北にロシア、西に黒海、南にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンに
囲まれたグルジアは、ソビエト時代には、連邦構成国のひとつだった。
1985年にミハイル・グルバチョフがソ連の指導者になって以降、ソ連からの
独立を宣言する共和国が続出、グルジアも1990年末に国名をグルジア共和国と
改名し、翌1991年4月に独立を宣言したが、ソ連の崩壊で独立は完全なものと
なった。

独立後もグルジアは、強固なグルジア民主主義の下、欧米との関係強化を
打ち出し、その後、日本語での国名をジョージアと改名した。 ロシアとは
一貫して距離を置いたが、皮肉にも、この民族主義は、親ロシア路線を取る
南オセチアのオセット人や、イスラム教徒であるアブハジア人など、国内に
住む少数民族の民族主義にも火を付けた。

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グルジアからの分離を要求して、1989年に一度独立を宣言したものの、この時は、
グルジア軍によって武力で押さえつけされた南オセチアでは、分離独立を求める
運動が再燃、グルジア軍は、再び銃で対抗するなど、国内は安定せず、初代大統領
となったズビアド・ガムサフルディアの強権政治がもたらした政情不安や治安の
悪化で、国内は内戦状態に陥った。

1992年1月、ガムサフルディアがクーデターによって追放されると、エドゥアルド・
シュワルナゼが政権の座に就いた。 シェワルナゼは、ソ連最後のゴルバチョフ
政権で外務大臣を務めた人物だった。

シェワルナゼ政権の下で、11月には南オセチアとの間に停戦が成立。 南オセチア、
グルジア、南オセチアの3者による平和維持軍が置かれ、事実上独立国状態
となった。 2004年には、新しく野党のミハイル・サアカシュヴィリがグルジアの
大統領に選ばれた。

親欧米、反ロシア色は、サアカシュヴィリ政権下で更に鮮明になり、2006年3月
には、ロシア政府がグルジア産のワインの輸入禁止措置を取ったことに反発。
9月には、グルジア軍の治安当局が、ロシア将校ら10数名をスパイ行為で逮捕。
2008年には、ロシア軍が平和維持軍として駐留し、事実上独立状態にあった
南オセチアにグルジア軍が侵攻、ロシア軍と戦闘状態に突入した。

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2008年8月7日、グルジアの陸海軍が突如南オセチアの首都ツヒンバリへの軍事
行動を開始した。 これに対し、ロシア軍は、南オセチアに軍港進攻させて、
グルジア軍との戦闘に入った。 5日間の激しい戦闘の末、グルジア軍は、
南オセチアから撤退。 8月15日には、フランスの仲介で、グルジアは、ロシア
との休戦協定に調印した。 同26日は、ロシアは、アブハジアと共に南オセチアの
独立を承認、国際社会の同意を得たロシア軍は、10月にはグルジア領内から
完全に撤退した。

紛争の直接的な原因は、南オセチアの分離独立だが、ロシアにとってグルジアは、
カスピ海産原油のパイプライン敷設など、南の玄関口である黒海に繋がる要の
位置にある重要な国でもある。

紛争の背景には、表の顔(分離独立)の他にもうひとつ、大国の思惑(原油などの
地下資源確保)がある。 グルジアでの1週間にも満たない戦闘で、南オセチア
側では、2,000人以上、グルジア側でも200人を超す民間人が犠牲となった。
また、双方合わせて23万人余りが難民となった。

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