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    タグ:カトリック

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    キリスト教は1世紀はじめに、イスラエルのイエス・キリストの教えに基づいて
    成立した宗教である。 代々のローマ皇帝は、この宗教を敵視し、厳しい
    禁止令を設けて信者達を迫害したが、伝道師達のたゆみない努力により、
    キリスト教は、帝国領土内の人々の間に着実に広まり、4世紀には、帝国の
    国教として公認された。

    ローマ帝国が滅んで、戦乱や侵入が激しくなる最中で、キリスト教は一層の
    広がりを見せ、8世紀には、ローマに住む教皇の下、単一の宗教組織としての
    カトリック教会が成立した。

    この宗教がこの地域に伝えられたのは、西隣りのバンエルンからで、人々は
    両地域の境のザルツブルグに寺院を建立した。 798年、ザルツブルグは独立の
    大司教管区と定められた。

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    この頃、ゲルマン人の一派であるフランク族の皇帝でフランスに君臨していた
    シャルルマーニュ(カール大帝)は、領土を東に広げて、788年、この地域を
    征服し、ここを『オスト・マルク』 、つまり、『東の防衛線』と名付けた。
    東からフランク帝国を攻撃して来るスラブ人やアヴァール人などへの牽制の
    意味を持つ名称となっている。 この名称は、後に『エステルライヒ(東の王国)』
    と変えられ、オーストリアの正式な国名となった。

    814年にシャルルマーニュが死ぬと、相続者達は、帝国の覇権をめぐって争った。
    817年オーストリアは、シャルルマーニュの孫ルートヴィッヒの支配する
    バイエルン王国の一部となった。 834年にヴァルダン条約が締結されて
    相続争いは終わり、ルートヴィッヒは、東フランク王国を創設した。 これは、
    現在のオーストリアとドイツのほとんどを含む広大な領域である。

    876年、ルートヴィッヒの死後の後継者達の争いで、東フランク王国は弱体化した。
    9世紀末、アジア系の遊牧の民マジャール人は、ドナウ川沿いに、スラブ人と
    アヴァール人は東と南東から、それぞれオーストリアに侵入し、数多くの都市や
    農場を破壊した。 955年、ドイツ王オットー1世は、レッヒの戦いで
    マジャール人を破り、オーストリアを独立の領邦、つまり、小国家と定めた。

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    スイスは、中央ヨーロッパの山の多い国である。 歴史も人種も近隣の国々と
    共通する部分が多い。 はじめは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国に統治されて
    いたが、15世紀になると、3つの自治州(スイスではカントンと呼ばれている)が
    ゆるい同盟を結び、連邦を形成した。

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    しかし、神聖ローマ帝国から完全に独立して訳ではなく、政治、宗教の面で
    帝国との間に争いが続いていた。 当時、神聖ローマ帝国とオーストリアを
    統治していたハプスブルグ家は、このスイス連邦を再び完全に支配しようと
    したが、うまく行かなかった。

    ハプスブルグ家との戦いは、1500年代まで続く。 その頃、ローマカトリック
    教会に属していたヨーロッパの多くの国々が、重大な宗教上の問題を解決する
    ために、宗教を改革する運動に乗り出した。

    この運動が高まり、スイスにプロテスタントと呼ばれる新しい形のキリスト教が
    誕生した。 プロテスタントは、カトリックから分離したため、2つの宗教の間で、
    幾度も宗教戦争が繰り広げられた。

    やがて、スイスは、ローマカトリック教会との対立を解決するが、その後も、
    国外から度々脅かされた。 17世紀末には、フランス皇帝ナポレオン・
    ボナパルトの支配下に入る。 ナポレオンは、スイス連邦をまとめて中央集権
    国家を建設させ、スイス憲法を制定させる。

    その後、ナポレオンは、ヨーロッパ連合に敗れ、スイスの独立が連合軍により
    承認された。 この時、同時にスイスは国際間の対立には一切関与せず、永久に
    中立を維持するという政策を認められたのである。 しかし、スイスは、
    ヨーロッパの出来事には全く関わらなかった訳ではない。 例えば、第一次、
    第二次世界大戦の間には、難民を受け入れ、医療を提供した。

    Swissmap

    スイスは、多くの民族から成る国であるため、その点でも様々な問題があった。
    公用語には、ドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語があるという事実を
    見ても、多民族国家である事が分かる。

    スイス憲法は、様々な民族に公平な利益を与えるため、各州に大幅な自治を
    認めている。 国際的に中立を守り、各州には連邦政府が持つ以外の権利を
    与える事により、長年かなり平和な状態を維持して来た。

    政治が安定しているため、昔は貧しい国であったスイスは、めざましく産業が
    発展した。 その結果、機械と時計の製造では、世界有数の生産国となり、
    スイスの銀行は世界最大の利益をあげている。 経済が発展しているお陰で、
    スイス人の生活水準は、世界最高の部類に入る。

    それでも、スイスの将来には色々な難しい問題がある。 移民政策、ヨーロッパ
    諸国との連合、犯罪の増加、医療問題等について、国民の間で様々な議論が
    交わされている。 だが、多人種多言語の国民が調和して暮らし、繁栄している
    という意味で、恐らく、スイスは世界の最も良いお手本であろう。

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    1588年、若くて人気のあるクリスティアン4世が王位に就いた。 王は、
    コペンハーゲンの市街を拡張し、株式交換所や、フレゼレグスボア城など、多くの
    華麗な建築物を建造させた。 しかし、クリスティアン4世の領土的な野望は、
    やがてこの国の財政を重く圧迫することになった。

    1611年、クリスティアン4世は、スウェーデンと戦争を始めたが、敗北の
    連続で、経費ばかりがかさんだ。 1613年から1618年に至る5年間の平和により、
    デンマークの経済力は回復した。 1618年にドイツで三十年戦争が始まると、
    クリスティアン4世とその軍隊は、ドイツのプロテスタント勢力を助けて、
    カトリックの軍と戦った。

    1626年、デンマーク軍は、ドイツのハルツ地方で大敗北を喫した。 3年後、
    ドイツのカトリック諸侯軍は、ユトランド半島を占領し、クリスティアン4世は、
    和議を結ばなければならなかった。 1643年、スウェーデンがデンマークを攻撃し、
    デンマークは、またもや敗北した。

    helsingborg

    1648年に講和条約が結ばれ、デンマークは、ゴットランド島をスウェーデンに
    返還し、現在スウェーデンの中央部となっているイェムトランとヘレダーレンを
    割譲した。 デンマーク海軍は壊滅し、貿易は衰退して国力は傾いた。 元老院は、
    クリスティアン4世の息子フレゼレグ3世を国王に選ぶに先立って、王権に厳しい
    制限を付け、勝手に戦争をする事を禁じた。 それにも関わらず、フレゼレグ
    3世は、1657年、失われた領土を回復しようとスウェーデンに攻撃を加えた。

    1658年、スウェーデン軍は氷結したエーレ海峡を渡ってデンマークに攻め込み、
    フレゼレグ3世は、講和を余儀なくされた。 その結果、デンマークは、
    ノルウェーのトロンヘイム地方を割譲した他、スコーネとボルンホルム島を
    スウェーデンに譲渡した。

    1660年、スウェーデンとの戦争が再度勃発し、オランダと同盟したデンマークが
    有利となった。 講和条約によってスウェーデンは、トロンヘイム地方と
    ボルンホルム島をデンマークに返還したが、スコーネなどエーレ海峡東岸地域は、
    最終的にスウェーデンの領土となった。

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    15世紀のカトリック教会は、権力が強く裕福だった。 教会は所有する地所と
    農地から莫大な利益を得ており、国内で生産される全ての穀物から一定の
    割合で金品を徴収していた。 高位の聖職者の殆どは、貴族の子弟で、
    それがますます裕福になって行くため、一般の人々は、教会に反発を
    抱き始めた。

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    1479年、クリスティアン1世は、教会から提供させた資金でコペンハーゲンに
    大学を創立した。 教会の権威に反抗する宗教改革の思想はこの大学から
    生まれた。 この思想の信奉者は、プロテスタントと呼ばれ、次第に勢力を
    拡大して行った。 この風潮に対応して、次の国王ハンスは、最初の国会を
    召集した。 この国会では、貴族や聖職者と並んで、一般市民が議席を
    与えられた。

    1513年に国王に選ばれたクリスティアン2世は、聖職者と貴族の勢力を
    抑えるのに努めた。 土地制度の改革が実行され、一般市民が王の顧問に
    任命された。 王はまた、スウェーデンに兵を送って、デンマークの権威の
    回復を図った。 1520年、王はスウェーデン貴族82人を処刑させた。

    スウェーデン人は、この虐殺に激怒し、本格的な氾濫が勃発した。 3年後には、
    スウェーデンは、独立を勝ち取り、スコーネなどわずかな地域だけが
    デンマークの支配下に残った。

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    クリスティアン2世の叔父フレゼレグ1世の時代には、プロテスタントの勢力は
    ますます盛んになった。 この国でのプロテスタントの主な支持者は、地位の
    低い聖職者と中流階級出身者だった。 1533年、フレゼレグ1世が死ぬと、
    宗教対立は絶頂に達した。 彼の息子たちのうち、カトリックのハンスと、
    プロテスタントのクリスティアンのどちらが王位に就くかを巡って国論は二分し、
    内乱が勃発した。

    クリスティアンが、1536年に勝利をおさめて国王のクリスティアン3世となり、
    プロテスタントの一派である福音派教会を国教と定めて、国王はその首長となった。
    クリスティアン3世は、カトリック教会の土地を没収して、王家の権力と財力を
    大いに増大させた。

    しかし、デンマークがスウェーデン、ロシア、ポーランドと次々に戦って、
    バルト海での勢力を拡大させようとしたため、財力はたちまち減少した。
    1563年から70年に掛けて、デンマークは、スウェーデンと北方七年戦争を
    戦ったが、一片の領土も確保出来なかった。

    その後デンマークは、16世紀末まで軍事から一切手を引いた。 平和の続いた
    30年の間に、この国から輸出される穀物と家畜の値段が上昇し、一般市民の
    生活が潤った。

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    カジミェシュ3世が跡継ぎのないまま1370年に死ぬと、甥のハンガリー王
    ラヨシュがポーランド王を兼ねた。 ラヨシュの娘ヤドヴィガが1382年に
    ポーランドの女王となり、4年後、リトアニア公ヨガイラと結婚した。

    ドイツ騎士団との戦いでリトアニアの援助を必要としていたポーランドの
    貴族達は、ヨガイラを1386年ポーランド国王に選び、彼はヴワディスワフ2世
    ヤギェウォと称した。 ポーランドとリトアニアはまだ別個の政府を持ち
    ながらも、同じヤギェウォ王家の支配を受けることになった。

    BorderPoland

    こうして大きな勢力を持つようになったポーランドは、リトアニアと連合し、
    1410年、その連合軍はタンネンベルグの戦いでドイツ騎士団を打ち破った。
    ヴワディスワフ2世の後継者のカジミェシュ4世も、その後何度かドイツ騎士団を
    破ったので、ついに騎士団はトルニの和議を結んで、プロイセンをポーランドに
    割譲した。

    トルニの和議の成立後、ポーランドは、中ヨーロッパ最強の国となり、経済と
    文化の面でも大きく発展した。 新しい大学が出来、学者達は、それまで
    ヨーロッパの宗教と学問で伝統的だったラテン語の代わりに、ポーランド語を
    使い始めた。 1520年頃、最初のポーランド語の書籍が印刷された。 ラテン名の
    コペルニクスで知られる天文学者ミコワイ・コペルニクは近代天文学の基礎を
    築いた。

    これら変化の進行中、キリスト教信仰は混乱状態に陥っていた。 ドイツでは
    マルティン・ルターの教えで宗教改革が始まり、カトリック教会に対する反乱が
    起こった。 教皇の権威を認めないプロテスタントの教会が、スウェーデンを
    含むヨーロッパ北部の幾つかの国で作られた。 ポーランドはカトリック国家の
    ままだったが、他の宗教にも自由な崇拝を認めた。 ポーランドは、ユダヤ人
    共同体は世界最大規模のひとつとなった。

    【ポーランド国会】

    カジミェシュ4世の統治時代、シュラフタと呼ばれる、軍人と地主を中心と
    する階級が勢いを増し、土地や農民を支配し始めた。 農民達には高い租税が
    課せられ、多くは農奴に転落して、地主の土地に縛り付けられた。 1493年、
    上流階級だけの国会が出来た。 国会は、裕福な貴族で構成される上院と、
    地主で構成されるセイム、つまり下院から成っていた。 1505年、国会は最初の
    憲法を制定した。

    憲法には、ポーランド王は国会の同意がなければ、いかなる法律も成立させる
    ことが出来ないと明記されていた。 下院はまた、国王の即位を投票によって
    承認する権限を与えられていた。

    1569年、ポーランドとリトアニアは、ポーランドの主権の下に、正式に
    合併された。 この統合によって、ポーランド王国はドイツ人、ポーランド人、
    リトアニア人、ウクライナ人を治める巨大な領土を支配することになった。
    ヤギェウォ王朝の最後の国王ジグムト2世は、この統合から間もない1572年に
    死んだ。

    Polski

    【外国人君主のポーランド統治】
    ジグムント2世の死後、貴族達はますます勢力を増して、国王を選挙する
    権限を握った。 激しい王位争奪戦が起こり、それを鎮めるために、国会は
    外国の王族や公族をポーランドの王位に就けた。 1575年、国会は
    ハンガリーの公子ステファン・バトリを国王に選んだ。 バトリは優れた
    軍指導者で、ロシア皇帝イワン4世の命を受けた侵略軍を打ち破った。

    1586年、スウェーデン王子ジグムント3世ヴァーサが、バトリに次いで国王と
    なった。 これは、以後3代続いたスウェーデン系ポーランド国王の初代である。
    これが原因でプロテスタント国家スウェーデンと、カトリック国家ポーランド
    との間に宗教紛争が起きた。 スウェーデン軍は、1655年ポーランドに侵入して、
    都市や農場を焼いたり略奪したりした。

    侵略はやがて阻止されたが、戦乱と経済不況が続いた。 この前から、
    ウクライナやロシアから、コサックという自由農民のグループが、ポーランド
    領内に定住していた。 コサックは外部の権威を全く認めず、ポーランドの
    統治に反感を持つ多くのウクライナ農民を仲間にした。 国家の権威が衰えるに
    連れ、ロシア帝国はポーランド東部に侵略の手を伸ばして来た。

    この頃、小アジアを根拠地とするオスマン・トルコが、コンスタンティノープルや
    ヨーロッパ東南部の大きな部分を征服していた。 1683年、トルコ軍は
    オーストリアの首府ウィーンを囲んだ。 その9年後にポーランド王となった
    ヤン3世はソビエスキは、ポーランド軍を率いてトルコ軍を撃退した。 これに
    よって、中ヨーロッパへのトルコの侵略は阻止された。

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    1025年、ボレスワフ1世が死ぬと、ポーランドには激しい内戦が起こった。
    ボレスワフ1世の曾孫ボレスワフ2世は、貴族達と争い、クラクフのカトリック
    司教は貴族側に味方した。 1079年、ボレスワフ2世が司教の殺害を命じた
    ことで教皇はポーランド全土に制裁を科した。 1100年代初期、ボレスワフ2世の
    甥ボレスワウ3世は、ポーランド北西部のポモルゼの領有を巡って神聖ローマ
    帝国の軍隊と戦った。 彼は王国を何人も居る息子達に平等に分割するよう
    遺言したので、ポーランドの力は弱まった。

    続く2世紀の間、この分割相続制度によって、多数の小さな半独立の公国が出来た。
    ポーランド貴族と小さな公国の貴族達は、互いに争いを繰り返し、ポーランドの
    民衆は無秩序で無力な状態に陥って、この国の長い国境線を防衛することが
    出来なくなった。

    王国内の混乱に乗じて、カトリックの宗教戦士の集団、ドイツ騎士団が北から
    攻撃して来た。 北東のバルト海沿いにあるリトアニア国家もまた、この国の
    領土を侵略した。 1240年、東アジアのモンゴル人の大軍は、ポーランドと
    東ヨーロッパの多くの地域を荒廃させた。 モンゴル人がヨーロッパから撤退
    すると、ポーランドは、次第に国力を回復し始めた。

    ドイツから職人や商人達が招かれて、ポーランドの都市や港湾に定住した。
    ポーランドはまた、ヨーロッパの他の国々での迫害を逃れた大量のユダヤ人を
    喜んで受け入れた。 クラクフやグダニスクは、北ヨーロッパ諸都市の商業
    連合体であるハンザ同盟に加盟し、その結果、この2つの都市や王国内の他の
    都市では、商業貿易が繁栄した。

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    【カジミェシュ大王】
    1295年、ポーランド王プレシュミスワフ2世が暗殺されると、王位の継承を
    巡って争いが起こり、プレシュミスワフの娘婿チェコ王ヴァーツラフ2世が王位を
    要求してポーランドに攻め込んだ。 1305年、ヴァーツラフが死ぬと、ピアスト
    王家の一員が教皇の支持で、1320年に国王ヴワディスワフ1世として、クラクフで
    戴冠式を行った。 ヴワディスワフは戴冠式行ったクラクフをポーランドの
    首都と定めた。

    ヴワディスワフの息子カジミェシュ3世が1333年に国王になった時には、
    ポーランドはまだ弱体な分裂国家だった。 カジミェシュは、国王の権力を強化
    して、国内の紛争を終わらせ、国家を再統一した。 カジミェシュはまた国境の
    安全をはかるため、リトアニアと同盟し、南方の強大国ハンガリーとも同盟を
    結んだ。

    カジミェシュは、多くの国内改革を行った。 農民の権利を保護する法律を作り、
    法体系や行政制度を組織し直した。 また、教育にも力を入れ、1364年、
    クラクフにこの国最初の大学を創設した。 カジュミェシュ3世は、その功績に
    よって、後世の人に大王と呼ばれるようになった。

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    リトアニア大公国によるキエフ支配は、約2世紀続いたが、リトアニアの支配下に
    入っても、かつでのキエフ公達のような軍事力の抑えはなかったので、キエフが
    安全になった訳ではなかった。 特に、1416年と82年には、クリミア半島に
    本拠地を置くタタール人の軍勢がキエフを襲い、大規模な略奪を行った。 記録に
    残っているだけでも、1450年から1586年の間に、大小86回もの襲撃、略奪を被った
    というから、3年に2回の割合で被害を受けていたことになる。 大平原の真っ只中に
    丸腰で立っているような不安定な時期であった。

    リトアニア大公国がポーランド東部にあるルブリンの町で条約を結び、ポーランド
    王国と同君連合に入ったのは、1569年のことである。 この結果、キエフを含む
    ウクライナは、事実上、ポーランドの支配下に入った。 信仰の点で寛容だった
    リトアニアの公やその代官達とは異なり、カトリックを固く信じるポーランド人が
    政治上の新しい主人として現れたことは、様々な点で大きな影響を及ぼすことと
    なる。

    PolishLithuanianCommonwealth

    それは、まずキエフの住民の上層部がカトリックに改宗するという形で現れた。
    ウクライナの中でも、ポーランドに近い西部の住民達の場合には、正教の
    信仰を持ち、従来の正教風の儀式を行いながら、ロシア正教会の管轄を離れて、
    カトリック教会の傘下に入るという変則的な自体が生じた。 1596年に現在の
    ベラルーシのブレストにポーランド支配下にある教会の司祭達が集まり、ギリシャ
    伝来のビザンチン式典礼を保持したまま、ローマ教皇の首長権を認めることを
    決議した。 これは、教会合同と呼ばれ、これに属する人々が合同派である。
    このグループの処遇を巡っては、現在でも尚、ロシア正教会とカトリック教会との
    対立が続いている。

    モスクワ総主教とローマ教皇の会合が2016年02月13日までなかなか実現しなかった
    理由は、これが原因であると言われている。 キエフのソフィア大聖堂すら、16世紀
    には一時的に教会合同派に属していたことがあった。 このように、ポーランドは、
    宗教上の相剋という複雑な関係を引き起こしたけれども、他方で、それまで正教圏
    には知られていなかった西ヨーロッパ世界の進んだ文化をもたらすという役割を
    演じたのも事実である。

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    ベルギーの人口は、1,000万人を超え、ヨーロッパで最も人口密度の高い国の
    ひとつとなっている。 人口は、都市や郊外に集中し、1平方km辺りの人口密度は、
    ブリュセルとアントウェルペンで1158.3人、アルデンヌの田園地域は50.2人以下
    である。

    出生率も地域圏によって、大きな差がある。 フラマン地域圏の人口増加率は
    高く、圏外に移住する者は、極めて少ない。 これに対して、ワロン地域圏では、
    人口増加率はマイナスであり、地元生まれの親から生まれる幼児の数は、減少
    している。 しかし、この地域圏に流入する外国人が多く、相対的な人口は安定
    している。

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    【民族グループと社会構造】

    フラマンとワロンは、この国の人種と言語の区分の核心である。 フラマン
    地域圏は、西部と北部で、西フラマン、東フラマン、アントウェルペン、
    リンブルフの4州と、ブラバンド州の北部である。 ワロン地域圏は、
    ブラバンド州の南部の他、エイノー、ナミュール、リエージュ、
    リュクサンブールの4州を含む。

    両地域圏の人種的背景は、殆ど同じで、どちらも、ケルト民族のベルガエ人と、
    ゲルマン民族のフランク人の子孫である。 フラマン地域圏では、ゲルマンと
    ケルトの両文化が混合し、ゲルマン系の言語であるオランダ語が使われるように
    なった。 ワロン地域圏では、ケルト文化的特徴が比較的強く、フランス語が
    使われて来た。

    人々の約56%は、オランダ語だけを、32%がフランス語だけを話す。 両方を話す
    市民は、11%だけとなっている。 ドイツ語を母国語とする人は1%未満で、ドイツ
    との国境のリエージュ州東部に住んでいる。 どちらの地域圏でも、社会は複数の
    自立的な『柱』に分かれ、この『柱』が生活の殆どの分野の基本となる。 『柱』の
    それぞれに、独自の政党、労働組合、新聞、学校等の社会組織がある。 人々は、
    この『柱』のシステムを通して職業を見つけ、医療を受け、事業を営む。

    宗教や政治上の意見の似ている人々は、普通、同じ『柱』に属する。 ひとつの
    『柱』から別の『柱』に心を移すのは、単に、別の政党に籍を移す以上の大きな
    意味を持つ。

    この『柱』は、3つ存在し、その内訳は、カトリック、リベラル、社会主義と
    なっている。 カトリックの『柱』は、社会を横断していて、上流、中流、
    労働者の3つの階級を結び付けている。 この『柱』の中には、フランス語を
    話す人々の政党と、オランダ語を話す人々の政党が、それぞれひとつづつあって、
    両方の言語グループの利益を擁護する。

    リベラルの『柱』は、主として、中流階級の職業人が所属し、社会主義の『柱』は、
    労働者が権力を握っている。 リベラルと社会主義のどちらの『柱』にも、
    それぞれの政党内にオランダ語ブループとフランス語グループが存在する。 

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    【教育】
    言語の違いは、教育制度にも及んでいる。 教育に使われる言語は、フラマン
    地域圏では、オランダ語、ワロン地域圏では、フランス語である。 殆どの
    国民は、2つの民族言語のどちらかひとつを読み書き出来る。

    児童は、満16歳まで学校に通う。 政府は、公立、私立どちらの学校にも資金を
    支出し、教育は無料で行われる。 児童の57%は、私立学校に通い、私立学校の
    大部分は、宗教ブループが経営している。 初頭高等学校教育のための学校は、
    一般、技術、芸術、職業の各科目について教育を行う。

    大学は6つあり、職業教育の高等専門学校がいくつもある。 大学で最も古いのは、
    ルーヴァンのカトリックの大学で、1425年に創立された。 ここの図書館は、
    世界的に有名で、6世紀から16世紀におよぶ中世の資料を保管している。 元は、
    2つの民族語を併用していたが、1970年にオランダ語とフランス語に分割された。

    ブリュッセル自由大学は、1834年に創立され、宗教的な制約は全くないが、
    フランス語で教育が行われている。 その他の大学は何れも、19世紀以降に開設
    されたもので、ゲントにある国立大学は、1917年創立で、オランダ語で講座が
    開かれている。 リエージュとモンスにある大学では、フランス語で講座が
    行われている。

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    【ステュアート朝の断絶】
    清教徒革命、名誉革命という2つの市民革命を経て、イギリスの政治体制は
    大きく変わった。 ウィリアム3世とメアリ2世の間には跡継ぎがいなかった
    ため、2人が亡くなった後、メアリ2世の妹のアン女王が即位します。

    アン女王の時代、1707年にイングランドは、スコットランドを併合した。
    また、スペイン継承戦争の戦闘の一つで、北アメリカでイギリスとフランスが
    戦った戦争は、『アン女王戦争』と呼ばれている。 アン女王にも最終的に
    跡継ぎが生まれず、1714年に女王が亡くなると、ステュアート朝が断絶した。  

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    【ハノーバー朝の始まり】
    1701年、議会はイングランドの宗教的な対立を終わらせるための法律を可決した。
    法律は、プロテスタントだけが王、あるいは、王女になれることを定めていた。
    1714年に王位は、ドイツの貴族に引き継がれ、ジョージ1世が即位した。 しかし、
    ジョージ1世は、英語が話せなかった。 前の王に近い親戚は、他にも41人も
    いたが、プロテスタントで一番近い血縁者がジョージ1世だったのだ。 これ以降の
    イギリスの君主は皆、ジョージ1世の血を引いている。

    王が外国人ということで、議会は増々大きな権力を有するようになった。 ジョージ
    1世は、自分に代わって政治を行う首相を任命した。 始めての政党が誕生した。
    議員に立候補したり、選挙で投票したり出来るのは、裕福な地主だけだった。
    殆どのイギリス人は、国の運営について意見を言う権利がなかった。

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    【貿易、産業と大英帝国】

    1800年代には、イギリスは、世界最強の国のひとつになっていた。 1837年
    から1901年のビクトリア女王の治世(イギリス最長の在位年数)に、
    イギリスは貿易によって、莫大な富を得た。 アメリカ独立戦争後の1783年に、
    北アメリカの植民地の一部を失ったものの、今やイギリスは、世界に広がる
    巨大な帝国を築いていた。 大英帝国は、カナダ全土、インド、アフリカ、
    カリブ海の大部分と、太平洋のオーストラリア、ニュージーランドを統治した。

    ビクトリア女王の時代、イギリスでは、当時世界で最先端の工業が発達していた。
    それを可能にしたのは、技術の進歩と十分な原料、安価な労働力だった。
    工場での仕事を求めて、人々が移り住み始め、都市部が急激に発展した。
    19世紀には、法律によって、新興の都市も議会に代表を送ることが出来る
    ようになった。 女性に選挙権が与えられたのは、1919年のことである。

    【困難に満ちた世紀】
    20世紀の前半は、イギリスにとって、挫折の時代だった。 何十万もの兵士が
    第一次世界大戦(1914年~1918年)と第二次世界大戦(1939年~1945年)で
    命を落とした。 第二次世界大戦中に、ドイツ軍の爆撃機がイギリスの都市を
    空爆した時には、多くの市民も死亡した。 イギリスには、もはや、世界に
    広がった大英帝国を支えて行く力がなかった。 殆どの植民地が独立した。

    一方、アイルランドでは、イギリスの支配に対する抗議から、今にも内戦が
    起こりそうだった。 1920年にアイルランドは、2つに分裂した。 南部には、
    1922年にアイルランドとして独立し、北アイルランドは、イギリスに残った。

    1960年代に、北アイルランドは、プロテスタント(イギリスとの統合を主張)と
    カトリック教徒(アイルランドとの統合を主張)との対立で、テロ行為が多発した。
    これは、北アイルランド紛争と呼ばれており、ようやく平和が戻ったのは、
    1990年代になってからだった。

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    18世紀末、フランスの革命家達は、自分達の王を退位させて、国の支配権を
    握った。 彼等は、他のヨーロッパ諸国の人民を応援して、それぞれの国の
    君主制を倒させそうとした。 1792年、フランス軍は、ベルギー領域に侵入し、
    スヘルデ川をオランダの手から開放した。 将軍ナポレオン・ボナパルトの
    率いるフランス軍は、1796年、ベルギー領域を占領して併合した。

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    貿易ルートの再開によって、ワロン地域圏は繁栄した。 ことにリエージュは、
    付近に鉄鉱石が発見され、武器の製造と輸出が盛んになった。 ゲントの繊維
    産業も膨張した。 フランス政府は、ベルギー領域を再編成して、カトリック教会
    から取り上げた土地を農民に与えた。 その一方では、フランス政府は、戦費を
    賄うためにベルギー領域に重税を課し、オランダ語の使用を制限した。

    ナポレオンの強力な中央政府は、人々の反感を招いた。 また、フランス人の
    反宗教的な姿勢は、この領域の人々のカトリック的伝統に反するものだった。
    そして、一般市民が強制的にフランスの軍隊に編入されることは、人々の怒りを
    買った。

    1804年にフランス皇帝になったナポレオンは、1810年までにヨーロッパ大陸の
    大半を征服し終えた。 ナポレオンの野心に対抗して、オーストリア、イギリス、
    プロイセン(現在のドイツ)、スペイン、ロシアが同盟した。 同盟軍は、
    ナポレオンの軍隊をヨーロッパの南部と中央部から追い払った。 1815年に
    ブリュッセルの5キロほどにあるワーテルローで、ナポレオンは、最終的な
    敗北を喫した。

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    ナポレオンを打ち破った各国は、1815年にウィーン会議を開いた。 各国は、
    ヨーロッパに新しい境界線を引いて、フランスが再び大きな力を持つのを阻止
    しようと考えた。 オーストリアは、イタリアでの領土獲得と交換に、ベルギー
    領域に対する権利を放棄した。 こうして、ベルギーとルクセンブルグは、
    オランダの領土となった。 だが、カトリック教徒の多いオランダの統合には、
    無理があった。 ベルギー領域の人々は、差別されていると感じた。 完全な
    平等を認める協定が調印されたにも関わらず、ベルギー領域の人々は、高い
    地位の公務員になることが出来ず、また、国会での議員数もオランダ人より
    少なかった。

    オランダ王ウィレム1世は、カトリック系の学校をオランダ政府の支配下に置こう
    とした。 また、1828年、オランダ政府は、ウィレムの政策を批判した新聞を
    発行禁止にしようとした。 このような政策に対し、人々は、皆憤慨した。
    オランダ語を話すフラマンの人々とフランス語を話すワロンの人々は、長年の
    争いを乗り越えて協力し、ウィレムに抵抗した。 こうして、オランダに対抗する
    『反抗同盟』が出来、人々は、民族的な独自性と誇りの感覚を発展させて行った。

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    【宗教改革と反乱】
    ハプルブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民たちは、
    領主から強制される過酷な労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ帝国を
    構成するドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。 各地に
    分散したハプスブルク家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、
    トルコからの脅威に絶えずさらされていた。 この頃、ドイツ北部やスイスでは、
    ルター等の主張する宗教改革の運動が盛んで、プロテスタントと呼ばれる新しい
    宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の多くは、この運動を教会の領地や
    財産を我が物とし、教皇の権力から独立する絶好の機会と考えていた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応集結した。
    この和議で、ドイツの君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが認め
    られた。 フェルディナント1世も、オーストリア領内にカトリック教会の
    権威を維持することが出来た。 神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール
    5世は、この和議に不満で、翌年退位して、スペイン領内の修道院に隠遁した。
    ハプスブルク家の大領土は、これ以後、オーストリア系とスペイン系の2つに
    分かれることとなる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントと
    カトリックとの対立関係は、なおも続いた。 農民や都市住民、そして、多くの
    貴族達は、プロテスタントの教会や大学を支持した。 だが、チロルのような
    いくつかの州では、大半の住民や聖職者は、強力な君主制とカトリック教会に
    好意をよせた。 ハプスブルク家の人々も、宗教改革運動を自分達の権威と
    考えて、カトリック系の指導者達との連帯を強めた。

    16世紀、当時のハプスブルク家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を率いて
    オーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、
    フェルディナントは、ボヘミア王となった。 しかし、1619年に
    フェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に選出されると、ボヘミアの
    プロテスタント達は、別の領邦の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にべーメンの反乱軍を打ち破った。
    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い反乱が続いた。

    ハプスブルク家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来る
    プロテスタント教徒軍と戦った。 戦争末期には、スウェーデン軍が勝利を
    おさめ、フェルディナント2世の後継者、フェルディナント3世は、紛争から
    手を引くことにした。 1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの
    君主達が領邦内の宗教を選択する権利を再確認した。

    【領土拡張と内政改革】
    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、
    ウィーンの東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲した
    ので、ハプスブルク家の皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、
    オーストリア、ドイツ、ポーランドの連合軍は、ウィーン周辺から、トルコ
    軍を駆逐した。 これ以後、オーストリアは、ハンガリー等の東南
    ヨーロッパのトルコ領を次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルク家の繁栄に対して、スペイン系ハプスブルク
    家は、血統が途絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫を
    スペインの王位に据えようとしたため、オーストリアとフランスとの間に
    戦争が始まった。 スペイン継承戦争と呼ばれるこの戦争は、1713年に
    終わったが、その結果、オーストリアは、ネーデルランド等を
    勝ち取った。

    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を
    消耗させた。 その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と
    経済的弱体が著しかった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、
    カールは、それをうまく支配出来ず、各州の議会は、しばしばカールの
    意志に反抗し、ハンガリーとボヘミアの自治を求める動きは、彼の権威を
    損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機に
    さらされた。 カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘であるマリア・
    テレジアをハプスブルク家の後継ぎとして宣言した。 1740年にカールが
    死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き継いだ。 その直後、ドイツ北部の
    プロイセン王国のフリードリヒ2世は、ボヘミアの富裕な属州シュレージエンの
    割譲を要求して、オーストリアに攻め込んで来た。 フランス、スペイン
    等の諸国がプロイセンに味方し、オーストリア継承戦争が始まった。

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    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアは、
    やむなくフリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアは、
    その後シュレージエンの回復を図って七年戦争を起こしたが、この戦争も
    1763年にフリードリヒの勝利に終わった。

    七年戦争の結果、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を
    向けた。 発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが、彼女の
    政策だった。 マリア・テレジアは、また、法律を改革し、カトリック教会の
    資産を発足させて、オーストリア市民の全てが教育を受けられるようにし、
    義務教育を導入した


    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を多閉鎖し、侵攻と表現の
    自由を広く認めることを宣言した。 彼は、更に、オーストリアの諸産業の
    近代化に努め、諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、
    農民達を領主への義務の多くから開放した。

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    ブラジルで最も人気があるものと言えば、リオ・デ・ジャネイロのカーニバル。
    毎年、このお祭りを見るために、沢山の観光客がブラジルを訪れる。
    カーニバルは、元々は、カトリックのお祭りで、『謝肉祭』とも言う。
    イエス・キリストが十字架に掛かって亡くなってから、復活したとされる日の前、
    40日間は、肉を絶ち切らなければならない。 そこで、その直前の数日間を
    賑やかに過ごすというのが、カーニバルとなっている。



    このお祭りは、元々は、ヨーロッパの方で盛んに行われている行事で、
    ブラジルでは、初めは、一部のポルトガル人が行っていたが、そのうち、黒人も
    参加するようになった>もの。 特に、19世紀後半になると、黒人達が活躍し、
    やがて、アフリカから伝わる音楽を元に、サンバという新しい音楽を作り出した。
    その音楽がカーニバルにも取り入れられて、ブラジル独特の祭りとなった。

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    リオのカーニバルは、月の運行を元にした太陰暦によって行うため、毎年、2月か
    3月の初めの土曜日から4日間が開催日となる。 2016年度は、2月5日からの4日間。
    リオ・デ・ジャネイロ以外でも、ブラジル各地では、その土地の特色を活かした
    お祭りが行われている。

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