毛皮貿易が段々と盛んになると、フランス人は新世界の領土を拠点とし、フランス
帝国を築き上げることを目指した。 しかし、フランスはその領土の支配権を
完全に握っていた訳ではない。 フランス王アンリ4世は、アカディア地方
(今日のノバスコシアとニューブラウンズウィッグの一部で、北アメリカでの
最初のフランス領植民地)の所有権を強化するために、新世界の土地を裕福な
フランス人に譲渡し、本格的な植民地経営に取り組ませた。
1605年、サミュエル・ド・シャンプランは、ポールロワイヤル(今日の
ノバスコシア州アナポリスロイヤル)に植民地を築いた。 1608年に
シャンブランは、ケベック市を建設し、セントローレンスバレーにおける毛皮
交易の主導権を握るための拠点とした。 また、毛皮交易を盛んにする手段として、
イロコイ族を支援した。
1609年にシャンブランの率いるフランス軍が銃で、イロコイ族の酋長を2人殺した
(銃は当時北アメリカにはじめて持ち込まれた新兵器だった)。 それ以来、
イロコイ族とフランスは長年敵同士となった。
シャンブランは、ケベックの毛皮貿易を発展させ、『ヌーベルフランス』と呼ばれ
ていた地域にフランス人を入植させた。 また、大規模な探検を何度か行い、
1615年にはヒューロン族の領土まで赴いた。
1615年、フランスからカトリックの宣教師がやって来て、インディアンの間で
布教活動をはじめた。 10年後には、イエズス会の宣教師たちがカナダに上陸した。
1642年には、フランスの他の派の宣教師たちが、モントリオールにカトリック
教徒の植民地を築いた。
ヨーロッパ人の到来は、インディアンの文化に深刻な打撃を与えた。 天然痘など
海外から持ち込まれた病気によって、多くのインディアンたちは、自由に食料を
採ったり、これまでの習慣に従った生活をしたりすることが出来なくなった。
毛皮交易をめぐる競争によって、インディアンの部族間の対立が激しくなった。
キリスト教の宣教師は、先住民の文化や信仰を認めず、ヨーロッパの社会組織と
宗教制度を押し付けた。 こういう変化のお陰で、インディアンの部族間の連帯は
ますます弱まった。
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