人の医師を抱えていた。
    ウラジーミル公が東ローマ帝国の皇帝の妹を后としたのをはじめ、ソフィア
    大聖堂を建立したヤロスラフ賢公は、スウェーデン王の娘、イリーナと結婚
    したが、彼等の間に3人の娘が生まれた。 長女のエリザベータは、ノルウェーの
    王子と結婚し、後に、王妃となった。 三女のアンナは、フランスのアンリ1世に
    輿入れした。 アンリの没後は、まだ幼いフィリップが王位に就いたので、彼女は、
    王母として国政に参加した。

    965765

    大体、支配者とその従士達が北ヨーロッパのノルマン人たるバイキングだった。
    そして、彼等が緊急に硬軟さまざまな外交関係を結ばなければならなかった相手は、
    キエフの東や南に広がる野原の主たる遊牧民である。 10世紀から11世紀前半に
    掛けては、ペチェネーグ族がしばしばキエフに押し寄せた。

    スビャトスラフ公は、ドニエプル川の下流で彼等の攻撃を受けて殺された。
    やっとヤロスラフ賢公の代になって、彼等を決定的に打ち破った。 続いて、
    ポーロヴェッツ族が現れた。 彼等は、脚の速い馬に乗り、時期を見計らって
    来襲しては、収穫した穀物や家畜を奪い、更には、女子供をさらって行った。
    ただ、キエフやその他の町の周辺に住み着くポーロヴェッツ人もいたし、彼等の
    支配者であるハンと公の間では、しばしば婚姻関係が結ばれていた。 公同士の
    内紛の際に、ポーロヴェッツのハンが婿である公の助太刀に現れることも珍しく
    なかった。

    kievanrus
     
    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    伝説によれば、キエフには今から1500年前に集落が作られていたという。
    ドニエプル川中流にあたるこの辺りに住んでいたのは、東スラブ人に属する
    ポリャーネ族であったが、北欧からやって来て支配者となったのは、バイキング
    だった。 9世紀には、バルト海と東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを
    結ぶ交易路があって、ドニエプル川を通じて黒海へ出るルートがその重要な
    一環をなしていたのである。

    古事記にあたる古い原初年代記には、こう書かれている。 『スラブ人の間で
    内輪もめと争いが起こったため、彼らは、バイキングの元へ使いを送ってこう
    言わせた。 我々の土地は広くて豊かであるが、秩序がない。 公としてやって
    来て我らを治めてもらいたい。』

    こうして招かれたのが、リューリックを頭目とするバイキングの一族だった。
    歴代の公の名前から判断して、彼らは、数世代のうちに急速にスラブ化したらしく、
    リューリクの公統は、モスクワのイワン雷帝の子供の代まで続くことになる。 

    968kiev

    はじめのうち、バイキングもポリャーネ族も多神教を信じて偶像を崇拝していた。
    キエフに君臨していたウラジーミル公が木製の6基の神像を丘の上に建てたという
    記述が原初年代記の980年の頁にある。 主神は、ペルーンと呼ばれる雷神で、
    頭部は銀で作られ、口ひげは金だったという。 その他に、太陽を象徴する神や風を
    司る神等がいた。

    そのウラジーミル公が東ローマ帝国からキリスト教を受け入れるのが988年のこと
    だった。 唯一の神を絶対者とあがめるキリスト教の考え方が、キエフの王座に
    あって全ロシアを統治する支配者にとって必要になったためと考えられている。
    ギリシャ人を通じて受容したから、いわゆる、東方教会に属するギリシャ正教の
    一派である。 ローマに本拠地を置くカトリック教会の信仰ではなかった。
    このことが、キエフがウクライナのみならず、全ロシアのその後の運命に深く
    関わってくる。

    13c1486

    ウラジーミル公は、自分が洗礼を受ける条件として、東ローマ帝国の皇帝の妹
    アンナを后に求めた。 彼女は、泣く泣く帝都のコンスタンティノープルから
    離れたと原初年代記は伝えている。 彼女がキエフに携えたのは、キリスト教の
    信仰と僧侶達だけではなかった。 当時の世界の中で最も先進的な技術を備えた
    ビザンチン文明というシステムが若々しい信仰国家ロシアにもたらされたのである。

    アンナを出迎えたウラジーミル公がキエフに戻って来ると、ただちに異教の
    偶像を焼き捨て、ペルーンの像だけは馬の尾にゆわえて丘から引き摺り下ろし、
    ドニエプル川へ捨てさせた。 そして、キエフの全ての住民をドニエプル川に呼び
    集めて一斉に洗礼を受けるように命じた。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ウクライナの首都キエフの独立広場(ユーロ・マイダン)で起きた、市民らによる
    抗議デモに端を発したウクライナでの内戦は、あたかも、キエフ市民自らが
    ロシア寄りのヤヌコビッチ政権を嫌って起こした『市民革命』であると日本や欧米の
    メディアは、こぞって報道がなされたが、実際は、アメリカにカネで操られた極一部の
    市民が起こしたニセの革命であり、その後のウクライナの状況は惨憺たるものと
    なっている。



    キエフからのヤヌコビッチ元大統領の追放を受け、米国務省の高官らは即座に、
    ロシアの侵攻によって、ウクライナはかつてないほど結束を固めたとの見方を示した。
    ホワイトハウス、駐ロ米大使、共和党国際研究所等も次々に同様の見解を発表した。
    米国では、政治問題を取り扱っている記者達も、皆一様に同様の見解を示したが、
    極々一部の現実主義者達だけが、ウクライナ内部の深い闇の亀裂について指摘し
    続け、従来からの同国の情勢に大きな変化はないだろうと主張した。

    9a9b0767.jpg

    ウクライナの政治家達は、新たな『親欧米勢力』の下に一致団結し、これまでの党派や
    イデオロギーの違いを超えて、出来る限り早い段階でヨーロッパの一員となることを
    強く望んでいると報じられ、米議員らは、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が
    ウクライナ国民に決定的な敗北を喫し、ウクライナの慢性的な政治的内紛の時代は
    過ぎ去ったと確信した。

    日本でも、米国とほぼ同じ報道がなされたが、実際のウクライナ政治は、新興財閥
    オリガルヒらによる更なる政治腐敗が進み、クリミアはおろか、東部のドンバス地域
    では、ウクライナ軍の空爆が連日繰り返され、6,400を超える死者を出した。 この
    地域からの避難者だけでも、130万人以上とも言われている。 ロシア国内に居住
    しているウクライナ人は、350万人とも言われており、モスクワでは、急激に増えた
    ウクライナ人によって、職が奪われたりもしたのだが、そのような不都合は事実は、
    西側では一切報道されず、非常に米国寄りに偏った情報しか提供されなかった。



    更に、ウクライナ議会では、大統領支持者と首相支持者らの殴り合いが起きた。
    『連立』という名の下に集まりながら、議会内では激しいつかみ合い、罵り合いと
    なった。 支持率の急落を理由に、地方選挙の延期を要求しているアルセニー・
    ヤツェニュク首相と、極僅差だが、首相よりは高い支持率を維持しているペトロ・
    ポロシェンコ大統領の『連立』は既に、完全に崩壊し掛けている。 ポロシェンコ
    大統領と同盟関係にある、アルセン・アバコフ内相とグルジア前大統領で、
    現ウクライナ・オデッサ州知事のミヘイル・サーカシビリも先ごろ、この議会内での
    醜い争いに加わった。 幸いな事に、この争いの場では、殴り合いは起きず、
    アバコフ内相が、サーカシビリ知事の顔面に向けて、水の入ったグラスを投げ付けた
    だけで終わった。 ポロシェンコ派のこの二人の対立は、現在のウクライナの混沌
    たる状況を浮き彫りにしていると言える。 

    現在、ウクライナの指導者達は、内輪もめはもう止めると宣言したが、そのような
    口約束には、何の効力もない。 我が身可愛さの『我田引水』が上手く行かなければ、
    国民などは二の次で、約束など全く守らないであろう。

    4e456376.jpg

    これまで、ウクライナでは、このような大規模なデモや内戦のようなものは起きた事が
    なかったが、汚職を監視するNGO『トランスペアレンシー・インターナショナル』も、
    同国を『ロシアを含む欧州で汚職が最も深刻な国』とし、世界汚職ランキングでは、
    152位に位置付けている。 家具メーカー『イケア』が、10年以上の歳月を掛けても、
    同国に進出出来ないのは、政府高官に賄賂を贈らないからだという話は非常に有名。

    結局、ウクライナは、国際通貨基金(IMF)や、ロシアからの融資に頼り切りになり、
    肝心の汚職対策も進まなかった。 いつまでも自立しない体制が、大規模なデモや
    米国の介入を招いたと言える。 更に、ウクライでは、ザカルパチア州等でも独立
    運動が盛んになって来ており、政治ばかりか、国内情勢も予断を許さない状況と
    なっている。

    30c6c969.jpg

    尚、ウクライナは、2015年12月31日に期限が切れた特恵期間中に、ロシアが保有
    する国債とその利子総額30億7,500万ドルを支払わなかったため、ロシア財務省から
    審理手続きの通達が行われ、同国債に関して、デフォルト状態にあるが、今のところ、
    IMFからの具体的な動きは見られていない。

    この事から考えても、IMFは、完全に米国寄りである事が分かるのだが、独立広場
    での内戦が大々的になったのは、ロシアでソチオリンピックが開催されていた期間中で
    あるため、『平和の祭典』に対して、自称『世界の警察』を公認して憚らない米国が
    この事に対して、一切異を唱えなかったのは、自らが先導してウクライナで内戦を
    引き起こしたからに過ぎない。

    日本の某新聞社は、独立広場での市民戦争が始まった当初、『日給30ドル程度で、
    キエフ市民は米国に操られている』と報じたのだが、その後一切そのような不都合な
    事実は出て来なくなった。 日本のニュースは、翻訳を含めて、その殆どが、米国
    経由で入って来るため、米国寄りのニュースが多々見受けられる。 そのような安易な
    記事に騙されないようにするためには、米国以外の世界情勢にも日々目を凝らして、
    自らの頭で考え、行動する習慣を身に付けたいところ。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    【キエフ・ルーシの始まり】
    現代ロシア人の祖先は、6世紀には、ヨーロッパ・ロシアのステップ地帯に住み着いた
    東スラブ民族に始まる。 9世紀には、バルト海からバイキングのバリャーク人が、
    ドニエストル川沿いの地域に乗り出し、スカンジナビアからビザンチウムへの交易
    ルートを開いた。 彼らの首領のひとりである、リューリクがロシア最初の王朝を建て、
    その後継者であるオレーグが最初のキエフ・ルーシを創建した。

    Russia_C2

    しかし、1237年、外部からの力で破局が訪れた。 タタール(モンゴル)軍が、ルーシの
    多数の都市を侵略し、そのご200年間に渡ってルーシを支配した。 こうして、ルーシは、
    少公国に分裂したのだが、その中から、モスクワが次第に力を伸ばし、やがて、
    タタール人の支配を覆す事となる。



    【中心地がキエフからモスクワ公国へ】
    9世紀にオレーグ公が建国したキエフ・ルーシは、ウラジーミル1世、ヤロスラフ賢公、
    ウラジーミ=モノマフといった、偉大な支配者の元で、400年間に渡って栄え、ヨーロッパで
    最も大きく、裕福な国となった。 しかし、1237年、内分の半目によって、弱体化していた
    キエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが率いるモンゴル軍(黄金軍団)に滅ぼ
    された。

    最盛期の1054年には、キエフ・ルーシの領地は、黒海からバルト海まで、北はオネガ湖まで
    至った。 キエフの衰退後、ルーシの中心は、北東部に移り、最初は、ウラジーミル、その
    後は、モスクワ公国の首都モスクワが中心となった。 モスクワ公国は、白海から、東は、
    ボルガ川を超えて、シベリア西武にまで至る土地を支配した。

    【モンゴルの支配者】
    モンゴルの支配者であるチンギス・ハンは、アジアの本拠地に居ながら、中国、インド北部
    (現在のパキスタン)、中央アジアを征服した。 1222年には、優れた騎馬団がルーシ
    南部を席巻し、ボルガ川とドニエプル川の間の土地を荒らし回った。 孫のバツーは、
    1237年に、ルーシの侵略を終え、キエフ・ルーシの大部分と新しい都市ウラジーミルと
    スズダリを占領した。 更に、彼は、ハンガリーとポーランドを目指して西進した。 この
    際に、アジア側からヨーロッパへと押し出されて、その後、コーカソイド化した民族が、
    ブルガリア人、ハンガリー人、フィンランド人となっている。

    【キエフ・ルーシからロシアへ目まぐるしい国境線の移り変わり】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    1991年12月末に、ソ連邦が崩壊し、それまでソ連邦内に15あったそれぞれの
    共和国は、独立し、『独立国家共同体(CIS)』という緩やかな国家連合に移行
    する事となった。 その直接の切っ掛けとなったのは、バルト三国での独立
    意識の高まりと、当時のゴルバチョフ氏が押し進めた、『情報公開』により、
    西側の情報が雪崩れ込んだため、それ以上の国家体制が維持出来なくなり、

    最終的に、ロシアが、同じスラブ人国家である、ウクライナとベラルーシを
    引き連れて、独立宣言を行った事にある。 よって、ウクライナ自体は、独自に
    独立活動をした訳ではなく、あくまでも、ロシアが独立する際の『道連れ』的な
    副産物に過ぎなかった。

    【ウクライナにおけるロシア語の使用率】
    language

    ウクライナは、1991 年に独立するまで、一度も自民族による独立国家を持った
    事がなく、その国境線も 20 世紀の後半になって、ようやく最終画定した経緯が
    あり、特に、東部のロシアとの国境は、長年に渡って、かなり曖昧なままであった。
    また、独立後、数年を経た後でも、ロシアとの国境線は、単なる『県境』程度の
    意味しか持たず、ソ連邦崩壊直後には、CIS内のどこの国境線においても、面倒な
    パスポートのチェック等はなかった。

    ウクライナは、元々は、ルーシ人の国家である、『キエフ・ルーシ』の中心地
    であり、その名の通り、キエフが首都であったが、モンゴルから遥々遠征して来た、
    モンゴル・タタール軍に攻め滅ぼされ、街が徹底的に破壊された後、数百年間に
    渡り、復活する事が出来なかった。 その間、台頭して来たのが、北にある
    モスクワで、当時は、『モスクワ公国』と呼ばれていたのだが、ウクライナは、
    数百年間にも及ぶ、ポーランド支配を脱したかったため、同じ東方正教国家である、
    隣国のモスクワに助けを求めたが、そのまま、モスクワへと吸収され、それ以降、
    モスクワは、『ルーシの正当な後継者』という意味で、『ルーシ国』という意味の
    『ロシア』という国になった。
     
    AS2015021200

    ウクライナは、大きく分けると、西部が、ポーランド、リトアニアとの繋がりが
    強く、ガリツィア地方は、元々ポーランド領であったため、ロシアとの繋がりは
    希薄であった。 逆に東部は、ロシアとの国境線がなかなか定まらず、曖昧な
    ままにされたため、ロシア化が進んだ。西部地域は、ハプスブルグ家の支配を
    受けていた影響もあり、宗教的には、カトリックの影響が強い。 東部は、完全に
    東方正教の影響が強く、ウクライナは、東西格差が非常に大きい地域であった。

    ウクライナでは、独立後の1990 年代は、『中欧』概念の復活に乗じて、
    ハプスブルグの流れを汲む『ヨーロッパの一員』へのアイデンティティーに注目が
    集まり、EU、NATOの東方拡大や、2004年末の『オレンジ革命』を経た後は、
    EU加盟により、『ヨーロッパの一員』を希求するウクライナ・アイデンティティと
    『ヨーロッパの隣人(EUの外)でいる』アイデンティティとして議論される機会が
    増えた。 

    『ヨーロッパの一員』を強く熱望する余り、ウクライナ全域で使用されている、
    ロシア語への批判的な処置が行われ、国内で放送されていたロシア語番組には、
    全てウクライナ語の字幕を入る事が義務付けられ、ロシア語は、基本的に『外国語』
    扱いとされ、ウクライナ語以外は、公の場での使用を基本的に禁止された。

    【オレンジ革命の末路 ダイオキシンを盛られたユーシェンコ元大統領】
    5205109a0a

    2014年に始まった『ユーロ・マイダン』以降は、ロシア寄りの政治家達を全て
    排除し、アメリカの誘導の元、EU寄りへと強引に舵を切ったが、そのEU自体が
    ウクライナ援助に関しては、全く乗り気ではなく、むしろ、ウクライナ排除の
    方向へと向かっている事実をウクライナ国民は全く知らさせてはいない。
    オリガルヒ(新興財閥)らによる情報操作も甚だしく、ウクライナでは、ウソが
    平然とまかり通っている。

    今後、ウクライナがEUの一員になる事を本気で望むのであれば、正しい情報の
    公開と、オリガルヒによる世界でも指折りの腐敗し切った政治を何とかしない限り、
    ロシアからもEU諸国からも愛想を尽かされる事となる。 本来、ウクライナが
    目指すべき道は、地政学的な事を鑑みても、『東西の架け橋』になる事であり、
    自分達の都合の良い主義主張ばかりをゴリ押ししているウクライナが、EU諸国の
    一員になれる日は、未来永劫ないのではないか?

    【お勧めの一冊】



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    ウクライナは、10年ぐらい前の時とは、全く別の国に成り果てた。 元々旧ポーランド領、
    旧ハンガリー領、旧ルーマニア領、旧ロシア領とバラバラの広大な領土を抱えている国で
    あるため、本来、良いものであるはずの『愛国心』が『ファシズム』と化し、それらの地域を
    束ねる唯一の方法として利用されてしまったため、こうなったものだが、元々は、
    オーストリア領であった、ウクライナ西部地域に対する、オーストリア人の対応は、かなり
    ひややかなものがある。 ドイツ人の対応も似たり寄ったりで、フランス人に至っては、
    興味すらないと思われる。

    米国は間違っていた ウクライナ政府は「バラバラ」だ
     
    2014年末にウクライナのユーロ・マイダンで蜂起が起きた際には、日本の某新聞社も、
    『マイダンで戦って死んでいった英雄たちは、アメリカ側から日給にして30ドル程度を受け
    取ってテロ活動を行っている』と報じたのだが、その後、一切何も言わなくなった。
    ウクライナ内部から始まったとされているこのマイダンも、そもそもが、アメリカが後ろで
    糸を引いていたため、何もかもが、アメリカ寄りの報道しかなされなかった。 よって、
    ロシア側から、ウクライナに対して、人道支援が行われた際にも、国境付近で1週間も
    待たされたり、ウクライナに住んでいるロシア系住民が空爆で何千人も殺されようが、
    西側では一切報道されず、逆に、ロシアがウクライナに侵攻しているとされた。

    >>ウクライナとロシアの自己決定

    d6729f24.jpg


    クリミアのロシア返還に関しても同様で、元々、住民達がウクライナ支配を嫌い、
    住民投票を開き、正式にウクライナから独立した後に、クリミア住民達の意思に
    従い、ロシアへと正式に返還されたものなのにも関わらず、日本では、『ロシアが
    不法に占拠しているクリミア』の枕詞が消えることは最後までなかった。

    今回のウクライナ危機は、『情報戦争』とも呼ばれており、各国が、自分達に都合の
    良いように報道を広めたが、その証拠となるようなものは、一切提示されない
    ばかりか、後に、アメリカのバラク・オバマ大統領ですら、アメリカのウクライナへの
    関与を認めている。

    >>オバマ大統領、ウクライナへの政治的関与を認める

    3a1a339a.jpg


    日本では、外国語教育としては、英語のみしか選択出来ないため、一斉にアメリカ寄りの
    報道がなされたが、ヨーロッパの報道は、これとは全く異なる。 ヨーロッパで、アメリカが
    好きな人は、むしろ稀で、アメリカが嫌いと答える人がその大部分を占める。 物事は、
    一点ばかりから見ると、判断を完全に誤るという、典型的な事件が、今回のウクライナの
    内戦から得た日本の教訓なのでは? 早急に英語以外の外国語を小学校から学べるように
    すべし。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログ マルチリンガルへ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ