横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:オーストリア

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    元々、チロルはひとつだったが、第一次世界大戦後、ハプスブルグ帝国の
    崩壊と共に、南チロルは、オーストリア領からイタリア領となった。 しかし、
    この地域では、今でも『チロル』としての住民意識が根強く、イタリア内に
    ありながら、多くの人達が今でもドイツ語で生活をしている。

    現在は、イタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジェ州ボルツァーノ
    自治県に属しており、街で飛び交う言語は、ドイツ語が最も多い。 街の通りは
    ドイツ語とイタリア語が併記されており、南チロルでは、イタリア語が強制
    されたことから、衝突が生じた時代もあったが、今では、ドイツ語で教える
    学校もあり、各家庭で子供をどちらで学ばせるかを選択出来るようになっている。



    【メラーノ(Merano) / メラーン(Meran)
    チロル地方の古都、メラーノは、ドイツ語では『メラーン』と呼ばれており、
    13世紀にチロル地方の都として定められた。 公式には、19世紀まで都であり
    続けたが、実際のところは、名ばかりであったため、現在では、緑あふれる
    気品のある街となっている。 ブルグラヴィアート(ブルクグラーフェンアムト)
    地方 (Burggrafenamt) の中心都市となっており、県都ボルツァーノからは、
    北西へ約25km、州都トレントからは、北へ約66kmの距離にあり、保養地
    として整備されているため、街歩きも実に楽しい。



    【ボルツァーノ(Bolzano) / ボーツェン(Bozen)】
    ボルツァーノは、ドイツ語では『ボーツェン』と呼ばれており、イタリア共和国
    トレンティーノ=アルト・アディジェ州北部の都市で、その周辺地域を含む人口
    約10万人の基礎自治体(コムーネ)で、ボルツァーノ自治県の県都となっている。
    古都メラーノの街からは、約25キロの場所にあり、山に囲まれた地理的な条件は
    同じだが、非常に対象的な街となっている。 緑の街であるメラーノに対して、
    ボルツァーノは石の町。 都であるメラーノに対して、ボルツァーノは商業の
    街だった。

    ボルツァーノの旧市街は意外に広く、街が古くから繁栄して来たことを意味して
    いる。 大きな広場を中心に、石畳の路地や、建物の中を通り抜けられる道が
    張り巡らされている。 建物には、壁画や彫刻を施されたものが目に付く。
    ボルツァーノは、石造りの特有の重々しい印象があるが、南チロルに降り注ぐ
    力強い日差しがそれを跳ね返し、街全体をとても明るくしている。 同じ
    チロルにある石造りの街、インスブルックと比較してみるのも興味深い。

    旧市街は、1本の川が境界線となっており、川沿いの道は、緑の多い公園と
    なっている。 古くは、ローマ時代まで遡る街だが、中世時代に、年に4回
    ほど大きな市が開かれたため、街が発展した。 その歴史を受け継ぎ、市が
    立つ通りが今でもある。

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    【バーベンベルグ王朝】
    862年、ローマ教皇は、オットー1世に初代神聖ローマ帝国の帝冠を授けた。
    この新帝国は、ドイツやイタリアにある数多くの小さな王国や、公国等の
    領邦から成り立っていた。 それらの領邦の君主の中で、7人が選挙侯と
    呼ばれる地位を持ち、選挙侯が皇帝を選ぶ仕組みだった。 976年、オットー
    1世はの後継者オットー2世は、バーベンベルグ家のレオポルドをオーストリア
    辺境伯に任命した。 オーストリアのバーベンベルグ王朝の始まりである。

    バーベンベルグ王朝の初期には、バイエルンから多数がオーストリアに
    入植して、村落や農場を作った。 この王朝の君主達は、オーストリアと東の
    マジャール人の土地との境界のライタ川に防衛線を築いた。 道路網が新たに
    整備されて近隣諸国との交易が拡大された。 オーストリアは、神聖ローマ
    帝国内の一領邦ではあったが、実質的には、独立国の要素が大きかった。

    dsc02909

    12世紀中頃に、皇帝とローマ教皇との権力闘争が激しくなったが、
    バーベンベルグ家は皇帝を支持した。 1156年、皇帝フリードリヒ1世は、
    オーストリア辺境伯ハインリッヒ2世ヤスミルゴットの地位を侯爵に引き
    上げて、功労に報いた。 この初代オーストリア公は、初めてウィーンに
    定住した君主である。 この時期のオーストリアは、平和で繁栄を続けた。

    バーベンベルグ家の君主達はまた、十字軍の後援者だった。 十字軍の
    戦士達は、イスラム教徒と戦うために、ドナウ川を経由して中東に向かう
    ことが多かったので、オーストリアの経済的重要性は大きくなった。
    リンツやクレムス等川沿いの都市がこの時期に誕生した。 1192年隣国の
    シュタイヤーマルクの君主が相続者のないまま死ぬと、バーベンベルグ家は
    事前の協定に従って、この公国の支配権を得た。

    【ハプスブルク王朝】
    バーベンベルグ家の領土が拡大するに従って、マジャール人の攻撃がまた盛んに
    なった。 1246年、オーストリア公フリードリヒ2世は、マジャール人との戦いで
    戦死し、バーベンベルグ家は絶えた。 北隣のベーメン(チェコ)の国王
    オットカル2世は、フリードリヒ2世の未亡人と結婚し、オーストリアと
    シュタイヤーマルクを自分の領土に併合した。 1273年、選挙侯達は、スイスの
    裕福な一族の家長であるハプスブルク家のルドルフを神聖ローマ帝国皇帝に
    選出した。 1278年、ハプスブルク家の軍隊は、マルヒフェルトの戦いで
    オットカルを打ち破った。 オットカルの領土は、次々とルドルフの支配下に
    入った。 こうしてルドルフを初代とするハプスブルク王朝が始まり、以後、
    600年以上に渡ってオーストリアに君臨することとなる。

    hapsburg

    ハプスブルク家のオーストリア君主の殆どは、同時に神聖ローマ帝国皇帝でも
    あった。 ハプスブルク家は、結婚によって14世紀中に、ケルンテン、
    フォアアールベルグ、チロルをオーストリアに併合した。 だが、
    ハプスブルク家は、これらの新領土の絶対的な君主ではなく、どの地域でも
    貴族と聖職者達から成る議会の制約を受けた。 議会は、人民に課税し、軍隊を
    徴収する権限を持っていた。 農民達は、過酷な動労を強いられ、領主の許可が
    なければ、結婚も移住も出来なかった。 聖職者は、ローマ教皇以外の権威を
    認めなかた。

    ハプスブルク家は、新たに領土をオーストリア公国にもたらしたものの、秩序
    ある継承順序を定めてはいなかった。 相続者同士の争いはしばしば公国を
    混乱に陥れ、貴族達に対するハプスブルク家の支配力を更に弱めた。
    ハプスブルク家と貴族達の対立は、15世紀初期まで続き、オーストリアの
    経済を衰退させた。

    1463年、シュタイヤーマルクのフリードリヒは、相続争いの内戦を生き抜いて、
    チロル以外のオーストリア全土の支配者となった。 1477年、フリードリヒの
    息子、マクシミリアンは、ブルゴーニュ公の後継ぎマリアと結婚し、
    ネーデルランドの土地(オランダとベルギー)は残らずハプスブルク家の
    領域に編入された。

    1493年に神聖ローマ帝国皇帝となったマクシミリアンは、結婚によって
    ハプスブルク家の領土を拡大させる政策を続け、自分の息子をスペイン王
    フェルディナントの娘と結婚させた。 この結婚から生まれたカール5世は、
    1516年にスペイン王となり、1519年、神聖ローマ帝国皇帝に選出された。
    その結果、カールは、ドイツとスペインを含む広大な領域をハプスブルク家
    当主として支配することとなった。

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    カールの弟のフェルディナント1世は、オーストリアの支配者となり、ベーメンと
    ハンガリー両国の王を兼ねた。 ベーメンは、現在のチェコであり、ハンガリーは、
    マジャール人が創設した国である。 ハンガリー貴族の一部は、トルコの支援を
    得てフェルディナントに反抗した。 当時のトルコは、軍事大国で、バルカン
    半島の大部分を支配下に治めていた。 トルコ軍は、1529年にウィーンに
    迫ったが、フェルディナントの軍は、これを撃退した。

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    先史時代、現在のオーストリアとなっている地域の渓谷は、氷河で覆われていた。
    紀元前1万年頃、この氷河は溶けて、北へ後退した。 気候の温暖化につれて、
    穴居している先史人類達は、森林や渓谷で狩猟や耕作を始めた。 そのうちに、
    人々は、この地域の岩塩を採掘したり、金属の器具や武器を作るようになった。

    その結果、紀元前3000年頃には、この地域は、ヨーロッパ交易の中心になって
    いた。 紀元前800年頃、ザルツカンマーグート地域のハルシュタット付近に
    重要な交易の中心地が出来、熟練した工人達が作った鉄や青銅の剣は、ヨーロッパ
    西部や北部に輸出された。

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    紀元前450年頃から、ケルト人と呼ばれる熟練した騎馬戦士達が、東からヨーロッパ
    東部を横断してドナウ川の南岸に侵入し、ノリクム王国を建てた。 ケルトの
    工人達は、鉄、銅、青銅を使って武器や日常用具を作った。 岩塩と鉄鉱石の
    管理で、強力で安定した王国となったノリクムは、数世紀に渡って繁栄した。

    ケルト人の土地の北には、今のドイツ人の先祖であるゲルマン人達が住んでいた。
    ゲルマン人は、ノリクムの鉱山や定住地を度々攻撃し、遂には、ノリクム王国を
    通過して、王国の南にあるローマ人の都市を度々攻撃した。 ローマ人は、
    イタリア半島を根拠地とする民族だが、紀元前1世紀には、地中海沿岸の殆どを
    征服して大帝国を築きつつあった。 ローマ人達は、ゲルマン人の攻撃を阻止
    するために、ノリクムに侵入し、紀元前15年頃、ケルト人達を征服して、ドナウ川
    沿いに新しく要塞を築き始めた。

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    ローマ帝国は、この地域に3個の州を作った。 アルプス山脈ラエティア、
    オーストリア中部のノリクム、そして、ノリクムの東でドナウ川の南岸を
    占めるパンノニアである。 この地域のローマ諸州では、安定した軍制の下で、
    200年に渡って平和が続き、往来の激しい交易ルートに沿って、新しい都市が
    次々に建設された。 商人達は、帝国の他の地域に岩塩、金属、羊毛、家畜を
    輸出した。 ローマ人達は、ウィンドボナ(後のウィーン)とその東の
    カルヌントゥムに城壁に囲まれた都市を建設した。

    しかし、西暦2世紀の後期になると、繁栄していたノリクムの諸都市は、ローマの
    国境外に住む好戦的な諸民族の攻撃に再びさらされることになった。 ドナウ川
    越しの攻撃は、4世紀一杯続いた。 その間に、帝国の指導者層が分裂して、
    国境沿いの諸州への支配力が弱まった。 こうして、この地域での交易は、次第に
    衰えた。

    400年代になると、ローマの軍隊は、北部の諸州から撤退した。 すると、
    東からは、スラヴ人が、北からは、ゲルマン人が、ローマの諸州を次々と攻撃
    した。 5世紀末には、ローマはすっかり衰退し、アジアから来たフン族の大軍が、
    アッティラという名の王に率いられて、ヨーロッパ中部を制圧した。 農地や
    交易ルートをめぐる争いも、しばしば戦争の原因となった。 ゲルマン人達は、
    パンノニアに定住した。 北東からはチェコ人達がドナウ渓谷に進出し、また、
    西から移動して来たアレマニ人は、オーストリア西部の山岳地帯にいくつも
    村落を作った。

    キリスト教は、1世紀初めに、イスラエルのイエス・キリストの教えに基づいて
    成立した宗教である。 代々のローマ皇帝達は、この宗教を敵視し、厳しい
    禁止令を設けて信者達を迫害したが、伝道者達のたゆみない努力でキリスト教は、
    帝国領地内の人々の間に着実に広まり、4世紀末には、帝国の国教として公認
    された。

    ローマ帝国が滅んで、戦乱や侵入が激しくなる中で、キリスト教は、一層の
    広がりを見せ、8世紀には、ローマに住む教皇の下、単一の宗教組織としての
    カトリック教会が成立した。 この宗教がこの地域に伝えられたのは、西隣の
    バイエルンからで、人々は、両地域の境のザルツブルグに教会を建立した。
    798年、ザルツブルグは、独立の大司教管区として定められた。

    corton-charlemagne

    この頃、ゲルマン人の一派フランク族の皇帝でフランスに君臨していた
    シャルルマーニュは、領土を東に広げて、788年、この地域を征服し、ここを
    『オスト・マルク(東の防衛戦)』と名付けた。 東からスラヴ人や
    アヴァール人等への牽制の意味を持つ名称で、後に『エスターライヒ
    (東の王国)』と変えられ、オーストリアの正式な国名となった。

    814年にシャルルルマーニュが死ぬと、相続者達は、帝国の覇権をめぐって
    争った。 817年、オーストリアは、シャルルルマーニュの孫のルートヴィッヒの
    支配するバイエルン王国の一部となった。 843年にヴェルダン条約が締結
    されて相続争いは終わり、ルートヴィッヒは、東ランク王国を創設した。
    これは、現在のオーストリアとドイツを殆ど含む広大な領域となっている。

    878年、ルートヴィッヒの死後の後継者達の争いで、東フランク王国は弱体化した。
    9世紀末、アジア系の遊牧の民、マジャール人は、ドナウ川か沿いに、スラヴ人と
    アヴァール人は、東と南から、それぞれオーストリアに侵入し、数多くの都市や
    農場を破壊した。 955年、ドイツ王オットー1世は、レッヒの戦いで
    マジャール人を破り、オーストリアを独立の領邦、つまり、小国家と定めた。

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    モーツアルトが、オーストリアのザルツブルグに生まれたのは、1756年のこと
    だった。 『神童』と呼ばれた彼は、大司教の宮廷副楽長だった父に連れられ、
    幼い頃からヨーロッパ中を演奏旅行に出掛けた。 モーツアルトの滞在を示す
    銘板が、各地で誇らしげに掲げられているのは、このためである。



    ザルツブルグには、モーツアルトの痕跡が至る所にある。 生家に住居、銅像、
    モーツアルトの名前を冠した『モーツアルト クーゲル』というチョコレート
    まである。 しかし、神童を迎え入れる宮廷はどこにもなかった。 ザルツブルグ
    もモーツアルトを評価した訳ではなかった。 父親の口利きで、何とか大司教に
    召し抱えられたものの、袂を分かち、ウィーンに移り住んだ。 順風満帆の筈
    だったが、華々しさの裏で、浪費癖は治らず、ギャンブルに明け暮れ、生活は
    逼迫した。 そして、数多くの名作を作りながら、わずか36歳でこの世を去った。



    ザルツブルグ音楽祭(Salzburger Fetsspiele)が始まったのは、1920年の事だった。
    1842年にモーツアルトの没後50周年を記念して開かれた音楽祭が基となった。
    モーツアルトの世界的な評価が高まり、ザルツブルグにもようやく認められる契機と
    なった。 それが、音楽、オペラ、演劇と総合的な音楽祭へと発展した。

    フルトヴェングラー、ベーム、カラヤンや、輩出した芸術家達が音楽祭を牽引して
    来た。 音楽祭の舞台のひとつ、『岩窟乗馬学校(Felsenreitschule)』は、元々、
    大司教が乗馬競技を見学するために創られた。 メンヒスブルグの岩盤を繰り
    抜いて造られた見物席がそのまま舞台に活かされている。 隣接する祝祭劇場は、
    世界最大級の舞台で、音響に細心の注意が払われて設計されている。
    ザルツブルグ音楽祭は、毎年7月から8月までの夏の期間に開催されている。



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    conchita

    これまでに数々の有名な歌手を排出しているユーロヴィジョン・ソング・コンテストで
    2014年度、オーストリア代表として出場し、見事優勝を果たしたコンチータが日本で
    発売のファーストアルバムのプロモーションのため、初来日を果たし、早速、
    日本テレビ系のスッキリ!!で生歌を披露した♪ 

    差別のない平和で自由な未来を目指し、あえて、『ヒゲの女装』という出で立ちで
    歌い続けるコンチータ。

    conchita_ms

    【来日スケジュール】

    ■7月7日(火)日本テレビ系 スッキリ!!(8時~10時25分放送)生出演☆
    ■7月7日(火) NACK5『ラジオのアナ~ラジアナ』にてコンチータの
     アルバム楽曲邦題募集特集(25:00~ 29:00)
    ■7月8日(水)日本テレビ系 『PON!』(10:25~ 11:30)
     来日中のコンチータのインタビューがOA!!!
    ■7月9日(木)CX系 『めざましテレビ』(05:25~ 08:00)
     コンチータが紹介予定です。ぜひお見逃しなく!
    ■7月10日(金)テレビ朝日系列 Mステ出演♪

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    デビューアルバム『コンチータ』のプロモーションのため、女装とひげ面という
    アンバランスな出で立ちが話題になっているオーストリア人歌手、コンチータ・
    ヴルスト(26)が7月6日に初来日することになった。

    ESC-2014-Dänemark

    コンチータは、2014年の『ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト』でオーストリア
    代表に選ばれ、コペンハーゲンで開催された本大会で見事優勝。 本物の女性の
    ような伸びやかな歌声と、『ひげ美人』という、正反対の強烈なキャラクターで
    世界中で一躍話題となった。 2013年に同性愛宣伝禁止法が成立したロシアの
    プーチン大統領が『自分のライフスタイルをこんなショーにすることはない』と
    英紙で批判する一方、レディー・ガガやエルトン・ジョンらが支持し、コンテスト
    では聴衆から喝采を浴びた。



    来日中は、同性カップルを『結婚相当』とする条例を成立させた東京都渋谷区に
    敬意を表し、同区役所を訪問したいと熱望している。 同性愛への議論を起こす
    ため、あえてひげを生やして臨んだ。 コンチータ『私はただ、どんな姿をして
    いても受け入れてもらえる、ということを示したいだけ。 やってはいけないこと
    なんてないの』と主張している。

    昨年、グーグルの『急上昇ワード』年間ランキングでは『Conchita(コンチータ)』が、
    7位に。 世界中の関心を集めているコンチータは『日本はとても美しいと聞いて
    いるので、今から楽しみにしている』と話している。
     


    ◆コンチータ・ヴルスト(本名トム・ノイヴィルト)1988年11月6日、オーストリア・
    グムンデン生まれ。 10代で性差別を受けた影響で、コンチータという別人格を
    形成。 2011年から音楽活動を始め、2013年9月、ユーロビジョンの同国代表に。
    批判を浴びる中で昨年5月に決勝進出し優勝。 同11月、同国でシングル
    『ヒーローズ』でデビュー。 日本での歌手名は『コンチータ』。

    tttii

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    『ロック・ミー・アマデウス』の世界的なヒット曲で知られる、ファルコは、オーストリア、
    ウィーン出身のアーティスト。 当初は、ハードロック・パンクバンドのベーシストとして、
    音楽活動を開始したが、1981年にソロアーティストとしてデビューし、『秘密警察』
    (原題: Der Kommissar)をヨーロッパでヒットさせる。 この曲はアフター・ザ・ファイアー
    による英語バージョンもリリースされ、アメリカでもヒットした。 この曲が出た頃はまだ
    ラップやヒップホップという言葉が馴染む前であった。



    1985年、『ロック・ミー・アマデウス』(原題: Rock Me Amadeus)をリリース。 刺激的な
    ヒップホップのビートに乗せて、モーツァルトの生涯をラップで歌い込んだこの曲は、
    地元オーストリアを皮切りに、ヨーロッパ各国でヒットチャート第1位を獲得し、翌1986年
    には、アメリカの「Billboard Hot 100」でも第1位の大ヒットを記録する。 アメリカでは、
    英語圏出身以外の外国人アーティストが大ヒットを飛ばすのは非常に難しく、しかも、
    色物扱いされる類の曲であったが、英語とドイツ語を交互に操ったラップの面白さと、
    1984年公開の映画『アマデウス』のヒットを受けた話題性、クラシックの偉人を茶化した
    痛快さが、異例の大ヒットにつながったといわれている。



    その後は世界的なヒットはなかったものの、オーストリアでは安定した音楽活動を続け、
    出したアルバムは国内チャートでほぼ全て1位であった。

    1996年にドミニカ共和国に移住。 1998年2月6日、ドミニカ共和国サント・ドミンゴで
    自動車事故により死去。 尚、検死結果では、血液中から高濃度のアルコールとコカインが
    検出された。 遺体はオーストリアのウィーン中央墓地に埋葬されており、墓には
    『Nachtflug』のジャケットに使われた写真が飾られている。



    2000年にドイツ・ベルリンでミュージカル『Falco meets Amadeus』が初上演され、その後も
    ドイツ語圏各地で上演されている。 没後10年となった2008年には、最後のアルバム名を
    タイトルとした伝記映画『Falco - Verdammt wir leben noch!』が製作され、オーストリア、
    ドイツ、チェコにて公開(日本では未公開だが2010年にキュリオスコープより
    『ROCK ME AMADEUS - ファルコ 運命に翻弄されたスーパースター』のタイトルでDVD
    発売)。 2010年10月、ヨーロッパ圏では代表作『Falco 3』の発売25周年を記念して、
    スペシャル・エディションがデジタルリマスター盤として再発売された。これは、
    『ロック・ミー・アマデウス』が収録された通算3作目のアルバムで、日本盤のタイトルも
    『ロック・ミー・アマデウス』であった。

    Falco_Grab

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    オーストリア共和国は、ヨーロッパにある連邦共和制国家で、首都は、いわずと知れた、
    音楽の都ウィーン。 約650年もの間、中央ヨーロッパにおいて、ハプスブルク家の帝国
    として君臨し、第一次世界大戦前までは、イギリス、ドイツ、フランス、ロシアと並ぶ欧州
    五大列強国とされていた。 1918年、第一次世界大戦での敗戦、並びに、革命により、
    1867年より続いたオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、共和制となった。

    かつては、多民族国家であった旧帝国のうち、支配的な民族であったドイツ民族が多数を
    占める地域のみにおおむね領土が削られ、現在に至っている。 1938年には、ナチス・
    ドイツに併合され、敗戦後の1945年から1955年に掛けては、連合国軍による分割占領の
    時代を経て、1955年に独立を回復した。 EU加盟以降は、同言語同民族でありながら、
    複雑な国家関係が続いていたドイツとの距離が再び縮まりつつあり、一部では、ドイツ
    民族至上主義が台頭している。



    ドイツ語での国名、Österreich は、『東の国』という意味であり、フランク王国の頃にオスト
    マルク東方辺境領が設置された事に由来する。 オーストリアは、しばしばオーストラリアと
    間違われるが、オーストラリアは、ラテン語で『南の地』を意味しているため、オーストリア
    とは語源的にも無関係である。

    日本では、オーストリア大使館とオーストラリア大使館を間違える人もおり、東京都港区
    元麻布のオーストリア大使館には、同じく港区三田の『オーストラリア大使館』への地図が
    掲げられている。

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    オーストリアとオーストラリアの国名の混同は日本だけではなく、英語圏の国にも広く
    見られ、聞き取りにくい場合には "European" (ヨーロッパのオーストリア)が付け
    加えられる場合がある。 2006年10月に、駐日オーストリア大使館商務部は、
    オーストラリアとの混同を防ぐため、国名の日本語表記を『オーストリア』から
    『オーストリー』に変更すると発表した。

    オーストリーという表記は、19世紀から1945年まで使われていた『オウストリ』という
    表記に基づいている。 発表は大使館の一部局である商務部によるものだったが、
    署名は、当時のペーター・モーザー大使とエルンスト・ラーシャン商務参事官の連名で
    行われ、大使館および商務部で変更を検討し、オーストリアの国名の全面的な変更を
    思わせるものであった。
     
    20061115-01

    しかし、2006年11月、大使は、国名表記を決定する裁量は日本国にあり、日本国
    外務省への国名変更要請はしていないため、公式な日本語表記は『オーストリア』の
    ままであると発表した。 ただし、オーストリーという表記が広まる事により、
    オーストラリアと混同される事が少なくなる事を願っているとされた。
     
    その後、大使館商務部以外では、大使館、日本の官公庁、マスメディアなどに
    『オーストリー』を使う動きは見られない。 昨年度から、旧ソ連邦構成国家であった、
    グルジアが、『ジョージア』と改名されたが、こちらもその名前が、どれほど定着する
    のか、かなり懐疑的である。

    オーストリアのドイツ語は、ドイツのドイツ語とは差異が大きく、ドイツ語の一方言とする
    のか、または、別言語とするのか、言語学的に見ても、かなり難しいところ。 民族と
    言語はドイツと同じだが、国家とその歴史がドイツとは異なるのがオーストリア。 国が
    異なれば、言語も別であろうとするウクライナとは対極を行っている国。 普段は、
    100%オーストリア・ドイツ語だけで話しているが、基本的に、標準的なドイツ語も喋れる
    のがオーストリア人。

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    ブログネタ
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    イタリアのボルツァーノ自治県は、イタリア共和国トレンティーノ=アルト・
    アディジェ特別自治州に属する県で、県都はボルツァーノ。 イタリアでは
    唯一、イタリア語・ドイツ語・ラディン語の3つの公用語を併用する県と
    なっている。 歴史的には、「チロル」と呼ばれた地域の一部で、「南チロル」
    とも呼ばれている。 この地域では、ドイツ語を母語とするドイツ系住民が
    人口の半分以上を占める他、レト・ロマンス語群の言語である、ラディン語の
    話者も居るため、地域内での言語事情が非常に複雑となっている。
    tirol
    1922年にムッソリーニ政権が誕生すると、ボルツァーノ県では、イタリア化
    政策が推進されたため、ドイツ語の使用が禁止となり、人名、地名は全て
    イタリア語に変更された。

    学校教育もイタリア語で行われるようになった他、イタリア南部からの移住も
    推奨され、徐々にイタリア語系住民の比率が高まって行った。 1939年、
    ムッソリーニは、アドルフ・ヒトラーから、ドイツ語系住民に、ドイツへの
    移住か、イタリアに留まり、イタリア人との同化政策を受け入れるかの選択を
    させる事を提案され、同意した。 住民は、故郷を捨てるか、母語を捨てるか
    という苦渋の選択を迫られた。

    第二次世界大戦後期の1943年、イタリア王国が連合国に降伏すると、直ちに
    ドイツ軍はイタリア北部を占領する。 ボルツァーノ県域は、名目上、イタリア
    社会共和国に属するとされたものの、ドイツ軍の占領統治下に置かれた。
    1945年5月のドイツ降伏に先立ち、4月27日にドイツからの独立を宣言した
    オーストリアの臨時政府は、1938年の独墺合邦の無効を宣言し、チロル州も
    オーストリア領に復した。 ボルツァーノ県の住民も南チロル人民党を結成
    するなど、オーストリアへの復帰を望んだが、国際情勢がそれを許さなかった。

    1946年9月5日、パリにおいて、イタリアのデ・ガスペリ首相兼外相と
    オーストリアのグルーパー外相との間で会談が行われ、同県のイタリア領有、
    および、ドイツ語系住民への自治権の付与について合意に達した。 1948年
    1月の法律で、自治権が保障されたが、パリでの合意に及ぶものではなく、
    ドイツ語系住民にとっては、不十分な内容であった。

    また、中央政府が南イタリアからの移住を推進した事に対しても不満があった。
    このため、完全自治、あるいは、チロル再統一を要求する組織が作られ、
    1950年代半ば以降、テロ活動が続き、1960年代には激しさを増した。
    1960年には、国際連合でも議題にあげられ、平和的解決が求められた。


    家庭内の会話における使用言語全国
    イタリア語のみ、あるいは主にイタリア語45.5%25.2%
    地方言語のみ、あるいは主に地方言語16.0%1.5%
    イタリア語と地方言語の双方32.5%4.1%
    他の言語5.1%65.5%

    【ドイツ語】
    ドイツ語話者は、県人口の約70%を占める。 2011年の「言語集団調査」に
    よれば、県の116コムーネのうち、103コムーネでドイツ語話者が過半数を占める。
    住民のほぼ全てが、ドイツ語話者であるコムーネも多く、ドイツ語話者が人口の
    90%以上を占めるコムーネが77コムーネ、98%以上を占めるコムーネが
    26コムーネある。 マルテッロでは、ドイツ語話者が100%となっている。
     
    公文書や教育・メディアなどでは、標準ドイツ語が用いられている。 ただし、
    この地域で話されているドイツ語は方言で、県内でも地方ごとに差異があり、
    東部はバイエルン人/バイエルン語話者、西部はアレマン人/アレマン語話者が多い。

    【イタリア語】
    イタリア語話者は、県人口の約25%で、県都ボルツァーノをはじめとする南部に
    多い。 2011年の「言語集団調査」によれば、イタリア語話者が過半数を占める
    のは、5コムーネで、ボルツァーノ(73.80%)、ライヴェス (71.50%)、
    ブロンツォーロ (62.01%)、サロルノ (61.85%) 、ヴァーデナ(61.50%) となって
    いる。 これに次ぐのは、メラーノ (49.06%) で、ドイツ語話者と拮抗している。

    【ラディン語】
    ラディン語は、レト・ロマンス語群の言語で、イタリア語とは同じロマンス
    諸語に含まれる。ラディン語話者は、オルティゼーイをはじめとする、県東南部の
    ヴァル・ガルデーナ、および、ヴァル・バディーアに集住しており、8コムーネで
    過半数(いずれも80%以上)を占める。 2011年の「言語集団調査」によれば、
    ラディン語話者が最大の比率を占めるのはラ・ヴァッレ (97.66%) である。
    8コムーネ以外では、オルティゼーイに隣接するカステルロットで15.37%を占める。

    ラディン語話者はボルツァーノ自治県、トレント自治県、ベッルーノ県に
    またがる山間地域に集まっており、これらの地域は、「ラディニア」と呼ばれる。
    ラディン語話者は、全体で約3万人とされており、ユネスコの「危機に瀕する言語」
    では「危険」と評価されている。 ボルツァーノ県にはこのうち約2万人が
    暮らしている。



    オーストリアは、長年に渡り、イタリアに対して、ドイツ語話者の多い南チロルの
    返還を求めているが、イタリアは、これに応じず、南チロルは、未だイタリア領の
    まま現在に至っている。

    世界には、このような、国境と言語が一致していない個所が多く見られるが、
    むしろ、日本のように、国境と言語が一致している国の方が珍しいのかも知れない。

    【お勧めの一品】


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    2014年12月19日、東日本大震災で親を失った遺児らを里親が家庭的な環境で
    育てる施設、『子どもの村東北』が仙台市太白区茂庭台にこのほど完成し、
    開村式があった。 開村式では、里親が紹介され、『温かい家庭を目指す』と
    抱負を語った。

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    世界で初めて『子どもの村』が設立されたのは、オーストリア。
    子どもの村東北』は、2012年6月に宮城県内の医療福祉関係者らが設立。
    国の里親制度に基づき、震災遺児のほか、虐待や貧困などの理由で親と
    暮らせない子どもを児童相談所を通じて預かり、研修を受けた里親が育てる。
    早ければ2015年1月下旬にも、子どもを受け入れる。
     
    福島の子供たちの場合は、色々な噂と共とに、各地で紹介されるが、津波災害で
    両親や親類を失った子供たちの場合(そのほんどは、宮城県)は、紹介すらされない
    のが、実情。 現在、このような『子どもの村』があるのは、仙台と福岡のみ。

    【お勧めの一冊】


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    この季節のオーストリアの定番と言えば、ランゴス♪ 元々は、ハンガリー
    料理だったものが、オーストリアにも入って来たもの。 同じドイツ語圏である
    筈のドイツでは、食べないらしい。

    調理方法は、パイ生地のような小麦粉の生地を、ニンニクをたっぷりと摩り
    下ろしたオリーブ油で揚げるだけ。 その他、チーズを乗せたり、お好みで、
    トマトや、ピクルス等を上に乗せて、ほぼピザのような状態のものもあるが、
    個人的には、シンプルなこのバージョンが一番お勧め。 ウィーン市役所の
    クリスマス市では、毎年、ランゴスの屋台が登場し、ホットワインや焼き栗
    (オーストリアでは、『Kastanien』ではなく、『Maroni』と言う)と共に、
    ウィーンの冬の定番となっている。

    maronirgie

    日本語には、『頂きます』という言葉があるが、ヨーロッパ言語には、その
    ような表現はない。 その代わりに、これから食事をしようとしている人に
    対して、『美味しく召し上がれ』と言います。 ドイツ語の場合は、
    『マールツァイト』『グーテン・アペティート』または、フランス語の
    『ボン・アペティー』と言い、ロシア語の場合は、
    『プリヤードナヴァ・アペチータ』と言います。

    ロシア語では、どうして主格にならないのかと言うと、その前に本来ある筈の
    『望む』という動詞が生格支配だから。 ドイツ語の場合は、4格支配のため、
    その前に付いている形容詞が、『グーテン』と4格に格変化する。 英語には、
    格変化がないが、ドイツ語の4格は、英語の目的語に相当するので、目的格とも
    言う事が出来る。

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    1179409556-2LangosSchafskseTomatenKruter
    Lángos_groß

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    旧ソ連邦構成国家である、『グルジア』の日本語での表記名が『ジョージア』へと変更
    されたが、2006年にオーストリア大使館商務部が、『オーストリア』のドイツ語名である
    『Österreich』の日本語表記名を『オーストリア』から『オーストリー』に変更すると
    アナウンスした事は、既に誰も覚えていないかも知れない。

    erz-142-04

    その後、オーストリア大使館商務部が、この『オーストリー』の名称を推進する事を
    撤回したため、結局、この国名は日本では定着しなかった。 そもそも、オーストリア
    大使館商務部が『オーストリー』という国名を提唱したのは、同じ麻布十番にある
    『オーストラリア大使館』と頻繁に間違われる事が関係しており、『オーストリア大使館』
    の前には、『オーストラリア大使館』への行き方が分かりやすく表示されている。

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    オーストリアにある州の名前は、『上エステルライヒ州』、『下エステルライヒ州』と
    なっているため、日本語での国名もドイツ語名に則り、『エステルライヒ』にすべき
    なのでは。

    尚、元グルジアことジョージアでは、ロシア語がかなり通じるのだが、とてつもなく
    ブロークンなロシア語となっており、例え、ロシア人であったとしても、ジョージア人の
    ロシア語を100%理解するのは不可能となっているため、最初から英語で話し掛けた
    方が無難かも知れない。

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