東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:カトリック教会

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    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

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    ヘンリー7世在位中のイングランドは、1066年のノルマン征服時に比べ、
    大きく変化していた。 ノルマン人とアングロ・サクソン人の違いは、ほぼ
    なくなっていた。 400年もの間に両者の結婚、混血が進んでいた。 14世紀の
    腺ペストの流行でイングランドの人口は、減ったが、15世紀には、また増え
    始めた。

    全ヨーロッパからの産物が首都ロンドンに運ばれた。 イングランドの羊は、
    数百万頭におよび、羊毛は輸出されたり、勃興期の織物業の原料となった。
    織物業の中心地であるリーズ、ハリファックス、ブラッドフォードは、未加工の
    羊毛を輸出する他の都市より栄えた。

    倹約家で頭の切れたヘンリー7世は、テューダ朝を強化、イングランドの財政
    状態を改善した。 1509年、富み安定した王国は、ヘンリー8世に引き継がれた。
    新王は、強力な海軍を編成して、フランスと戦い、正式にイングランドと
    ウェールズを統一した。

    ヘンリー8世は宗教書も著し、ローマ法王の認可を得た。 一方、この頃
    ヨーロッパでは、多くの人々がローマ・カトリック教会の権威を否定する活動を
    起こしていた。 これを宗教改革と言う。

    当時、イングランド王国の王位継承権は、男子のみを認めようとする人々が
    大半であったが、時のヘンリー8世は、スペイン王室から嫁いで来た妻との間に、
    娘は居たが、存命の息子は居なかった。 ヘンリー8世は、男児を得るため妻と
    離婚し、別の女性と結婚出来るようローマ法王に願い出るが、法王は離婚を
    認めず、1533年、ヘンリー8世は、自分がイギリス国教会の首長となる宣言をし、
    イングランドは、ローマ・カトリック教会とは別れて宗教改革へと動いた。

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    【エリザベス1世の時代】
    ヘンリー8世は1547年に死ぬまで6回結婚したが、子供3人は全て王位に
    就いている。 その中で、末子エリザベスは、女性ということで世間の偏見は
    あったが、エリザベス1世として1558年、25歳で王位に就いた。 エリザベスは、
    イングランドを小海洋国家から大海軍国へと成長させた。

    新教徒であったエリザベスは、イギリス国教会がイングランドの正式な宗教、
    つまり、国教であることを確認した。 また、エリザベスは、閣僚の選択にも
    優れ、議会の扱いも 巧みで、議会も女王を支えた。

    16世紀半ば、議会は単なる諮問機関から、国王政府の重要な1組織となっていた。
    この立法府は、上院と下院から成り、課税と立法にあたった。 上院は、貴族と
    イギリス国教会の高位聖職者から成り、下院は、貴族に次ぐ階層から成っていた。

    イングランド海軍は、その基礎をエリザベスの父ヘンリー8世により強力に固め
    られていた。 そのため、スペインが1588年に海路、イングランドに侵入しよう
    とした時、イングランド海軍は、既に対抗力が付いていた。 スペインのアルマダ
    艦隊は、イングランドの執拗な抵抗にあい敗走した。 この勝利により、
    イングランドは、ヨーロッパ強国としての地位を築いて行く。

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    考古学者の説では、現在のポーランドとなっている地域に人類が住み着いたのは、
    少なくとも20万年前だという。 だが、この最古の住人については、殆ど何も
    分かっていない。 約1万5000年前に、河川の流域に初めて集落が出来た。
    西暦1世紀、スラブ民族が東から、この国の中部にと北部の低地地域に移住した。

    スラブ民族の一派であるポラニエ人(平原の住人)は、ヴァルタ川流域にグロティと
    呼ばれる小さな村落をいくつも建設した。 低地や平原は外敵の攻撃を防ぎにく
    かったので、ポラニエ人は、居住地の周辺に堅固な木の壁を作った。

    ポラニエ人は、壁の外側の土地で穀物を生産し、家畜を飼育した。 グロティの
    住人は、農産物や手工芸品を、中ヨーロッパに住む他のスラブ人グループと
    交換した。

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    何世紀もの間、スラブ人達は、西ヨーロッパの出来事と無縁の生活を続けた。
    ヨーロッパ南部を基盤とするローマ帝国の軍隊は、西暦100年頃までに広大な地域を
    征服し終わっていた。 ポーランドのバルト海沿岸地域は、道路によってローマの
    諸都市と結ばれていたが、ローマ帝国が東ヨーロッパのスラブ人達を征服したことは
    一度もなく、キリスト教の信仰をドイツに広めたカトリック教会の伝道師達も、
    ポラニエ人を改宗させることは出来なかった。

    ポーランド地域の人口が増加するにつれて、スラブ人達は、いくつかのグループに
    分かれた。 西暦200年から500年に掛けて、東スラブ人達は、現在のベラルーシ、
    ウクライナ、ロシアとなった地域に移動した。 ポラニエ人を含む西スラブ人達は、
    将来ポーランド、チェコ、スロバキアと言われる地域に定住した。

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    エリザベス1世には、子供がなかった。 女王が死ぬと、いとこで
    スコットランド王のジェームズ6世が王位を継ぎ、イングランド王ジェームズ1世
    となった。 これによって、イングランドとスコットランドが初めて統一された。
    しかし、この国は不安定だった。 ヘンリー8世がローマン・カトリック教会を
    離脱したことで、宗教問題が起きていたのだ。

    国教は、プロテスタントだったが、多くの人々は、カトリックのままでいたいと
    思っていた。 また、プロテスタントの中にも、拝礼の方法について、異を
    唱える派があった。

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    その中の有力なグループが、清教徒だった。 彼らは、神以外の全ての影響を
    排除して、宗教を純粋なものにしようとした。 清教徒の中には、信仰の自由を
    求めて、イングランドを離れる人達も居た。 その多くは、オランダやアメリカに
    移住した。

    イングランドでは、宗教の違いによって、王と立法機関である議会との間に争いが
    生じた。 内乱が起き、議会派が勝利した。 1649年に議会の命によって、
    チャールズ1世が打ち首に処せられ、議会が国の実権を握った。 1660年になって
    ようやく、チャールズ1世の息子、チャールズ2世が次の王位に就くよう要請された。

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    長い統治と宗教的な争いに疲れたカール5世は、1555年に退位し、ハプスブルグ
    王家は、2つに分裂した。 カールの弟は、ヨーロッパ中央部の領土を継承して、
    オーストリア系ハプスブルグ家を始め、カールの息子のフェリペ2世は、
    スペイン王とネーデルランドの統治者を兼任して、スペイン系ハプスブルグ家の
    始祖となった。 スペインで育ったフェリペは、ネーデルランドの文化に殆ど
    理解を持たなかった。 彼は、ネーデルランドにスペイン軍を駐屯させ、都督等の
    地位にスペイン人を起用した。 フェリペはまた、フランスとの戦争の費用を
    支払うため、ネーデルランドに重い税金を課した。

    更に、フェリペは、カトリック教会の力を強めるために、カトリックの司教達に
    諸州の土地を分け与えた。 そして、フラマン地域圏のカルヴァン主義者達を
    抑圧するために、異端糾問所(教会の高位聖職者達による裁判)を組織した。
    その施策のために、沢山の人々が信仰上の理由で投獄されたり、処刑されたりした。
    このため、ネーデルランド北部の多くのカルヴァン主義者達が国外に逃れた。

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    ネーデルランドの貴族達は、宗教的な意見の違いを超えて集結し、フェリペ2世に
    対して、異端糾問所の廃止、宗教的自由の承認、議会の招集を要求した。
    フェリペの顧問のひとりは請願する貴族達を『乞食ども』と呼んだ。 革命的な
    運動の成長につれて、支持者達は、挑戦的に自ら『乞食党』と名乗るようになった。

    繊維産業の衰退と食料品の価格の高騰に憤慨した一般市民達もカトリック教会の
    財産を強奪や破壊したりして反乱を支持した。 そのため、宗教的な紛争が再燃し、
    スペインの統治に対する姿勢に分裂が生じた。 カルヴァン支持者達は、オラニエ公
    ウィレムの周辺に集まり、カトリック教徒達は、スペインの統治を支持した。

    1567年、フェリペ2世は、アルヴァ公を指揮官とする1万人の軍隊を
    ネーデルランドに派遣した。 アルヴァ公は、査問委員会を組織し、8,000人の
    市民を処刑した。 この強圧的な手段によって、アルヴァ公は、ネーデルランドの
    支配権を再び確立した。 ウィレムは、『海の乞食党』を組織し、1572年
    スペインの軍艦を攻撃して、ブルッヘ等のネーデルランド南部のいくつかの都市を
    占領した。 ネーデルランド北部の指導者達は、これに勢いづいて、スペイン
    からの独立を宣言した。

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