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    タグ:カナダ

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    ヨーロッパで話されているフランス語の発音や語彙に慣れていると、ケベックで
    耳にするフランス語には少し違和感を感じるかも知れない。 また、もしかすると、
    その逆もあるかも知れない。 もちろん、どの国や地域で話されようと、
    フランス語はフランス語なのだが、ケベックの場合、イギリス領のおよそ
    百数十年間、様々なレベルでフランスとの公的交流を絶っていたという事実がある。
    そのため、言語としての独自性が強いのである。

    ケベックのフランス語の特徴は、主に発音と語彙に端的に現れている。 発音の
    一例を挙げると、フランス語の母音I(イ)とU(ユ)の前にTやDが来る、TI(ティ)
    TU(テュ)DI(ディ)DU(デュ)と発音されるが、ケベックでは、多くの場合、
    TIはツィ、TUはツュ、DIはズィ、DUはズュと発音される。

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    さて、ケベックで話されているフランス語は、次の3つのレベルに分類される。

    ①標準的フランス語
    これは、表現や選択がヨーロッパの、主としてフランスで話されている
    フランス語に近い。 テレビやラジオのアナウンサーやレポータが話すフランス語が
    これにあたる。 また、知識人もこのフランス語を話すことが多い。

    ②ジュアル(Joual)
    ジュアルを厳密つに定義することは、大変困難である。 一般的に、ジュアル
    とは、後述の大衆フランス語に含まれるものである。 ジュアルという言葉は、
    フランス語で馬を表すシュヴァール(Cheval)という単語をケベックの人が
    発音すると、ジュアルと聞こえるというところから来ている。 この由来からも
    分かるように、ジュアルは話し言葉を表すことが多く、同時に少し自虐的な
    ニュアンスさえ含むのである。 ジュアルは、都市圏の若者や労働者の間で多く
    話されるスラングの一種であり、意味不明なフランス語の使用や音節の省略等が
    その特徴としてあげられる。

    そして、ジュアルは、言語のレベルを超えてイデオロギー的な側面を持ち、むしろ、
    この点の方が社会に大きな影響を与えて来たと言える。 1960年代に入ると、
    ケベックの青年文学者ブループ『パルティ・プリ』と呼ばれる文学集団を作る。
    イギリスの支配下に置かれて以降、ケベクックは政治、経済等多くの領域で
    イギリス系他州に常に遅れをとり、同州内にあっては、数的にマジョリティとは
    言え、現実的には、支配的なイギリス系との間で社会格差が生じ、苦悩していた。

    こうして、進むべき未来をまだ描くことが出来ずにいるケベックの閉塞的な状況を、
    彼らはケベックのフランス語が伝統的に持っている牧歌的て、美しい表現や語彙を
    全て排除し、ジュアルを多用して行った。 それはいわば、『言語の劣化』だった。

    ③大衆フランス語
    前述の標準フランス語が規範文法を重んじているのに対して、ケベックの人々が
    日常生活の中で普通に話しているフランス語が大衆フランス語である。 大衆
    フランス語は、ケベックの社会の現実に即して、言語のあらゆる可能性を排除する
    ことなく用いられる。 そのため、ケベックに固有なフランス語表現等がこの中に
    入って来る。 また、極めて特徴的なことは、英語からの直接的な『借用』や、
    『読み換え』等が大変多く見られるという点である。 この事実は、ケベックが
    置かれている地理的、社会的状況を踏まえれば、むしろ当然なことかも知れない。



    【今後のケベック・フランス語】
    フランス語に関する認識は、変わりつつある。 以前は、フランスで話されている
    フランス語が唯一基準となるフランス語であるとする考え方が主流であった。
    しかし、今や、フランス語圏の文化的、社会的多様性がフランス語をより一層
    豊かで、強固なものにしているという捉え方に移行しつつある。 つまり、国際
    フランス語という考え方である。 この国際フランス語という枠組みの中で重要な
    役割を果たしているのが、まさにケベックである。  ケベック州政府は、ケベック
    特有のフランス語をラルース等のフランス語辞書の語彙に加えるようにフランス語
    圏の国際委員会に働き掛け、それと同時に、新語の開発でもフランス語圏の主導的
    役割を果たしている。

    例えば、ソフトウェアを現すLogicielという語彙がある。 これは、現在は、
    フランスを始め、フランス語圏では当たり前のように用いられているIT用語である。
    この用語は、実は、ケベックで作られたものである。 ケベックでは、
    フランス語は、単なるコミュニケーションツールを超えるものと深く理解
    されている。 ケベックは、これからも独自のフランス語の歴史を作り上げ、
    そして、世界のフランス語圏の中でますます
    重要な地位を占めて行くと
    思われる。

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    モントリオールからセントローレンス川を230キロほど下ると、ケベック州の
    州都であるケベック市がある。 ケベックというのは、先住民の言葉で
    『川が狭まる所』という意味で、丘から見下ろすと、確かに、ここは川幅が
    狭まっているのが分かる。 ケベック市の下流は殆ど海のようであり、狭く
    なっていると言っても、上流も大型船舶が航行出来るだけの十分な広さがある。

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    ケベック市は、人口規模では、モントリオールの3分の1にも満たず、(2006年
    調査では49万人)、周辺部を入れても71万人程度で、州人口の1割にも満たない。
    しかし、ここから北米に『フランス的事実』が広がって行ったのである。 また、
    ここは、1759年にフランス軍がイギリス軍に敗北した場所でもある。 更に、
    この街で1864年にカナダ連邦形成に連なる『ケベック決議』が採択された。
    その意味で、ケベック市というのは、歴史の重みがあり、単なる州都を超える
    特別な地位を占めている。

    ケベック市の基は、1608年、サミュエル・ド・シャンプランによって築かれた。
    2008年には、ちょうど400週年にあたり、それを記念して盛大な記念式典が
    開かれた。 この街は、イギリス領となるまでは、北米におけるフランス
    植民地の中心地であった。 そして、19世紀中頃までには、ニューヨーク、
    ニューオリンズに次ぐ北米第三の港として隆盛を誇るようになった。

    輸出品の4分の3は、木材で、そこでは、イギリス系商人のために、多数の
    フランス系カナダ人やアイルランド系住民が働いていた。 しかし、1860年頃に
    なると、木材特恵関税の廃止等、いくつもの要因が重なって、木材取引は衰退し、
    ケベック市の経済力も衰えて行った。

    それに伴い、イギリス系やアイルランド系は、主として、モントリオールに移って
    行った。 だが、20世紀初頭には、産業化が進み、カナダでも有数の工業都市に
    なった。 経済の中心は、工業からサービス、金融、観光等へ移り、今日に
    至っている。 官公庁に携わる仕事も多い。 現在はカナダ7位の経済規模の
    都市となっている。

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    北米で唯一城壁に囲まれた都市ケベック市。 この街は、ユネスコにより、
    1985年に北米初の世界遺産に選ばれた。 城壁の内側には旧市街が、外側には、
    近代的な市街が広がる。 旧市街は、ダルム広場、その前にそびえ立つシャトー・
    フロントナック、ノートルダム大聖堂をはじめとした教会、そして、プチ・
    シャンプラン通り等。 恐らく、この辺りは、北米でも最もヨーロッパ的な地区
    であろう。

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    モントリオールは、フランス語では、『モン・レアル』と言い、それは、
    ジャック・カルティエが1535年にここの山を『モン・レアル』と呼んだことに
    由来する。 16世紀のフランス語では『王の山』という意味で、その名前が、
    島の名前となり、やがて、町の名前となって、今日に至っている。 それを英語
    読みしたのが、『モントリオール』となっている。

    セントローレンス川の巨大な中洲に位置するこの街は、2006年の調査では、
    人口162万人、周辺部も入れると、約360万人で、カナダ第2の都市である。
    これは、750万人というケベック州全体の半分近くを占める。

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    ダウンタウンには、ガラス張りの高層ビルが立ち並び、ここがビジネスの中心地で
    あることが良く分かる。 ここから少し離れた場所に、旧市街がある。 石畳、
    そびえ立つノートル・ダム寺院、そこを走る観光用の馬車、まるでヨーロッパの
    古い街に来たかのような錯覚を覚える。 超近代的な高層ビル街と旧市街が隣り
    合わせにあるところ、それもまた、モントリオールの魅力である。
    モントリオールは、2006年にユネスコから、『シティー・オブ・デザイン』に
    指定された。

    642年にメゾン・ヌーヴォ、および、ジャンヌ・マンスがモントリオール島に
    ヴィル・マリという街を建設した。 これがモントリオールの始まりとされ、
    その後、フランスが北米に領土を広げるための基地となった。 イギリス領に
    なってからも経済、文化の中心地として発展を続け、19世紀中頃には、カナダで
    並ぶものがない地位を築いた。

    そして英語系の大企業もここに本拠地を構え、カナダ経済に大きな影響力を
    振るっていた。 その後、幾多の変貌を遂げたが、経済的には、1967年に1つの
    ピークを迎える。 それは、万国博覧会の年であった。

    6ヶ月に渡って繰り広げられたこの博覧会を契機として、モントリオールの人々の
    目が世界に開いた。 また、モントリオールは、ケベック各地から芸術家を
    引き付け、音楽、演劇、スペクタクル、展覧会、出版等、あらゆる分野で、
    文化を生み出す中心地として重要な存在となった。

    1976年の夏季オリンピック大会もまた、世界の注目を集めたが、これは
    モントリオールにとって、大きな財政負担となり、以後、長期に渡って経済を
    苦しめる結果となった。 その頃を境に、モントリオールは、カナダ最大都市で
    経済の中心地という座をトロントに譲った。

    更に1977年の『フランス語憲章』によるフランス語化政策の推進が、そこに
    拍車を掛け、いくつもの英語系大企業がトロントに本社を移し、英語
    コミュニティに属する人々が多数流出してしまった。

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    その後、1990年頃まで経済成長は低調だったが、フランス語系
    ビジネスエリートの台頭により、1990年代には回復し、今日では、商工業、
    金融、国際取引、テクノロジー等の分野で中心都市となっている。 特に、
    航空宇宙産業、エレクトロニクス、テレコミュニケーション、製薬等の分野に
    強みを発揮している。

    更に、マルチメディア産業に関しては、北米の中心地として脚光を浴びている。
    実際、『モントリオール・ジャズフェスティバル』を始めとして、この都市には
    国際的に注目を浴びる文化的な催しが沢山ある。 映画やテレビ制作の拠点
    でもあるし、世界有数のサーカス団、シルク・ド・ソレイユの本拠地でもある。

    ケベックのみならず、カナダの芸術文化の発信地として、この街は燦然とした
    輝きを放っている。 また、モントリオールには、国連の専門機関である国際
    民間航空機関(ICAO)をはじめ、60にも及ぶ国際機関の本部が置かれている。

    モントリオールは、カナダでも強い経済力を持っているため、移民を引き付け、
    その結果として、マルチエスニックな様相を呈している。 2006年の国勢調査に
    よれば、モントリオールの人口の24.5%が移民一世となっており、これは、
    カナダ全体の16.2%よりもかなり高い。

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    カナダは、13の州と準州から成る連邦国家であり、10の州と3の凖州から
    成っている。 政治体制は、イギリスにならっている。 公式には、イギリス
    国王が国家元首だが、カナダ総督が代行を務める。 総督の任期は5年で、
    その権限は、非常に限定されている。 連邦政府は、少なくとも、5年おきに
    国政選挙で国会に最多数の議席を得た政党が構成する。

    近年、最も勢力の強い正統は、自由党、進歩保守党だが、それより小規模の
    改革党や、ケベック連合もかなりの支持を得ている。 首相は、政府の省庁を
    指揮する大臣から内閣を率いる。 現在の首相は、ケベック出身のジャスティン・
    トルドー氏で、自由党からの選出となっている。

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    【10州】
    ニューファウンドランド・ラブラドル
    ノバ・スコシア
    プリンス・エドワード・アイランド
    ニューブラウンズウィック
    ケベック
    オンタリオ
    マニトバ
    サスカチュワン
    アルバータ
    ブリティッシュ・コロンビア

    【3凖州】
    ノースウェスト・テリトリーズ
    ユーコン・テリトリー
    ヌナブト

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    各州には、州都と州政府があり、州知事が居る。 オタワの連邦政府は、国防や
    外交政策等、全カナダ国民に関する事柄に対処している。 各州には、礼儀的な
    権限のみを持つ副総督が居る。 選挙で選ばれた議会と政府は、州知事が長を
    務めており、教育、司法、公民権、所得税、固定資産税等の州レベルの事柄を
    管轄している。

    より小規模な評議会が郡、地区、市、郡区、村の運営を行っている。 連邦政府の
    カナダインディアン・北方開発大臣が、ファースト・ネーションズに便宜を図る
    ための計画を指揮している。

    カナダの輸出品の大部分は、アメリカ向けだが、アジアへ小麦を、また、
    ヨーロッパへ工業製品の輸出も行っている。 主な輸出製品は、自動車、産業機械、
    化学薬品等である。 輸入品には原油、化学薬品、消費財等がある。

    【カナダの全輸出に占める割合】
    アメリカ 84.2%
    日本 2.1%
    イギリス 1.8%
    その他 11.9%

    【カナダの全輸入に占める割合】
    アメリカ 56.7%
    中国 7.8%
    メキシコ 3.8%
    その他 31.7%

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    1939年~1945年の第二次世界大戦終了後、カナダに移住していた何百万人
    もの外国人が、カナダ人となり、カナダの人口は急激に増えた。 その多くは、
    ヨーロッパからの移民だったが、中国、インド、パキスタン、アフリカ、
    南アメリカからも多くの人達が移住して来た。 紛争を逃れて来た難民も多く、
    1956年には、ハンガリーから1970年代には、ベトナムとカンボジアから沢山の
    人がやって来た。 21世紀になると、新たにカナダ国民となる人の殆どは、
    インド人とフィリピン人となった。

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    イヌイットの人達は、その多くが、ノースウェスト・テリトリーとヌナブットか、
    ラブラドル半島北部、オンタリオ、ケベックに住んでいる。 エスキモーとは、
    先住民の言葉で『生肉を食べる人』という意味であるため、イヌイットを
    エスキモーと呼んではいけない。

    殆どのファースト・ネーションズは、オンタリオのオジブワ族、ケベックの
    クリー族といったっように、部族の名前で呼ばれるのを好み、先祖から受け
    継いだ土地に住んでいるが、なかには都市へ移り住んだ人もいる。 伝統的な
    技術を受け継ぐ人々もいて、例えば、太平洋岸に住む人達は、驚いたような
    表情のカラフルな儀式用のお面を作ったり、トーテムポールを彫刻したりする。
    こうしたファースト・ネーションズの彫刻、絵画、舞踊等は、広く知られる
    ようになり、カナダ文化を象徴するシンボルとなった。

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    カナダの最重要課題である民族問題は、1600年代にフランスがケベックを
    中心とした植民地をつくった頃に始まった。 カナダで支配権を握っていた
    フランスにイギリスが挑み、両国間の対立と争いが長年続くことになった。
    イギリスが勝利したものの、1774年のケベック条約でケベック住民の法的権利と
    信仰上の権利が認められた。

    フランス系カナダとイギリス系カナダの争いは、ケベックがフランス語の国
    として独立することを求める運動に発展した。 1980年と1995年のケベック
    住民投票による2度の投票の結果、ケベックは、カナダ連邦に留まることと
    なった。 しかし、1995年の投票の結果は、わずかな差だった。 カナダは
    ひとつの国として21世紀を迎えたが、ケベックの独立の夢は今も消えていない。

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    1931年、カナダは、独立国家となった。 イギリス女王エリザベス2世が国家
    元首だが、あくまでも、礼儀的な職務のみを行う。 1960年代にフランス系の
    ケベック州の独立運動による国民投票が行われ、1980年と1995年の2度とも、
    ケベックの独立は否決された。

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    ファースト・ネーションズのグループもまた、より広範な平等と土地の権利を
    求めて運動して来た。 1980年代以降、ファーストネーションズは、自治を認め
    られることが多くなって来た。 1999年には、昔からイヌイットが住んで来た
    地域に、新たにヌナブット準州が設立された。

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    カナダは、国際社会でも大事や役割を演じている。 カナダは、1914年~1918年の
    第一次世界大戦、1939年~1945年の第二次世界大戦では、アメリカ、イギリスと
    ともに戦った。国際連合(UN)、北大西洋機構(NATO)の主要メンバーでも
    ある。 また、1950~1953年の朝鮮戦争では、国際連合軍に参加し、世界中の
    平和維持活動にも参加している。

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    カナダでは、1967年にモントリオールで万国博覧会『エキスポ67』を、そして、
    1976年には、やはりモントリオールでオリンピックを開催した。 これらの
    イベントには、世界中から沢山の人が訪れ、カナダは、賞賛を浴びた。 そして、
    21世紀に入った今、カナダは、世界の舞台でしっかりと名声を確立している。
    隣国アメリカの強い影響を受けながらも、カナダは、独自で六色のある文化、
    経済、政治を発展させている。

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    18世紀になると、イギリスは、カナダに加えて、建材のアメリカにも13州の
    植民地を所有するようになっていた。 アメリカで独立戦争(1775年~1783年)が
    起こり、植民地側が勝利すると、イギリスを支持する多くの英国派(ロイヤリスト)
    達は、独立した新国家に住む事を嫌い、カナダに移り住んだ。 1791年、
    イギリスは、拡大する植民地をアッパー・カナダ、ローワー・カナダとに分割した。

    入植者や探検家が西へ進むにつれて、カナダは、更に拡大し、1812年に
    レッドリバー植民地(現在のマニトバ州)、そして、1848年にブリティッシュ・
    コロンビアを獲得した。 1812年に10万人にも満たなかった人口が、1860年代は、
    300万人に達し、その後もイギリス等からの移民がどんどん入って来て、人口は、
    急激に増加した。

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    1812年、アメリカとイギリスの間で1812年戦争が勃発した。 アメリカ軍が
    カナダに攻め入ったが、イギリス軍は、小部隊ながら、毛皮商やファースト・
    ネーションズ、それに、アメリカに対する忠誠心を既に失っていたロイヤリスト達に
    助けられて、アメリカ軍の攻撃を食い止めた。 この経験により、彼等には、
    侵略者に対抗 する仲間としての意識が芽生えた。 しかし、フランス系の人達は、
    不満だった。 ファースト・ネーションズの指導者達も自分達の土地が入植者に
    取られるのは、面白くなかった。

    1837年、フランス系カナダ人のルイ・パピーノは、ローワー・カナダのイギリス
    政府に対して、反乱を起こしたが、失敗に終わった。

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    1867年、アッパー・カナダとローワー・カナダは、それぞれ、オンタリオと
    ケベックとなり、この2つとノバ・スコシア、ニューブラウンズウィッグとが
    連合して、政府、議会、首相を持つ英自治領のカナダが出来た。 レッドリバー
    植民地のメディス達は、その一部となる事に反対した。 オンタリオの入植者に
    土地を奪われるのではないかと恐れたのだ。

    1869年、ルイ・リエルは、反乱軍を率いて、植民地の指揮権を握った。 彼は、
    レッドリバー植民地が1870年にカナダの一部となる時に、必ず公平な条件になる
    ように交渉した。 その結果、レッドリバー植民地は、新設されたマニトバ州の
    一部となり、ケベックと同じく、マニトバでも英語とフランス語
    (メティスの言葉)が同等に扱われる事となった。

    リエルは、1875年にアメリカへ亡命をせざるを得なくなった。 1885年に彼は、
    今のサスカチェワン州に戻り、そこで、ファースト・ネーションズを率いて、
    同じような反乱を起こしたが、その時は、リエルは捕らえられ、反逆者として
    レジャイナで処刑された。 しかし、ケベックでは、リエルは、英雄と
    見なされた。

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    カナダの先住民族であるファースト・ネーションズの祖先は、人類の南北アメリカへの
    移動に伴って、カナダへやって来た人々である。 数千年に渡る人類とこの地との
    関わり方は、ファースト・ネーションズの生活にもそのまま反映している。

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    16世紀にフランス人とイギリス人がカナダへやって来て、住むようになったが、彼らは、
    ファースト・ネーションズと交易をしたり、戦ったりした。 カナダという名前は、この頃に
    出来たもので、イロコイ族の言葉で『村』をを意味する『カナタ』が起源だと言われている。

    18世紀になると、フランスとイギリスが互いに戦うようになった。 イギリスが勝利したが、
    フランスの影響は、今でもカナダに色濃く残っている。 その後、世界各地からやって来た
    移民達も国家建設に貢献して来た。

    歴史学者によれば、最初にカナダにやって来た人達は、1万5,000年から3万年前に
    アジアと北アメリカを繋いでいた陸地を渡ってやって来たという。 それから、彼らは、
    次第にカナダ中に散らばって行った。 西暦1,000年頃に、スカンジナビアから来た
    バイキングが定住してたグリーンランドから、レイフ・エリクソンが、ニューファウンド
    ランドにやって来た。

    彼は、発見した土地を『ヴィーン・ランド』(ワインランド)と名付けた。 恐らく、その
    名前なら他の入植者をも引き付けるだろうと期待したのだ。 しかし、それ以降は、
    わずかな数のバイキングがやって来ただけで、入植は長続きしなかった。

    次にやって来たヨーロッパ人は、イギリス王国に雇われたイタリア人のジョン・カホットで、
    1497年の事であった。 帰国した彼がカナダの海は、豊富だと報告すると、イギリスと
    フランスの漁師は、こぞって漁に出向いた。 ヨーロッパ人は、カナダには、金が沢山
    あると思っていたが、実際に見つけたのは、魚、木材、毛皮といった、別の種類の
    宝物だった。

    244444

    フランス人ハンター達が毛皮を求めて、カナダ内陸部を探検するようになり、カナダに
    『ヌーベル・フランス』という名の植民地を建て、アカディア、ケベック、モントリオールを
    入植地とした。 入植者達は、ヒューロン族や、他の部族と手を結び、強敵イロコイ族と
    戦った。 フランス人宣教師がキリスト教を広め、カナダで最初の教会が作られた。

    フランスがカナダ東部に入植し、ミシシッピ川に沿って、現在のアメリカの方へと南下して
    行く一方で、イギリスは、ハドソン湾周辺を探検していた。 ハドソン湾の名前は、
    1610年に船でここへやって来たヘンリー・ハドソンにちなんだものだ。

    300055

    ヨーロッパで何世紀にも渡って対立して来たフランスとイギリスは、ここでもやはり争う
    事となった。 イギリス人農民とフランス人毛皮商人が土地問題で争いを始め、入植者、
    兵士、ヨーロッパの船員、そして、ファースト・ネイションズまでをも巻き込み、北アメリカの
    統治をめぐり、1689年から1763年までの間に4度の戦争を繰り広げた。 最後の
    戦いとなった七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)は、1763年に終わり、イギリス軍が
    勝利を治めてカナダの統治権を獲得した。

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    現在のカナダ東部海岸を最初に探検したのは、1497年、イギリス国王ヘンリー7世の
    命を受け、ニューファンドランドやケープ・ブレトン島周辺を探索した、ジェノバ生まれの
    航海士、Jカボットである。 カボットの探検隊は、後に同地域がイギリス領となることの
    発端となった。

    フランスは、イギリスの動きに少し遅れて、1524年、フランス国王のフランソワ1世の
    命を受け、フロリダからニューファンドランドまでを航海し、その『新大陸』を『ノヴァ・ガリア』
    と名付けた。 1534年には、ジャック・カルティエが、ニューファンドランドからセント
    ローレンス湾の沿岸、リシュリュー湾周辺を探検している。 カルティエは、現ケベック州の
    ガスペ半島の先端である、ガスペ岬に上陸し、この地に『フランス国王万歳』と彫り込んだ
    十字架を建て、同地をフランス領とする事を宣言している。 これを持って、『ヌーヴェル・
    フランス』の歴史の始まりとされている。 その後、サムエル・ド・シャンプランがケベックを
    創設し、以降、この地が北米におけるフランスの植民地活動の拠点となって行く。

    【ヌーベル・フランスの領土】(青い部分全て)

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    現在、『ケベック問題』と呼ばれるカナダの最大の政治的課題は、17世紀から18世紀
    中期に掛けてのカナダ東部沿岸地域における英仏の覇権争いに端を発していると
    言える。 英仏の衝突は、ケベックの陥落(1759年)、そして、1763年のパリ条約
    (1763年)によって、一応の決着を見せ、『ヌーベル・フランス』は、スペインとイギリスに
    移譲された。 その後、カナダでは、イギリスの覇権が確率されたが、ケベック州の
    人口の約8割を占めるフランス語系住民達のナショナリズムは、その後のカナダ政府の
    文化政策、移民の動向、エスニック集団の扱いに大きな影響を与えて来た。

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    カナダの総人口のうち、民族的には、イギリス系が最も多数となっているが、一口に
    イギリス系と言っても、その内訳は複雑で、カナダへの移民は、アイルランド人、
    スコットランド人、ウェールズ人の順となっている。 イギリス系カナダ人がケベック
    以外のカナダで安定した覇権を確立して行った分岐点のひとつは、アメリカ合衆国
    からの執拗な攻撃を食い止めた1812年戦争からであると言える。 アメリカ軍は、
    アメリカに親近感を持つものの多い、『ウェスト・カナダ』(現在のオンタリオ州)をまず
    攻撃した。

    しかし、イギリス軍は、有能な司令官アイザック・ブロックの巧みな作戦と、イギリス側に
    付いた先住民の協力によって持ち堪え、いくつかの曲折を経て、1817年のラッシュ・
    バゴット協定と1818年の協定によって、英領北アメリカ(現在のカナダ)とアメリカの
    間の国境確定が、ロッキー山脈の東側の麓までで、ほぼ確定されている。 この1812年
    戦争では、フランス系カナダ人は、革命的で脱宗教的なフランス共和国とヨーロッパで
    戦うイギリス人に好感を持ち、イギリス軍と共にアメリカ軍と戦っている。

    049902

    1812年戦争までは、アメリカ13植民地からの英語系の移民が多かったが、その後は、
    第二次イギリス系の波がカナダへと押し寄せた。 1815年から1850年までの
    35年間の間に80万人近いイギリス系移民がやって来た。 彼らは、イギリスが
    フランスを破った、ワーテルローの戦いの後に職を失ったイギリス軍の将校たち、
    アイルランドの職人や貧民、スコットランドの職人や小作人、イングランドの工場労働者
    たちであった。

    1815年から38年の間にイギリスから新しく到着した人々の多くは、スコットランド人で、
    それでの王党派が多かったノバスコシア、プリンス・エドワード島、ニュー・ブラウンズ
    ウィックや、セントローレンス湾岸に定着して行った。

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    カナダは、英語とフランス語の2言語を公用語とするバイリンガル国家であり、
    『1982年憲法』では、両言語を以下のように規定している。

    『英語、及び、フランス語は、カナダの公用語であり、連邦議会、及び、連邦政府の
    全ての機関における使用言語として、対等な地位と権利が認められる』(憲法第16条
    第1項)

    但し、これは、国民に両言語の習得を義務付けている訳ではなく、連邦政府の全ての
    公的機関において、この両言語が対等に扱われているため、どちらかの言語を話す
    事が出来れば、国のサービスを受けられる事を意味している。

    【カナダ国歌】 バイリンガルバージョン


    アメリカでは、英語を強要されるが、カナダの場合は、基本的に、この両言語によって、
    公的機関でのコミュニケーションが図られる事となっているが、実際は、多民族の
    移民国家らしく、窓口には、多数の移民を取り揃えているため、その他の言語でも
    一律にサービスを受ける事が出来る。

    カナダ人の約85%(2,686万人)は英語を話し、約31%(979万人)がフランス語を話す
    ため、バイリンガルを含めて合計すると、100%を超えることとなる。 但し、カナダでは、
    言語的な地域格差が大きいため、皆一様に両言語を自由に操れる訳ではない。
    小学校等の義務教育では、お互いの言語を学ぶことが義務付けられてはいるものの、
    両言語のバイリンガルは、概ね、両言語の言語的な境界線上にある首都のオタワ~
    ケベック州周辺に限られる。 首都であるオタワは、元々、ビクトリア女王が、両言語
    話者達の融和を願って、わざわざ言語境界線上に新たに建設したバイリンガル都市。

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    カナダ最大の都市である、トロントがあるオンタリオ州では、約85.9%が英語を話すが、
    残りの約14%が全てフランス語話者という訳ではない。 トロントにおける
    英仏バイリンガルの比率は、約11.4%となっており、決して高くはない。 逆に、フランス語
    だけが公用語となっている、カナダ第二の都市であるモントリオールを有するケベック州
    では、約53.9%が、フランス語を話すが、全ての方向を英語話者らによって囲まれて
    いるため、約4割がバイリンガルとなっており、バイリンガル率がカナダの中で最も高い。

    ケベック州は、カナダ連邦の中でも唯一、フランス語のみを公用語としているが、その
    面積は、カナダの約4分の1を占めており、英語話者に対しても、かなり敵対意識が高い。



    この他にも、カナダは、多民族国家、移民国家であるため、公用語以外の言語が
    日常的に使用されている。 例えば、家庭言語として、英語、フランス語に次いで最も
    多く話されているのは、約2.6%=76万人の話者を抱えている、中国語(広東語)である。
    その次に、インドやパクスタンで話されている、パンジャビ語が、約0.8%=約27万人を
    占めている。

    更に、カナダの多様化に拍車を掛けているのが、アラビア語話者の急激な増加で、
    約0.5%の14万4,000人となっている。 この他にも、近年は、アジアからの移民が
    増加しており、カナダでは、言語の多様化が進んでいる。 世界一の移民都市である
    トロントでは、地下鉄やバスに乗っていても、見渡す限り移民ばかりが乗っているため、
    通常、英語などでは喋っていない事の方が圧倒的に多いのだが、例え英語や
    フランス語で話していなくとも、お互いに理解する努力さえ惜しまなければ、世界中
    どこに行っても、誰とでも仲良くなれるため、カナダでは、積極性が非常に重要となる。

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    北米大陸に最初の人類がアジアから渡来したのは、今から1万3千年以上も
    前のことである。 以降、数回に渡り、複数の集団が大陸に渡来し、融合や消滅を
    繰り返しながら、各方面へと拡散して行った。

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    カナダの先住民とは、通常、ヨーロッパ人が到来する以前から保持して来た人々を指す。
    現在、その先住民たちは、ヨーロッパ系の移植者達が創り出したカナダという国家の中で、
    人口のみならず、政治経済的にも少数派となっている。

    カナダでは、1982年に制定された憲法によって、先住民は、インディアン、メイティ、
    イヌイットであると規定されている。 インディアンは、複数の先住民族の総称であり、
    現在では、ファースト・ネイションズと呼ばれて、615のネーションにそれぞれ分かれている。

    メティスとは、かつて毛皮交易に関わった人々の子孫で、独自の文化を形成し、保持して
    いる人々である。 彼らの殆どは、アルバータ州やマニトバ州の指定保留地や都市に
    住んでいる。 イヌイットは、カナダ極北地域を主な居住地とするイヌイット語を母語とする
    人々である。

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    2006年のカナダ国勢調査によれば、カナダ先住民の総数は、およそ117万人となっており、
    カナダの総人口の約4%弱しかいない。 その内訳は、ファースト・ネーションズが、約69万
    8,000人(約60%)、メイティが約39万人(約33%)、イヌイットが約5万人となっている。
    イヌイット以外の先住民達の大半は、出身地を離れ、都市部等で生活をしている。

    ヨーロッパ人との接触が始まった15世紀頃の北米大陸の先住民社会には、7つの文化
    領域が存在していた。 そのうち、極北、亜極北、北西海岸、東部森林という5つの文化
    領域が、現在のカナダに相当する地域に存在していた。

    カナダの先住民達は、ヨーロッパ人との接触を通して、大きく変貌して行った。 16世紀頃
    から、カナダ東部において、ビーバーの毛皮交易が始まり、先住民達を巻き込みながら、
    西部へと斬進した。 18世紀から、19世紀初頭にカナダ北西部で行われたラッコの
    毛皮交易には、多数の北西海岸先住民が参加した。 一方、16世紀以降、ヨーロッパ
    出身の多数の入植者が東部海岸から西部へと農耕地や放牧地を求めてやって来た。

    ヨーロッパ人らの入植により、先住民達は、先祖伝来の土地を奪われたり、立ち退きを
    余儀なくされた。 更に、天然痘や、はしか等の伝染病が伝わり、人口が激減し、
    19世紀後半には、カナダ国家の中に政治経済的に取り込まれた。

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    北米において、イギリスがフランスに勝利し、1763年にパリ条約が締結されると、
    フランス植民地は、極一部を除き、イギリス領となり、イギリス王国宣言が発布された。
    この宣言により、北米における先住民政策が明らかになった。

    1867年にドミニオン・オブ・カナダが形成されると、多数の移民がカナダ西部へと移住を
    開始したので、カナダ政府は、1871年から1921年に掛けて、ここの先住民グループと
    11の条約を締結し、土地を入手して行った。 また、1876年には、先住民政策の指針と
    なるインディアン法を制定した。 土地に関する条約を締結したインディアンは、公認
    インディアンとなり、それ以外の先住民は、非公認インディアンと分類された。

    カナダにおいて、先住民の状況が変化し始めたのは、第二次世界大戦に兵士として
    参加した先住民の貢献を評価し、市民権を与える等の方策が採られた時期であった。
    しかし、主流社会による同化政策や先住民に対する差別が続いたため、権利の拡大や
    獲得を目指す先住民運動が1960年代から盛んになった。

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    カナダにおける先住民政策の流れが大きく変わったのは、1973年のカナダ最高裁判所
    によるニスガ裁判であった。 この判決によって、条約を締結していない先住民の権原が
    消滅していない事が確認された。 先住民の権原とは、先住民が持つ諸権利が発生
    する根拠となる理由や原因の事である。 このため、カナダ政府は、1974年に先住民
    権益審議局を創設し、先住民の土地の所有権や生業権、言語権等について、先住民と
    政治的な話し合いを開始した。 現在でも尚、ブリティッシュ・コロンビア州の先住民達
    とは、政治的な交渉が続いている。

    先住民の諸権利は、1982年に憲法によって、守られることが明記された。 更に、カナダ
    政府は、1995年に先住民の政治的な自治を容認する政策を打ち出した。 このように
    カナダでは、先住権や先住民の自治権が徐々に承認され、実現されつつある。

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    カナダの医療制度は、メディケアと呼ばれる国民皆保険制度を採用しており、
    原則として患者の自己負担が一切なく、全てを税財源で公的に負担している。
    全ての国民は、皆保険を取得出来るが、移民の場合は、取得まで3ヶ月間、また
    留学生(ワーキングホリデイ含む)等は、公的医療保険を取得出来ない州もあり、
    その場合は、医療費は有料となる。

    また、歯科診療・処方薬剤(入院中は無料)、リハビリ治療などは、全額個人負担
    となる。 処方箋をもらい、薬局でその薬を購入する時は自己負担となるが、
    雇用主が何らかの医療制度を持っている場合がほとんどであるため、購入金額の
    7割から8割は返って来る場合が多い。 個人事業主の場合は、別途公的な医療
    保険に入っていれば、同じように7割程度が返って来る。

    無料で医療が受けられるというのは、カナダに住む際の大きなメリットのひとつだと
    思うが、すぐ隣のアメリカの場合は、基本的に自由診療であるため、保険に加入する
    ことが出来ない人が医療を受ける場合は、1時間の病院滞在だけで、10万円以上の
    金額を請求されることもザラ。

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    国民(移民含め)全員が無料で医療が受けられるというメリットがある反面、もちろん
    デメリットもある。 カナダの医療水準は、概ね高いと言われているのだが、問題と
    なるのは、待ち時間の長さ。 救急車で運ばれた後で、待合室で8時間も待たされた
    という話も耳にするほど。

    手術が必要な場合でも、予約は非常に困難となっており、予約が2ヶ月先ということも
    多い。 一般的に、医療機関を利用する際には、まず地域の家庭医である、ホーム
    ドクターを受診する必要性があるが、家庭医は、実数が少なく、また、患者数を制限
    することが許されているため、新規での患者を受け付けていない場合が少なくない。
    1日の診察人数を制限している場合も多く、予約が1~2週間後ということも多々ある。

    また、専門医については、家庭医の紹介なしでは受診出来ないシステムになっているが、
    医師数の少ない整形外科、皮膚科、産婦人科などでは、数ヶ月後から1年先にしか
    予約が取れない状況となっている。 また、医療費抑制政策により、CTやMRIなどの
    検査機器の数は、日本に比べて極端に少なく、検査の待ち時間も何ヶ月も先という
    状況となっている。

    待ち時間が長い分、医療費が無料なのは良いのだが、緊急を要する場合には、多少の
    負担があったとしても、有料で大至急医療を受ける制度を整備すべきなのではない
    だろうか。

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