多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。

    英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、
    スペイン語、スウェーデン語他の多言語通訳/翻訳業を行っております (^-^)
    仙台弁、石巻弁、宮城弁、東北弁の方言指導、テープ起こしも致します。
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    タグ:オーストリア

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    オーストリアは、1774年に、全国民を対象とする無料の公共教育制度を発足
    させた。 識字率、つまり、読み書き出来る成人の割合は、99%に達している。

    オーストリアの義務教育は6歳からの9年間で、4年間の基礎学校を終えると、
    中学校と一般教育中高等学校の2つのコースに分かれる。 授業は月曜~土曜日の
    午前8時~12時、または午後2時までとなっており、義務教育の間は科目が決まって
    いるが、6年生からは外国語、コンピュータ、宗教、生物実験、ダンス、チェス等の
    選択科目がある。 学校教育の最初の4年間は、フォルクスシューレ(公共の
    小学校)で行われる。 フォルクスシューレを卒業した後、一部の学童は8年制の
    中等学校で教育を受ける。

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    年齢が18歳位になると、入学試験を受けて大学に入る。 その他の学童たちは、
    フォルクススシューレ卒業後、4年制のハウプトシューレに進学し、その後、更に
    4年間、技術研修所、または、職業訓練所で研修を重ねる。 研修所の中には、
    大学進学の道が開かれているものもある。

    オーストリアの教育施設の中で最も規模の大きいのは、ウィーン大学で、現在
    約3万人以上の学生を擁している。 創立は1365年で、ドイツ語圏で最も古い。
    法律、医学、実業、文学、美術等、多くの専門課程がある。 24歳以上の労働者
    には、成人教育センターでの教育の道が開けている。

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    【言語と文学】
     殆んどのオーストリア国民は、ドイツ語を使っている。 但し、この国のドイツ語
    には、多数の外国語の単語が含まれている。 ブルゲンランドにはハンガリー語を
    話す人達もいる。 ケルンテンに住む2万人のスロベニア人の多くは、スロベニア語を
    使う学校に子供を通わせている。

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    オーストリアの最も古い音楽は、バーベンベルグ家王朝時代に教会や修道院で演奏
    された宗教的ナ賛美歌や聖歌である。 12世紀のミンネジンガーたちの叙事詩は、
    各種の楽器による伴奏付きで、当時の支配者たちの人気を集めた。

    14世紀から16世紀に掛けて、ドイツの音楽家たちがオーストリアへ来て、合唱団や
    楽団の指揮を執った。 17世紀には、イタリア音楽が流行し、オーストリアの
    作曲家たちは、イタリア音楽の形式を自国の民衆音楽と結合させて、
    ジングシュピーレと呼ばれる軽演劇を創造した。

    18世紀には音楽は、王侯貴族たちの後援を受けて、ウィーンその他の都市で盛んに
    なった。 富裕な貴族エステルハージ公の音楽指揮者だったヨーゼフ・ハイドンは、
    管弦楽やソナタを数多く書いた。 彼は生前に多数の作品の楽譜を出版し、
    ヨーロッパで最も有名な作曲家の1人となった。 こうしてクラシック音楽は誕生
    した。



    モーツアルトは幼少時代に宮廷の聴衆を驚嘆させた早熟な演奏家で、優れた歌劇、
    管弦楽、器楽などを含む600曲以上の作品を作曲した。 彼の作品の多くは批評家
    たちに賞賛されたが、演奏家や歌手たちにとってモーツアルトの作品は演奏し
    にくかった。 生活苦と戦いながら、モーツアルトは35歳の生涯を閉じた。



    ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン(1770年~1827年)は、ドイツ生まれ
    だが、成人してからの生涯の大半をウィーンで過ごした。 ベートーベンは、
    作曲とピアノ演奏で、ウィーン市民の間で名士になった。 しかし、生涯の
    絶頂期に聴力を失い始めた、聴衆の前で演奏が出来なくなった。 聴力を失った
    後も、表現力豊かで力強い音楽を書き続け、後世のヨーロッパの作曲家たちに
    影響を与えた。

    フランツ・シューベルト(1797年~1828年)は、ピアノ曲、管弦楽、室内楽を
    数百曲も作曲した。 彼の作品の中で最もポピュラーなのは、ピアノ伴奏付きの
    歌曲、リートである。



    グスターフ・マーラーとアントン・ブルックナーはどちらも19世紀後期に長大で
    劇的な管弦楽を作曲した。 ヨハン・シュトラウスとその同名の息子は、ウィンナ・
    ワルツを多数作曲し、父は『ワルツの父』、息子は『ワルツ王』と呼ばれた。
    フランツ・フォン・ズッペとフランツ・レハールは、オペレッタの作曲家で、
    彼らの作品は、今でもウィーンでは人気が高い。

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    1740年にハプスブルグ帝国の女帝として戴冠したマリア・テレジアは、帝国内に
    画期的な変化をもたらした。 彼女は、ハンガリー領内の支配を強化し、
    ハンガリー人地主と議会の力を弱め、ハプスブルグ領内でのドイツ語の使用を
    広めた。

    この『ドイツ化』政策による弾圧は、ハンガリー人とスロバキア人指導者の間に
    強い民族主義を呼び起こした。 スロバキアとハンガリーで初めての新聞が、
    ブラチスラヴァで発行された。 1787年、カトリック神父アントン・ベルノラクは、
    古くから教会で使われていたラテン語に代って、初めてスロバキア語の文法書を
    出版した。

    19世紀初めに、ハプスブルグの領土は、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトの
    攻撃にさらされた。 1805年、ナポレオンはハプスブルグ軍をモラビアの
    アウステルリッツの戦いで破った。 しかし、ナポレオンは1815年、ヨーロッパ
    から追放された。

    後の条約で、オーストリアはハンガリー、スロバキア、ルテニア、ボヘミアの
    支配権を強めた。 ハプスブルグは同時に、ハンガリー議会も含めて地方議会の
    支配を強化し、議会で決議された法でも拒否権を行使した。

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    【民族の反乱】
    19世紀半ば頃には、ハプスブルグ支配下のスロバキア人たちは、自由を求める
    ようになった。 スラブ人の指導者でも、オーストリア帝国に留まることを希望
    した者もあったが、多くはハプスブルグからの完全な独立を望んだ。 学校や
    教会でハンガリー語の使用を強要されたために、スロバキア人の怒りは増していた。

    1848年に民族革命がヨーロッパ各都市に起こり、スラブ民族議会がボヘミアの
    首都であるプラハで開かれた。 スロバキア代表は、オーストリア帝国の支配下で、
    チェコとスロバキアの連邦を形成しようとした。 しかし、ハプスブルグは会議を
    非難し、要求を無視した。

    同年、ハンガリー議会のスロバキア代議員ルドヴィト・ステュルは、他の
    スロバキア地方議会をつくり、学校でスロバキア語を使う権利を国会に請願した。

    しかし、スロバキアをハンガリーの領土とみなすハンガリー議会は、これに強く
    反対した。 議会がスロバキアの請願を拒否すると、スロバキアでは反乱が起こり、
    ハンガリー軍はすぐに蜂起を鎮圧し、反乱首謀者を処刑した。

    同じ時、ハンガリー人はハプスブルグに、民族の自治を求める反乱を起こしていた。
    反乱軍は、オーストリア・ハプスブルグ家と同盟を結んだ、スラブの強国ロシア軍を
    敵に回して戦った。 しかし、その後も20年間、ハプスブルグは帝国をしっかと
    支配し、スロバキアとハンガリーの独立要求を無視した。

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    オーストリアの義務教育は日本と同じく9年間。 大学まで教育費は無料と
    なっており、これは、外国人でも同じ。 オーストリアに義務教育を導入した
    のは、ハプスブルグ家唯一の女帝で『オーストリアの母』と呼ばれている
    マリア・テレジア。 フランス革命により、断頭台の露と消えた、マリー・
    アントワネットの実母。

    1773年、イエズス会禁止により職が無くなった下位聖職者たちを中心に教員
    として採用し、他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設、義務教育を確立
    させた。 全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が
    行われた。 その結果、国民の知的水準が大きく上昇した。

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    オーストリアの大学は、基本的が学費はない。 年間登録料と施設維持費
    として、年間約7万円程度掛かるだけ。 これは、外国人も同じ条件。

    ドイツ語圏最古の大学、ウィーン大学をはじめ、教育水準も非常に高く、
    ウィーン市内のバスは、地下鉄が終了しても、24時間運行している。 市内の
    全ての鉄道に乗れる定期代は月5,000円程度。 改札口は一切ないので、キセルも
    出来るのだが、車内で抜き打ちで行われる、検札で見つかると定期代とほぼ同額の
    5,000円程罰金として徴収される。 切符は、持っているだけではダメで、
    車内、あるいは、地下鉄の入り口にある機械で、しっかりとパンチを入れないと
    有効にはならない。

    ドイツ語圏の治安は、日本とさほど違わないので、かなり安全。 尚、ウィーンの
    IKEAは、ギリギリウィーン市外にあるため、ちゃんと切符を購入し、パンチして
    置かないと、コントローラーに見つかった場合、罰金を取られる場所にあるため、
    要注意。

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    オーストリアの税率は、日本に比べると高いという印象を受けるが、教育費や
    医療費の無償化に成功しているため、税制度として成功している国のひとつだと
    言える。 主な税率としては、消費税(20%・食品などの軽減税率対象物は10%)、
    所得税(50%〜55%)、法人税(25%)となっているが、外国人の場合は、帰国時に
    ある程度の税金の還付を受けることが出来る。

    医療費、大学までの学費が無料!? オーストリア充実の社会保障制度

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    20世紀のはじめのチェコ人は、ハプスブルグ統治からの独立を要求していた
    多くの民族のひとつに過ぎなかった。 数世紀に渡ってバルカン半島を支配
    していたオスマン・トルコ帝国は衰退し、答辞の南東ヨーロッパは不穏な情勢
    だった。 オーストリアとトルコの勢力に挑戦して、ロシア帝国などの列強が、
    中央ヨーロッパに領土拡大と支配の手を伸ばして来た。

    オーストリア対ロシアの不穏な情勢が、第一次世界大戦(1914年~1918年)の
    引き金となった。 オーストリアはバルカン半島で、ハプスブルグからの独立を
    求めるセルビア人と戦うこととなった。

    ドイツとオーストリアは同盟を結び、東でロシアと、南でイタリアと戦った。
    しかし、チェコ人は同じスラブ民族であるセルビア人はロシア人を相手に戦い
    たくなかった。 多数のチェコ人がロシアへ脱出して、チェコとスロバキア
    共同の軍隊を組織した。

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    対戦中、チェコの指導者トマシュ・マサリクとベネシュ、スロバキアの指導者
    ミラン・シュテファニックは、チェコとスロバキアにそれぞれ独立国を建て
    ようと計画していた。 しかし、情勢の成り行きを見たマサリクは、両者を合体
    したチェコスロバキア連邦共和国の建国を決心した。 アメリカ合衆国の州政府の
    ように、連邦政府の下にチェコとスロバキアそれぞれに、共和国政府をつくる
    ことを約束した。

    ドイツとオーストリアの敗北が目前となった1918年10月、マサリクは、チェコ
    スロバキアの独立を宣言した。 10日後、マサリクは、初代大統領に就任した。

    1918年11月のドイツとオーストリアの降伏の後、ハプスブルグ王朝は崩壊し、
    オーストリアとハンバリーも独立国となった。 旧オーストリア領内の国々も
    独立を勝ち取った。 同じ頃、ロシア革命が起こり、やがて、東ヨーロッパの
    国々を支配する共産主義国であるソビエト連邦共和国設立の切っ掛けとなった。

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    1740年にマリア・テレジアが帝位を継ぐと、継承権を理由にプロイセンのフリードリヒ
    大王は、ボヘミア王国の伝統的領土のひとつシュレジアを奪った。 ハプスブルグ
    政府は、国力の増強と近代化に力を入れはじめた。 中央主権化が進み、チェコ人も
    オーストリアの近代化政策の恩恵を受けるようになった。

    マリア・テレジアの自由な治世に、教育界のカトリック支配は弱まり、チェコ人の文化は
    息を吹き返しはじめた。 ボヘミアに住む貴族たちは織物、手工芸、ガラス、鉱業などの
    新しい企業に進出するようになった。

    ボヘミア、モラビア、オーストリアは互いに交易を進め、関税同盟を結んで経済力を
    高め、ボヘミアとモラビア地域は、ハプスブルグ帝国の中でも最も進んだ工業地域と
    なった。

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    1780年にマリア・テレジアを継いだヨーゼフ2世は、改革を更に推し進めた。 ボヘミアの
    プロテスタントを除いた他の信仰の自由を認め、法を改定して、チェコ人がチェコ語の
    新聞を発行することを許した。 更に農奴を解放した。 15世紀末以来、はじめて
    チェコの農奴を解放した。 15世紀末以来はじめて、チェコの農民は農地と故郷を
    離れる自由を認められた。

    ボヘミアとモラビアの都市は、急速に発展して、新しく建設された工場での仕事が、
    土地を離れた農民を引き付けた。 1790年代のフランス革命の嵐は、フランス王朝を
    崩壊させた。 革命の指導者たちは、選挙による国会が立憲法を握る、共和政府
    樹立を要求した。 彼らは貴族の財産と教会権力の廃止も主張した。ハプスブルグ家を
    はじめとするヨーロッパの支配者たちは、革命が地震の権力失墜に及ぶことを恐れた。

    革命から間もなく、フランスの将軍ナポレオンは、ドイツとオーストリアに侵攻した。
    彼は、モラビアの南にあるアウステルリッツ(チェコ名スラヴコフ)の戦いでハプスブルグ軍を
    破った。 ハプスブルグが継いでいた神聖ローマ帝国は1806年に崩壊し、オーストリア
    帝国の名だけが残った。 オーストリア、ボヘミア、モラビア、ハンガリー、ポーランドと
    イタリアの一部がハプスブルグ領地に留まった。

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    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

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    1790年のヨーゼフ2世の死後、弟のレオポルド2世と、その息子、フランツ2世は、
    相次いで皇帝となり、ヨーゼフの改革に逆行して、言論と出版を厳しく制限した。
    この頃、フランスでは革命が起こり、レオポルド2世の妹でフランス王妃となっていた
    マリー・アントワネットは処刑された。 1795年、オーストリアとフランスの戦争が
    始まり、オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)は占領された。

    1800年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍を討つ破った。
    1804年、フランツ2世は、自らオーストリア帝国皇帝と称した。 この新しい帝国は、
    現在のオーストリア諸州の他、ハンガリー、ベーメン、その他、東南ヨーロッパの
    諸小国を含むものだった。 1806年、領邦の弱い連合体になっていた神聖ローマ
    帝国は、崩壊した。

    ナポレオンは、フランスの皇帝となり、フランツ2世は、これに対抗して、イギリス、
    ロシア、プロイセンと同盟を結んだ。 ナポレオンは、1809年オーストリアに侵入
    して、フランツ2世は、娘マリー・ルイズをナポレオンと結婚させた。 だが1812年、
    ナポレオンがロシアに敗北すると、フランツ2世は、再度同盟を結んで、ナポレオンと
    戦った。 1815年、同盟国側は最終的な勝利をおさめ、ウィーン会議を開いて
    ヨーロッパ各国の国境を定めた。 この会議でオーストリアはヨーロッパの中心
    および、東部での支配権を確立した。 独立の領邦だったザルツブルク大司教
    管区と、北イタリアのヴェネツィア共和国もオーストリアの領域となった。
    神聖ローマ帝国に代わって、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立した。

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    【メツテニッヒの時代】

    ウィーン会議でオーストリア代表として活躍したクレメンス・フォン・メツテニッヒは、
    その後、国内の政治を一手におさめた。 彼は、ハプスブルク王朝を維持する
    ため、政治活動を制限し、出版の自由を規制する政策をとった。

    新しい産業の興隆によって、オーストリアの各都市には、膨大な数の労働者が
    流入した。 労働者の多くは、不健康な住居に群れをなして住み、賃金は低かった。
    ウィーン、リンツ、グラーツなどの都市では、労働者は、農民と連帯して、ハプスブルク
    政府の変革を要求し始めた。

    1835年にオーストリア皇帝となったフェルディナント1世は、統治者としての力が
    弱く、ハプスブルク一族の者たちに権限を委ねた。

    一族同士の反目から、賃金や労働条件の改善は一向に進まず、1840年代半ばには、
    経済危機と食料不足のため、農民と労働者の間に暴動が続発した。 大学の
    学生たちも労働者と合流して、新しい政府と憲法を要求した。 主席大臣の
    メルテニッヒは、民衆からも政界からも強い批判を受けた。 1848年、メルテニッヒは
    辞任して、イギリスに亡命した。

    メルテニッヒ政権に代わって、比較的リベラルな政権が出来、人民代表議会が
    開かれた。 人民代表議会は、まだ残っていた領主の特権を廃止したが、その他の
    法律については、合意に達することが出来なかった。 ウィーンの街頭で暴動が
    起こり、フェルディナント1世は、首府から逃亡した。 1848年10月、ハプスブルク家に
    忠実な軍来がウィーンに進駐して、街頭デモを暴力的に鎮圧した。 12月、ハプス
    ブルク一族や顧問官たちは、フェルディナントを説得して退位させ、その甥の
    フランツ・ヨーゼフを即位させた。

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    17世紀末、フランスの支持を受けたトルコ軍が再びオーストリアを攻撃して、ウィーンの
    東と南の諸州に侵入した。 トルコの大軍がウィーンを包囲したので、ハプスブルグ家の
    皇帝は、諸外国の援助を求めた。 1683年、オーストリア、ドイツ、ポーランドの連合軍は、
    ウィーン周辺からトルコ軍を駆逐した。 これ以後、オーストリアは、ハンガリーなど東南
    ヨーロッパのトルコ領を次々と手中に収めた。

    オーストリア系ハプスブルグ家の繁栄にひきかえ、スペイン系ハプスブルグ家は、まさに
    血統が絶えようとしていた。 フランス王ルイ14世が自分の孫をスペインの王位にすえ
    ようとしたため、オーストリアとフランスの間に戦争が始まった。 スペイン継承戦争と
    呼ばれるこの戦争は、1713年に終わったが、その結果、オーストリアは、ネーデルランド
    などを勝ち取った。

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    フランスやトルコとの戦争は、オーストリアの人民を疲労させ、資源を消耗させた。
    その結果、1711年に始まったカール6世の治世は、社会不安と経済的弱体化が著し
    かった。 ヨーロッパ最大の領土を擁していながら、カールは、それをうまく支配出来ず、
    各州の議会は、しばしばカールの意思に反抗し、ハンガリーとベーメンの自治を求める
    動きは、彼の権威を損ねた。

    カールには、直系の男性の後継ぎがなく、そのために王朝断絶の危機にさらされた。
    カールは、1713年に国事詔書を発布して、娘マリア・テレジアをハプスブルグ家の
    後継ぎと宣言した。 1740年にカールが死ぬと、マリア・テレジアが領土を引き継いだ。
    その直後、ドイツ北部のプロイセン王国のフリードリヒ2世は、ベーメンの富裕な属州
    シュレージエンの割譲を要求して、オーストリアに攻め込んだ。 フランス、スペイン
    などの諸国がプロイセンに味方し、オーストリア継承戦争が始まった。

    当時のオーストリアの国力では、連合勢力に対抗出来ず、マリア・テレジアはやむなく
    フリードリヒにシュレージエンを割譲した。 マリア・テレジアはその後、シュレージエンの
    回復をはかって七年戦争を起こしたが、この戦争も1763年にフリードリヒの勝利に
    終わった。

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    七年戦争終結後、マリア・テレジアは、オーストリアの時代遅れの経済に注意を向けた。
    発展途上の国内工業を助成し、農民への課税を軽減するのが彼女の政策だった。
    マリア・テレジアはまた、法律制度を改革し、カトリック教会の資産を摂取した。 1774年
    彼女は非宗教的な学校制度を発足させて、オーストリア市民の全てが教育を受けられる
    ようにした。

    1780年、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世が即位し、彼も母親の改革政策を
    受け継いだ。 ヨーゼフは、カトリックの修道院や教会を数多く閉鎖し、信仰と表現の
    自由を広く認めることを宣言した。 彼は更に、オーストリアの諸産業の近代化に努め、
    諸外国からの熟練工の移住を奨励した。 1781年、ヨーゼフは、農民達を領主への
    義務の多くから解放した。

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    ハプスブルグ家の領域が大きく膨張した16世紀半ば、オーストリアの農民達は、領主から
    強制される過酷な租税と労役義務にあえいでいた。 一方、神聖ローマ帝国を構成する
    ドイツ領邦の君主達は、皇帝の支配からの独立を望んでいた。 各地に分散した
    ハプスブルグ家の領土は、統治が困難で、その上、オーストリアは、トルコからの脅威に
    絶えずさらされていた。

    この頃、ドイツ北部やスイスでは、ルターなどの主張する宗教改革の運動が盛んで、
    プロテスタントと呼ばれる新しい宗派が勢いを増した。 ドイツ領邦の君主達の多くは、
    この運動を教会の領地の財産を我が物とし、教皇の権力から独立する絶好の機会と
    考えた。

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    こうして起こった騒乱は、1555年のアウグスブルグ和議で一応終結した。 この和議で、
    ドイツの諸君主達は、自分の領邦内の宗教を選択することが認められた。 フェルディナント
    1世も、オーストリア領内にカトリック教会の権威を維持することが出来た。

    神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール5世は、この和議に不満で、翌年退位して、
    スペイン領内の修道院に隠遁した。 ハプスブルグ家の大領土はこれ以後、オーストリア
    系とスペイン系の2つに分かれることになる。

    アウグスブルグ和議の成立にも関わらず、オーストリア領内でのプロテスタントとカトリックの
    対立関係は、尚も続いた。 農民や都市住民、そして、多くの貴族達は、プロテスタントの
    教会や大学を支持した。 だが、チロルのようないくつかの州では、カトリック教会に
    好意を寄せた。 ハプスブルグ家の人々も、宗教改革運動を自分達の権威の脅威と
    考えて、カトリック系の指導者達との連帯を強めた。

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    16世紀末、当時のハプスブルグ家の後継ぎフェルディナント2世は、軍隊を率いて
    オーストリア南部からプロテスタント達を追い出した。 1617年、フェルディナントは、
    ベーメン王となった。 しかし、1619年にフェルディナントが神聖ローマ帝国皇帝に
    選出されると、ベーメンのプロテスタント達は、別の領内の君主を自分達の王に選んだ。
    フェルディナントは、1620年にベーメンの反乱軍を打ち破った。

    これが切っ掛けとなって、三十年戦争と呼ばれる血生臭い戦乱が続いた。 ハプスブルグ
    家のカトリック軍は、北欧諸国からドイツに侵入して来るプロテスタント教徒軍と戦った。
    戦争末期には、スウェーデン軍が勝利をおさめ、フェルディナント3世は、紛争から手を
    引くことになった。 1648年のウェストファーレン条約で、ドイツの君主達が領邦内の
    宗教を選択する権利を再確認した。

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    バーベンベルク家の領土が拡大するにつれて、マジャール人の攻撃がまた盛んに
    なった。 1246年、オーストリア公フリードリヒ2世は、マジャール人との戦いで戦死し、
    バーベンベルク家は絶えた。 北隣のベーメン(今のチェコ)の国王オットカル2世は、
    フリードリヒ2世の未亡人と結婚し、オーストリアとシュタイヤーマルクを自分の領土に
    併合した。

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    1273年、選挙候達は、スイスの裕福な一族の家長であるハプスブルク家のルドルフを
    神聖ローマ帝国皇帝に選出した。 1278年、ハプスブルク家の軍隊は、マルヒフェルトの
    戦いでオットカルを打ち破った。 オットカルの領土は次々とルドルフの支配化に入った。
    こうして、ルドルフを初代とするハプスブルク王朝が始まり、以後、600年以上にも
    渡ってオーストリアに君臨することになる。 ハプスブルク家のオーストリアの君主の
    ほとんどは、同時に神聖ローマ帝国皇帝でもあった。 ハプスブルク家は結婚によって
    14世紀中に、ケルンテン、チロル、フォアアールベルクをオーストリアに併合した。

    だが、ハプスブルク家は、これらの新領地の絶対的な君主ではなく、どの地域でも
    貴族と聖職者達から成る議会の制約を受けた。 議会は人民に課税し、軍隊を
    徴収する権限を持っていた。 農民達は、過酷な労働を強いられ、領主の認可が
    なければ、結婚も移住も出来なかった。 聖職者達は、ローマ教皇以外の権威を
    認めなかった。

    ハプスブルク家は、新たに領土をオーストリア公国にもたらしたものの、秩序ある
    継承順序を定めてはいなかった。 相続同士の争いは、しばしば公国を混乱に陥れ、
    貴族達に対するハプスブルク家の支配力を更に弱めた。 ハプスブルク家と貴族達
    との対立は、15世紀初期まで続き、オーストリアの経済を衰退させた。

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    【帝国の膨張】

    1463年、シュタイヤーマルクのフリードリヒは、相続争いの内戦を生き抜いて、チロル
    以外のオーストリア全土の支配者となった。 1477年、フリードリヒの息子
    マキシミリアンは、ブルゴーニュ公の後継ぎマリアと結婚し、ネーデルランド(現在の
    オランダとベルギー)の土地は、残らずハプスブルク家の領域に編入された。

    1493年に神聖ローマ帝国皇帝となったマキシミリアンは、結婚によってハプスブルク家の
    領域を拡大する政策を続け、自分の息子をスペイン王フェルディナントの娘と結婚させた。
    この結婚から生まれたカール5世は、1516年にスペイン王となり、1519年、神聖ローマ
    帝国皇帝に選出された。 その結果、カールは、ドイツとスペインを含む、広大な
    領域をハプスブルク家当主として支配することになった。

    カールの弟フェルディナント1世は、オーストリアの支配者となり、ベーメンとハンガリー
    両国の王ラヨシュ2世の妹と結婚して、1526年、ラヨシュの戦士後、両国の王を兼ねた。
    ベーメンは、現在のチェコであり、ハンガリーは、マジャール人が創設した国である。
    ハンガリー貴族の一部は、トルコの支配を得て、フェルディナントに反抗した。 当時の
    トルコは軍事大国で、バルカン半島の大部分を支配化に治めていた。 トルコ軍は、
    1529年にウィーンに迫ったが、フェルディナントの軍は、これを撃退した。

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    シュレスウィヒとホルスタインのドイツ系住民は、新憲法の受け入れを拒否した。
    そして、他のドイツ諸領邦のつくる連邦に加盟しようと、デンマーク政府に対して
    反乱を起こした。 ドイツ連邦の両大国プロイセンとオーストリアは、シュレウィヒと
     ホルスタインを支持して、デンマーク・ドイツ戦争が始まった。

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    1864年、ドイツ連邦軍は、デンマーク軍を敗北させた。 ウィーン条約によって、
    シュレスウィヒとホルスタインは、プロイセンとオーストリアに引き渡された。 こうして
    デンマークは、最も肥沃な農地の一部を失った。

    若い道路技師エンリコ・ダルガスは、農地の損失を補う方法を考えた。 1866年、
    ダルガスは、海を埋め立てて農地を作るための組合組織を創設した。 農民達は
    沼地を干拓して常緑樹を植え、土壌の浸食を防いだ。 その結果、砂性の土壌に
    穀物が出来るようになった。 この埋め立て事業は極めて広範囲に行われたので、
    両地域の損失に十分見合った。

    同じ時期、農業協同組合の運動が起こって、農業の生産性が高められた。 最初に
    協同組合を作ったのは、スティリング・アネルセンというヒェディングの農民である。
    アネルセンは、地元の農民達を説得して、個別に行われていた牛乳の加工を
    共同作業で行うことにした。 共同作業場の出現で、機械の購入、加工法の
    研究、販路の拡大などが、個人ではとても不可能な規模で出来ることが分かった。

    最初の農業協同組合は、その製品の品質の高さでたちまち有名になった。 農作
    業面でのその他の改良も進み、協同組合運動は、たちまちデンマーク全土に
    広まった。

    1870年代になると、別の種類の衝撃がヨーロッパの農業市場を襲った。 アメリカ
    合衆国とロシアの農民が、大量の穀物を極めて低い経費で生産出来るようになり、
    余剰農産物をヨーロッパでも売り始めたのである。 ヨーロッパの生産者達は、
    安い輸入品に対抗することが出来ず、穀物の価格は下落した。

    最初は、穀物価格の下落はデンマークの農民達に損害を与えたが、彼らはやがて
    安い輸入穀物を使って、以前より数多くの家畜を飼うようになった。

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    1880年代には、デンマークの農業協同組合は、多量の乳製品とベーコンをイギリスに
    輸出するようになった。 20世紀末には、この種の産物の輸出国のトップとなった。

    デンマークはまた、19世紀末に大きな政治問題をひとつ解決した。 この国の2大
    政党である保守党と自由党が、議会の上院と下院の権限の配分について議論を
    重ねた。 自由党は下院で多数を占め、保守党は上院を制覇していた。 両党の
    妥協が成立して、保守党の政治家やヤコブ・エストルップが首相となって政権を
    握った。

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