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    タグ:カフカス

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    アルメニアの名前は、紀元前6世紀、岩に刻まれたペルシャ語の文字の中に初めて
    現れる。 アルメニア民族はこの頃、現在の地に住み着いたようである。
    もっとも、彼らは、現在のアルメニア共和国の国境を越えて、トルコやイランの
    一部にまで広がっていた。

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    アルメニアは、当初、ペルシャ帝国の一部であったが、紀元前2世紀から1世紀の間に
    有力な王国を形成した。 しかし、その後、この王国は、ローマ帝国の宗主権を認め
    なければならなかった。 301年、アルメニアは、キリスト教を国教とする歴史上
    最初の国となった。 400年頃、今日も用いられているアルメニア文字の歴史は
    ここに始まる。 この国は、旧ソ連地域の中で最古の文字文化を持つ国でもある。

    以後の数世紀間、アルメニアの支配権をめぐって、ペルシャ、ビザンチン、アラブが
    戦いを繰り返した。 9世紀にアルメニアは、ある程度の独立を果たしたが、
    その後、再び他民族の襲撃を受け、また数世紀に渡ってペルシャとオスマン帝国が、
    アルメニアをめぐって争った。

    19世紀になると、ロシアがこの国の支配権を獲得する。 ロシアは、1828年には
    トルコに属していた地域を奪った。 トルコの支配下に留まったアルメニア人
    たちは、1895年から翌年に掛けて弾圧され、特に1915年から1916年に掛けての
    残忍な迫害では、およそ150万人ものアルメニア人が命を奪われたと推定される。

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    【独立への長い道のり】
    ロシア革命(1917年)の直後、1918年3月、ロシア地域のアルメニアは独立を
    宣言した。 この時、民族主義政権党のダシナクツチュン党が権力を掌握
    していた。 1920年、既に共産化していたアゼルバイジャンとの国境付近で
    暴動が扇動され、暴動の主導者たちは、赤軍の支援を求めたが、このやり方は、
    他の近隣諸国で共産主義者たちが取ったのと全く同じやり方である。

    そして、赤軍の進攻後、『アルメニア・ソビエト社会主義共和国』設立が宣言
    された。 1921年に民族主義者による暴動が起こったが、武力で弾圧された。
    1922年、この共和国は、アゼルバイジャン、グルジアと共に、
    『ザカフカス・ソビエト社会主義連邦共和国』を発足させた。 この連邦は、
    1936年に解消され、アルメニアは、単独のソ連邦構成共和国の地位を得た。

    1920年代には、他国と同様アルメニアも、あらゆる分野で文化的な自立を認め
    られていたが、1930年代になると、スターリンによって同化政策が遂行され、
    全ての民族的運動が弾圧された。

    こうした傾向は、1980年代の改革政治によって、初めて改められた。 しかし、
    民族自立の気運が、かえって、かつての地域紛争の火種を再び拡大することにも
    なった。 アゼルバイジャンとの対立は、今日もなおくすぶっている。 もっとも、
    両国は1991年に互いに交渉を続けることで合意している。

    アルメニアは、旧ソ連の中では最も激しい民族運動の展開された国の中に
    数えられる。 1990年8月、他のほとんどのソ連構成共和国に先駆けて独立宣言を
    行い、新連邦条約の交渉には参加しなかった。

    1991年9月に行われた国民投票では、95%の国民が、独立に賛成票を投じた。
    そして、1991年12月、アルメニアは、独立国家共同体(CIS)に加盟した。

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    共に中央アジアに位置するアゼルバイジャンとアルメニア。 黒海と
    カスピ海に挟まれたカフカス山脈の南に隣り合う両国は、アゼルバイジャン
    にあるナゴルノ・カラバフ自治州をめぐって泥沼の争いを続けて来た。
    根底には、民族と宗教が絡んでいる。

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    トルコと友好関係にあるアゼルバイジャンは、元々は、イスラム教の国で、
    国民の95%がイスラム教徒となっている。 一方、ロシアとは強固な関係を
    築いて来たアルメニアは、キリスト教の国。 ソビエト時代には、連邦内の
    民族自決を弱めるために、宗教や民族間の分断を狙ったスターリンの政策で、
    キリスト教とであるアルメニア人が多数を占めるナゴルノ・カラバフは、
    アゼルバイジャンの自治州に組み込まれていた。

    1988年、同自治州の人口の8割を占めるアルメニア人はが、アルメニアへの
    帰属を求めたところ、アゼルバイジャンは要求を拒否しただけではなく、
    自治州まで廃止し、直轄統治という強引な措置に出たため、火種はくすぶり出した。

    1991年のソビエト崩壊に伴って、両国が独立を果たすと、アルメニア人の
    アルメニアへの帰属を求める民族意識は一気に燃え上がった。 紛争の勃発は
    1992年、ナゴルノ・カラバフが一方的に独立を宣言したことにある。
    アゼルバイジャンは経済封鎖などで対抗したが、アルメニアは、当然ながら
    戦闘状態に突入した。

    1994年、ロシアとフランスの仲介により、停戦が成立したが、停戦案の中身は、
    戦闘でアルメニアが占拠したアゼルバイジャンの領土は返還しなければならない、
    ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンに帰属し、自治共和国として昇格する
    などと定められたことから、アルメニア側は反発、今も解決の目処が立って
    いないが、実質上は、アルメニアの支配下にある。

    更に、2009年、アルメニアは、 宿敵トルコとの間で国交正常化が実現したが、
    ここでもナゴルノ・カラバフ紛争をめぐる文言にアルメニア側が反発、正常化は
    ほど遠い現状となっている。

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    ロシアやフランス、トルコを始め、欧米などの仲介が上手く行かない背景には、
    バクー油田など豊富な天然資源がアゼルバイジャンの経済を支えて来た現状があり、
    更に、ヨーロッパ向け原油パイプラインに対する欧米の直接投資や原油高に伴う
    収益が、国内経済成長を後押ししているという現状に、仲介側が配慮せざるを得な
    かったという事情がある。

    その影で、この紛争では、2万人の犠牲者と100万人以上の難民が発生した。

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    ジーマ・ビランは、1981年12月24日、ロシア南部のカフカス地方にある、カラチャイ・
    チェルケス共和国で生まれた。 本名は、ヴィクトル・ニコラエヴィチ・ベラーンで、
    ロシア語圏では、非常に高い人気を誇っている。 ユーロビジョン・ソング・コンテスには、
    2度の出場を果たしており、2位と、優勝を果たしている。 カバルダ・バルカル共和国の
    人民芸術家と功労芸術家の名誉称号を持っている。

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    6歳の時に、カバルダ・バルカル共和国のマイスキーへ転居し、そこで、音楽学校を
    卒業した。 最初に出場したコンクールは、『カフカスの若い声』であった。 その後、
    グネーシン姉妹記念国立音楽院の声楽科を卒業した。

    その後、『ジーマ・ビラン』という芸名で歌手活動を開始し、2002年に開催されたロシア・
    ラトビアのフェスティバル「新しい波」で第4位を獲得し、デビューを果たした。 2003年
    には、デビューアルバムを発表した。

    ジーマ・ビランが初めてユーロビジョン・ソング・コンテストに挑戦したのは2005年の事で、
    ロシア予選では、第2位を獲得した。 2005年12月には、サンクトペテルブルクと
    アルマアタで2つのゾロトイ・グラモフォン賞を獲得した。

    2006年3月14日には、キエフで行われた音楽祭で、『年間最優秀歌手』に選出された。
    この時には、『Never Let You Go』が歌われ、ユーロビジョン・ソング・コンテスト2006に
    おけるロシア代表に選出された。 この曲を歌ったジーマは、決勝で2位を獲得し、当時
    ロシア代表の最高記録であった、2000年のアルスーによる2位に並んだ。


    2008年3月にはジーマは再びロシア代表に選出され、ユーロビジョン・ソング・コンテスト
    2008に出場した。 ジーマは、フィギュアスケート選手のエフゲニー・プルシェンコ、
    ハンガリーのヴァイオリニストであるエドウィン・マートンが登場するパフォーマンスの中、
    『Believe』を歌い、優勝した。


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