イギリスにとって、最大の遺産は、英語と観光であると言われている。
英語は、世界の共通語になりつつあるし、 2010年にロンドンを訪れた
観光客は1,460万人にも及び、1兆円以上の金をロンドンに落とした
ことになる。 ロンドンを訪れる観光客の最大の目玉は、華やかな衛兵の
交代式で知られるバッキンガム宮殿である。

ロンドンを訪れた観光客は、まず始めにこの宮殿の歴史と衛兵の交代に
見られる伝統の重さを噛みしめてから、繁華街へと繰り出すこととなる。
その中心地であるピカカデリー・サーカスに立つと、リージェンス
ストリートの景観が先ず人々の度肝を抜くこととなる。 この周辺の整然
とした街並みは、古都ロンドンの威厳を示すと同時に、ロンドン子の誇りの
象徴でもある。

この通りを更に進むと、オックスフォード・サーカスを経て広大な
リージェンツ・パークに至る。 反対側に目を向けると、トラファルガー
海賊の英雄である、ネルソン提督の記念柱がそびえるトラファルガー広場が
見える。

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このロンドン観光の中心をなす部分は、その殆どがひとりの国王の手に
よって造られた。 その国王とは、ハノーヴァー王朝第4代国王である
ジョージ4世(在位1820~1830年)で、皇太子時代の名前がリージェント
王子であるため、その功績を讃えてリージェンツ・パーク、リージェント・
ストリート、ロワー・リージェント・ストリート等の名前が付けられた。

国王になってからのジョージ4世はが始めたのは、バッキンガム宮殿の
大改修であった。 バッキンガム宮殿は、英国王室の代名詞のようになって
いるが、正式に宮殿になったのは、これより後のヴィクトリア女王が即位
した1837年のことである。

英国王のロンドン宮殿は、最初ウェストミンスター宮殿、次いでホワイトホール
宮殿、セント・ジェイムス宮殿と変遷して来た。 バッキンガム宮殿は、元々
バッキンガム公であるジョン・シェフィールドが1705年に建てた私邸を王で
あるジョージ3世が1761年に王妃のために買い取ったもので、15人の子供のうち、
14人がここで生まれ、クイーンズハウスとも呼ばれていた。

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ジョージ4世は、建築家であるジョン・ナッシュに命じて、バッキンガム
ハウスを荘厳な宮殿に建てかえることにした。 バッキンガム宮殿の構想が
現実に向かって動き出すと、これをバネにして、ロンドン各地で色々な動きが
始まった。 ジョージ4世は、建築だけではなく、芸術や文化にも理解があり、
1822年に大英博物館が拡張された時も、その翌年にナショナルギャラリーが
設立された時にも、そのスポンサーになった。 最後の7年間は、ウィンザー城
に超一流の飾りや調度品を集め、ヨーロッパで最も素晴らしい宮殿のひとつに
仕上げた。 トラファルガー広場には、ジョージ4世の騎馬像が建っており、
ロンドン市民を見守っている。

このような偉大な功績を残したのにも関わらず、ジョージ4世は国民からは
かなり嫌われた。 父ジョージ3世の残した借金は桁外れで、1793年当事で
40万ポンドに達しており、借金を棒引きにするために、従姉妹のキャロライン・
オブ・ブルンスウィックと結婚した。 2人の間には長女シャーロットが
誕生したが、その3ヵ月後には一方的に別居を宣言して、昔の愛人とよりを
戻してしまった。

その後、キャロラインとの仲はもつれにもつれて、国政を巻き込んでの
大スキャンダルに発展した。 ジョージ4世が全力を傾けて取り組んだ
バッキンガム宮殿の大改修だったが、ジョージ4世は、その完成を見る事なく
1830年にこの世を去った。



ジョージ4世の跡を継いで国王となったウィリアム4世は、長年海軍に所属
しており、派手好きであった兄とは逆に、質素な性格で、バッキンガム宮殿
には関心を持たなかった。 ウィリアム4世の死後、姪であるヴィクトリアが
即位し、完成したバッキンガム宮殿に住み始めた。 しかし、最愛の夫である
アルバート公が1861年に死去すると、ヴィクトリア女王は公の場を避け、
ワイト島のオズボーンハウスや、ウィンザー城に住むようになったため、
バッキンガム宮殿は、40年間に渡って、半ば閉鎖されたようになった。

跡を継いだエドワード7世の時にようやく活気を取り戻し、増改築を繰り返して、
ジョージ5世、ジョージ6世、エリザベス女王へと引き継がれて来た。 とりわけ、
ジョージ6世が第二次世界大戦中にドイツ軍の空爆を何度か受けながら、この
宮殿に踏みとどまって決意の程を見せた話は有名である。

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