1037年のヴラチスラフの死後、プシェミスル家は、ボヘミアの王冠を取り戻した。
王家の争いを終わらせるために、ブレティスラフ王は、勅令を発布し、一家の
最年長者だけが王位を継承する宣言をした。 ブラティスラフはまた、ドイツ人の
ボヘミアへの移住を奨励した。 国王は、都市の外国商人と手工業者層を強化して、
地方の領主達の力を弱めたいと考えた。

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ドイツ人移住者は、主にボヘミアの西部と北部一帯に定住した。 ボヘミア王国は、
ドイツ法を取り入れて、ドイツの諸都市と交易を続けた。 ドイツの影響力を強める
ために、神聖ローマ帝国は、ドイツ人の教会関係者をボヘミアに送り込んだ。
やがて彼らは、教会で支配的地位を占め、チェコ人との争いの原因を作った。

13世紀になると、プシェミスル家の国王オタカル2世は、領土を南に広げ、
ハプスブルグ家のルドルフと、神聖ローマ帝国皇帝の地位を争って、オーストリアを
征服し、バルト海沿岸にまで及ぶ広大なボヘミア王国を築いた。 オタカル2世は、
ルドルフとの戦いで1278年戦死した。

1306年、ボヘミアのプシェミスル家は、突然に断絶した。 1310年、
プシェミスルの王妃と結婚していたルクセンブルグのヤンが、ボヘミア王を
名乗ったが、ヤンの時代に王国内部は荒廃した。 しかし、ヤンを継いだカレル
4世は、プシェミスル家の国王としての自覚が強く、ボヘミア王国の黄金時代を
築き上げた。 カレルは、巧みな外交政策で王国を拡張し、ボヘミア、モラヴィア、
シュレジア(現在のポーランド南部)の3地方は、それ以後、ボヘミア王国の
伝統の地と総称された。

カレル4世は1355年、神聖ローマ帝国皇帝に選ばれて、ボヘミア王国の首都
プラハは、今や帝国の首都として建物や橋、大聖堂、教会などが次々に建造された。

プラハ城もボヘミア王の居城として作り変えられ、1348年に、プラハ大学が学問の
拠点として創設された。 カレル4世は、神聖ローマ帝国皇帝を選出する7人の
選挙候(ボヘミア、ケルン、マインツなど)を規定した金印勅令を発布し、選挙候の
ひとつボヘミア王国は、中央ヨーロッパで最高権力を持つ国となった。

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