多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:カトリック

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    イギリスは新たに獲得した領土をケベックと名付けた。 イギリスの法律に
    基づいた統治され、ケベックに住居するフランス系カナダ人は差別された。
    例えば、フランス系に多いカトリック教徒は公職に就く事が出来なかった。

    しかし、この法律の下では、フランス系住民にイギリスへの忠誠を誓わせる
    ことは出来ないと思われた。 これは、イギリス政府が南の13の植民地
    (現在のアメリカ合衆国東部)について抱えていた問題でもあった。

    ケベック植民地の初期の総督たちの働き掛けで、イギリス政府はケベックの
    統治に関する法律を変えた。 こうして1774年に制定されたケベック法は、
    フランス系住民に宗教の自由とフランス民法の適用を認めたのである。

    1775年にイギリスの統治に反対して反乱を起こした南の13の殖民地は、ケベックの
    フランス系住民も行動を共にするものと期待した。 しかし、彼らは中立の
    立場を守った。 ケベックに駐留するイギリス軍の南下を妨げるため、反乱軍は
    1775年に北部地方を攻撃した。 モントリオールは陥落したが、ケベック市を
    攻め取ることは失敗に終わった。

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    【アッパーカナダとローワーカナダ】

    アメリカ独立戦争の間も、植民地の住民の中には相変わらずイギリスに忠誠を
    誓う者が多かった。 戦争中も戦争後も、王党派と呼ばれる住民は大勢、
    北のノバスコシアとケベックに逃げた。 間もなく、ノバスコシアの王党派は、
    独自の植民地を求めるようになり、1784年にノバスコシアから分かれた新植民地、
    ニューブラウンズウィックが設立された。

    イギリス系とフランス系の植民者は相変わらず対立していた。 1791年に
    イギリス議会はカナダ法を制定した。 これによって、ケベックは、イギリス系の
    アッパーカナダとフランス系のローワーカナダに二分された。

    アッパーカナダは五大湖地方とセントローレンス川上流地域を含み、ローワー
    カナダはセントローレンス川の下流地域を占めた。 新しく建設された2植民地は、
    それぞれの選任議会制度を採ったが、カナダの全植民地を統治するのは、やはり、
    イギリスだった。

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    【植民地の拡張】
    独立戦争がもたらしたものはアメリカ合衆国の建国だけではなかった。 この戦争に
    よって、イギリスの商人たちは、重要な交易地を失い、イギリスとアメリカ合衆国の
    領土が拡張されるに連れて、インディアンは西に移住した。

    その結果、毛皮交易の主導権を握るハドソン湾会社は、新しい毛皮の産地を
    求めて出先機関を更に西に設け、活動範囲を広げて行った。 18世紀の末には、
    ノースウェスト会社が創設され、ハドソン湾会社の競争相手となった。

    通商が発展するに連れて、イギリス領北アメリカ植民地に編入された新しい土地への
    探検が行われた。 1783年、アレクサンダー・マッケンジーはマッケンジー川
    沿いに探検旅行をし、1793年には、太平洋岸に到達した。

    1811年に、デービット・トンプソンがコロンビア川を探検した。 翌年には、
    トマス・ダグラスが現在のマニトバ州にあたるレッド川沿いの土地に数百人を
    入植させ、レッドリバー植民地を建設した。 1821年にはハドソン湾会社と
    ノースウェスト会社が合併した。 この2社は、カナダ西部中部のほぼ全域を
    統治し、通商の権限を握った。

    19世紀を通じて、それまでインディアンが住み着いていた土地は、ほとんど
    ヨーロッパ人の植民地となった。 人口の多い東部の植民地では、インディアンは
    居留地に移住させられ、その数は減った。 インディアンの重要な食肉だった
    野牛の大群も、ヨーロッパ人が移民して来たために減って来た。 これは、狩猟に
    よるインディアンの生活に大きな影響を及ぼした。

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    毛皮貿易が段々と盛んになると、フランス人は新世界の領土を拠点とし、フランス
    帝国を築き上げることを目指した。 しかし、フランスはその領土の支配権を
    完全に握っていた訳ではない。 フランス王アンリ4世は、アカディア地方
    (今日のノバスコシアとニューブラウンズウィッグの一部で、北アメリカでの
    最初のフランス領植民地)の所有権を強化するために、新世界の土地を裕福な
    フランス人に譲渡し、本格的な植民地経営に取り組ませた。

    1605年、サミュエル・ド・シャンプランは、ポールロワイヤル(今日の
    ノバスコシア州アナポリスロイヤル)に植民地を築いた。 1608年に
    シャンブランは、ケベック市を建設し、セントローレンスバレーにおける毛皮
    交易の主導権を握るための拠点とした。 また、毛皮交易を盛んにする手段として、
    イロコイ族を支援した。

    1609年にシャンブランの率いるフランス軍が銃で、イロコイ族の酋長を2人殺した
    (銃は当時北アメリカにはじめて持ち込まれた新兵器だった)。 それ以来、
    イロコイ族とフランスは長年敵同士となった。

    シャンブランは、ケベックの毛皮貿易を発展させ、『ヌーベルフランス』と呼ばれ
    ていた地域にフランス人を入植させた。 また、大規模な探検を何度か行い、
    1615年にはヒューロン族の領土まで赴いた。

    1615年、フランスからカトリックの宣教師がやって来て、インディアンの間で
    布教活動をはじめた。 10年後には、イエズス会の宣教師たちがカナダに上陸した。
    1642年には、フランスの他の派の宣教師たちが、モントリオールにカトリック
    教徒の植民地を築いた。

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    ヨーロッパ人の到来は、インディアンの文化に深刻な打撃を与えた。 天然痘など
    海外から持ち込まれた病気によって、多くのインディアンたちは、自由に食料を
    採ったり、これまでの習慣に従った生活をしたりすることが出来なくなった。

    毛皮交易をめぐる競争によって、インディアンの部族間の対立が激しくなった。
    キリスト教の宣教師は、先住民の文化や信仰を認めず、ヨーロッパの社会組織と
    宗教制度を押し付けた。 こういう変化のお陰で、インディアンの部族間の連帯は
    ますます弱まった。

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    フランスの人口ち経済は15世紀の後半になって、長年の疫病、飢え、戦争の
    痛手から回復した。 シャルル7世の後継者ルイ11世は、フランス貴族の力を奪い、
    租税を徴収し、王領を広げ、常備軍をつくった。

    平和と国王たちの経済政策によって、16世紀初頭には既に、商人や銀行家の中産
    階級が育っていた。 ルネサンス(文芸復興運動)がイタリアで起こり、フランソワ
    1世がフランス人の芸術家を奨励したので、フランスにも広まった。

    カトリック教に対する新教徒(プロテスタント)の宗教改革も、16世紀初頭に、
    スイスの神学者ジャン・カルヴァンの教えを通してフランスにもたらされた。
    フランスのカルヴァン派新教徒ユグノーは、多くの追随者を獲得した。

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    フランスの国王とカトリック教徒は、ユグノーを王権への脅威とみなした。 国王は
    ユグノーを滅ぼそうと企て、16世紀後半には、宗教をめぐる内戦が始まり、沢山の
    死者が出た。 ローマ・カトリック教会は1572年、パリで新教徒の群集を攻撃し、
    2,000人も殺した。

    フランソワ1世の3人の孫は、母親であるアンリ2世王妃カトリーヌ・ド・メディシス
    の強い指示で次々と王位に就いた。 最年少の孫が1589年、直径の継承者を残さ
    ないで暗殺されると、聖王ルイ9世の子孫でユグノーの指導者のアンリ・ド・
    ナヴァールが王位を継ぐ。

    これが、ブルボン朝第1代国王のアンリ4世で、新教徒の王を嫌うカトリック教徒を
    なだめるために1593年、カトリックに改宗し、1598年には信仰の自由を認めた。

    フランスは、アンリ4世時代に、再び力を盛り返した。 国王は道路と運河を建設、
    平民の税金を軽くし、貴族の土地所有を減らした。

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    アッティラが敗退すると、フランク族はライン川からロワール川にまたがる
    ガリア地帯を数十年支配した。 486年、フランク族の国王クローヴィスは、
    北フランスのソワッソンでローマ軍を破ってガリア北部を征服し、この地を
    フランキアと呼んだ。

    冷酷でずる賢いクローヴィス王は、フランク族を終結し、メロヴィング朝の基礎を
    築いた。 496年にフランク族の宗教を捨ててキリスト教に改宗し、フランク帝国も
    キリスト教国となった。 キリスト教の中心はローマであり、ローマ・カトリック
    教会は信徒を支配した。

    クローヴィスの死後、帝国は4人の息子に分割された。 遺産の分割はその頃の
    慣習だったが、相続者たちは、自分の領土を広げるために戦争し続けた。
    フランキアは南部と東部の土地を併合して大きくなったが、分裂状態のメロヴィング
    朝の勢力は衰えて行った。

    国王の行政権は、メロヴィング朝の王たちの最高顧問であった大宰相に移って
    行った。 こうした大宰相の中でも最も力のあったエリスターベルのペピン
    (ペパン)は、優れた指揮官だった。 ペピンが714年に死んだ時、既に強力に
    なっていた王国を継いだのは、息子のシャルル(カール)だった。

    シャルルは、『つち(槌)』を意味するマルテルというあだ名の通り、戦争では
    負け知らずだった。 北イタリアのロンバルディア人がローマを攻略するのを
    防いだので、フランク王たちとローマ・カトリック教会との関係は密接になって
    行った。

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    【シャルルマーニュ(カール大帝)】
    シャルル・マルテルの息子が、フランキアの新しい王朝のカロリング朝を打ち
    立てた。 シャルルと同じ名前の孫シャルルは、ライン川の東側に住んでいた
    ザクセン人、バイエルン人、アヴァール人を征服した。 若いシャルルはまた、
    北アフリカからスペインとポルトガルに侵攻して来たムーア人を、フランス南部で
    食い止めた。 シャルルは武将であり、精力的な統治者だった。 ドイツ、
    北イタリア、現在のフランスの殆んど全部を占領地にした。

    800年にシャルルは、軍隊を率いてローマに赴いた。 ローマの貴族の教皇の間の
    争いを調停するためだった。 シャルルは、教皇に有利になるように争いを解決
    した。 感謝した教皇はサン・ピエトロ寺院で、シャルルに金の王冠を載せ、
    西ローマ帝国の皇帝にした。 その後、シャルルはシャルルマーニュ(カール大帝)
    と言われるようになった。

    シャルルマーニュはその政治手腕と権限で、広い帝国を統治した。 814年に
    亡くなると、領土は相続者たちに分けられた。 孫のシャルル禿頭王の領地となった
    ライン川の西の地域の西フランク王国は、現代フランスの先祖である。

    カロリング朝の力は、9世紀から10世紀初めに掛けて衰え、北ヨーロッパからの
    侵略者バイキングを阻止出来なかった。 裕福な地主たちは防衛のため城を築き、
    私兵を雇った。

    やがてこの貴族たちは、城の周りの地域を統治する領主になった。 農民は、
    侵略者から守ってもらう代わりに、領主の農地で働いた。 農民はまた、領主に
    忠誠を誓い、収穫の一部を年貢として献納した。 領主たちは、その財産と富で、
    フランス国王に影響を与え、自分たちで国王を選出する程になった。

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    中世においてベラルーシは、東スラブ初の国家、キエフ公国の一部であった。
    この国が没落すると、ベラルーシは、諸侯の支配するいくつかの国に分裂し、
    その後14世紀には、リトアニア大公に統治されることになった。 この大公は、
    1385年にポーランドと同盟を結んだ。 これにより、ベラルーシは、ポーランドの
    強い影響下に置かれた。

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    特に、貴族らが受けた影響は、非常に大きく、彼らの間にカトリック信仰が
    広まった。 他の東スラブ地方と文化の差が広がるにつれて、独自の
    ベラルーシ語が形成されて行った。 18世紀にポーランドが分割されると、
    ベラルーシは、ロシア帝国に属することになった。 しかし、ポーランド
    文化の影響を受けた上層階級の人々は当初、依然として重要な地位に
    留まっていた。

    19世紀になると、指導者たちは、ロシア化政策を推し進め、ベラルーシ語での
    出版が禁止された。 一方で、ベラルーシの文化的な自立を求める民族運動も
    高まった。 彼らは、ロシアであれ、ポーランドであれ、あらゆる外国の支配に
    対抗したのである。

    1917年のロシア革命後、まず『ベラルーシ民族共和国』というブルジョワ国家が
    設立されたが、これは1919年に『ベラルーシ・ソビエト社会主義共和国』の設立に
    よって解消された。 共和国は、ロシア・ポーランド戦争後、1921年にリガの
    和約でポーランドに接する西側の領土を失った。 1922年、共和国はソビエト
    連邦に加盟した。

    ソ連は当初、民族文化の自発的発展にある程度の自由を与える政策を取っていたが、
    スターリン時代になると、あらゆる民族運動に対して強い弾圧が加えられた。

    第二次世界大戦では、ベラルーシは多数の死者を出し、破壊的な痛手を被ったが、
    大戦後、1921年に失ったポーランドの領土を再び取り戻した。 1945年には、
    スターリンがルーズベルトとチャーチルに求めた国連におけるソ連の3つの議席の
    うち、1つをベラルーシが得た。

    1980年代の政治改革によって、ベラルーシでも民族運動が盛んになった。 1989年、
    バルト諸国に倣い、『民族戦線』が創立された。 1990年に主権宣言を行い、
    1991年には、独立を宣言した。 当初、形態を変えて連邦を存続されることを
    他国よりも強く主張したベラルーシであったが、1991年12月には、独立国家共同体
    (CIS)設立を主唱する3国の1つとなった。

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    ベラルーシ(白ロシア)は、旧ソ連西部に位置する。 西はポーランド、北は
    リトアニアとラトビア、南はウクライナそそれぞれ国境を接している。 総面積
    20万7,600平方キロメートルの国土を持つ。 国名の『白』とは、『北』を
    意味する。 キエフ公国から見れば、この国は北にあったからである。

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    ベラルーシは、氷期に形成された低地に広がる国である。 モレーン低地
    (ベラルーシ山地)辺りにのみ激しい起状が見られる。 この国はいわゆる
    東ヨーロッパ混合林地域にあり、国土の約4分の1が森林と雑木林からなっている。
    この地域は、東ヨーロッパの一般的な気候から言うと、極めて降水量が多い。

    この地の自然は、湿地帯に広がる森林と低地の草原、また数多くの湖によって
    特徴付けられる。 この地の土壌は農業には余り適していないため、ここでは
    特に畜産(養豚、乳牛飼育)が盛んである。 主要農産物は、麻、ジャガイモ、
    ライ麦、飼料作物などである。

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    総人口は1000万人を上回り、そのうち、約80%がベラルーシ人で、その他、
    ロシア人12%、ポーランド人4%、ウクライナ人2%、ユダヤ人2%が住んでいる。
    ロシア革命以前は、国民の大半がロシア正教を信じていた。長い間、ポーランドや
    リトアニアとの交流も盛んであったため、カトリック信仰も、特に西部において
    かなり広がりを見せていた。

    ベラルーシは、自然条件から見ると、余り恵まれた国とは言えない。 土壌が
    優れないために、農業も畜産に限られている。 石炭、塩、石油、泥炭も生産
    されるが、国内需要にのみ使用されている。 国民の教育水準は比較的高く、
    機械や鉄鋼などの専門的な工業の育成が奨励されて来た。 首都ミンスクは、
    人口から言っても、また産業の集中度から言っても、他都市を遥かに上回る
    主要都市である。

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    ヤン・フス の出現以来、プロテスタント信仰はスロバキア貴族の間に広まった。
    17世紀始めに、ハンガリーやスロバキアのプロテスタントは、強固なカトリックで
    あるハプスブルグの支配に対抗した。

    1618年、ボヘミアの首都プラハでハプスブルグに対する反乱が起こり、
    ヨーロッパのカトリック諸国とプロテスタント諸国の争いである三十年戦争
    (1618~1640年)が始まった。

    戦争中、トランシルバニアの支配者で、プロテスタントのガボール・ベトレンは、
    スロバキアのハプスブルグ家に反抗した。 1620年、ベトレンは、ハンガリー
    議会によって王国に選ばれたが、翌年、その称号を捨て、ハプスブルグと
    和解した。 ハプスブルグ支配下で、大勢のハンガリー貴族は改宗して、
    カトリックに戻った。

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    三十年戦争の終わりに結ばれたウェストファリア条約で、ハンガリー議会は
    権力を排除され、ハプスブルグはスロバキア支配を回復した。 17世紀の
    終わり、ハプスブルグ軍は、ハプスブルグ帝国の首都ウィーンでトルコ軍を
    破った。 この勝利は、ハンガリーをトルコの支配から解放したが、同時に
    スロバキアでのハプスブルグ支配を強めた。 オーストリアの言語である
    ドイツ語スロバキアの教育、行政の公用語となり、スロバキア語は死語も
    同然となった。

    同時に、ハプスブルグは、領地内の全てのプロテスタント宗派を禁止した。
    1703年に、ハンガリー人とスロバキア人は、ハプスブルグ支配に激しく抵抗し、
    反乱を起こした。 反乱は鎮圧されたが、ハプスブルグはブラチスラバで、
    ハンガリー議会を開くことを許可した。 1711年にハプスブルグは、トルコに
    征服されて失っていたハンガリー王国の国境線を回復した。

    だが、相変わらず、スロバキア人の大部分は貧困にあえぎ、ハプスブルグからの
    宗教的迫害を受けていた。 政治的権利は何もないのに、スロバキア人は
    税金を徴収され、兵役に就き、地主のために働くことを要求された。 こうした
    抑圧はやがて、スロバキア人がハプスブルグ領内で、自治を要求する動きに
    繋がった。

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    初期ポルトガルの国王たちは、権力の強化にはローマ・カトリック教会と裕福な
    地主たち支持が不可欠と知って、1211年にアルフォンソ2世は、高位の宗教指導者と
    貴族たちをコインブラに集めた。 これが後のコルテスと呼ばれるポルトガル
    身分議会の始まりである。

    アルフォンソ2世とその後継者、サンチョ2世の時代は、教会と諸王が土地や収入、
    権限を取り合って争い、その結果、ローマ・カトリックの法王は1245年、サンチョ
    2世の王位を与えることを拒否、代って弟のアルフォンソ3世を王位に就かせた。

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    アルフォンソ3世の下、ポルトガル軍は、アルガルベからムーア人を追い出し、
    ポルトガルの領土を現在の広さにまでしたのだった。 ムーア人はこれで、
    イベリア半島のポルトガル側に持っていた最後の砦を失ったことになる。
    アルフォンソ3世は更に、1253年コルテスを創設し、初めて商人や町人も、
    牧師や貴族と同席出来るようになった。

    ポルトガルは、アルフォンソ3世の息子、ディニス王(1279~1325年)の長い
    時代を通じて繁栄した。 ディニス王は、初めて大学を創設し、農業の開発、
    造船工業の育成にも力をつくした。 漁業と貿易も発展し、外国から金属類や
    武器、繊維がリスボンに入るようになった。 一方、ポルトガルからは、ワインを
    始め、ロウ、みつ、オリーブ油が北ヨーロッパに向け出荷されて行った。

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    リスボンは、その富と重要性から、当然のように新しい首都になり、1298年までに、
    政府の所在地は、コインブラからリスボンに移った。 ところが、1340年代、
    リスボンに停泊中の船の中に居たネズミがペストをポルトガルにもたらすことに
    なり、ポルトガル国民の3人に1人がこの伝染病に掛かって死んで行った。 この
    結果、労働人口の減少から農業生産はガタ落ちとなり、その後数十年もの間、
    政府は、荒地となった農地の再開発に取り組まなければならなかった。

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    ムーア人による占領当時、ムーア人たちは、テージョ川の南、アレンテージョと
    アルガルベ地方に住み着いた。 そのあたりの気候は、北アフリカの本国に
    似ていた。 ムーア人たちは、かつてのローマ人の支配下にあった広大な土地を
    支配し、ローマ人の造った街に住んだ。 征服者たちは、君主としておさまり、
    出来るだけ地元の住民に行政や税の徴収を任せた。

    イベリア人の中には、イスラム教の信者になる者もいたが、ポルトガル南部の
    住民の多くは、ローマ・カトリックのままだった。 他のイスラム圏からやって来た
    ユダヤ人は、自分たちの宗教をそのまま続けることが出来た。

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    ユダヤ人の多くは、貿易商人か、芸術家、学者たちだったが、ムーア人はユダヤ人
    たちのそういう職業をこれまで通り認めた。 当時の建築、装飾、その他の
    芸術は、ムーアとキリスト双方の伝統の影響を受けている。 ムーア人は教育にも
    力を入れ、キリスト、イスラム、ユダヤの各学問が当時は栄えたものである。

    ハリハと呼ばれるムーア人統治者たちは、イベリア半島を地元のリーダーに任せて、
    指導権争いのためアフリカに帰って行く事が少なくなかった。 ハリハが不在だと、
    ムーア人統治が崩れることもあった。 時には、権力のあるハリハ人が、イベリア
    半島の防衛体制を強化、ムーア人の権限を一段と大きなものにして行った。

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    700年代はじめに、西ゴート勢力内部分裂を起こし、反乱派は、北アフリカから
    戦術に長けてい軍隊を呼び寄せ、西ゴートを統治していたロデリック王に対して
    謀反を起こした。 この反乱軍がムーア人と呼ばれ、アラブ人とバーバル人の
    混成である。 彼らの宗教は、イスラム教と呼ばれる一神教で、アラビアで
    生まれ、後にイスラム教として知られるようになった。

    このイスラムによる、イベリア半島侵攻がスペインで始まったのが711年。
    ムーア人はロデリック王の軍隊を蹴散らし、王は戦死した。 侵攻したムーアの
    軍は北アフリカには帰らずに、コルドバやトレド(現在はスペインの都市)など
    豊かな街を次々と占領して行った。

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    ロデリック王を倒した西ゴートの反乱勢力もムーア人の進撃を阻止出来ず、18世紀
    半ばまでに、北部の山岳地帯を除くイベリア半島の大半がムーア人の支配下に
    入った。

    ポルトガル北部のカトリック教徒たちは、イスラム教のムーア人たちに抵抗した。
    キリスト教軍は、侵攻して来たムーア人を50年以内にドウロ川の南に追いやり、
    現在のポルトガルにあたる街とその周辺の領土を取り返した。

    11世紀半ばまでには、キリスト教軍は更に、コインブラの南にまで勢力を広げて
    行った。 貴族達はこうして、スペイン北部の広大な土地も含めてキリスト教の
    勢力下におさめた。 ポルトガル、および、コレインブラ周辺の一帯は、
    ガリシア地方として、レオン・カスティーリャと呼ばれる北イベリア王国の
    領土になった。

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    ポーランド人が10世紀にキリスト教を信仰するようになって以来、カトリック
    教会は、大きな影響力を持つようになった。 教会への忠誠心によって、
    ポーランド人は19世紀の分裂と外国支配の時期にも、民族としての自覚を保つ
    ことが出来た。 その後、共産主義政府が宗教活動を制限するようになっても、
    一部の教会や神学校は、人々の間で存続した。 教会の指導者たちは反体制
    運動に参加した。 1878年、ポーランド教皇、ヨハネ・パウロ2世となると、
    自分の影響力と人気を活用して、改革を推進させた。

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    クリスマスとイースターは、主要な宗教的祭日である。 8月15日の聖母
    被昇天の祝日には、多くのカトリック教徒がチェンストホヴォにあるヤスナ・
    グラ修道院に行き、『黒の聖マリア』の霊廟に礼拝する。 信仰の厚い人たちは、
    この聖母マリ像が17世紀のスウェーデンの侵略を阻止したと信じ、以来
    『黒の聖母マリア』は、ポーランド民族の象徴となった。

    ポーランド人の95%以上がカトリック教徒である。 残りの大部分はギリシャ
    正教徒、プロテスタント、または、ユダヤ教徒となっている。

    何世紀もの間、ポーランドはユダヤ人たちの信仰と知識と文化の重要な中心
    だった。 しかし、第二次世界大戦中、ユダヤ系住民たちは、ナチスの迫害に
    よって、蹂躙され、この戦争で生き残ったユダヤ人たちの大部分は、ポーランド
    国外に移住して行った。

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    14世紀の終わりに、司祭ヤン・フスに率いられたボヘミアの宗教指導者グループが、
    カトリック教会の権力と富に抗議した。 この活動が広まるのを恐れた教会の
    指導者たちは、フスを捕らえ、1415年に処刑した。

    彼の死は、ボヘミアに宗教的な内戦を引き起こし、フス派と呼ばれたフスの信者が、
    スロバキアにまで入り込んで来た。 15世紀後半に、チェコの貴族ヤン・ジスカは
    西スロバキアに侵入し、フス派の教義を伝えた。

    16世紀はじめのドイツでも、フスの思想はローマ教会のあり方に抗議する考え方を
    目覚めさせ、マルティン・ルターがカトリック教会から離脱して、ルーテル派教会を
    確立した。 プロテスタントとして知られるルーテル派は、スロバキアの貴族や
    都市部の人たちを改宗させた。 彼らの多くは、ハンガリーやドイツ人であった。
    しかし、地方に住むほとんどのスロバキア人は、伝統的な宗教ローマ・カトリックの
    信仰を守った。

    luther500th

    ちょうどその頃、新たな脅威がハンガリーや中央ヨーロッパ全体を襲っていた。
    オスマン・トルコの軍隊が取るこの基地から出発して、ドナウ川流域を進軍し、
    ハンガリーの首府であるブダ目指して侵入して来た。 1526年、ハンガリー国王
    ラヨシュ2世は、ハンガリーの南の町、モハチでトルコ軍と戦った。 トルコ軍は、
    ハンガリー軍を破り、ラヨシュは戦場から脱出の途中に戦死した。

    ラヨシュの死で、トルコ軍はブダを征服し、ドナウ川の北までを占拠した。 東ハンガリー
    地方のトランシルバニアは、ハンガリーから独立した。 トルコの侵略から守るために、
    西ハンガリーの人たちは、オーストリア皇帝フェルディナントを国王に迎えた。 結果、
    強大なハプスブルグ王朝の一員であるフェルディナントは、ハプスブルグの支配を
    スロバキアやボヘミア王国へ広げた。

    1535年にハンガリー議会は、トルコ軍からの侵入に備えて、ブダからブラチスラバへ
    移った。 多数のハンガリー貴族もまた、安全と独利のために、更にトルコのスルタン
    から課せられる重税を逃れるために、ドナウ川の対岸へ移り住んだ。 彼らは、
    トルコの支配から逃れたが、スロバキア人の多くは、奴隷として拘束され、ハンガリー人
    の領地に残った。

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