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    タグ:オーストリア

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    第三回分割後、ポーランドの軍人や政治家が多数フランスに移住した。
    フランスは、当時革命の最中であり、ポーランドの軍人たちは、フランスで
    戦闘部隊を結成して、祖国を解放しようと考えた。 これらの部隊は、
    フランス軍と協力して、オーストリアやプロイセンと戦った。

    1807年、プロイセンに勝ったフランス皇帝ナポレオンは、プロイセンに併合
    されていた元のポーランドの一部に、ワルシャワ大公国を創設した。 1812年、
    オーストリアに併合されていた領土の一部も、大公国領域に加えられた。

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    1815年、ナポレオンが没落すると、ワルシャワ大公国は解体された。
    その領土は、プロイセンとオーストリアに返還され、代わりに、ロシアの
    支配下に小さなポーランド王国が創設された。 ロシア皇帝がポーランド王を
    兼ね、王国は新憲法を制定して、産業と教育を振興させた。 しかし、
    ポーランド国民は、完全な独立を望んだ。

    1830年、反乱が起こると、ロシア皇帝は、ポーランド東部をロシア帝国に
    併合した。 ポーランドの憲法と国会は廃止され、経済はロシアに支配された。
    1860年代までに、ポーランド地域での行政と教育に使われる言語は、
    ポーランド語ではなく、ロシア語にされてしまった。 

    ポーランド西部での外国支配は、それ以上に厳しかった。 ドイツ人は、
    ポーランド西部に近代的な鉄道網の建設はしたものの、1870年代になると、
    プロイセンの首相になったビスマルクは、領内に存在するポーランド文化を
    抹殺しようとした。 カトリック系の学校は、閉鎖され、教会の活動は、
    制限された。 ポモルゼやシロンスクに住むポーランド人たちは、ドイツ語の
    使用を強制された。

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    ポーランド人たちは、自分たちの民族性を維持しようと懸命に努めた。
    ロシアの統治に対する激しい反乱は、多くのヨーロッパの指導者たちの間で
    同情を掻き立て、また、ポーランド人たちの愛国心を燃え立たせた。
    ポーランド人の作家、画家、音楽家たちは、消滅した祖国の栄光を讃え、
    ポーランドの民族的伝統を保存して、祖国の文化を活性化させた。

    20世紀初頭、ヨーロッパ諸国は、2つの強力な同盟を結んで、大陸の力の均衡を
    図った。 イギリスは、フランスやロシアと同盟して、ドイツ、オーストリア、
    トルコと対抗した。 ポーランド人の多くは、さまざまな新しい政党に入って、
    それぞれの支持の下に独立を達成しようとした。 政治家ロマン・ドゥモフスキの
    率いる民族民主党は、ロシアと連帯関係を結んだ。 ポーランド社会党と
    その指導者ヨゼフ・ピウスツキは、オーストリアと協力関係を結んだ。

    1914年夏、第一次世界大戦が勃発した。 ポーランドは、オーストリア、ドイツ、
    ロシア各国の軍隊の戦場となった。 敗北を重ねたロシアは、1918年3月、
    ドイツと講和条約を結んだ。 しかし、同じ年の9月、ドイツとオーストリアは
    降伏し、第一次世界大戦は終わった。

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    ソビエスキは、勝利したが、ポーランド国会内部の軋轢は王国を弱体化
    させた。 その後、ドイツのザクセン公がポーランド王アウグストゥス2世
    となったが、この時代には、ポーランドは、強大な隣国によって主権を
    侵され始めた。

    アウグストゥス2世が1733年に死ぬと、ポーランドのある貴族が国王に選ばれ
    かけたが、ロシアの干渉で阻止された。 そして、ロシア皇帝の代理人たちは、
    下院の大きな派閥を買収して、アウグストゥス2世の息子を国王に選出させた。

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    重税のために、ポーランドの農業と貿易は振るわなかった。 軍事力も低下し、
    国王は外国の軍隊に対して、無防備の状態となった。 貴族たちは、敵対する
    派閥を統合する努力を殆どせず、無能と腐敗によって、国家を弱体化させた。
    その上、下院が拒否権制度を導入したため、国会議員が1人でも反対すれば、
    新しい法案は一切成立しなくなった。

    このために政治は大混乱となり、外敵たちは、これを好機にポーランドの領土を
    奪い始めた。 1772年、西のプロイセンと南のオーストリアは、東のロシアと
    協力して、ポーランド領土の3分の1近くを奪ってそれぞれの国の領土に加えた。
    これが第一次ポーランド分割である。

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    第一次分割以後、政治を改革しようとする動きが国会内で強まった。 1791年、
    多くの貴族の反対を押し切って、国会は新憲法を採択した。 この憲法は、
    拒否権制度を廃止し、国王の選挙制を止めて相続制とし、下院の力を弱めた。
    新憲法はまた、全ての市民の人権を保障した。 しかし、ロシアの女帝
    エカテリーナ2世は、臣下のロシア国民が、ポーランド人たちと同じ改革を
    するのを恐れた。

    1793年、一部のポーランド貴族の協力で、エカテリーナは、軍隊をポーランド
    東部に進め、領土の一部を奪い取った。 それと同時にプロイセンもまた、
    ポーランド西部の一部とグダニスク港を併合した。

    ポーランドの第二次分割に憤激して反乱が起こり、愛国者タデウシ・
    コシュチューシコがその指導者となった。 1494年、コシュチューシコは、
    ワルシャワでロシア軍を撃破した。

    だが、ロシアとプロイセンが、力を合わせて攻め込んで来たため、ポーランド
    愛国軍は、数の上で圧倒された。 翌年、ロシア、プロイセン、オーストリアの
    3国は、コシュチューシコの反乱を鎮圧して、ポーランド国王を退位させた。

    これらの3国は、残っていたポーランドの領土を自分たちの間で分割し、
    ポーランド王国は消滅した。

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    日本に始めてスキーを伝えたとされている、レルヒ少佐は、オーストリア=
    ハンガリー帝国の将校であり、当時、ハプスブルグ家が支配していた、
    スロバキアのブラチスラヴァの出身。

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    1900年にインスブルックの第14軍司令部附参謀となった際に、山岳地帯の同地で、
    スキー訓練に興味を持つようになる。 日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の
    研究のため、1910年11月30日に交換将校として来日し、その後、日本の新潟県高田
    (現在の上越市)と北海道の旭川他で日本人にスキーを熱心に指導した。 当時は、
    フランス人のスキー講師も居たそうだが、そのフランス人は、上流階級の人間しか
    相手にしなかったため、レルヒ少佐のように、銅像等は作られなかった。

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    当時のスキーは、1本のストックを用いて滑るものと、2本のストックを使用する
    ものとが混在してしたが、日本で伝授したのは、1本のストックを用いたもののみ
    となっている。 それは、高田の重い雪質と、急斜面を考慮してのことであった。
    この1本のストックを用いるスキーは、現在のスキーの滑り方とは、多少異なって
    いた。 その後、北海道で指導をした際には、ノルウェー式の2本のストックを
    用いたものが主流となりつつあったが、レルヒ少佐は、こちらでも1本のストックを
    用いたものを指導した。

    尚、レルヒ少佐は、母国語であるドイツ語ではなく、主にフランス語を用いて、
    スキーを指導したという。 その理由は、通訳者が、ドイツ語よりもフランス語の
    方が得意であったことに由来している。 レルヒ少佐が日本にもたらしたものは、
    この他にも、『シュテムボーゲン』、『リュックサック』、『ヒュッテ』という、
    日本語にもなっているドイツ語もスキーと共に日本に持って来た。



    現在、新潟県上越市高田の金谷山には、日本スキー発祥記念館が設置され、
    レルヒ少佐の業績を今に伝えている。 また、毎年2月上旬には『レルヒ祭』を
    はじめとした各種記念イベントが開かれており、日本へのスキー伝授100周年を
    記念した2006年からは、上越地方を中心に、ゆるキャラの『レルヒさん』が
    活躍をしている。

    尚、レルヒさんの身長は、2メートル70センチとなっており、全国のゆるキャラの
    中でも、突出して高くなっている。

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    1700年、フェリペ4世の後継者カルロス2世が死んで、スペイン系
    ハプスブルグ家は絶えた。 後継者を巡って、フランスとオーストリアの
    君主が争い、スペイン継承戦争(1701~1714)が始まった。 この戦争が
    終わった後、ユトレヒト条約によって、ベルギー領域は、オーストリア系
    ハプスブルグ家の領土となった。

    1740年に、オーストリア系ハプスブルグ家の君主となった、女帝の
    マリア・テレジアは、リベラルで思いやりのある政策をとった。 ベルギー
    領域では、新しい社会化計画によって、教育の機会が広がり、刑務所組織が
    改革された。 また、産業は近代化され、経済は活気を取り戻した。

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    これらの政策の恩恵を受けたのは、主としてフランス語を話す人々で、彼等は、
    国内の政治、経済、教育を支配するようになった。 フラマンやブラバンドの
    ようにオランダ語を話す州でも、カトリックの貴族と教会の聖職者は、
    フランス語を使い、フランス語は、教養ある人々の言語とみなされた。
    そのために、オランダ語しか話せない人々の社会的な地位は低く見られた。

    マリア・テレジアの息子で後継者のヨーゼフ2世は、新興の自由を認めるために、
    カトリック教会や修道院を閉鎖した。 これは、ベルギー領域の宗教的な伝統に
    反するものであった。 保守的なカトリック教徒の多くは、弁護士のヘンドリック・
    ヴァン・デル・ノートの指導の下にこの政策に反抗した。 彼等は、当時成長中の
    階級だった商人や弁護士や医師達と力を合わせて、1789年にハプスブルグ家の
    支配に対して、反乱を起こした。 しかし、政治的、経済的な相違のために、
    反乱者側は分裂し、ヨーゼフ2世の後継者は、1790年にベルギー領域を再占領した。

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    長い統治と宗教的な争いに疲れたカール5世は、1555年に退位し、ハプスブルグ
    王家は、2つに分裂した。 カールの弟は、ヨーロッパ中央部の領土を継承して、
    オーストリア系ハプスブルグ家を始め、カールの息子のフェリペ2世は、
    スペイン王とネーデルランドの統治者を兼任して、スペイン系ハプスブルグ家の
    始祖となった。 スペインで育ったフェリペは、ネーデルランドの文化に殆ど
    理解を持たなかった。 彼は、ネーデルランドにスペイン軍を駐屯させ、都督等の
    地位にスペイン人を起用した。 フェリペはまた、フランスとの戦争の費用を
    支払うため、ネーデルランドに重い税金を課した。

    更に、フェリペは、カトリック教会の力を強めるために、カトリックの司教達に
    諸州の土地を分け与えた。 そして、フラマン地域圏のカルヴァン主義者達を
    抑圧するために、異端糾問所(教会の高位聖職者達による裁判)を組織した。
    その施策のために、沢山の人々が信仰上の理由で投獄されたり、処刑されたりした。
    このため、ネーデルランド北部の多くのカルヴァン主義者達が国外に逃れた。

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    ネーデルランドの貴族達は、宗教的な意見の違いを超えて集結し、フェリペ2世に
    対して、異端糾問所の廃止、宗教的自由の承認、議会の招集を要求した。
    フェリペの顧問のひとりは請願する貴族達を『乞食ども』と呼んだ。 革命的な
    運動の成長につれて、支持者達は、挑戦的に自ら『乞食党』と名乗るようになった。

    繊維産業の衰退と食料品の価格の高騰に憤慨した一般市民達もカトリック教会の
    財産を強奪や破壊したりして反乱を支持した。 そのため、宗教的な紛争が再燃し、
    スペインの統治に対する姿勢に分裂が生じた。 カルヴァン支持者達は、オラニエ公
    ウィレムの周辺に集まり、カトリック教徒達は、スペインの統治を支持した。

    1567年、フェリペ2世は、アルヴァ公を指揮官とする1万人の軍隊を
    ネーデルランドに派遣した。 アルヴァ公は、査問委員会を組織し、8,000人の
    市民を処刑した。 この強圧的な手段によって、アルヴァ公は、ネーデルランドの
    支配権を再び確立した。 ウィレムは、『海の乞食党』を組織し、1572年
    スペインの軍艦を攻撃して、ブルッヘ等のネーデルランド南部のいくつかの都市を
    占領した。 ネーデルランド北部の指導者達は、これに勢いづいて、スペイン
    からの独立を宣言した。

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    1477年、マリアはハプスブルグ家のマクシミリアン大公と結婚した。
    ハプスブルグ家はオーストリアを根拠地とする強力な王家で、13世紀後半以降、
    代々神聖ローマ帝国(現在のドイツ)の皇帝となっている家柄だった。
    ハプスブルグ家の権威は、ローマ教皇を戴くカトリック教会と強く結び付いていた。
    この結婚の後、ネーデルランドに対するマリアの支配権が強められ、議会の
    影響力は衰えた。

    1482年にマリアが死ぬと、マクシミリアンは、自分達の若い息子フィリップの
    代理として、ネーデルランドを支配した。 1480年代後期から、90年代初期に
    掛けて、諸都市の中でもとりわけ力の強いブルッヘ、アントウェルペン、
    ゲントの3都市がマクシミリアンに抵抗し、マクシミリアンは、軍隊を送って
    これを鎮圧した。

    1496年、フィリップは、スペイン王の娘ホワナと結婚した。 スペインは特に
    カトリック教会の影響の強い国だった。 2人の間に生まれたカール5世は、
    1519年までに神聖ローマ帝国、ネーデルランド、スペイン、および、その
    植民地等、広大な領地を継承するに至った。

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    【カール5世とカルヴァン主義】

    カール5世が統治を始めた時、アントウェルペンは、西ヨーロッパで最も繁栄した
    交易中心地のひとつだった。 アントウェルペンの港は、ヨーロッパ産の商品
    ばかりではなく、南アフリカのスペイン植民地や、西アフリカのポルトガル
    植民地の商品も扱った。 ベルギーの繊維産業は、一時衰退していたが、
    この時期に鋳造業、じゅうたん製造業、印刷業等が盛んになった。

    カール5世は、フラマン地域圏を含むネーデルランド全土の支配権を強化した後、
    これを自分の広大な領域の中の半独立的な部分として扱った。 彼は、各州に
    大評議会を設けて徴税と行政の指導に当たらせた。

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    この頃カトリック教会の腐敗を指摘し、教会を改革しようとする人々が現れ
    始めた。 このような人達をプロテスタントと呼ぶ。 この結果として、ドイツと
    スイスの各地に、ローマ教皇から独立したプロテスタントの教会が次々誕生した。
    しかし、べルギーの人民達はずっとカトリック教徒であり続けた。

    16世紀になって、フラマン地域を含むネーデルランドにも、カルヴァン主義と
    呼ばれるポロテスタント思想が入って来た。 カルヴァン主義は、スイスの
    ジュネーヴを根拠地とするジャン・カルヴァンが説いたもので、神の意志への
    厳格な服従と勤勉等を原則としていた。 1540年には、カルヴァン主義は、
    アントウェルペンまで広がり、カルヴァン主義者達は、自身の宗教的な自治体を
    組織しようと計画した。 カール5世やそれ以降のハプスブルグ家の君主達は、
    カルヴァン主義をカトリック教会のみならず、彼等自身の権威への脅威とみなした。

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    オーストリアのファイマン首相は、増加の一途をたどる難民に対して、
    シェンゲン合意への効力を一時的に制限し、同国への入国者全員に対して、
    検査を強化することを明らかにした。

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    これにより、オーストリアへ入国する際の検査が大幅に強化され、シェンゲン
    制度が一時的に失効することとなった。 オーストリアは、ドイツ同様、
    国境での管理を強化し、難民を立ち退かせる構えを示したこととなる。
    シェンゲン制度を一時的に失効させることにより、難民申請が受理されて
    いない者や、申請を行なっていない者を見つけ出すことが目的と思われる。

    ファイマン首相は更に、『国境では有効な身分証明書を携帯し、求めに応じて
    提示する義務が生ずる。 EUがこれらの管理を行なわず、加盟諸国を守ら
    ないのであれば、シェンゲン制度そのものに疑問を感じる。 そのような
    場合には、各国がそれぞれの国の境界線を管理しなければならない』とも
    述べた。 

    オーストリアは、東西冷戦の終結の際にも、ハンガリーとの国境を開放し、
    1万5千人もの越境者を進んで受け入れた国だが、その後のウィーン・
    シュヴェヒャート空港での入国時にも、スタンプを押されないほど、入国が
    非常に簡単な国であったため、このニュースは、かなり衝撃的と言わざるを
    えないのだが、ヨーロッパでは、それ程難民の数が増加しているということ
    なのであろう。

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    ドイツ、オーストリア、ハンガリー等、ヨーロッパ中部にある一部の地域には、
    クリスマスシーズンになると、子供達に沢山のプレゼントを配る聖ニコラウス
    とは対照的に、悪い子供達にお仕置きをする伝説の怪物が居る。

    この怪物は、民間伝承に登場する、半分ヤギ、半分悪魔の姿をした怪物のことで、
    『クランプス』と呼ばれている。 クランプスは、子供達にプレゼントを配る
    聖ニコラウスとは対照的に、悪い子供達を叩いたり、連れ去ったり、更に、
    地獄へと引きずり込んだり
    する。



    毎年12月の上旬になると、伝説に則り、悪魔クランプスが聖ニコラウスと共に、
    野外を練り歩きく。 12月の最初の2週間、特に12月5日の晩になると、若者達が
    クランプスの扮装をして、錆びた鎖と鐘を持ち、子供と女性を怯えさせながら
    通りを練り歩くのが毎年恒例の伝統行事となっている。

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    クランプスは、毛むくじゃらの皮膚を持ち、鋭く長いツノ、大きく開いた口に
    ドラキュラのようなキバが生えている。 怒りをあらわにしている表情が非常に
    恐ろしい。 ドイツの古い言い伝えでは、クランプスとサンタクロースは、双子
    という設定となっており、一方が良い子にご褒美としてプレゼントを配り、
    もう一方が悪い子にお仕置きをして素行を正すという役割を担っている。

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    昔は、仮装をした人達が家々のドアを叩いて酒を要求し、出さなければ騒ぐぞと
    脅すことが極当たり前に行われていたという。 アメリカ等で行われている
    ハロウィンや、日本のなまはげにもこのクランプスと同様の趣旨が含まれており、
    恐ろしい見た目で、厳しく子供達を諭すということは、世界共通なのかも知れない。

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    かつて多民族帝国であったオーストリアの歴史は、現在でも、各地方の食事に
    ハッキリと現れている。 ウィーンのスイーツは、ウィンナー・コーヒーと
    同じく、ヨーロッパでは非常に有名で、それぞれのカフェでは、長年引き
    受け継いでいる伝統のレシピを用いて、各店独自のオリジナルケーキ作りが
    非常に盛んになっている。 カフェでコーヒーを飲みながら、ゆっくりと
    くつろいでケーキを食べるのは、もはや、ウィーン文化そのもの。

    Schnitzel

    シュニッツェルは、仔牛肉のカツレツで、元々はウィーンの名物だったが、
    今では、オーストリアで最も人気のある料理となっている。 麺類に様々な
    肉屋野菜を添えるのは、ケルンテンの名物料理。 チロルでは、おいしい
    チーズやベーコンが特産品となっている。 下オーストリア州やドナウ川の
    渓谷には、ぶどう畑が沢山あり、特産である甘い白ワインの醸造に用いられる。

    オーストリアの家庭の朝食は、通常、まずコーヒーか牛乳が出され、
    バターやマーマレードの付いたパンが出される。 午前10時頃に辛子付きの
    ソーセージをおやつとして食べる人もいる。 ウィーン風ソーセージは、
    日本では、そのまま『ウィンナー』と呼ばれている。

    wurst

    昼食は、一日の中で最も重要な食事となっており、まず、スープ、続いて牛肉、
    豚肉、鶏肉、ソーセージ、仔牛肉、魚等のメインディッシュが出される。
    新鮮な野菜、麺類、じゃがいも、肉団子等がこれに添えられる。 あるいは、
    たいていサラダが続く。

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    午後3時頃には、短い休憩を取り、コーヒーを飲みながら、ケーキ等のデザートを
    食べる。 オーストリアの各都市では、カフェが憩いの場となっており、社交の
    場としても人気が高い。

    夕食は、昼食よりも軽く、火を使わないコールド・ミート、チーズ、燻製の
    魚類等のオープンサンド等の軽いもので済ませることが多い。 寒い冬の
    季節には、スープかシチューを夕食にすることも多い。

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    オーストリアの国民の大部分は、ドイツ系であるが、その民族構成は、初期の
    歴史時代に起こった異民族の侵入や、移住を反映している。 ハプスブルク家が
    13世紀に権力を握る以前には、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人、マジャール人、
    スラブ人が次々とオーストリアの河川沿いや山間の谷間に植民地を建設した。

    その後、クロアチア人、スロベニア人、ハンガリー人らが、ブルゲンランド、
    ケルンテン、シュタイヤーマルクに移動した。 北部と東部では、異民族同士の
    結婚が多く見られた。 この地域では、道路やドナウ川の水運党の交通が発達
    したが、それは、旅行や定住が容易だったため。 チロル、フォアアールベルグ、
    ザルツブルグ等の山岳部諸州では、大多数の住民がドイツ系となっている

    オーストリア国民の大多数は、ドナウ川流域と国の東半分に住居している。
    このうち、約56%が農村部に住んでいる。 第二次世界大戦後、ユーゴスラビア、
    チェコスロバキア、ハンガリーからの移民や政治的亡命者が増えた。 1980年代
    には、トルコやユーゴスラビア等の比較的貧しい国から20万人近くの未熟練
    労働者達が、仕事を求めてオーストリアの各都市にやって来た。

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    【言語】
    ほとんどのオーストリア国民は、ドイツ語を使用している。 但し、この国の
    ドイツ語には、多数の外国語の単語が含まれている。 ブルゲンランドには、
    ハンガリー語を話す人達も居る。 ケルン店に住む2万人のスロベニア人の
    多くは、スロベニア語を使う学校に子供を通わせている。

    【音楽】
    オーストリアの最も古い音楽は、バーベンベルグ王朝時代に教会や修道院で
    演奏された宗教的な賛美歌や聖歌である。 12世紀のミンネジンガー達の
    叙情詩は、各種の楽器による伴奏付きで、当時の支配者達の人気を集めた。

    14世紀から16世紀に掛けては、ドイツの音楽家達がオーストリアに来て、
    合唱団や楽団の指揮を取った。 17世紀には、イタリア音楽が流行し、
    オーストリアの作曲家達は、イタリア音楽の形式を自国の民衆音楽と結合
    させて、ジングシュピーレと呼ばれる軽演劇を創造した。

    18世紀には音楽は、王侯貴族達の公演を受けて、ウィーンその他の都市で
    盛んになった。 富裕な貴族エステルハージ公の管弦楽やソナタを数多く
    書いた。 彼は、生前に多数の作品の楽譜を出版し、ヨーロッパで最も
    有名な作曲家の一人となった。 こうして現代音楽は誕生した。

    モーツアルトは、少年時代に宮廷の聴衆を驚嘆させた早熟な演奏家で、
    優れた歌劇、管弦楽、器楽等を含む600曲以上の作品を作曲した。 彼の
    作品の多くは、批評家達に賞賛されたが、演奏家や歌手達にとって、
    モーツアルトの曲は演奏しにくかった。 生活苦と闘いながら、
    モーツアルトは35歳の生涯を閉じた。



    ルートヴィヒ・ヴァン・ベートベンは、ドイツ生まれだが、成人してからの
    生涯の大半をウィーンで過ごした。 ベートベンは作曲とピアノの演奏で、
    ウィーン市民の間で名士になった。 しかし、生涯の絶頂期に聴力を失い始め、
    聴衆の前で演奏が出来なくなった。 聴力を失った後も、表現力豊かで力強い
    音楽を書き続け、後世のヨーロッパの作曲家達に影響を与えた。

    フランツ・シューベルトは、ピアノ曲、管弦楽、室内楽を数百曲も作曲した。
    彼の作品の中で、最もポピュラーなのは、ピアノ演奏付きの歌曲、リートである。
    グスタフ・マーラーとアントン・ブルックナーは、どちらも19世紀後期に長大で
    劇的な管弦楽を作曲した。



    ヨハン・シュトラウスとその同名の息子は、ウィンナ・ワルツを多数作曲し、
    父は、『ワルツの父』、息子は、『ワルツの王』と呼ばれた。 フランツ・
    レハールは、オペレッタの作曲家で、彼等の作品は、今もウィーンでは
    人気が高い。

    20世紀になって、この国の作曲家達は、洗練された新しい作曲技法を次々に
    作り上げた。 アルノルト・シェーンベルグ、アルマン・ベルグ、アントン・
    フォン・ウェーベルンは、伝統的なハーモニーを用いないで歌劇や管弦楽を
    作曲した。 エリッヒ・ウォルフガング・コルンゴルトは、ポピュラーソング、
    ミュージカル、映画音楽を作り出した。 この国では、今でも、軽い歌劇と
    重厚な管弦楽のどちらも盛んとなっている。

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    ドイツに統合されたオーストリアは、ドイツ、イタリア、日本と共に、枢軸国
    として第二次世界大戦を戦った。 相手は、イギリス、フランス、ソ連等の
    連合国で、1941年には、アメリカも連合国側に付いて参戦した。 枢軸国側は、
    何度か勝利を収めた後、敗北を重ねた。 連合国側の飛行機は、オーストリアを
    爆撃し、1945年には、ソ連軍がオーストリアに侵入した。 1945年には戦争は
    終結したが、戦闘によって、オーストリアの多数の都市と産業が打撃を被った。
    イギリス、アメリカ、フランス、ソ連の軍隊が領内に駐留し、オーストリアを
    4つの占領地域に分割した。

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    カール・レンナーを首班とする臨時政府は、オーストリア第二共和国を創立した。
    政府は、各政党の連立によって運営された。 社会党(元社会民主党)、人民党
    (元キリスト教社会党)、共産党の3党である。 この連立政府は、1960年代
    まで政権を維持した。 共産党は、ソ連との関係が密接だったが、1940年代以後、
    その勢力を失って行った。

    戦後のヨーロッパは、東西の両ブロックに分裂した。 東側ブロックは、ソ連の
    影響下に置かれ、西側ブロックでは、第二次大戦に勝ったイギリス、アメリカ、
    フランスの3国が主要な地位を占めていた。 オーストリアは、ヨーロッパの
    中央部に位置する上、これら4カ国全部の占領下にあったため、対立する東西
    両ブロックの間に挟まれることとなった。

    外国の援助と戦後の経済計画の力で、オーストリアは、その都市と産業を再建
    することが出来た。 労働組合、雇用者側、政府の3者は、賃金と物価に関する
    協定を結び、努力して国の経済の回復を助けた。 しかし、戦後の10年間、
    オーストリアを占領している4カ国は、オーストリアとの講和条件について、
    意見が一致しなかった。 1955年の春、ソ連は、この国から撤退するに
    あたっての経済上と政治上の条件を明らかにした。

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    オーストリアは、ソ連政府に戦時賠償金を支払うこととなった。
    オーストリアは、また、中立政策を取ることに合意した。 将来の軍事的紛争に、
    一切関わらない決意の表明である。 1955年5月、オーストリアは、国家条約に
    調印し、占領4カ国は軍隊を撤退させた。 1966年、人民党が国民議会の多数党と
    なった。 1970年の総選挙の結果、社会党がブルーノ・クライスキーの下で
    政権を獲得した。 社会党は、1975年と79年の2回の選挙にも勝利をおさめて
    政権を維持した。

    1970年代初期、燃料の価格の高騰等から、世界的な不況に陥った。 燃料は、
    オーストリアでも外国から大量に買わなければならな物資であった。 このため、
    原子力発電の導入をめぐって国内では激しい論争が起こった。 1978年の国民
    投票の結果、核燃料発電所の運転開始は阻止された。 クライスキー政権は、
    このような中で、オーストリア経済を健全に維持した。

    1983年の総選挙で、社会党は、国会の多数派としての地位を失い、人民党の
    フレッド・シノワッツが第三党の支持を得て首相となった。 一九八六年の
    総選挙の結果、社会党と人民党の連立政権が成立し、穏健な社会主義者フランツ・
    ヴラニツキーが首相に選ばれた。 ヴラニツキーは、1990年の総選挙で社会党が
    単独勝利を占めた後も、首相の地位に留まった。

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    【政治のしくみ】 

    第二次世界大戦終結後、オーストリアは、ドイツに統合されていた1938年から
    45年まで効力を停止されていた1920年憲法を回復した。 この憲法の規定に
    よれば、オーストリアは連邦共和国で、1つの中央政府の下に、9個の州が結集
    した連合体である。 中央政府は、行政、立法、司法の3部門から構成されている。

    国民は、6年ごとに選挙を行って大統領を選ぶ。 大統領は、行政部門の長
    であり、軍隊の官でもある。 しかし、大統領は、国民議会によって承認された
    法律を停止することは出来ない。 立法部門は、国民議会と連邦議会とから成る。
    国民議会は、この国の最高の立法機関であり、議員の定員は183名で、任期は
    4年間である。 国民議会の選挙が行われた後、大統領は、国民議会で多数を
    占めた政党の代表を首相に任命する。 首相は、政府と内閣の長であり、内閣は、
    政府の各省の大臣によって構成される。

    連邦議会の定員は54名で、9つの州の立法機関によって選ばれる。 連邦議会の
    議員の任期は4年間、ないしは、6年間である。 連邦議会には、法案を提出する
    権限があり、また、国の結んだ国際条約や国際調停を承認する役割を持つ。

    オーストリアの最高司法機関は、連邦最高裁判所であり、その下に州裁判所、
    その他の下級裁判所がある。 行政、憲法、労働、青少年に関しては、
    それぞれの特別法廷に判断が委ねられている。 オーストリアの9つの州では、
    それぞれの州の有権者の投票によって、州議会の議員が選ばれる。 州議会は、
    州知事を選出する。 州議会は、また、各州独自の法律を制定することが
    出来るが、これらの法律は、連邦各省の承認を得なければならない。
    州議会は、オーストリアの全ての選挙について、最低選挙年齢を定める
    権限を持つ。

    オーストリアには、都市と町村を合わせて、総計2千以上の自治体があり、
    自治体は、それぞれの議会の議員を選挙によって選ぶ。 それらの市町村議会は、
    その自治体に関連する事項を審議し、市町村長を選出する。

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    1916年までに、軍事的敗北と食料の欠乏のため、オーストリアの市民と兵士達の
    間には、不満が広がっていた。 この年、フランツ・ヨーゼフが死んで、カール
    1世が皇帝となった。 翌年、オーストリアの労働者達は、経済状態の悪化に
    抗議した。 中央政府の弱体化につれて、ハンガリー人、チェコ人、スロバキア人、
    ポーランド人、スロベニア人、クロアチア人が次々とオーストリアからの独立を
    宣言した。

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    1918年、オーストリア・ハンガリー帝国は、ドイツと共に、ついに連合国側に
    降伏した。 降伏後、カール1世は退位し、600年以上にも渡るハプスブルク家
    支配は終わった。 社会民主党の指導で臨時国会 が開かれ、オーストリア共和国の
    成立が宣言された。 1919年、サンジェルマン条約が結ばれ、共和国の現在の
    国境が確定した。 この条約はまた、ハンガリ-、チェコスロバキア、
    ユーゴスラビアを独立国として承認した。

    1920年、オーストラリア国会は、社会民主党とキリスト教社会党の協力で新憲法を
    採択した。 この憲法に基づいて、国民議会と呼ばれる立法機関が成立した。
    国民議会の多数党の代表が政府の首相に任命されることに決まった。

    オーストリア国内の不安はなおも続き、共和国の経済は、少しづつ悪化して行った。
    2つの主要政党の対立は、しばしば街頭の騒乱にまで発展した。 多くの
    オーストリア人は、元のハプスブルク帝国の断片に過ぎない国家が、生き残る
    ことは出来ないのではないかと感じ始めた。 ドイツとの統合を支持する声が、
    1930年代初期まで高まった。 世界的な経済不況と、ウィーンのある大銀行の
    倒産が原因となって、大量の失業者が生じ、市民の生活は、ますます苦しく
    なった。 このために、統合運動は、ますます力を得た。

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    ドイツでは、アドルフ・ヒトラーと彼の率いる国家社会党ナチの人気が高まり、
    そのために、オーストリア政府には、ドイツとの統合への新しい圧力が加わった。
    オーストリアに出来たナチ党は、ハイムヴェーアと呼ばれる私兵隊の支援を
    受けていた。 ドイツとオーストリアのナチ党で支配的な考え方は、反ユダヤ主義、
    ユダヤ人迫害だった。

    1934年、ハイムヴェーアは、オーストリア政府を転覆しようと企てた。 騒乱の
    中でハイムヴェーアのメンバーの1人が、キリスト教社会党出身のエンゲルベルト・
    ドルフス首相を射殺した。 ドルフスの後継者であるクルト・フォン・
    シュシニックは、何人かのナチ党員を閣僚に任命した。 ヒトラーは、それでも
    満足せず、1939年、ドイツ軍にオーストリアへの侵入を命令し、力によって、
    統一を成し遂げた。 オーストリアとドイツのナチ党は、多数の政治的対立者と
    ユダヤ系住民達を逮捕し、ドイツとポーランドにある強制収容所に送り込んだ。
    1939年、ドイツのポーランド侵入によって、第二次世界大戦が始まった。

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