アンジュー朝のヘンリーは、、ヘンリー2世としてアンジュー朝の初代王となる。
この王朝の紋章は、エニシダの小枝で、フランス語では、プランタジネットと言う。
アンジュー朝の人々は、 プランタジネットという苗字を良く使い、アンジュー
朝は、プランタジネット朝とも呼ばれた。

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この王朝は、イングランドとフランスに領地があったため、イングランドの
対ヨーロッパ貿易は、飛躍的に伸びた。 イングランド産のウールは、良質で
輸出に向き、やがてイングランドは毛織物の産地としてヨーロッパ中で有名に
なった。 イングランド庶民の大部分は、裕福な貴族の農地で働いてた。
この農奴と呼ばれる人々は、土地を持っていないため、土地所有者である
貴族への奉仕から逃れることは、奴隷のように不可能に近かった。 農奴に
比べ、職人や商人は、個人の自由はあったが、職業に関する厳しい規則があり、
働く場所や方法を規制されることが多かった。

プランタジネット朝歴代の王の統治で、イングランドの政情はある程度安定
したが、対立がないとは言えなかった。 ヘンリー2世は、法制改革を行おう
としてローマ教会と争った。 イングランドのカンタベリー大司祭トマス・
ベケットは、教会の権利擁護のため、王と戦った。 王に反対し続けたため、
ベケットは、1170年、カンタベリー寺院内で暗殺された。 ヘンリー2世は、
大司教殺害の責任を取って公衆の前で懺悔した。

ヘンリー2世の息子ジョン王は、多くの封建領主と争った。 この領主たちは、
ジョン王の政治は不公平で非能率的だと考え、両者の抗争の結果、1215年、
マグナ・カルタ(大憲章)が生まれた。 この憲章は、領主たちがジョン王に
認めさせた特許状である。

この憲章は、善政を行うのに大切だと考えられる権利を明確化した。 権利には
不法課税の阻止、王権からの教会の自由などが含まれ、マグナ・カルタは、
イギリス憲法の礎ともなった。 ジョン王の息子ヘンリー3世も、シモン・ドゥ・
モンフォールらを中心とした領主たちの抵抗にあう。 この結果、領主たちが
勝利し、王権の制限を勝ち取った。 ヘンリー3世は、短期間、続くエドワード
1世は、定期的に、議会に助言をあおいで王政を行った。

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