多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:カトリック

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    ユーラシア大陸最西端のロカ岬へ
    今回は、リスボンからポルトガル国鉄に乗ってユーラシア大陸最西端を目指します♪
    地球の歩き方には30分間隔程度で電車が出ているとの記載があったものの、
    何故か40分弱待たされることとなったため、とりあえず、ロシオ駅前にあった
    カトリック教会に入りました。 ヨーロッパの街の中心地には、必ず教会があり、
    人々が集う場所となっています。 この日は、教会内でミサが行われており、
    聖歌隊による歌が披露されていました。 カトリックは、どこもかしこも装飾が
    物凄く、宗教による力は偉大だと感じました。

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    ロシオ駅
    リスボン中心部にあるロシオ駅から、ユーラシア大陸最西端のロカ岬に行く
    電車が出ています。 まずは、シントラ駅までが電車で、その先がバスでの
    移動となりますが、このシントラが、かなり歴史的な建物が多く、もう一日
    このシントラを見たいと感じたものの、日程的に翌日にはモスクワに飛ば
    なければならなかったため、泣く泣く諦めました。 次回リスボンにやって
    来る際には、このシントラを重点的に周りたいと思います。 切符を買う
    窓口では、英語がそこそこ通じました。

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    シントラ駅
    シントラ駅は終点駅であるため、ここからロカ岬行きのバスが出ていますが、
    そのバス停が非常に分かり辛い。 駅からポルトガル語で「ロカ岬行きのバス停は
    どこにありますか?」と何度も質問をしているものの、なかなか見つからず、
    途中のお土産屋で気晴らしをした次第で御座いますw

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    ロカ岬
    シントラ駅からロカ岬までは、バスで1時間弱掛かるため、夕暮れに間に合わない
    かと思いましたが、ギリギリ間に合い、何とか奇跡の画像を撮りました。
    ちょうど完全に太陽が沈み、昼と夜の中間の感じが画像にもばっちりと収める
    ことが出来ました。 後30分程度早く来ていれば、もっと綺麗な写真が撮れたと
    思いますが、この日は、スペインの南部から長距離を移動して来たため、これ以上
    早めの時間にこの地に来る事は出来ませんでした。

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    【ロカ岬】
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    既に真っ暗になったロカ岬から最終便のバスに乗り、シントラへと戻ります。
    このロカ岬に来てみたいがために、ポルトガル語を習い始めたため、感慨ひとしお。
    我、ユーラシア大陸の最西端に立てり♪

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    モハーの断崖へはツアー参加がお勧め
    ダブリンからバスで3時間半程離れたアイルランド島の反対側にある
    ゴールウェー、更には、その先にある風光明媚な景勝地、モハーの断崖までの
    ツアーに参加しました。 当初は、自力でモハーの断崖まで行こうかと考えて
    いたものの、調べたところ、バスの本数が全体的に少なく、ツアーの方が効率
    良く回れるため、ツアーでこの地を訪れることにしましたが、西アイルランドの
    主な見所を概ね見て回れたため、非常に大満足の旅でした。

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    ゴールウェイ
    西アイルランド中心都市ゴールウェイの中心部は、まだまだクリスマスの
    飾り付けが残っていました。 軽いツアーガイドによる街の案内に続き、1時間の
    フリータイムとなります。 ゴールウェイ市自体は、人口7万人弱の小さな街で
    あるため、歩いて回ってちょうどの大きさの街でした。

    【ゴールウェイ中心部】
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    聖ニコラス・アングリカン教会は、アイルランドに現存する中世の最大の教会で、
    西アイルランドにおけるカトリック教会の中心的な存在。 ヨーロッパは、基本的に
    街中に必ず教会があり、そこから中心部が形成されているため、生活と宗教が密接に
    つながっていることが良く分かります。 質素なプロテスタントの教会とは異なり、
    カトリックの教会は、豪華絢爛な装飾があるため、一目で見分けることができます。

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    ゴールウェイからモハーの断崖へと移動中に、車窓から古城が幾つか見えました。
    アイルランドでは、主に英語を使用していますが、この付近では、伝統的に今でも
    ゲール語が話されているそうです。 尚、アイルランドの海岸沿いには、断崖絶壁が
    複数ありますが、それらの場所では、あの「スターウォーズ」の撮影が頻繁に
    行われていたそうです。

    モハーの断崖
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    ゴールウェイから更に45分程度南下した西アイルランド屈指の景勝地、
    モハーの断崖。 断崖沿いに柵がありますが、半分以上の人達が、柵の外側を
    歩いていたため、真似して外側を歩いて見ましたが、日本だったら、間違いなく
    自殺の名所になると思いましたw 日本では、この様な場所は、日本海側に多く
    ありますが、太平洋側には余りないと思います。

    【モハーの断崖】
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    モハーの断崖からダブリンに戻る途中で、アイリッシュパブのお店に立ち寄り、
    1時間ほどの小休止時間となりました。 アイルランドでは、「シードル」の事を
    何故か「サイダー」と言います。

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    大晦日のダブリンは、幾分せわしない雰囲気でしたが、街を彩るイルミネーションが
    綺麗なものの、その後の年越しの際には、花火が多少上がった程度で、物足りない
    感じがしました。

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    北アイルランド、ベルファストへの旅
    北アイルランドは、イギリス領内にあるため、街並みが、全体的にイギリス風。
    鉄道に乗って両国の国境を越える際には、、国境でのパスポートのチェックはなく、
    特に何の手続きもなしで、そのまますんなりと入国することが出来ます。

    現在でもイギリスに属している「北アイルランド」とは、アイルランド島北東に
    位置するアルスター地方9州の内の6州を指しており、残りの3州はアイルランドに
    属しています。

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    人口約34万人のベルファストは、北アイルランドの中心都市であり、1920年に
    成立したアイルランド統治法によってアイルランドは南北に分割され、それぞれに
    自治権が付与されました。 その後に発生したアイルランド独立戦争の講和条約で
    ある英愛条約に基づいて、南部26州によりアイルランド自由国が建国され、
    イギリスから独立した際には、北アイルランドもアイルランドに含まれて
    いましたが、アイルランドで内戦が始まったため、北アイルランド議会は
    アイルランドからの離脱を表明してイギリスに留まることになりました。

    【ベルファスト】
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    アイルランドと北アイルランドが分裂した理由は、宗教的な対立が原因でしたが、
    アイルランド国内はカトリックが多数派、北アイルランドはプロテスタントが
    多数派となっています。 このため、ベルファスト市内でも、両教徒による対立が
    非常に激しくなっており、それぞれの住民たちが自分たちを守るための「壁」を
    造って完全に住み分けを行うことにより、平和が保たれています。

    【ベルファストの夜】
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    北アイルランド紛争
    北アイルランド紛争とは、1968年10月に少数派カトリック系住民の差別撤廃を
    目指す公民権運動が、プロテスタント系住民と衝突して以来、尖鋭化して起こった
    一連の事件であり、街中には、カトリック系住民とプロテスタント系住民を隔てる
    壁が今でも存在しています。 1990年代後半に紛争が沈静化するまでに犠牲と
    なった人達の数は、カトリック、プロテスタント双方でおよそ3,500人と言われて
    います。 北アイルランドでは、今でもカトリック系住民に対する差別が
    続いており、就労時には非常に苦労するのだとか。

    【対立の壁】
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    豪華客船タイタニック博物館
    実は、タイタニック号は、ベルファストで造船されたため、この地で進水式を
    行っています。 ベルファストを出航したタイタニック号は、その後の処女航海で、
    巨大な氷山に衝突し、そのまま海中へと沈没しました。

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    タイタニック博物館のすぐ目の前にある巨大ドックヤードに完成したばかりの
    タイタニック号がしばらく係留されていたが、この時代の豪華客船は、競うように
    巨大化が進み、どんどん船体が大きくなって行ったそうです。 

    ベルファストから出航したタイタニック号は、ニューヨーク行きでしたが、
    大西洋上での沈没による犠牲者数は、乗員乗客合わせて1,513人余りとなり、
    戦時中に沈没した船舶を除くと20世紀最大の海難事故でした。

    【タイタニック博物館】
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    博物館内には、豪華客船タイタニック号の船内を再現した展示が多数ありますが、
    船体には、当時としては最も高度な安全対策が施されていました。 このため、
    船底が二重になっており、船体も水面上までの高さがある防水隔壁で16の区画に
    区分され、そのうちの2区画に浸水しても沈没しない構造になっていました。
    15cm以上の浸水で自動閉鎖される機能も備わっていたため「不沈船」として
    喧伝されました。

    タイタニック号沈没時には、乗客はこの救命ボートで脱出しましたが、乗員が定員に
    満たぬうちに船から離れた救命ボートが多く、結果として、1,500人もの乗員乗客が
    船に取り残される状況となりました。 浸水の影響で、タイタニックの船首は
    海没して行き、反対に船尾が海面から高く持ち上がって行ったため、衝突から
    2時間40分後、轟音と共に船体は2つに折れ、船首側がまず沈没し、残った船尾側は
    やや遅れて沈みました。

    【タイタニックの最後】
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    救命ボートの転覆を恐れたため、沈没後に救助に向かったボートはわずか1隻
    でした。 準備を整えて救助に向かった時、沈没から既に30分が経過して
    いましたが、4月の大西洋はまだ水温が低く、人々が投げ出された海は零下2度の
    冷たさで、乗客の大半は低体温症などで数十分〜20分程度で死亡したか、または
    心臓麻痺で数分のうちに死亡したと考えられています。

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    ドゥブロヴニクの様な城壁に囲まれた旧市街地は、ヨーロッパでは、さほど
    珍しい物ではないものの、15年程前までのクロアチアは、非常にマニアックな
    場所であり、「旅の通」以外は誰も行かなかったのだが、今では、誰でも気軽に
    行けるようになったため、観光客が激増しました。

    アドリア海に面したドゥブロヴニクは、観光業がメインであるため、様々な
    お土産がありますが、物価が非常に高いため、長居は禁物。 有名観光地だけ
    あって、英語が完全に通るものの、東欧旅行の醍醐味は、英語が全く通じない
    というところなので、何か物足りなさも感じつつ、非常に西欧化されているため、
    東欧という「暗い」雰囲気は全くありませんでした。

    ドゥブロヴニクの前に訪れたモスタルも満員電車並みの観光客でごった返して
    いたが、イスラム圏からの観光客が多いモスタルとは、客層が全く異なり、
    ドゥブロヴニクは西欧からの観光客ばかりで、たまに日本人もチラホラおりました。

    【ロープウェー】
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    ドゥブロヴニクの旧市街は、地上を歩くというよりも、ロープウェーに乗って
    上空から見下ろすか、または、城壁を一周しながら旧市街を見るのが一般的。
    このロープウェーの料金が結構高かったため、片道だけ乗ろうかと迷ったのものの、
    余り時間がなかったため、この際奮発して、ロープウェー往復と城壁めぐりを
    しました。 時間があれば、片道は歩いたと思います。 尚、このローウェーの
    チケットは、手前側にあるチケット売り場ではクレジットカードが使えないため、
    ロープウェー乗り場脇にある方のチケット売り場の方が便利。

    ロープウェーに乗ると、山頂まで一直線で行けますが、40分程度で山頂まで
    登れるため、一部の人達は徒歩で登山をいていました。 山頂からの景色は、
    赤レンガの街並みが美しいものの、山頂からの旧市街は見た目的にも若干
    遠いため、城壁めぐりの方が、街並みの散策には向いていると思いますが、
    ハイシーズンとは言え、城壁に登るだけで、2,500円は少々高過ぎると思います。。

    【城壁めぐり】
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    カトリック教会が、山頂に巨大な十字架を建てているのは、旧ユーゴ内はどこでも
    同じで、他の宗派と区別するためだと思いますが、イスラム教がコーランを流して
    いるのに対抗してこうなったものと思われます。

    山頂へのロープウェーに引き続き、清水の舞台から飛び降りた気持ちで2,500円を
    現金で支払い、城壁1周にチャレンジ。 この城壁は、ほぼ休みなしで歩いても
    約1時間半程度は掛かります。 その途中に、ビール屋やカフェ等がありましたが、
    チケットの抜き打ち検査もあるため、チケットをなくすと、そこで下に
    降ろされます。


    城壁めぐりは、アップダウンが結構きついのと、所々、階段で上に登れるように
    なっているため、合計すると、かなりの運動量となります。 新市街から旧市街
    までは、歩いて30分程度掛かるため、総合すると、かなりの距離を歩いたことに
    なります。 城壁を一周したところで、ちょうど太陽がとっぷりと沈みました。

    【夜の旧市街】
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    このまま新市街にある宿まで歩き、翌日は朝の7時過ぎのティラナ行きの直通バスに
    乗ったつもりが、途中にあるモンテネグロの古都、コトルでの乗り換えでした。
    乗り換え時間を全く言わないのと、途中にトレイが一切ないため、12時間半も1度も
    トイレには行けませんでした。

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    旧ユーゴスラビア連邦の中でも断トツの経済力を誇っていたクロアチアは、
    現在ではEU加盟国であり、旧ユーゴの中心国家であったセルビアとは、
    全く違う道を歩んでいます。 今回は、クロアチア最南端にある
    「アドリア海の真珠」の異名を持つ美しい街、ドゥブロヴニクを訪れました。 

    元々、旧ユーゴ連邦崩壊の原因は、南北の経済的な格差であったため、
    クロアチアにとっては、無駄な支援国であったマケドニアやモンテネグロを
    ぶった切った結果、非常に経済成長を遂げていました。 観光地である
    ドゥブロヴニクは、物価が非常に高く、東京の2~3倍強の物価であるため、
    丸1日程度しか滞在しなかったのにも関わらず、1万円超もの出費を
    強いられました。 以前の東欧旅行は、物価が安いことが最大の魅力だった
    のに、日本が落ちぶれ果てたのか、今では、それすらなくなりました。

    【新市街】
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    ここまでの旧ユーゴの旅では、東方正教会とイスラムの世界を抜け、今度は
    完全なるカトリックの世界へと入りました。 特に、ドゥブロヴニクの場合は、
    東欧随一の有名観光地であるため、至る所、観光客だらけで、非常に開放的な
    雰囲気の街並みからは、大規模な内戦がこの場所でもあったとは到底思えない
    程の目覚しい復興を遂げていました。 手前の建物を大きくして奥を小さく造る
    建築様式は、敵の目を欺くためのもので、この街が元々は要塞であることを
    まざまざと見せつけられました。 旧市街は、内戦時にかなりの部分が破壊
    されましたが、その後、復旧されました。 今では、押しも押されぬ、東欧を
    代表する一大観光スポットになっています。 アドリア海に面しているため、
    イタリアからの観光客が多いものの、その他、全世界から、この街へと観光客が
    押し寄せて来るため、東欧にしては、英語が非常に通じます。

    【旧市街】
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    ドゥブロヴニクでの滞在時間は1日のみで、実質の滞在時間は、18時間でした。
    小さな街と言えども、歩くとかなりの距離があるため、この日はちょっと
    贅沢をして、クルーザーで沖まで出て、外洋から旧市街を見ることにしました。
    1周約1時間でロクロム島の周囲をぐるりと周り、元の港へと戻るコースを
    選びました。 グラスボートのため、海中を見ることが出来ましたが、
    そのような場所には目もくれず、デッキ部分で足を海に投げ出して、存分に海を
    肌で感じながらのクルージングとなりました。 時折、魚の居るポイントを
    通るため、そこを通る時だけ、スピードを落として、ガラス越しに海底見る
    という趣向のクルージングでした。 同じ旧市街でも、海上から見る景色は格別で、
    ドゥブロヴニクを訪れた際には、絶対に船に乗った方が良いです。

    ロクロム島の反対側には、実は、ヌーディストビーチがるため、船からは、
    あられもないお姿が丸見えでしたが、ヨーロッパの主なポイントには、
    ヌーディストビーチがゴロゴロあるため、目のやり場に困りますw 海上には、
    カヌーをこぐ人や、泳いでいる人達も沢山居ましたが、9月で若干水が冷た
    かったものの、ヨーロッパでもかなり南に位置している場所であるため、
    まだまだ泳げる水温でした。

    【クルージング】
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    旧市街からは、色々なパータンの遊覧船が出ているため、事前に調べてから
    行った方が、より満足できる船旅になると思いますが、時間がなかったため、
    直近で出る船に乗りましたが、それでも、大満足のクルージングの旅でした♪

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    ボスニアの首都であるサラエヴォからバスで約3時間強で、ヘルツェゴビナの
    中心都市であるモスタルに到着します。 宿は、バスターミナルから歩いて
    数分のところに予約をしていたため、安心していたところ、その宿が一切何の
    連絡もなしに、急に3日間も閉鎖となり、急遽、すぐそばの宿に泊まることに
    なったものの、こちらの奥さんが凄く親切なお方で英語も堪能であったため、
    むしろ、こちらの方が良かったと思いました。

    とりあえず、モスタルに到着したら、世界遺産である『古い橋』を見なければ
    何も始まらないため、バスターミナルから約1キロほど離れた世界遺産へと
    出掛けました。

    【夜のモスタル】
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    モスタルでは、モスクが乱立しており、完全にイスラムの世界。 もしろ、
    ヨーロッパ的な要素は何もありません。 強いて言えば、石造りの街並みが、
    若干ヨーロッパ的なだけで、街中から聞こえて来るのは、コーランばかり。
    1ヶ所だけカトリックの教会がありましたが、単なるお慰み程度の教会であるため、
    稀にしかないクロアチア人のためだけにある教会なのでしょう。 尚、
    Julius Meinl は、オーストリアでは、BILLAと並んで、非常にメジャーな
    スーパーですが、何故かモスタルにもありました。

    この日は実は、夜まで何も食べていなかったため、モスタルの雰囲気のある橋の
    たもとで食事を取ることにし、ボスニア風ケバブとボスニアのビールを注文
    しました。

    翌朝は、午後12時30分にドゥブロブニク行きの最終バスが出てしまうため、
    朝一番でバス乗り場に行き、切符を購入し、そのまま、街中の観光へと繰り出し
    ました。 と言っても、モスタルは、基本的に、『古い橋』以外、特に見る物が
    ない街であるため、今度は中心部を通って、『古い橋』へと向かう途中、銃弾の
    跡が、あちらこちらに残っていました。

    【モスタル中心部】
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    モスタル市中心部を流れる川を渡る途中、山頂にある十字架が見えましたが、
    カトリック教会は、ボスニアでは、存在感が極めて薄いため、至る所で、これ見よ
    がしに巨大な十字架が建っていました。 この十字架を見て、このすぐそばには、
    カトリック教会があるという風に分かるシステムの様です。

    海外に行って、最も行く場所と言えば、マクドナルドw 基本的に、地元の料理
    なんぞは一切食べませんので、時間の掛からない、かつ、味が予想出来るマックで
    十分w 材料すら分からない得体の知れない食べ物は、非常に苦手。

    単に、橋の反対側を歩いて来ただけで、川のどちら側から来ても、『古い橋』
    までの距離は、余り変わりません。 ボスニアではカトリック教会は多少なりとも
    あるものの、セルビア正教の教会は見掛けなかったため、恐らく、内戦で破壊
    されたものと思われます。

    【モスタル市中心部】
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    それ以外は、100%イスラムの世界であるため、観光客もほぼ全員イスラム教徒
    ばかりでした。 その後に行った、ドゥブロヴニクとは、客層が全然違っています。
    正に、イスラムがイスラムを呼ぶという感じでした。 世界遺産である
    『モスタルの古い橋』は、内戦中に破壊されてしまったため、内戦が収まった後に
    再建されたため、よくよく見ると、修復後の境界線が分かります。 イスラム教徒に
    大人気の観光スポットであるため、昼間に行くと、満員電車並みの混雑に遭遇する
    こととなります。

    毎日、定時になると、川のほとりに複数あるモスクから、コーランの祈りが響き
    渡るため、ヨーロッパに居るとは思えない程の完璧なイスラムの世界です。 尚、
    ボスニア・ヘルツェゴビナは、旧ユーゴ内での民族浄化等により、ヨーロッパでも
    最貧国の部類に入りますが、月給にして2万円程度のウクライナと比較すると、
    平均月収は13万円程度あるそうなので、ウクライナと比較すると、相当ましです。
    物価も日本よりは若干安い程度なので、東京とさほど差はないと感じました。
    恐らく、東京での現在の平均給与は25万円程度で、横浜だと20万円程度しか
    ありません。

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    共和制が成立し、新しい議会(国民公会)の選挙が行われても、広がる不安と
    外国の侵略は阻止出来なかった。 秩序を確立し、まだ王政を支持する者を
    排除するために、国民公会の一部議員が公安委員会を設けた。 公安委員会は、
    1974年まで続いた恐怖政治の間、沢山の平民、貴族、僧侶を処刑した。 一方で、
    新政府の軍隊は外国軍を追い払った。

    1795年に国民公会は新しい憲法を制定した。 この憲法で、5人の総裁から成る
    総裁府と、2院制の立法府が置かれた。 この変革で、フランスは政治の安定を
    多少取り戻したが、更に不安と暴力は4年間続いた。 王政復古を願うフランス
    国民は、新政治体制に反対した。 総政府に不満だった王党派は、1799年に
    共和制を覆すと宣言した、若く精力的なナポレオンを支持した。

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    【ナポレオンの治世】
     優れた軍事・政治の戦略家であるナポレオンは、軍と政府を掌握した。
    ナポレオンの指令で、法律家達は国家の新たな法律として、ナポレオン法典を
    編纂した。 この法典は、言論の自由、宗教の自由、および、職業選択の自由を
    確立した。 新政府は、経済を完全に組み替えて、フィリップ4世以来続いて来た
    王宮の会計検査院を廃止し、国立中央銀行としてフランス銀行を創設した。

    再びフランスの軍事力をヨーロッパ最大のものにするために、ナポレオンは
    イタリアやヨーロッパ中部のハプスブルグ家支配の各地に攻め入って勝ちまくった。
    これらの国の支配者は、ただちに講和を申し入れて来た。 ナポレオンはまた、
    イギリスとの貿易、軍事上の紛争を解決し、ローマ・カトリック教会と宗教協約を
    結んだ。 こうしてナポレオンは、ヨーロッパ大陸を支配するフランス大帝国の
    創設を着々と計画して行った。

    ナポレオンは1804年に、自ら皇帝を宣言し、再びヨーロッパ中央部の侵略を
    始めた。 ナポレオンの敵は速やかに、フランスに対抗する同盟を結んだ。
    イギリスは制海権を握ってフランスの港を封鎖し、フランスとって重大な海外
    植民地との貿易を阻んだ。 ナポレオンのロシア攻撃は失敗し、ナポレオン自慢の
    大陸軍は崩壊した。 反仏同盟軍は1813年、ナポレオンをドイツから追い払い、
    皇帝は1814年に遂に退位した。 戦勝国はブルボン朝の王位を復活させ、ルイ
    16世の弟、ルイ18世を王位に就けた。

    ナポレオンに反抗した同盟軍は、ナポレオンをイタリア領エルバ島に流した。
    しかし、ナポレオンは1815年3月、強力なフランス陸軍を率いてフランスに
    上陸した。 同年6月18日、同盟軍はベルギーの街ワーテルロー付近に集結して
    ナポレオン軍を迎え撃って破った。 皇帝はイギリスに降伏した。 イギリスは
    今度は遠いセント・ヘレナ島にナポレオンを流した。 1821年、この島で
    ナポレオンは死んだ。 同盟諸国は平和のための最善の道として、再びルイ18世を
    王位に戻した。 また同盟軍は、民衆を抑えるために、フランスに駐留した。

    【お勧めの一冊】


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    ポルトガル帝国が拡大するに連れ、南米ブラジルから中国大陸の沿岸マカオまでに
    広がった植民地との行き来に、船乗そのものをますます多く必要とするように
    なった。 船の難破、疫病、あるいは、ポルトガルの権益そ認めようとしない
    地元民との戦い等で多くのポルトガル人男性が死んで行った。 1500年代末まで
    には、遠隔の領土がポルトガルの財政と国民にとって重荷になって来たのである。

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    加えて、ポルトガルはローマ・カトリックの信仰を広めようとしたため、ポルトガル
    新領土や本国の非キリスト信仰者を動揺させることになった。 キリスト教会は、
    イベリア半島の人々、特に、イスラム人とユダヤ人をキリスト教徒に改宗させようと
    した。 キリスト教会は、更に、異教を禁じてしまおうと考えた。

    ローマ・カトリック教会は、異教、ないし、非キリスト教的信仰の疑いのある者は
    全て罰しようとし、異端審理のための宗教裁判所を作った。 冷酷な措置と厳しい
    裁判のため、一部のポルトガル人キリスト教徒さえも含む多くの非キリスト教徒達が
    異端のそしりを受け、投獄、あるいは、処刑の憂き目にあった。

    【お勧めの一品】


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    15世紀になって、『ルネッサンス』と呼ばれる古代の芸術や哲学の復興運動が
    イタリアから伝えられると、ドイツには大きな変化が起こった。 ドイツの新しい
    大学では、ルネッサンス学者たちが強力なローマ・カトリック教会に改革を迫り、
    改革者のひとりであるドイツの聖職者マルティン・ルターは教会の悪習を非難して、
    1521年には破門される。 しかし、北ドイツには改革の呼び掛けに賛同する人々が
    多く、プロテスタント(新教徒)として知られているこれらルターの支持者たちは、
    1520年代にルター派の教会を創設した。 こうして間もなく北ヨーロッパは、
    宗教改革の嵐に包まれることになる。

    1555年には、貴族から農民まで階層を問わず、ドイツの大部分の人々が
    プロテスタントに改宗した。 また、北ドイツの諸侯の中には、宗教改革を理由に、
    カトリック教会の持っている土地を没収する者も居た。 ハプスブルグ家の皇帝
    カール5世は、カトリック教徒であったので、激しい造反に直面、アウグスブルグの
    宗教和議で、ついに諸侯の領地における宗教の選択権を認めた。

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    その後、数十年の間にドイツ、オランダ、スイスでプロテスタントの新宗教派が
    創設された。 これらの宗教はルター派、カトリック派いずれの宗教の儀式も
    拒否した。 また、ローマ・カトリック教会は南ドイツの大半、オーストリア、
    ボヘミア(オーストリア北部に位置する王国)に勢力を盛り返して行った。
    ハプスブルグ家はカトリックだったので、ローマ教会と密接な関わりを持ち
    続っており、1618年、カトリックの王をボヘミアの王位に就けようと企てた。

    ところが、激しい反対が起き、暴動に繋がり、30年戦争の間、ドイツの諸侯は
    互いを攻撃、周辺の諸国はドイツの領地を略奪しようと中央ヨーロッパに進軍、
    プロテスタントと同盟を結んだスウェーデン王国は、ドイツのバルト海沿岸を
    攻撃、フランスはハプスブルグ家と戦うため、ライン川を越えて進撃に出た。

    戦争は1648年、ドイツにおけるカトリックとプロテスタントの領土を正式に
    承認するヴェストファーレン条約にようやく解決をみる。 こうして
    プロテスタント国家におけるハプスブルグ家の支配は終わったが、神聖ローマ
    皇帝の称号はなおもハプスブルグ家が継いで行った。

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    セブ島滞在3日目は、たまたま、ネットで発見した、地元では何でも願いが叶う
    教会として非常に有名な、シマラ教会へと行きました。 セブ・シティーの
    南バスターミナルからバスに揺られること丸2時間、 セブ島南部にある、
    シボンガという街の郊外にこの巨大で豪華絢爛な教会はあります。

    【シマラ教会】
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    セブ島には、バス停というものが存在しないため、降りたい場所をあらかじめ
    車掌に伝え、希望の場所で降ろしてもらいます。 シマラ教会への行き方は、
    南バスターミナルからオスロブ行きかシボンガ(シマラ)行きのバスに乗ります。
    今回は、たまたま朝5時40分南ターミナル発のシボンガ(シマラ)行きのバスに
    乗りました。 このバスは冷房なしのため、窓は全開、ドアも閉まりません。

    バスの種類は、大きく分けて冷房付きと冷房なしに分かれるのですが、バスの
    種類が全く異なるのに、料金は同じ80ペソ(160円)です。 シマラ教会は、
    現地のツアーでも行けるのですが、セブのオプショナルツアーは、大体が1万~
    2万円が相場であるため、このバスがいかに安いのかが分かると思います。
    シボンガの中心部から更に15分程度行った何もない場所がシマラです。

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    セブ・シティーは渋滞だらけで、シマラ教会までは、2時間半程度掛かると聞いて
    いたたため、かなり早めに宿を出たのが功を奏し、午前7時20分には、シマラ教会の
    前に到着しました。 教会が開くのは午前8時からであるため、ここでソーセージ
    (10ペソ)と卵(15ペソ)を朝食として取りました。 朝食を歩きながら食べて
    いる間に、急に雨が降り出しましたが、15分程度であっという間に止んだため、
    教会が開いた頃には、すっかりと晴れ渡っていました。 神聖な教会内は、ドレス
    コードが厳しく、短パンやサンダル等は禁止されているため、シマラ教会を訪れる
    際には、服装に気を付けましょう。

    シマラ教会は、フィリピン人の憧れの地で、一生に一度は行きたい場所だとか。
    日本で言うところのディズニーランドのような場所で、豪華絢爛なその見た目も
    ディズニーランドそのもの。 何でも願いが叶う教会では、お布施やお賽銭のような
    ものは必要なく、実際に願いが叶った際に、お礼参りを行い、色々な物を寄進する
    そうです。 早い話が、願いが叶わなかった場合は、一切何も供える必要性なし。

    教会内に限らず、セブは野良犬が非常に多く、普通に道を歩いていました。
    教会内にも多数の野良犬がおり、フィリピン人のおおらかな国民性を見た気が
    しました。 午前8時の開門と共に、中に入り、早速教会内探検の始まりです。

    シマラ教会は、非常に巨大な教会であるため、教会の中まで入るまでが大変。
    未だ未完だそうで、あちこちで工事が進められていました。 尚、シマラ教会へは、
    南バスターミナルからシマラまでが1時間半弱で80ペソ(160円)、その後、シマラ
    からのバイクタクシーが5分で20ペソ(40円)で、合計でも2時間掛からずに
    到着する事が出来ました。

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    教会の内部は、カトリックの教会と言うよりも、聖母マリア様の教会という感じが
    しました。 よって、幼い頃のキリストの像が多く、内部の博物館では、色々な
    国のマリア様の像が並んでいます。 カトリックとプロテスタントとの代表的な
    違いのひとつに、聖母マリア様を敬うかどうかというものがありますが、
    カトリックは、マリア様を非常に敬うため、このような豪華絢爛な教会となって
    います。

    教会内には、様々なマリア様とキリストの像が並んでいますが、観光客はさほど
    おらず、地元の巡礼者の方ばかりで、敬謙なクリスチャンでなくとも、心が洗われる
    想いがしました。 教会内の売店では、数々のキリストグッズが大量に販売されて
    いますが、結構高い。 信心深い人であれば、この値段でも購入すると思うのだが、
    とりあえず、お手ごろな十字架を1つ購入しました。

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    シマラ教会で最も奥の間にあるこの教会のご本尊的な存在のマリア像。 この像は、
    非常に人気があるため、ものの10秒程度しか願い事が出来ないという、とても
    ありがたい像です。 その手前にあるマリア様の像は、1名に付き1分以上もお祈りを
    するため、朝早く行かないと、30分以上も待たされる事となるため、早めに
    この教会に到着する事をお勧めします。

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    シマラ教会の内部は、無数のマリア像とキリスト像がありますが、それぞれの像に
    願いを掛ける人たちが多数居るため、木像の足の一部が若干削れています。 日本で
    言うところのお遍路のような感じにあたるため、カトリックが国教のフィリピンの
    中にあっても、かなり特別な教会のようです。 教会内の博物館中には、世界中の
    マリア像、並びに、キリスト像を展示しているフロアーがあります。 ここでは、
    中国風のマリア様やインド風のマリア様が多数展示されています。

    約1時間半程で、シマラ教会ともお別れ。 カトリックとプロテスタントの違い
    として、教会が豪華か質素かの違いがありますが、カトリックの教会は非常に
    豪華絢爛なので、その分をどこかに寄付として渡してあげた方が、人助けになると
    考えてしまうのは、プロテスタントに毒されているからなのか。

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    シマラ教会付近は、教会内部の豪華絢爛な雰囲気とは似ても似つかぬ貧困地域
    なので、教会を一歩外に出ると、現実を突きつけられます。 最寄のシマラの
    バス降り場(セブにはバス停と言う概念がない)は、こんな感じになっており、
    車掌に前もってシマラ教会の最寄でバスを降ろしてくれるように頼んでおかない
    限り、この教会には到達出来ません。

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    この場所から坂道を登ること5分程度にあるのが、豪華絢爛なシマラ教会です。
    バイクタクシーの値段は交渉性で、行きは30ペソ(60円)、帰りは20ペソ(40円)
    でした。 ここから頑張れば40分程度で歩いてシマラ教会まで歩いて行く事も出来
    ますが、60円程度であれば、バイクタクシーを利用した方が断然便利です。 尚、
    シマラ手前のシボンガ市中心部でバスを降りてしまうと、シマラ教会までは、20~
    200ペソ(40円~400円)程度請求されるとか。 最後は、セブ・シティー行きの
    バスが通り掛った際に、手を上げてバスを止めてからバスに乗りこみます。

    シボンガからセブ・シティーまでの帰りのバスは冷房付きで、座席もそこそこバネが
    利いていたため、行きのバス程は揺れが激しく、早朝に起きて寝不足もあって、
    途中で1時間程度寝込んでしまいました。 冷房なしのバスの場合は、揺れが
    凄まじく、お尻が席から何度も浮く感じの揺れ方をするため、居眠りは絶対に
    無理です。

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    セブ島南部にある諸都市へのバスは、南バスターミナルから出ています。
    ここから北ターミナルへは2キロ以上も離れているため、タクシーで移動するしか
    ありません。 南ターミナルの方がセブ中心街へは近いため、ここから1キロ程度
    歩いて、中心部へと向かいました。

    セブ島では、基本的にバスが一切走っていないため、バスは都市間を結んでいる
    高速バスしかありません。 空港とセブ・シティーを結ぶバスもありません。
    全体的にバスが不足しているのだと思います。 バスターミナル付近は、路上に
    商品を広げた人たちが多く、活気がありますが、特に欲しい物はないため、素通り
    しました。 フィリピンでは、手にビニール袋をして手づかみでご飯を食べるのが
    普通らしい。

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    午前5時40分に南ターミナルを出発したため、午前11時20分にはセブ・シティーへと
    戻って来てしまい、予定よりも2時間程度余裕が出来たため、最後はセブ・シティー
    中心部を散策しました。 最後に食べた昼食は、地元で大人気のハンバーガー
    ショップのジョリービー♪ ハロハロは、フィリピンが発祥らしい。 全て残金を
    逆算して不要なペソを使ってスーパーで買い物をしたため、最終的に残ったペソは
    5ペソのみ。 これだけ食べて164ペソ(328円)でした。 但し、最後に空港で
    750ペソを現地通貨で支払わなければならなかったため、この努力は無駄でした。
    クレジットカードでの支払いは出来なかったため、空港で再度ペソに両替をする
    こととなりました。

    セブ・シティーの全体的な雰囲気としては、70年ぐらい前の終戦直後程度の生活
    レベル。 ちょっと裏通りに入ると、非常に汚い。 果物は大体10~25ペソ前後
    でした。 果物は、日本でも見たことがないようなものばかりで、物価も非常に
    安いため、街角で色々な果物を試して見るのも良いかも知れません。

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    マクタン・セブ国際空港は、セブ島にあるセブ・シティーからは、タクシーで
    丸1時間程度掛かります。 空港内はかなりリゾート地らしいのですが、空港から
    一歩外へ出ると、雰囲気が全然違うため、ホテル周辺のリゾート地とこの空港だけ
    しか見ていない場合は、セブ島は単なるリゾート地としてのイメージしか残らない
    かも知れません。

    マクタン・セブ国際空港では、出国時に750ペソを現金で支払う必要性がたるため、
    手持ちのペソが足りず、一旦空港で全ての手続きを済ませてから、再度両替のために
    空港の外に出ることに。 現金でしか支払いが出来ないのであれば、窓口の直ぐ
    隣りに両替所を置いておいてくれれば良いものを、そんな気の利いた施設はセブには
    ないため、いっそのこと、通常通り、支払い時に出入国税と空港利用税を全て
    あらかじめ徴収して欲しいです。 帰りの飛行機は、セブ空港からは4時間40分
    でした。

    【お勧めの一冊】


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    【セブ島へ】
    フィリピン中部の海に浮かぶ南国の島、セブ島へは成田空港から空路で4時間
    40分ほど。 マクタン・セブ国際空港は、セブ島のお隣のマクタン島にあるため、
    セブ・シティーまでは、タクシーで約1時間ほど掛かる。

    セブ空港からの公共交通機関は一切なく、タクシーを利用する以外の選択肢はない。
    空港を出て暫く歩くと、若干割高の黄色いホテルタクシーとかなり割高の白い
    タクシーの2種類しか選ぶことが出来ない。 セブ島内ではバスは殆んど走って
    おらず、庶民の足として利用されている、ジプニーやトライシクルも空港には
    乗り入れていない。

    現地のツアーガイドに聞いた話では、空港からセブ・シティーまでの平均的な
    タクシー料金は300ペソ程度だそうで、空港からの白のタクシーでは、大概500
    ペソを要求されるため、帰りのセブ・シティーから空港までのタクシーでは、
    行きは350ペソしか支払っていない旨を伝えたところ、400ペソになった。
    セブでは、何事でも一々値段交渉をしなければならないという、なかなか
    アジアチックなカオスな場所。

    【マクタン島】
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    空港を降り立ち、タクシーでまずは、最寄の観光地であるマゼラン記念碑へと
    向かったのだが、空港からこの場所までは300ペソであった。 バイクに荷台の
    ようなものを付けたトライシクルの方が安いため、トライシクルを探したところ、
    空港には乗り入れられないようだったため、仕方なく値段の高いタクシーに
    乗ることとなったのだが、通常のタクシーはどうせかなりボラれるため、
    最終的には、例え多少割高でも、黄色いホテルタクシーの方が安いと思う。

    この地には、マゼラン上陸記念碑とスペインからやって来たマゼラン一向に
    戦いを挑んでマザランを殺したこの地の領主であったラプラプの像があるため、
    それに因んで、マクタン島最大の都市の名前はラプラプ・シティーとなっている。
    マゼラン上陸記念碑周辺にあるお土産屋の値段は、日本人の感覚としては非常に
    安いものの、セブの平均的な月給は、1万2千円程度しかないため、それを考えると
    ここまでのタクシーの値段300ペソは、べら棒に高い。

    勇者ラプラプの像とその周辺は島であるため、綺麗な海が見えるのかと思いきや、
    セブ島も含めて、海は殆んど見えない。 南国リゾート地をイメージしてセブに
    来ると、完全に期待を裏切られるため、東南アジアの超ド貧乏な地域をイメージ
    して来る事をお勧めする。 リゾートホテルが乱立している極々一部の地域のみが
    リゾート地なのであり、マクタン島では、一歩外に出ると、観光客目当ての
    たかりが沢山集まって来る場所と心得えておいた方が良い。

    【マクタン島で何故か勝手に船に乗せられることに】
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    東南アジア名物、頼みもしないのに、あちこち連れ回されました。 ラプラプの像
    からは、海が全く見えなかったため、15分ぐらい歩けば、海が見えるだろうと思い、
    道路を歩いていたところ、現地の人たちから次々に声を掛けられたため、
    とりあえず、空港のそばにあるマリーナモールからセブ・シティー行きの格安の
    ワゴンタクシーが出ていることを思い出し、マリーナモールまで行きたいと伝えた
    ところ、100ペソ(約200円)と言われたため、とりあえずこのトライシクルに
    乗ることにした。 因みに、現地のトライシクルの初乗り運賃は8ペソ(約16円)。

    ここで、ついでに海が見たいと言ったのが運の尽き。 勝手に自分の船まで連れて
    行かれ、しかも、そのまま沖に出てしまった。。 その後、海上で料金を尋ねた
    ところ、5,000ペソ(約1万円=現地の月給並み)と言い出したため、とっとと岸に
    戻せと言うと、どんどん言い値が切り下がって来たものの、そもそも、空港では
    3,000円しか両替をしておらず、1,250ペソ程度しか持ち合わせていないにも
    関わらず、この船に乗っている間中、3人のお土産売りのおばさんらに囲まれて、
    お土産を買え!攻撃を延々とされた。。

    最後は、近所の別のショッピングモールまで乗せて貰う約束の筈が、何故か道端の
    タクシーが居るところで勝手に降ろされ、チップとして1,000ペソ(約2,000を)を
    要求されたが、日本円で1,000円しか支払わなかった。 当初は100ペソのみと
    言っていたくせに、5,000ペソまで勝手に切り上げるのは、東南アジア独特の風習と
    言って間違いない。 日本のおもてなしも、全く頼んでもいないのに、勝手に
    過剰サービスを強要されて多額のお金をふんだくられるため、システム的にかなり
    これに近く、アジアの国は基本的に嫌いだ。

    空港からの出だし早々、ボッタクリに遭遇してしまったため、気を取り直して、
    セブ・シティーへと向かった。 セブの人たちは、人間的には良い人たちが多い
    とは思うものの、要求して来る値段が日本円に換算しても高過ぎる。。 最後は、
    土産物売りのおばさんとさっきまで1個1,000ペソ(約2,000円)だと言われていた
    サメの歯の細工と、先日香港で35香港ドル(約500円)で買ったバッタ物の時計とを
    交換し、完全に元を取った(笑)

    【セント・ニーニョ教会とマゼランクロス】
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    タクシーでセブ・シティーに到着後は、セント・ニーニョ教会の前で降ろして
    貰ったため、そのまま目の前にあるセント・ニーニョ教会に入ったところ、
    フィリピン最古のカトリック教会だけあって、5,000名程度でミサを行っていた。
    フィリピンは敬虔なカトリックの国であるため、毎日午後3時と午後6時には、
    神のありがたいお言葉と共に、全ての業務が1分程度ストップする。 以前、
    オーストリアにも住んでいたが、同じカトリックの国でも、こうも違うものなのか
    と思ってしまった。 オーストリアには断食はあるのだが、こういうものは
    なかった。

    セント・ニーニョ教会では、皆ろうそくに火をともしていたので、周囲の真似を
    して5つぐらいのろうそくに火をともし、その場を立ち去った。 ミサは全て
    英語で行われており、フィリピン人の約75%が英語を喋れるという事を実感した
    ものの、フィリピンよりもハッキリ言って、香港の方が断然英語が通じる。
    フィリピン人の英語は、相当訛っているため、非常に聞き取り辛い。

    セント・ニーニョ教会の直ぐ隣には、マゼランが作ったとされているマゼラン・
    クロスがある。 マゼランがフィリピンを発見したのが1521年であるため、
    約500年前にマゼランによって作られた十字架がそのまま展示されていること
    になる。 マゼラン自体は、ラプラプ王によってマクタン島で殺された。
    マゼランはスペインからやって来たため、スペイン人なのかと思いきや、実は
    ポルトガル人。

    セント・ニーニョ教会、マゼランクロスのすぐそばにあるサン・ペドロ要塞は、
    スペイン統治時代に建設されたもので、現在その周辺はセブ港湾地区、独立広場
    となっている。 フィリピンは、スペイン統治時代が長かったため、そこかしこに
    スペイン時代の名残が残っている。 サン・ペドロ要塞は、フィリピン最古の
    要塞であり、初期のスペイン人入植者にとっての中心的な拠点であったもの。
    セブはフィリピンの歴史の始まりの地であるため、フィリピン最古のものが
    多数ある。 この影響で、セブ州で話されているビサヤ語の中には、時々
    スペイン語の単語が残っており、ビサヤ語は何となくスペイン語に響きが似ている。
    フィリピンは、日本支配時代とアメリカ統治時代を経て独立を果たしているため、
    英語に似た単語も多数含まれている。

    【サン・ペドロ要塞とカルボン・マーケット】
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    セブ港のそばにあるフィリピン最古の要塞、サン・ペドロ要塞。 夜は
    ライトアップされており、午後7時半まで中に入ることが出来る。 直ぐ隣には
    独立広場があり、共にセブ・シティーの中心部にある。 セブ・シティーは実は
    余り観光化されていないため、主な見るものとしては、サン・ペドロ要塞、
    セント・ニーニョ教会とマゼランクロスぐらいしかない。 この後は、
    ナイトマーケットへと繰り出したが、台湾や中国のような華やかなマーケットだと
    思っていたところ、大きな勘違いであったことに気付いた(笑)

    セブ・シティー市民の台所、カルボン・マーケットには、実は観光客は殆んど
    おらず、現地の人たちばかりなので非常に雑多。 アジア的なカオスな場所が
    好きな人以外は余りお勧め出来きない場所となっている。 カルボン・
    マーケットは、 人ごみが凄いため、スリに気をつけるようにとガイドブック
    には記されていたが、そこまでの危険性は感じなかったものの、基本的に非常に
    暗いため、何を売っているのか、良く分からない。 カルボン・マーケットは、
    実際のところ、道に物を広げただけの戦後の闇市と言った方が分かりやすい。
    雰囲気的に、正に70年ぐらい前といった感じ。

    カルボン・マーケットから滞在地であるフエンテ・オスメーニャまでは、約2キロ
    程度離れており、セブ・シティーではバスが一切走っていないため、フィリピン
    独自の乗り物、ジプニーで移動しようかとも考えたものの、さほど遠くないため、
    街をぶらぶらしながら、歩くことにした。

    【フエンテ・オスメーニャ】
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    セブ・シティーは、全体的に街が暗くて汚いため、夜の一人歩きは余りお勧め
    出来ないが、途中で何ヶ所かナイトマーケットを見つけたり、格安のマッサージ屋を
    見つけたりと、それなりの収穫があった。 滞在地としては、カルボン・マーケット
    周辺、あるいは、フエンテ・オスメーニャが最もお勧め。 どちらも24時間営業の
    店が多いため、夜遅く到着しても大丈夫。

    カルボン・マーケットから約2キロ離れたフエンテ・オスメーニャまでの途中では、
    かなりの数のジプニーとすれ違ったが、この乗り物にはバス停と言うものが存在
    せず、自分で降りる場所を運転手に伝えて降りる仕組みであるため、現地の人間
    以外は非常に使い辛い。 セブ島にはバス停が一切ないため、バスの乗り降りは
    全てこの仕組み。 しかも、定員オーバーで車体から人間がはみ出していることも
    日常茶飯事。 普通に車の荷台に人間が山盛り乗っているため、ある意味危険だが、
    ある意味見ていて面白い(笑)

    最後は、滞在地のフエンテ・オスメーニャにあるショッピングセンター内の
    Joliebee(フィリピンで人気のハンバーガーショップ)で遅い夕食を食べた。
    この後、午後9時からは、寝る間を惜しんで、3時間のオイルマッサージに行った。
    ここでは、3時間で600ペソ(約1,200円)のマッサージのフルコースを選択し、
    色々なマッサージの中から自分で選択出来るため、1時間フットマッサージ、
    1時間背中のマッサージ、1時間スウェーデン式マッサージをして貰った。
    日本では逆にオイル式のリンパマッサージがなかなかない(あったとしても女性
    限定が殆んど)のと、3時間もマッサージをやって貰うと最低でも2万円は取られる
    ため、かなりの破格値☆ 翌日の集合時間は午前4時50分だったのだが、午前0時
    30分、セブ島の滞在初日がようやく終わった。

    【お勧めの一冊】


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    イギリスは新たに獲得した領土をケベックと名付けた。 イギリスの法律に
    基づいた統治され、ケベックに住居するフランス系カナダ人は差別された。
    例えば、フランス系に多いカトリック教徒は公職に就く事が出来なかった。

    しかし、この法律の下では、フランス系住民にイギリスへの忠誠を誓わせる
    ことは出来ないと思われた。 これは、イギリス政府が南の13の植民地
    (現在のアメリカ合衆国東部)について抱えていた問題でもあった。

    ケベック植民地の初期の総督たちの働き掛けで、イギリス政府はケベックの
    統治に関する法律を変えた。 こうして1774年に制定されたケベック法は、
    フランス系住民に宗教の自由とフランス民法の適用を認めたのである。

    1775年にイギリスの統治に反対して反乱を起こした南の13の殖民地は、ケベックの
    フランス系住民も行動を共にするものと期待した。 しかし、彼らは中立の
    立場を守った。 ケベックに駐留するイギリス軍の南下を妨げるため、反乱軍は
    1775年に北部地方を攻撃した。 モントリオールは陥落したが、ケベック市を
    攻め取ることは失敗に終わった。

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    【アッパーカナダとローワーカナダ】

    アメリカ独立戦争の間も、植民地の住民の中には相変わらずイギリスに忠誠を
    誓う者が多かった。 戦争中も戦争後も、王党派と呼ばれる住民は大勢、
    北のノバスコシアとケベックに逃げた。 間もなく、ノバスコシアの王党派は、
    独自の植民地を求めるようになり、1784年にノバスコシアから分かれた新植民地、
    ニューブラウンズウィックが設立された。

    イギリス系とフランス系の植民者は相変わらず対立していた。 1791年に
    イギリス議会はカナダ法を制定した。 これによって、ケベックは、イギリス系の
    アッパーカナダとフランス系のローワーカナダに二分された。

    アッパーカナダは五大湖地方とセントローレンス川上流地域を含み、ローワー
    カナダはセントローレンス川の下流地域を占めた。 新しく建設された2植民地は、
    それぞれの選任議会制度を採ったが、カナダの全植民地を統治するのは、やはり、
    イギリスだった。

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    【植民地の拡張】
    独立戦争がもたらしたものはアメリカ合衆国の建国だけではなかった。 この戦争に
    よって、イギリスの商人たちは、重要な交易地を失い、イギリスとアメリカ合衆国の
    領土が拡張されるに連れて、インディアンは西に移住した。

    その結果、毛皮交易の主導権を握るハドソン湾会社は、新しい毛皮の産地を
    求めて出先機関を更に西に設け、活動範囲を広げて行った。 18世紀の末には、
    ノースウェスト会社が創設され、ハドソン湾会社の競争相手となった。

    通商が発展するに連れて、イギリス領北アメリカ植民地に編入された新しい土地への
    探検が行われた。 1783年、アレクサンダー・マッケンジーはマッケンジー川
    沿いに探検旅行をし、1793年には、太平洋岸に到達した。

    1811年に、デービット・トンプソンがコロンビア川を探検した。 翌年には、
    トマス・ダグラスが現在のマニトバ州にあたるレッド川沿いの土地に数百人を
    入植させ、レッドリバー植民地を建設した。 1821年にはハドソン湾会社と
    ノースウェスト会社が合併した。 この2社は、カナダ西部中部のほぼ全域を
    統治し、通商の権限を握った。

    19世紀を通じて、それまでインディアンが住み着いていた土地は、ほとんど
    ヨーロッパ人の植民地となった。 人口の多い東部の植民地では、インディアンは
    居留地に移住させられ、その数は減った。 インディアンの重要な食肉だった
    野牛の大群も、ヨーロッパ人が移民して来たために減って来た。 これは、狩猟に
    よるインディアンの生活に大きな影響を及ぼした。

    【お勧めの一品】


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