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    タグ:エカテリーナ

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    13世紀の初め以来、ドイツ騎士団がラトビアを植民地化し、彼らはポーランドと
    手を組んでロシアに対抗した。 リボニアは、ポーランド・リトアニア連合国家、
    後のスウェーデンの手に渡ったが、一方ドビナ川南側の地域は、クールランド
    (クルリャンド)公国とゼムガレ公国として領土が保障された。

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    ピョートル大帝の時代にロシアは、リボニア騎士団の征服に成功し、エカテリーナ
    2世がポーランドを分割によってその支配権を確実にした。 1772年の第一次
    ポーランド分割によって、ラトガレ地方がロシアの手に落ち、間もなくラトビア
    全土がロシアの支配下に置かれた。

    しかし、度重なる支配者の交代にも関わらず、ラトビアの人たちは、19世紀に
    入っても尚、ドイツ・バルト騎士領の領主の下で農奴として生活していた。
    そのため、都市にもドイツの影響が色濃く残っている。 19世紀末に工業化が
    始まると、ラトビアの都市住民の存在が大きな意味を持つようになった。

    ラトビア人は、ロシア皇帝政権によって、抑圧を受け、また、ドイツ・バルトの
    大地主たちからも社会的に冷遇されて来た。 そのため、1905年にロシアに
    革命が起きた時には、革命派の側に付く者もいた。

    ロシア皇帝政権の崩壊後、ラトビア人は、民族の独立を目指して新たに戦いを
    始めた。 1920年、長い闘争の末、ようやく独立を勝ち得たが、それも長くは
    続かなかった。 1939年の独ソ不可侵条約における秘密議定書によって、
    ラトビアはソ連に編入された。

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    【毟り散られる自国の富】
    1945年以来、ラトビアの経済構造は大きく変化し、以前は農業を主体とした
    地域であったのが、ソ連の近代的な工業地帯へと様変わりした。 例えば、
    工業化や交通整備の度合い、経済発展の速度や経済効率は、ソ連の平均的な
    水準を遥かに超えている。

    しかしながら、ラトビアは、自国の富の恩恵を受けていなかった。 と言うのは、
    ソ連の計画経済に沿って、製品の大部分を他の連邦共和国に輸出しなければ
    ならなかったからである。

    【民族独立への突破口】
     1980年代末、ゴルバチョフ政権のペレストロイカの下で、ラトビアの民族運動の
    再開がようやく可能となった。 1989年以来、独立への闘争が強まるに連れて、
    モスクワとあつれきが生じることになった。 モスクワで保守派のクーデターが
    失敗した直後、1991年8月21日に独立を宣言し、同1991年9月6日、ソビエト国家
    評議会によって、承認された。

    【お勧めの一冊】


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    海軍省と冬宮との間の通りを進むと、ネヴァ川に掛かる宮殿橋に出る。
    最初の橋は1856年に完成した。 現在の橋は、開閉式で、1912年に作られた。
    橋を渡ると、ヴァシリエフスキー島である。

    ヴァシリエフスキー島は、一時期ピョートルがペテルブルグの中心地にしようと
    考えたところであった。 しかし、貴族たちは、海軍本部からネフスキー大通りの
    方面に住むことを望み、この島に住もうとしなかったので、ピョートルの思惑は
    実現しなかった。 とはいえ、ピョートルの重要な機関をこの島に作った。

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    橋を渡ると、大ネヴァ川に沿った大学河岸通りとなる。 まず最初の塔のある
    緑の色の建物が文化人類学博物館である。 これは、ピョートルがヨーロッパ
    旅行の際に、入手したさまざまな品物を収容展示するために1714年に作られた
    最初の博物館が基になっている。 建物は1734年にゲオルグ・マッタルノーヴィの
    設計によって作られたバロック風のものである。 17世紀には色々な学術研究
    機関が入っていたが、その後、元の博物館に戻り、今日に至っている。

    次の建物は、旧科学アカデミーの建物である。 科学アカデミーは、1724年、
    ピョートルが死の直前に設立を決定した学術機関である。 科学アカデミー
    会員は、最初は外国人ばかりであったが、1742年にロモノーソフが最初のロシア人
    会員となった。 現在の建物はクワレンギが設計し、1785年に完成した。
    科学アカデミーは1934年までここを本部とし、その年モスクワに移転した。
    建物2階にロモノーソフが建設したモザイク画『ポルタヴァの戦い』が掛け
    られている。

    次は、ピョートルが作った12参議会の建物である。 トレジーニの設計で
    1722年に建設が始まった。 参議会というのは、省にあたる。 ピョートルが
    1719年から1721年に掛けて作った。 この建物だけで政府の機能を果たすことは
    すぐに難しくなったであろう。 省の建物は、ペテルブルグの色々なところに
    作られたが、結局、この建物は、ペテルブルグ大学に渡された。

    ここから大学の建物が始まる。 ペテルブルグ帝大は、1837年にこの場所に
    引っ越して来たのである。 この大学の創立年については、意見が分かれる。
    1724年に科学アカデミーが設立される時の発令には、大学と中学校を共に創る
    ということが含まれていた。 科学アカデミーの一部として、大学と中学校が
    創られたと見ることが可能である。 しかし、これは大学とは言えなかった。

    ロモノーソフは、モスクワ帝大の創設に尽力したのだが、ペテルブルグ大学に
    ついては、大学創設をハッキリさせるために開学式を行ってはどうかと提案した。
    しかし、エリザヴェータ女帝もエカテリーナ女帝もペテルブルグに大学を創る
    ことには関心を示さなかった。 結局、1819年になって、アレクサンドル1世
    によって、サンクト・ペテルブルグ大学の正式発足が決定されたのである。

    ペテルブルグ大学は、人文・東洋言語学部、物理・数学部、法学部、医学部
    から成っていた。 人文・東洋言語学部は、大学河岸通りに面したところにある。
    1935年にキーロフが暗殺されると、ペテルブルグ大学は、キーロフ名称という
    言葉が付された。 つまり、キーロフ名称国立サンクト・ペテルブルグ大学
    というのが正式名称である。

    【お勧めの一品】


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