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    タグ:エカテリーナ2世

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    ソビエスキは、勝利したが、ポーランド国会内部の軋轢は王国を弱体化
    させた。 その後、ドイツのザクセン公がポーランド王アウグストゥス2世
    となったが、この時代には、ポーランドは、強大な隣国によって主権を
    侵され始めた。

    アウグストゥス2世が1733年に死ぬと、ポーランドのある貴族が国王に選ばれ
    かけたが、ロシアの干渉で阻止された。 そして、ロシア皇帝の代理人たちは、
    下院の大きな派閥を買収して、アウグストゥス2世の息子を国王に選出させた。

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    重税のために、ポーランドの農業と貿易は振るわなかった。 軍事力も低下し、
    国王は外国の軍隊に対して、無防備の状態となった。 貴族たちは、敵対する
    派閥を統合する努力を殆どせず、無能と腐敗によって、国家を弱体化させた。
    その上、下院が拒否権制度を導入したため、国会議員が1人でも反対すれば、
    新しい法案は一切成立しなくなった。

    このために政治は大混乱となり、外敵たちは、これを好機にポーランドの領土を
    奪い始めた。 1772年、西のプロイセンと南のオーストリアは、東のロシアと
    協力して、ポーランド領土の3分の1近くを奪ってそれぞれの国の領土に加えた。
    これが第一次ポーランド分割である。

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    第一次分割以後、政治を改革しようとする動きが国会内で強まった。 1791年、
    多くの貴族の反対を押し切って、国会は新憲法を採択した。 この憲法は、
    拒否権制度を廃止し、国王の選挙制を止めて相続制とし、下院の力を弱めた。
    新憲法はまた、全ての市民の人権を保障した。 しかし、ロシアの女帝
    エカテリーナ2世は、臣下のロシア国民が、ポーランド人たちと同じ改革を
    するのを恐れた。

    1793年、一部のポーランド貴族の協力で、エカテリーナは、軍隊をポーランド
    東部に進め、領土の一部を奪い取った。 それと同時にプロイセンもまた、
    ポーランド西部の一部とグダニスク港を併合した。

    ポーランドの第二次分割に憤激して反乱が起こり、愛国者タデウシ・
    コシュチューシコがその指導者となった。 1494年、コシュチューシコは、
    ワルシャワでロシア軍を撃破した。

    だが、ロシアとプロイセンが、力を合わせて攻め込んで来たため、ポーランド
    愛国軍は、数の上で圧倒された。 翌年、ロシア、プロイセン、オーストリアの
    3国は、コシュチューシコの反乱を鎮圧して、ポーランド国王を退位させた。

    これらの3国は、残っていたポーランドの領土を自分たちの間で分割し、
    ポーランド王国は消滅した。

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    ペテルブルグの郊外には、皇帝の離宮がいくつもある。 代表的なものは
    ツァールスコエ・セロー(ソ連時代はプーシキン)、ペテルゴーフ(現在は
    ペトロドヴァレツ)である。 ツァールスコエ・セローは、ペテルブルグから
    南方約25kmのところにある。

    1725年、ピョートルの死後からツァーリの離宮が置かれた。 エリザヴェータ
    女帝時代、エカテリーナ2世時代に宮殿が整備された。 ピョートルの妃で、
    女帝となったエカテリーナ1世のために建てられた宮殿がエカテリーナ宮殿である。
    これがラストレッリによって拡張され、改築され、バロック様式の豪華絢爛たる
    宮殿になった。 1756年にラストレッリの改築は完成した。

    この宮殿の中で特に名高いのは、琥珀の間である。 1791年この宮殿の大広間で
    日本からの漂流民である大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に拝謁し、日本帰国を
    許されたのである。

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    1800年には、第2の宮殿アレクサンドル宮殿が完成した。 これはクワレンギの
    設計による古典主義的建築である。 エカテリーナ2世は、愛する孫の
    アレクサンドルを身近に置こうと、アレクサンドル(後の1世)のためにこの
    宮殿を建てたのである。 1811年エカテリーナ宮殿の右側に貴族男子の中高等
    学校、リツェイが開校した。 ここに学んだのが、詩人のプーシキンである。

    帝政最後の皇帝ニコライ2世は、妃アレクサンドラ・フォードロヴナが
    ペテルブルグを嫌ったために、首都にいる時には基本的にツァールスコエ・セロー
    のアレクサンドル宮殿で生活をした。 皇帝と皇后は、王女オリガ、タチヤーナ、
    マリヤ、アナスタシヤ、血友病の皇太子アレクセイと共に、この宮殿に立て
    こもっているがごとくであった。

    皇后が信頼する女官アンナ・ビルボーヴァは、ツァールスコエ・セローの街の中に
    家を借りて住み、皇后がラスプーチンと会う便宜を図った。 ラスプーチンは、
    皇太子が出血する際の痛みを止めるのに不思議な力を発揮し、皇后の絶大な信頼を
    得ていた。 皇太子の血友病は公式には全く秘密にされていたので、皇后、女官
    アンナとラスプーチンの関係は疑惑を持って見られるに至った。 二月革命後、
    皇帝の一家はこの宮殿に監禁される生活となった。 そして、シベリアに流刑に
    なったのである。

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    革命後、この街は、ジェツコエ・セローと改称されたが、1937年プーシキンの死後
    100年を記念して、プーシキンと改称された。 独ソ戦争の際、ドイツ軍は、この
    街を占領し、宮殿を完全に略奪した。 ドイツ軍が撤退した時、宮殿は壁だけが
    残っていたに過ぎない。 戦後の困難な状態の中で、完全復元の決定がなされ、
    途方もない努力によって、エカテリーナ宮殿は1959年に復元作業が終わり、公開
    された。

    ペトロドヴァレツは、ペテルブルグの西30kmのところにあって、フィンランド湾の
    南岸に位置している。 エルミタージュの脇の船着場水中翼船で30分、鉄道なら
    40分の距離である。 ここは元ペテルゴフと呼ばれ、1714年に早くも開かれた。

    大宮殿は海に開かれた斜面の上に建てられたが、その後の1755年にラストレッリに
    よって改築された。 大宮殿から下に噴水の階段が作られている。 夏の離宮
    として皇帝達に愛された。 ペテルブルグを離れることを望んだニコライ2世は、
    ここに来ると、大宮殿ではなく、その東の森の中の『農園』と名付けられた質素な
    パビリオンで人と会うことを好んでいた。

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    ペテルゴフもドイツ軍に占領された。 そしてここも完全な廃墟となった。
    これを復元しようという努力は、戦争中の1944年から始まった。 ペテルゴフ
    というドイツ風の名前をペトロドゥヴァレツというロシア風の名前に変えたのも、
    ドイツ軍に対する怒りの表れであったかも知れない。 1947年には、最初の
    噴水が水を出し始めた。 復元作業は60年代に終わった。

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    1764年、エカテリーナ2世は、ベルリンで225点の絵画を買い付けた。
    オランダ、フランドル地方の画家の絵で、レンブラントの絵が多く含まれて
    いた。 この絵が運び込まれた冬宮の一部がエルミタージュ(隠れ家、草庵)と
    呼ばれるようになった。

    エカテリーナは、1764年から冬宮の隣に収集美術館を建設し始め、1975年に
    完成させた。 これが小エルミタージュと名付けられた。 1774年には、買い
    集めた絵の総枚数は、2080枚に達していたので、すぐに次の建設が始まった。

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    1987年には、河岸側に旧エルミタージュが建設された。 ここには、ルネッサンス
    期のイタリアの絵画が集められた。 レオナルド・ダ・ビンチの『聖母子像』は
    特に有名である。

    更に、エカテリーナは、1787年に旧エルミタージュの隣にエルミタージュ劇場を
    建設した。 設計者は、クヴァレンギである。 400人を収容する堂々たる劇場
    である。

    次のニコライ1世の時代、1839年に旧エルミタージュの内側に文字通り新しい
    美術館の建設が始められ、1952年に完成した。 レオ・フォン・クレンツェの
    設計した新エルミタージュである。 ここには、レンブラント・コレクション、
    ヴァン・ダイクやルーベンス等のオランダ・フランドル絵画もある。

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    新エルミタージュは1852年の完成と共に公開され、1866年には一層自由に見る事が
    出来るようになった。 冬宮は、二月革命後、臨時政府の建物となり、十月革命で
    革命派の兵士水兵に占拠された。 十月革命後、皇室所有の美術品は大貴族の
    宮殿から没収された美術品で更に膨大なものとなった。

    1922年エルミタージュは、冬宮の中にも拡張された。 今やエルミタージュは、
    市民に開放される美術館となったのである。 途中所蔵の絵画が西側に売り飛ば
    される時期もあったが、1946年、ついに冬宮全体がエルミタージュとなったので
    ある。 そして1948年、モスクワの資本家達が集めた現代西欧の絵画が運び
    込まれた。

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    旧冬宮の新しいスペースにモスクワの商人セルゲイ・シチューキンが集めた
    マチスの大作『踊る人』と『音楽』、それに青の時代のピカソの絵が展示された。
    シチューキンはフランスに亡命していたが、自分がソビエト政権に渡して来た
    コレクションについて、次のように語ったと記録されている。

    『私は自分のためではなく、それよりは自分の国のため、自分の国民のために
    収集したのである。 わが国に何があろうと、私のコレクションはあの地に残ら
    なければならない』

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    『ロシア』という国名が最初に文献に登場するのは15世紀末、広く用いられるように
    なったのは16世紀になってからのことである。 ロシアには、これまでに、2つの王朝が
    存在しており、リューリック王朝(860年頃~1598年)と動乱の時代に続く、ロマノフ王朝
    (1613年~1917年)が存在していた。

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    11世紀までは、『ルーシ』の中心地域は、現在のウクライナの首都であるキエフ周辺
    だったため、ロシア正教会の中心地もキエフであったのだが、その周辺の現代
    ウクライナとなっている南西ルーシ地域は、14世紀前後に隣国のリトアニア大公国と
    ポーランド王国によって征服されて以来、18世紀のエカテリーナ2世によるウクライナ
    併合に至るまで、ウラジーミル、モスクワを始めとした北東ルーシからは切り離されて
    いた。 よって、ロシアとウクライナは、同じ東方正教国家と言えども、それぞれ異なる
    道を歩んで来た。

    1237年にキエフは、チンギス・ハンの孫である、バツーが率いるモンゴル軍(黄金軍団)に
    滅ぼされ、その後、ロシアは、150年近くにも渡り、モンゴル・タタール軍の支配下となる。
    1380年、モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイ率いるルーシ諸公連合軍は、クリコヴォの
    戦いで、キプチャク・ハン国のママイ・ハーン軍を破ったが、一般的に、この1380年を以て、
    ルーシは『タタールのくびき』から解放されたとされることが多い。

    その後、モスクワ公国が名実共に『ルーシの第一人者』となって行くこととなるのだが、
    この頃の『ルーシ』の統合はまだ緩やかなものであった。 1467年、ヴァシーリー2世の
    長子であるイヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィアを
    妻として迎え、ローマ帝国の継承者であることを宣言した。 その後、イヴァン3世により、
    豊かな毛皮を産する後背地を抱えるノヴゴロド(1478年)と貿易の活発であったプスコフが
    征服された。 その後、ヤロスラヴリ(1463年)、ロストフ(1474年)、トヴェーリ(1485年)
    等も次々に併合され、これにより独自の豊富な財源を手に入れたモスクワ大公は、
    ルーシ諸公、貴族の中で専制君主として振舞う実力を獲得した。

    【イワン雷帝と息子のイワン】 

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    イヴァン3世は初めて『ツァーリ』(皇帝)の称号を名乗った君主であり、双頭の鷲の紋章が
    モスクワ大公の紋章に加えられた。 次のツァーリである、イヴァン4世は、紙と印刷機の
    導入、常備軍の創設等の近代化を進め、対外戦争(リヴォニア戦争など)を実行すると
    共に、ロシア正教会への国家の統制を強めた。 イヴァン4世の統治の時代は、彼の
    あだ名にもなっている『雷帝』にも象徴されるように、恐怖政治が吹き荒れた時代であった。
    リューリック王朝最後の支配者である、ボリス・ゴドノフは、人望がなく、正当な王位
    継承権を持つドミトリー王子を殺した疑いを持たれ、1605年に突然死すると、その後、
    後継者を決める長い争いが始まり、1613年まで動乱の時代が続いた。

    【ロマノフ王朝成立時のロシアの領土】
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    1613年、ミハイル・ロマノフが王に選ばれ、彼の一族がその後300年に渡って支配を
    続けた。 異母姉であるソフィアから王位を強奪したピョートル大帝は、1689年から
    1725年までを支配し、歴代皇帝の中でも最も精力的に動いた。 新しい首都を建設し、
    海軍を創設し、教育と政府の改革を始めた。 ドイツの王女として生まれたエカテリーナ
    2世は、1762年に女帝となり、30年以上にも渡って国を支配した。 エカテリーナ大帝とも
    呼ばれて、強力な4人の女王の最後のひとりでもあった。 1913年、ニコライ2世は、
    ロマノフ王朝の300周年を祝ったが、その4年後、戦争と市民の蜂起によって破局を迎え、
    1917年、血友病の息子の身を案じて退位したが、1918年に家族と共に、ボリシェビキに
    よって、殺された。 ここにロマノフ王朝は幕を閉じた。

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    5月27日は、サンクト・ペテルブルグ建市の日。 これは、ピョートル大帝によって
    1703年5月27日(昔ロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)に築かれた
    人工都市である事に由来しており、現在でも5月27日は建市記念日として市の
    祝日となっている。

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    ロシアでは、『母なるモスクワ』、『父なるサンクト・ペテルブルク』と呼ばれる事が多い
    両都市だが、モスクワが『大地信仰』を根底とするロシアを象徴する土着の都であった
    のに対し、ペテルブルクは西欧に開かれた窓、いわゆる、人工的に建設された西欧的、
    キリスト教的な支配を象徴する都と考えられているため、このように呼ばれている。

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    この周辺は、ルーシの北端に位置しており、キエフ公国がモンゴル襲来により分裂
    すると、ノヴゴロド公国の辺境地帯となった。 その後、ノヴゴロドを併合した
    モスクワ公国領となっていたが、1617年にスウェーデンがこの地を奪取し、以後
    ピョートル大抵の時代に至るまで、約90年間この地域はスウェーデン領のイングリアと
    なっていた。
     
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    大北方戦争の結果、スウェーデンから奪取したフィンランド湾沿岸部に新たに都が
    建設される事となったのだが、造営前のペテルブルク一帯は、荒れ果てた沼地であり、
    ネバ川河口付近には、同時並行でペトロパヴロフスク要塞も建設されたが、荒れ
    果てた沼地の上に新都市を建設したため、その作業は過酷を極め、約1万人が命を
    落としたとも言われており、『屍の上に築かれた都市』との異名を持っている。

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    新しい都の建設後は、ロシア帝国の首都としてふさわしい街となるよう、歴代の
    皇帝が整備を行い、1725年には科学アカデミーが、1754年には王宮として冬宮が
    完成。 ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが
    作られて行った。 1757年には演劇アカデミーが創設され、エカテリーナ2世時代の
    1762年には冬宮の一角にエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設された。

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    サンクト・ペテルブルグの都市名は、都市の設立時から1914年まで用いられた後、
    ドイツとの戦争時に、一時的にロシア的な名称である『ペトログラード』と改称されたが、
    ロシア革命後の1924年、レニングラードと改称、1991年のソ連崩壊後、再びドイツ語の
    サンクト・ペテルブルグに戻った。

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    バレエや文学が盛んな芸術都市としても知られ、5月下旬から7月中旬には、太陽の
    沈まない白夜の町としても有名。 ピョートル大帝は、ロシアの近代化のための窓口
    として莫大な費用を掛けて建設し、後のエカテリーナ2世によって、芸術都市としての
    礎が築かれて行った。 19世紀にはロシア文学が花開き、世界最高峰の名作が
    次々に生み出されて行った。 天才と謳われた詩人・プーシキンや、『罪と罰』の
    作者ドストエフスキーなど、著名な人物もこの都市を拠点に活動していた。

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    ペトロハヴロフスク要塞やエカテリーナ宮殿など、歴史を刻んだ多くの建築物が、
    周辺の歴史地区と共に世界遺産に登録されている。

    【サンクト・ペテルブルグの主な見どころ】
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