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    タグ:カブラル

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    ブラジルには、ヨーロッパ人の探検家や殖民者がやって来るずっと以前から、
    先住民が暮らしていた。 北にはアラワク族とカリブ族が、東にはトゥピー・
    グアラニー族がおり、南にはジェー族、西にはパーノ族が住んでいた。 人々は
    豊かな森林で狩りを行い、海辺や川で漁をして暮らしていた。 亜熱帯地方の
    人々は、森をめぐって果実を集め、定住を始めていた人々は、キャッサバ芋を
    栽培していた。

    集落もあり、かやぶき屋根の小さな長屋が集まっていた。 一軒の家に暮らすのは、
    一家族だけではなかった。 これらブラジルの先住民は、100万人とも500万人とも
    言われる。 彼らは、石で出来た武器や道具を使う石器時代の生活をしていた。
    彼らは、工芸に優れた才能を持ち、手近な材料からかごや壷や装飾品を作っていた。

    【カブラルによるブラジルの発見】
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    【ブラジルの発見と初期の殖民】
    一方、ヨーロッパでは、15世紀に航海と探検の時代が始まった。 航海者たちは、
    貿易で栄える強国の後援を受けて、スパイスを求め、アジアへの直接航路を探す
    冒険を重ねていた。

    ブラジルの先住民たちは、何一つ知らなかったが、1492年、クリストファー・
    コロンブスは、新大陸に上陸した。 彼は、その土地を東インドかアジアの
    どこかだと思い込んでいた。 このため、この土地の先住民は、ヨーロッパ人から
    インディオ(スペイン語・ポルトガル語ではインディオ、英語ではインディアン)
    と呼ばれるようになった。 コロンブスの発見が発端となって、ポルトガルと
    スペインの間に、新しい領土の獲得競争が始まった。

    この2つのカトリック教国が戦争になるのを未然に防ぐため、1493年、法王
    アレクサンディル6世は、ヴェルデ岬諸島の西およそ560キロの大西洋上に南北に
    通る想像上の線を引き、両国の領土境界線とした。 この線から西の全ての
    新しい領土はスペインに、東はポルトガルに帰属することになった。

    両国はこの取り決めに賛成したが、やがてポルトガルが不満を持ち、境界線を
    1500キロほど西に移すように主張した。 この第二の境界線は、1494年に
    スペインに、1506年に法王ユリウス2世によって承認された。 この境界線は、
    ブラジル東部が発見され、探検が行われた時に、ポルトガルが主権を主張する
    根拠となった。

    ブラジルが発見されたのは、1500年のことである。 ポルトガルの提督ペドロ・
    アルヴァーレス・カブラルの艦隊は、アフリカ大陸の南端を経由してインドに
    行く途中、風に流され、航路を外れた。 カブラルが漂着したのは、今の
    バイア州の海岸だった。 彼らは、この土地をポルトガル領と宣言した。

    1534年、ポルトガル王ジョアン3世は土地譲渡の制度を創設し、領土を
    カピタニーアと呼ばれる15の行政区に分割した。 北東部ではオリンダ
    (レシフェの近く)や、サルヴァドールに、もっと南では、サンヴィセンテ
    (今のサントス付近)に、立派な植民地が誕生した。 1548年、カピタニーアは
    統一され、国王が任命する総督の支配を受けることになり、サルヴァドールが
    首都になった。

    オランダの西インド会社が、一時期、ブラジル北東部を武力で占領し、ポルトガルの
    統治は途絶えた。 1630年、オランダはペルナンブコとオリンダを占領し、
    マラニュン島からサンフランシスコ川下流の流域までの一帯を支配した。 しかし、
    1654年、ポルトガル本土から援軍を得た植民地軍は、支配権を奪い返した。
    オランダが正式に講和し、ブラジルから手を引いたのは、1661年のことである。

    初期に北東部に入植した人々は、海岸線に沿って、サトウキビのプランテーションを
    作った。 単一農産物を国際市場に向けて大量に生産するプランテーション農業は、
    多くの人々を必要とする。 植民者達は、先住民のインディオを奴隷とした。
    沢山のインディオが、ヨーロッパ人が持ち込んだ病気で死んだり、反抗して殺され
    たりした。 このために、インディオに代わる労働力が必要となり、植民者達は、
    アフリカからおびただしい数の黒人を輸入し、奴隷にした。

    プランテーションのお陰で、農園主達は、巨万の富を得た。 16世紀後半から、
    17世紀全般を通じて、バイアとペルナンブコのカピタニーアは、世界市場の
    主要な砂糖供給地であった。 綿花やカカオからも利益が上がり、サルヴァドールと
    レシフェは、大きな商業都市に成長した。 また、これらの都市は、アフリカに
    近いこともあり、世界の奴隷貿易の中心となった。

    【お勧めの一品】


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    エンリケ探検チームが編成しつつある頃、ヨーロッパとアジアの貿易を
    牛耳っているのは、アラブ人やイタリア人だった。 アラブ人がアジアの
    品物を集め、それをイタリア人がヨーロッパへ転売する専売権を持っていた。
    エンリケは、そうした独裁体制を打破出来ると見て、ポルトガルからアフリカ
    大陸を回って遠くインド、アジアに足を伸ばせば良いと考えた。

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    1460年、エンリケは死んだが、ポルトガル人の航海熱はさめず、1488年、
    バルトロミュ・ディオスがアフリカ大陸の最南端、喜望峰を回ってインド洋に
    出た。 その10年後、ディアスの仲間であったバスコ・ダ・ガマがインド大陸に
    到達、その航海費用の60倍にも値する船荷を積んでポルトガルに戻った。
    その後は、アラブ人やイタリア人が仲介せずに、アジアの宝石類や貴重な
    香料が直接手に入るようになった。

    16世紀になると、ポルトガルはヨーロッパの中の主要な貿易国となり、海軍力も
    つけたが、隣国のスペインもヨーロッパの人たちが新世界と呼ぶ西半球へ征服の
    航海に乗り出した。 そこで、利害の衝突を避けるため、ローマ法王アレキサンダー
    6世は、新領土を2つのローマ・カトリック国間で分割する協定を作った。

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    1500年、強風でペドロ・アルバレス・カブラルの乗った船が航海を外れ、
    カブラルは南米のブラジルに上陸、法王の作った協定に従って、ブラジルは
    ポルトガルの領土と認められ、残りの南米大陸はスペインのものとなった。

    アジアでは探検家、アルフォンソ・デ・アルブケルケがポルトガルの権益を広げ、
    1510年にインド西岸の貿易拠点、ゴアを占領、そこをアジアにおける、
    ポルトガルの通商、および、宣教の本拠地にした。 更に1511年、
    アルブケルケは、マレー半島の主要貿易港、マラッカも占領してしまった。
    貿易協定によって、アジアの品物はポルトガルに売られ、そこからヨーロッパ
    各地に転売されて行った。

    貿易のお陰で、ポルトガルの諸王は、懐が豊かになり、アジアからの貴重な香料、
    絹、アフリカからは金やコショウ、それに労働力としての人間が運ばれて来た。

    アフリカ大陸の西および南岸いったいには、ポルトガルの植民地が出来、
    アフリカからの労働力は、ブラジルまで運ばれ、砂糖きびやコーヒーの栽培を
    はじめたポルトガル人入植者たちはに使われた。 ポルトガルは、本国には
    ワイン、オリーブ油、コルク、魚ぐらいしか売るものがなく、収入の大半は
    海外の植民地から吸い上げていたのである。

    【お勧めの一冊】


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    ブラジルには、ヨーロッパ人の探検家や植民者がやって来るずっと以前から、
    先住民が>暮らしていた。 北には、アラワク族とカリブ族が、東には、
    トゥピー・グアラニー族がおり、南には、ジェー族が、西にはパーノ族が
    住んでいた。 人々は、豊かな森で狩りを行い、海辺や川では漁をしてして
    暮らしていた。

    熱帯地方の人々は、森をめぐって果実を集め、定住を始めていた人々は、
    キャッサバ芋を栽培していた。 集落もあり、茅葺屋根の小さな長屋が
    集まっていた。 一軒の家に暮らすのは、一家族だけではなかった。
    これらのブラジルの先住民は、100万人とも500万人とも言われる。

    彼等は、石で出来た武器や道具を使う石器時代の生活をしていた。 彼等は、
    工芸に優れた才能を持ち、手近な材料からカゴや壺や装飾品を作った。

    一方、ヨーロッでは、15世に航海と探検の時代が始まった。 航海者達は、
    貿易で栄える強国の後援を受けて、スパイスを求め、アジアへの直接航路を
    探す冒険を重ねていた。

    ブラジルの先住民達は、何一つ知らなかったが、1492年、クリストファー・
    コロンブスは、新大陸に上陸した。 彼は、その土地を東インドかアジアの
    どこかだと思い込んでいた。 このため、この土地の先住民は、ヨーロッパ人
    からインド人(スペイン、ポルトガル語ではインディオ、英語ではインディアン)
    と呼ばれるようになった。

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    コロンブスの発見が発端となって、ポルトガルとスペインの間に新しい領土の
    獲得戦争が始まった。 この2つのカトリック教国が戦争になるのを未然に
    防ぐために、1493年、法王であるアレクサンデル6世は、ヴェルデ岬諸島の
    西およそ560キロの大西洋上を南北に通る想像上の線を引き、両国の領土国境線
    とした。

    この線から西の全ての新しい領土は、スペインに、東はポルトガルに帰属する
    ことになった。 両国は、この取り決めに賛成したが、やがてポルトガルが
    不満を持ち、境界線を1,500キロほど西に移すように主張した。 この第二の
    境界線は、1494年にスペインに、1506年に法王ユリウス2世によって承認された。
    この境界線は、ブラジル東部が発見され、探検が行われた時に、ポルトガルが
    主権を主張する根拠となった。

    ブラジルが発見されたのは、1500年のことである。 ポルトガルの提督である
    ペドロ・アルヴァーレス・カブラルの艦隊は、アフリカ大陸の南端を経由して
    インドに向かう途中、風に流され、航路を外れた。 カブラルが漂着したのは、
    今のバイア州の海岸だった。 彼等は、この土地をポルトガル領と宣言した。

    1534年、ポルトガル王ジョアン3世は、土地譲渡の制度を設立し、領地を
    カピタニーアと呼ばれる15の行政区に分割した。 北東部では、オリンダや、
    サルヴァドール、更に南には、センヴィテンセに立派な植民地が誕生した。
    1548年、カピタニーアは統一され、国王が任命する総督の支配を受ける
    ことになり、サルヴァドールが首都になった。

    オランダの西インド会社が、一時期ブラジルの北東部を武力で占拠し、
    ポルトガルの統治は途絶えた。 1630年、オランダは、ペルナンブコと
    オリンダを占拠し、マラニョン島からサンフランシスコ川下流域までの一体を
    支配した。 しかし、1654年、ポルトガル本土から援軍を得た植民地軍は、
    支配権を奪い返した。 オランダが正式に講和し、ブラジルから手を引いた
    のは、1661年のことである。

    初期に北東部に入植した人々は、海岸線に沿って、サトウキビの
    プランテーションを作った。 単一農産物を国際市場に向けて大量に生産する
    プランテーション農業は、多くの人々を必要とする。 植民者達は、先住民の
    インディオを奴隷とした。 沢山のインディオが、ヨーロッパ人が持ち込んだ
    病気で死んだり、反抗して殺されたりした。 このために、インディオに
    代わる労働力が必要となり、植民者達は、アフリカからおびただしい数の
    黒人を輸入し、奴隷にした。

    プランテーションのお陰で、農園主達は、巨万の富を得た。 16世紀後半から、
    17世紀全般を通じて、バイアとペルナンブコのカピタニーアは、世界市場の
    主要な砂糖供給地であった。 綿花やカカオからも利益が上がり、
    サルヴァドールとレシフェは、大きな商業都市に成長した。 また、これらの
    都市は、アフリカに近いこともあり、世界の奴隷貿易の中心となった。

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