ポラニエ人は最初、およそ20の共同体を作って定住していたが、やがて
ヴィスワ川とオドラ川流域の盆地に新しい都市を幾つも作った。 そのうち、
南のクラクフと西のポズナニ近くに、比較的大きなポラニエ人国家が建設された。

バルト海沿いには、交易の中心地も出現した。 ポラニエ人達は、堅固な城を
築いて、ドイツのカトリック系十字軍からの攻撃を防いだ。 十字軍は、
宗教戦士の集団で、スラブ人を力ずくでカトリック教に改宗させようとしていた。

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この侵略に対抗して、ポラニエ人達は、9世紀半ばにピアストの下に集結した。
ピアストは、ポーランドの民話や伝説に登場する民族の英雄である。 10世紀
までにピアストの一族は、平原部や湖沼地域、それにバルト海沿岸に掛けての
地域の人々を支配下に治めた。 966年、ミエシュコ1世は、初代の
ポーランド公として、ポズナニに近いグニエズノを国家の首府と定めた。

ミエシュコは、ドイツ系十字軍からの攻撃を止めさせるため、現在のドイツに
あった神聖ローマ帝国と同盟を結んだ。 ミエシュコは、また南方のスラブ人
国家チェコとも同盟して、そこの王女と結婚した。 そして、新妻の宗教である
キリスト教に改宗して、伝道師をポーランドに招いた。

1025年、カトリック教会の指導者であるローマ教皇は、ミエシュコの息子で
後継者のボレスワフ1世に王冠を授け、ポーランドが主権国家であることを
公式に認めた。 ポーランド人達は、カトリック教会で使われているラテン文字を
取り入れて、自分達の話しているスラブ系のポーランド語を記録し始めた。

BorderPoland

ボレスワフ1世は、勇敢で野心的な支配者で、ドイツに攻め入り、また、王国の
領域を東のドニエプル川流域まで広めた。 この川は、南のウクライナに流れて
黒海に注ぐ。 こうして、ドニエプル川を通じてポーランドは、黒海の諸港と
交易が出来るようになり、王国はますます繁栄した。

同じ頃、教会の指導者間の争いが基で、ヨーロッパのキリスト教世界は、2つに
分裂した。 11世紀には、東ヨーロッパにギリシャ正教会が創設され、
コンスタンティノープルが中心地となった。 ヨーロッパ東部のスラブ人達の
多くは、ギリシャ正教徒となったが、ポーランドとチェコは、ローマ教皇と
結んで、カトリック教会内に留まった。

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