横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    タグ:ウクライナ

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    2017年6月27日、欧米やロシアなど、世界各地で『ランサムウエア』と呼ばれる
    コンピューターウイルスを使ったサイバー攻撃発生の報告が相次いだ。
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    ランサムウェア(英語: Ransomware)とは、マルウェアの一種であり、これに
    感染した コンピュータは、利用者のシステムへのアクセスを制限する。 この
    制限を解除するため、 被害者がマルウェアの作者に身代金(ransom)を支払う
    よう要求するもの。

    世界規模のランサムウェア攻撃は、この2カ月間で2度目で、前回は『WannaCry』
    が猛威をふるい、20万台を超えるコンピュータが感染し、病院、銀行、大学などが
    被害を受けた。

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    被害が最も大きかったウクライナでは、政府のコンピューターネットワークが
    麻痺した。 チェルノブイリ原発の放射線測定システムも攻撃を受け、手動作業
    への切り替えに追い込まれるなど、各地で混乱が広がった。

    ランサムウェアは、米国家安全保障局(NSA)から盗み出されたと見られて
    いるが、欧州警察機関(ユーロポール)によれば、150カ国以上で20万件を
    超える被害が出た。 今回はこれに続く世界規模のサイバー攻撃の恐れがある。

    ウクライナでは政府や銀行の他、キエフ郊外の空港や国営航空企業アントノフ、
    電力会社などで大規模な被害が相次いだ。 グロイスマン首相は『ウクライナ史上、
    前例のない攻撃だ』と表明した。 政府のネットワークの復旧には数日掛かる
    見通し。

    ウクライナの他にも、ロシアの国営石油会社ロスネフチや米製薬大手メルク、
    英広告大手WPP、仏建材・ガラス大手サンゴバンの他、オランダやデンマークの
    企業なども攻撃を受けた。

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    ウクライナのペトロ・ポロシェンコ大統領は、2017年5月16日、ロシアへの
    報復の拡大として、ロシアのソーシャルネットワーク『VKontakte』
    『Odnolkasniki』『Yandex』『Mail.Ru』へのウクライナ国内でのアクセスを
    ブロックする法令を発表した。 モスクワでは、この報道に対して、
    『ウクライナ政府による検閲』とまで揶揄されており、大きな驚きを持って
    伝えられている。 

    ウクライナを含む旧ソ連・ロシア語圏では、『Facebook』よりも『VKontakte』
    の方が利用者数が圧倒的に多く、当然、その他のSNSも、ウクライナ人の殆んどが
    ほぼ毎日利用している大人気ソーシャルメディアとなっている。



    ウクライナでも非常に人気のあるSNSリソースのほとんどが完全にブロックの
    対象となるため、ウクライナ政府による独裁体制の強化とも言われているのだが、
    最も困るのは、ユーザーで、この法令によって、ロシアとウクライナの情報の
    分断が更に加速することとなる。 特に、これらのSNSをビジネスで活用している
    ユーザの場合は、死活問題となるであろう。

    ウクライナ政府はこれまでにも、急にロシア語を禁止にしてみたり、キエフ⇔
    モスクワ間の空路を廃止してみたり、ヨーロッパ最大の音楽の祭典、
    『ユーロビジョン』においても、既に決定していたロシア代表をクリミアで
    コンサートを開いたためと称して、一方的に入国させなかったりと、これまでの
    ウクライナ政府の数々の横暴な対応は、正気の沙汰とは思えない。 ウクライナ
    では、旧態よりも更に酷い独裁体制が続いているため、ソ連時代の方がまだまし
    だったと見るのが妥当かも知れない。

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    ウクライナは、旧ソ連からの独立時、さほど大きな問題もなく独立を果たしたの
    だが、その反動として、常にロシアとの間で『アイデンティティー』の問題に
    苦しんで来た。 自らの国の存在意義をロシアへの恨みと妄想にしか頼ることが
    出来ない原始的な退化した国に、EUへの加入は決して認められない。
    ヨーロッパの秩序を完全に無視し続けるウクライナは、ヨーロッパにも決して
    入れない、ロシアにも戻れないというジレンマを抱えている。

    これまでも、ロシア軍が侵攻しているとして、自国民を大量に空爆しているのも
    実は、ウクライナ政府で、ウクライナは、アメリカによる情報操作の最先端に
    置かれている。

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    ヨーロッパ最大の音楽祭『ユーロビジョン』の決勝が2017年5月13日、ウクライナの
    首都キエフで行われ、ポルトガル代表のサルバドル・ソブラルさん(27)が優勝
    した。 ポルトガルの優勝は1957年の音楽祭開始以来、初めてとなる。 次回
    大会は、恐らく首都のリスボンで開催されるものと思われる。



    ウクライナでの開催は2005年に続いて2回目となるが、前回のスウェーデン大会
    では、ロシアが一方的に編入したとするクリミア半島の先住民族タタール系の
    女性歌手ジャマラさん(33)がウクライナ代表で出場し、優勝したためキエフでの
    開催が決定したもの。



    ウクライナ当局は、ロシアがウクライナに軍事介入したと主張し、ロシアの代表
    として既に決定していたユリア・サモイロヴァさん(28)を入国禁止にし、両国の
    緊張が続く中での開催となった。 サモイロヴァさんは車椅子で歌う歌手としても
    有名で、ウクライナ当局は、ロシア編入後のクリミアで演奏したことを非難。

    本人は『問題と思わない』『ユーロビジョンは子供の頃からの夢』として出場を
    強く望んだが、ウクライナへの入国は禁止となり、その報復として、ロシアの
    テレビ局はユーロビジョンのロシアでの放送をボイコットした。

    ロシア系住民の多いウクライナ東部のドネツク州では決勝当日、親ロシア派の
    仕業と見られる砲撃により、住民4人が死亡した。 事態を重く見たポロシェンコ
    大統領は、音楽祭出席を急きょキャンセルした。


     
    ユーロビジョン・ソングコンテストは、ABBAやジンギスカンなども輩出した
    ヨーロッパ最大の音楽祭であり、過去にヨーロッパ内で戦争があった際には、
    このような騒動はなかったため、ウクライナは、ヨーロッパの一員として、確固たる
    態度を取って欲しかったところだが、何もかもをウソで塗り固めているウクライナ
    政府は、そのような事は意に介さずに、一方的にロシア代表を入国禁止にしたため、
    国際的な非難は避けられない。

    ウクライナ政府は、一方的にEUに入りたがっているのだが、このような差別的な
    行為は、EUが最も嫌う行為であるため、EUとヨーロッパの溝が更に深まったと
    見るのが妥当。 ウクライナ政府が本気でまともな先進国の仲間入りを果たしたい
    のであれば、このような無様な対応は避けるべきであった。

    クリミア在住のロシア系住民たちは、全員ロシアへの『返還』を喜んでおり、未だ
    一度たりとも、ウクライナへの帰属を主張している人は居ない。 それどころか、
    クリミアを含む東部ウクライナは、元々、ロシア帝国の領土であった場所で、本来の
    ウクライナの領土は、現在の国土の3分の1程度しかなかったところに、ポーランド
    やら、ハンガリーやら、スロバキアやらから分捕って来た領土を次々と付け足した
    結果、このような意味不明な国家が出来上がったというのがウクライナの真実。

    元々、東部ウクライナに住んでいるロシア人は、ソ連の時代には、特権階級であった
    ために、ウクライナ独立後のウクライナ人中心の不当な扱いには、かなり不満を
    抱いていた。 ソ連独立時にも、特に独立を強く主張した訳でもないウクライナは、
    アイデンティティーの面でも各国からの切り張りの国土を維持するのが難しく、
    ロシア語から聞くと、田舎臭いウクライナ語を政府が強要して来るため、ロシア語
    話者からの反発が激しい。 ウクライナは、ウクライナ人が住んでいる本来の領土に
    戻すのが、一番平和裏に問題を解決する方法。 

    ウクライナ語はロシア語とは非常に似ているため、今後、更に、ウクライナ語化
    政策が取られたとしても、ロシア語話者の権利だけは守るべき。 ウクライナは、
    EUへの加入を熱望しているが、政治が腐敗し切っているため、ドイツやフランス
    からの反発は避けられない。

    現在のEUが抱える数々の問題点を露呈した今年のユーロビジョン・ソング
    コンテストは、オリンピックと並ぶヨーロッパにおける平和の祭典であっただけに、
    ウクライナの対応が残念でならない。

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    ウクライナという国名は『辺境地帯』を意味する。 この名前は、13世紀に
    モンゴル人の侵攻を受けた後の時代に使われるようになった。 しかし、この地域は
    元々、辺境どころか、東スラブ地域で初の国家が形成される舞台となった重要な
    地域であった。

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    今日のウクライナの首都キエフで、9世紀にキエフ公国が成立した。 この国家は、
    後のロシア帝国の起源とみなすことが出来る。 これが、『キエフはロシアの全ての
    ロシアの都市の母』と言われる由縁である。

    1240年、この国は、モンゴル人によって破壊された。 その後、政治的な
    中心地は、北東のウラジミール、スズダリ、そして、最後にモスクワへと移って
    行った。モンゴル人やタタール人の騎馬兵に襲撃され続け、ますます住民の
    減っていたウクライナは、これらの地域から見ると、正に辺境と化したのである。

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    【民族的アイデンティティーを求めての戦い】
    その後の数世紀間、ウクライナは、ポーランドとリトアニアの支配を受けることと
    なった。 その間、脱走した農奴たちがコサックと呼ばれる集団を形成し、
    ポーランドの支配に抵抗し始めた。 コサックの首長であったフメリニツキは、
    1654年にウクライナをモスクワのロシア皇帝の保護下に据えた。

    しかし、ロシア皇帝は当初、ウクライナ全体のうち、ドニエプル川以西の地域しか
    その支配を主張することが出来なかった。 ロシア帝国が事実上ウクライナ全域
    (オーストリアの支配を受けたガリツィア地方を除く)を支配するようになるのは、
    18世紀になってからのことである。

    この時代、ウクライナ独自の文章語が次第に形成されて行った。 しかし、ロシア
    政府はこれをロシア語の一方言(小ロシア語)として位置付け、公の場での使用を
    禁じた。 19世紀になると、ウクライナの民族意識が高揚し、民族運動が展開される
    ようになった。 この時点では、自分たちの文化的独自性の保存を求めるに留まって
    いた。 しかし、20世紀になると、国家としての独立を求める声が高まって行った。

    1917年のロシア革命の直後、民族運動の高まりによって、1918年初頭に
    ウクライナは独立を宣言した。 ロシア・ソビエト共和国は、ブレスト・
    リトフスクの和約を結んでこれを認めなければならなかった。 しかし、その後の
    内乱で、ボリシェビキが勝利を収め、1919年『ウクライナ・ソビエト社会主義
    共和国』が設立された。

    共和国は、1922年ソ連に加盟した。 ソ連の指導者は、初めの数年は、彼らの
    民族的利権、とりわけ、文化面における独自性を考慮した政策をとっていた。
    しかし、スターリンが政権を握るようになって以来、1920年代を中心に民族
    主義的な主張を行う者に対して、激しい迫害がなされた。 農業などの集団化を
    強制的に進める中で、あるいは、意図的に引き起こされたとも考えられる飢餓に
    よって、ウクライナ人の間に100万人規模の犠牲が出た。

    【独立国家共同体創設の主唱国】
    改革路線の時代が到来すると、1980年代後半を中心に、ウクライナの民族運動にも
    新たな展開が繰り広げられた。 1990年夏、ウクライナは、主権を宣言し、1991年
    8月には独立宣言は発せられた。 当初、ウクライナは、連邦制の維持を目的とした
    新連邦条約に関する協議に参加していたが、その後、態度を変え、新たな中央集権
    構造の設立に強く抵抗し、完全独立を主張するようになった。 独立国家共同体の
    創設に主唱国の1つとして参与した際にも、彼らは、独自の軍隊を編成し、黒海に
    おける旧ソビエト連合艦隊の指揮権を保持することを求めた。 これによって、
    ロシアとの間に対立が生じている。 ウクライナは、旧ソ連の国連における3つの
    議席の1つを占めていた。

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    『ルテニア』は、現在のウクライナ西部とポーランド南東部にまたがる地域を
    指すが、広い意味ではウクライナ、あるいは、ウクライナとベラルーシを合わせた
    地域を指す。 ルテニアとは『赤ロシア』の意味を持つ。

    この『ルテニア』とは、今日のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の祖先
    であるルーシ人のラテン語による外名で、『ルーシ』のラテン語名『ルテニア』
    (Ruthenia)に由来している。 したがって、元来はルーシ人の同義語であるが、
    特に、西ウクライナのウクライナ人の古称としても用いられる。

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    日本語における研究では、キエフ大公国(キエフ・ルーシ)を『ルテニア』と呼ぶ
    習慣がないため、その時代のルーシ人をルテニア人と呼ぶのは一般的ではない
    (西欧米の研究では呼ぶ場合がある)。 また、ロシア帝国領内の小ロシア人や
    白ロシア人をルテニア人と呼ぶのも一般的ではない。

    ルテニア人は、ルシン人とも書かれることがあるが、少数民族であるルシン人は、
    本来のルテニア人とは異なっており、この表記の揺れが混乱を招いている。
    ルシン人は、ウクライナ語の方言とされるルシン語を話すスラヴ人の民族集団
    であり、ルーマニア、スロヴァキア、セルビア、ウクライナなど東ヨーロッパ
    各地に広く住んでいる。

    ルーシ人が19世紀から20世紀初めにかけて『ウクライナ人』として民族意識が
    形成されていく中、ルシン人はそれを受け入れてこなかった少数民族を起源に持つ。
    こうした現象は1945年以降のソヴィエト政権下のカルパチアやポーランド政府、
    そして1950年代前半までのチェコスロヴァキア政府が『ルシン人』という名称の
    使用を禁止していたことによる。

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    今ではスロヴァキア、ポーランド、ハンガリー、チェコそしてセルビア政府が
    『ルシン人』と公式に少数民族として認めている。 2007年、ウクライナの
    ザカルパッチャ州で初めて独立した民族であると認められた。 ウクライナ国内の
    ルシン人がウクライナ国籍を持ち、そのほとんどがウクライナ人としての民族意識を
    持っているのに対し、現在ルシン人としての民族意識を有している人々の多くは
    ウクライナ国外に住んでいる。
     
    ルシン人の数は約120万人と見積もられているが、そのうち自分がルシン人であると
    認識しているのはたった55,000人に過ぎない。 ルシン人という民族分類には
    異論も多く、ルシン人は広義的なルーシ人であり、ロシア人、ウクライナ人、
    ベラルーシ人とは別の独立した東スラヴ人の一派であるとされる一方で、他方では
    ウクライナ人の下位集団に過ぎないとも言われる。

    ベラルーシ人同様に、ロシア人とウクライナ人と異なり、西進したテュルク系、
    モンゴル系などの異民族との混血は少なく、コーカソイドの遺伝子を濃厚に残して
    いる特徴がある。

    現在ウクライナ領となっている、ザカルパチア・ルシン人団体大会は、ウクライナ
    政府との対話によって、ルシン民族の承認と、ポトカルパツカ・ルーシの自治権
    承認を求めることを決めた。 タス通信によると、声明には、1991年に
    ザカルパチアで実施された住民投票の結果の承認についても、キエフ当局と話し合う
    意向が記載されている。 尚、住民投票では、約80パーセントの住民が、同地域に
    自立した地位を与えることに賛成票を投じた。

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    ウクライナは、元々は、ロシアのルーツとなる、ルーシがあった国で、日本で
    言うところの『侍』に当たる軍事的共同体、『コサック』もウクライナと南ロシアが
    そのルーツ。 ルーシの首都は、現在のウクライナの首都であるキエフで、
    東方から遥々遠征して来たモンゴル軍によって攻め滅ぼされるまでは、
    ヨーロッパでは、ロンドンに次ぐ大都市であったが、モンゴル軍によって徹底的に
    破壊されたため、その後、数世紀に渡り、キエフは都市として復活出来なかった。
     
    一方のロシアは、モンゴル人、並びに、アジアから遠征してくる途中でスラブ人と
    混血したタタール人に370年近くも支配されたが、その間、北のモスクワ公国が
    台頭し、先にモンゴル・タタールからの独立を果たした。 元々、ルーシの中心地で
    あったウクライナは、約400年間もの間、ポーランド・リトアニアに支配された。

     

    ウクライナの宗教は、ロシアと同じ東方正教であったため、ポーランドからの独立を
    勝ち取るために、隣国であるモスクワ公国の力を借りたのだが、ポーランドからの
    独立は勝ち取ったものの、そのままモスクワ公国へと吸収され、そのモスクワは、
    『ルーシ』の旧領を取り戻したという意味で、ルーシの後継者の『ルーシ国』
    という意味の『ロシア』を名乗り始めた。 尚、人種的には、大ロシア人を
    ロシア人、小ロシア人をウクライナ人と呼ぶため、ロシア人とウクライナ人は
    極めて近い人種となっている。 唯一の違いは支配者がモンゴル人であったか、
    ポーランド人であったかだけ。

    ロシア帝国の時代もソ連の時代も、ウクライナは、ロシアの一部でしかなかったが、
    1991年末のソ連の崩壊により、ウクライナはようやく独立を果たしたものの、
    元々、バルト三国の漁夫の利的な独立で、そもそも独立運動などなしで独立を
    果たしたため、国としての基盤が全く整ってはいなかった。 その後、20年
    以上を経て、ようやく70年以上も死に絶えていたウクライナ語が復活し、
    ウクライナの国としてのアイデンティティーが生まれたが、それが余りにも
    強過ぎたため、完全に極右化した。


    独立時からロシアに対しては、余り良い感情を持っていなかったウクライナ人
    だったのだが、その隙をアメリカに突かれて、ロシアとの全面的な軍事対立へと
    突き進んだ。 ソ連時代はウクライナ語は禁止され、西部の極々一部を除き、
    ウクライナ人は全員ロシア語のみで話していたが、その後、オレンジ革命に
    よって、公の場でのロシア語は禁止となり、テレビには全てウクライナ語の
    字幕が義務付けられた。 唯一の公用語となったウクライナ語だが、普及率は
    低く、未だにロシア語だけが通じる状況が続いているのだが、ウクライナは
    ロシアと全面的に対立してしまったため、今後はウクライナ語の強化に努める
    しかないのであろう。

    尚、『ウクライナ』とは、ウクライナ語では『国』を表しているが、ロシア語
    では『田舎』という意味しかなく、ウクライナ語もロシア語から聞くと、
    とんでもない田舎の方言にしか聞こえないため、ウクライナのロシア語話者達は、
    なかなかウクライナ語では喋ろうとはしない。 ウクライナ語をネイティブ
    として話せるのは、ソ連崩壊後からウクライナ語で教育を受けた若い世代か、
    かなりの高齢者だけとなっているため、全体としては、ロシア語しか話せない
    人の方が多い。

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    クリミアは、元々、ロシア系住民が多数を占めており、ウクライナ支配を嫌った
    住民達が住民投票により、ウクライナからの独立を宣言した後、住民達の意思で
    ロシアへと返還されたもの。 元々、クリミアは、ウクライナ人のフルシチョフが
    勝手にウクライナに併合したものだが、ソ連時代は、ロシアとウクライナの
    国境など、日本の県境程度のものでしかなかったため、全く重要視されなかった。

    東部にあるドンバス地域は、ウクライナからの独立を宣言しており、ウクライナ
    政府の管轄からは完全に離れている。 ウクライナは、漢字では『鳥克蘭
    (うくらん)』と書くが、カタカナでは、『ウクライーナ』が一番表記的に近い。

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    カジミェシュ3世が跡継ぎのないまま1370年に死ぬと、甥のハンガリー王
    ラヨシュがポーランド王を兼ねた。 ラヨシュの娘ヤドヴィガが1382年に
    ポーランドの女王となり、4年後、リトアニア公ヨガイラと結婚した。

    ドイツ騎士団との戦いでリトアニアの援助を必要としていたポーランドの
    貴族達は、ヨガイラを1386年ポーランド国王に選び、彼はヴワディスワフ2世
    ヤギェウォと称した。 ポーランドとリトアニアはまだ別個の政府を持ち
    ながらも、同じヤギェウォ王家の支配を受けることになった。

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    こうして大きな勢力を持つようになったポーランドは、リトアニアと連合し、
    1410年、その連合軍はタンネンベルグの戦いでドイツ騎士団を打ち破った。
    ヴワディスワフ2世の後継者のカジミェシュ4世も、その後何度かドイツ騎士団を
    破ったので、ついに騎士団はトルニの和議を結んで、プロイセンをポーランドに
    割譲した。

    トルニの和議の成立後、ポーランドは、中ヨーロッパ最強の国となり、経済と
    文化の面でも大きく発展した。 新しい大学が出来、学者達は、それまで
    ヨーロッパの宗教と学問で伝統的だったラテン語の代わりに、ポーランド語を
    使い始めた。 1520年頃、最初のポーランド語の書籍が印刷された。 ラテン名の
    コペルニクスで知られる天文学者ミコワイ・コペルニクは近代天文学の基礎を
    築いた。

    これら変化の進行中、キリスト教信仰は混乱状態に陥っていた。 ドイツでは
    マルティン・ルターの教えで宗教改革が始まり、カトリック教会に対する反乱が
    起こった。 教皇の権威を認めないプロテスタントの教会が、スウェーデンを
    含むヨーロッパ北部の幾つかの国で作られた。 ポーランドはカトリック国家の
    ままだったが、他の宗教にも自由な崇拝を認めた。 ポーランドは、ユダヤ人
    共同体は世界最大規模のひとつとなった。

    【ポーランド国会】

    カジミェシュ4世の統治時代、シュラフタと呼ばれる、軍人と地主を中心と
    する階級が勢いを増し、土地や農民を支配し始めた。 農民達には高い租税が
    課せられ、多くは農奴に転落して、地主の土地に縛り付けられた。 1493年、
    上流階級だけの国会が出来た。 国会は、裕福な貴族で構成される上院と、
    地主で構成されるセイム、つまり下院から成っていた。 1505年、国会は最初の
    憲法を制定した。

    憲法には、ポーランド王は国会の同意がなければ、いかなる法律も成立させる
    ことが出来ないと明記されていた。 下院はまた、国王の即位を投票によって
    承認する権限を与えられていた。

    1569年、ポーランドとリトアニアは、ポーランドの主権の下に、正式に
    合併された。 この統合によって、ポーランド王国はドイツ人、ポーランド人、
    リトアニア人、ウクライナ人を治める巨大な領土を支配することになった。
    ヤギェウォ王朝の最後の国王ジグムト2世は、この統合から間もない1572年に
    死んだ。

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    【外国人君主のポーランド統治】
    ジグムント2世の死後、貴族達はますます勢力を増して、国王を選挙する
    権限を握った。 激しい王位争奪戦が起こり、それを鎮めるために、国会は
    外国の王族や公族をポーランドの王位に就けた。 1575年、国会は
    ハンガリーの公子ステファン・バトリを国王に選んだ。 バトリは優れた
    軍指導者で、ロシア皇帝イワン4世の命を受けた侵略軍を打ち破った。

    1586年、スウェーデン王子ジグムント3世ヴァーサが、バトリに次いで国王と
    なった。 これは、以後3代続いたスウェーデン系ポーランド国王の初代である。
    これが原因でプロテスタント国家スウェーデンと、カトリック国家ポーランド
    との間に宗教紛争が起きた。 スウェーデン軍は、1655年ポーランドに侵入して、
    都市や農場を焼いたり略奪したりした。

    侵略はやがて阻止されたが、戦乱と経済不況が続いた。 この前から、
    ウクライナやロシアから、コサックという自由農民のグループが、ポーランド
    領内に定住していた。 コサックは外部の権威を全く認めず、ポーランドの
    統治に反感を持つ多くのウクライナ農民を仲間にした。 国家の権威が衰えるに
    連れ、ロシア帝国はポーランド東部に侵略の手を伸ばして来た。

    この頃、小アジアを根拠地とするオスマン・トルコが、コンスタンティノープルや
    ヨーロッパ東南部の大きな部分を征服していた。 1683年、トルコ軍は
    オーストリアの首府ウィーンを囲んだ。 その9年後にポーランド王となった
    ヤン3世はソビエスキは、ポーランド軍を率いてトルコ軍を撃退した。 これに
    よって、中ヨーロッパへのトルコの侵略は阻止された。

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    キエフ市内の至るところにシェフチェンコの名前があふれている。 キエフ大学が
    彼の名前を冠しているのをはじめ、彼の名前を付けた公園、広場、通り等がある。
    シェフチェンコ通りには、立派なシェフチェンコ博物館もある。 なぜそれほど
    愛されているのだろうか?

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    彼は、1814年にキエフからほど遠からぬ村で農奴の子として生まれた。 幼い時に
    孤児になるが、早くから詩をつくり絵を描く才能を現していた。 首都に出た時、
    彼の才能に感動した知識人たちが金を集め、主人から2,500ルーブルで農奴の身分を
    買取り、自由の身となった。 また、美術学校で学んでいるうちに、故郷
    ウクライナと民衆に対する深い想いを込めた詩集『コブザーリ』を発表した。

    キエフに戻ってから、専制君主的なロシアの帝政に対抗して、農奴制の廃止と
    全スラブ民族の平等を目指す政治的な秘密結社キリール・メフォージー団に
    加入した。 やがて秘密結社の存在が発覚し、シェフチェンコは中央アジアへ
    一兵として流されるという重い罰を課せられた。 新帝アレクサンドル2世の
    即位後の1857年に恩赦を受けるが、帝政と専制政治への憎しみ、ウクライナへの
    愛は1861年に没するまで変わらなかった。

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    上記の詩集の他、彼にはウクライナの歴史を題材とした数編の長編叙事詩や、
    リアリズムの手法に基づく力強い多くの絵画作品がある。 シェフチェンコの
    代表的な絵、それに彼の文学作品の初版本や外国語訳がこのシェフチェンコ博物館に
    展示されており、数点の日本語訳も並んでいる。

    シェフチェンコは文学作品をウクライナ語で書いた。 ウクライナ語の存在価値を
    認め、その地位を高めることが彼の信念であった。 しかし、現実はなかなかその
    方向に向かわなかった。 ロシアの識者の中にも、ウクライナ語をロシア語の方言と
    しか見ない者もいたし、ロシア政府は言語の面でもロシア化政策を強行した。
    1860年には内務省がウクライナ語による書籍の出版や劇の上演を禁止するという
    命令を出し、70年代にはそれが法律になった。



    ウクライナ語の意義を承認するか否かは、ウクライナ文化や政治的自主性への
    態度とも関連している。 ソビエト期を通じてこの問題について何回も動揺が
    あった末、1991年の独立によってウクライナ語はようやく国家の第一の公用語
    としての地位を確立した。

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    17世紀の中頃、現在のウクライナの地は、ポーランドの統治下にあって、極大
    雑把に見れば、ウクライナの地主層は、概して、カトリック教徒のポーランド人、
    支配される農民は、正教徒のウクライナ人であった。 コサック軍団が農民の側の
    立場に立って ポーランド軍と戦うというのは、自然の勢いというものであった。

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    1648年にコサック軍の総司令官であるヘトマンの地位に就いたフメリニツキーは、
    死力を尽くしてポーランド軍と戦ったが、決定的な勝利が得られなかった。
    彼には、10歳の自分の息子を敵に殺されたという個人的な怨念もあった。 援軍を
    どこに求めるかについては、様々な選択肢があったが、1651年1月にキエフの東南
    70キロほどのところにあるペレヤスラフで開かれたコサック軍団の集会で、同じ
    東方正教国家である、モスクワ公国の援助を受け入れることが決定された。
    それは、一定の自治権を保持しながらも、モスクワのツァーリに従順することに
    他ならなかった。 

    もっとも、1654年3月にモスクワ政府とヘトマンとの間で結ばれた協定によって、
    キエフには、従来通りの地方自治と裁判制度が保障される文章が与えられた。
    こうして、ドニエプル川の左岸(ウクライナの東半分)とキエフがモスクワ公国の
    領域に入ることが決定された。

    ロシア側は、これをウクライナとの再統合と呼んだが、そこには、リトアニアに
    領有される以前のキエフが、元々、北東ロシアと同一国家をなしていたという合意が
    下敷きになっているのである。 こうして、キエフと東ウクライナを併合した
    モスクワ公国は、その名を『ルーシ国』という意味の『ロシア』へと変えた。

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    独立を望むウクライナ人の視点に立てば、フメリニツキーの行動は、一種の裏切りに
    見えることは確かである。 ただ、ペレヤスラフ条約によって、ウクライナは主権を
    失ったのではないという解釈もある。

    フメリニツキーとは反対に、ロシアからの独立を勝ち取ろうとしたヘトマンも居た。
    その頃、ロシアでは、ピョートル1世が実権を握り、1700年には、スウェーデンの
    若き国王、カール12世と北方戦争を始めた。 それは、北ヨーロッパにおける覇権を
    掛けた戦いであった。 この頃のロシアは、まだモスクワ時代の旧弊を引きずって
    おり、戦争が始まってみると、ロシアの弱点ばかりが目立った。 ヘトマンである
    マゼパは、このスウェーデンと手を組み、ロシアを破ってペレススラフ条約で
    失ったものを取り返そうとしたのは、無理からぬものがあった。

    しかし、ピョートル1世は、急速に改革を進め、北方戦争の運命を決する戦いが、
    1709年に東ウクライナのポルタバで行われた。 この戦いには、ピョートル1世
    自身がロシア軍の主力を率いて参加し、カール12世のスウェーデン軍を撃破した。
    負傷したマゼパは、その年のうちにこの世を去った。 ロシア人の間では、
    マゼパは、裏切り者で通っているが、自主独立のウクライナを目指した点では、
    彼も愛国者の1人であった。 キエフにあるウクライナ歴史博物館では、
    サガイダーチヌィー、フメリニツキーと並んで、マゼパの大きな肖像を見る
    ことが出来る。

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    リトアニア大公国によるキエフは、約2世紀続いたが、リトアニアの支配下に
    入っても、かつでのキエフ公達のような軍事力の抑えはなかったので、キエフが
    安全になった訳ではなかった。 特に、1416年と82年には、クリミア半島に
    本拠地を置くタタール人の軍勢がキエフを襲い、大規模な略奪を行った。 記録に
    残っているだけでも、1450年から1586年の間に、大小86回もの襲撃、略奪を被った
    というから、3年に2回の割合で被害を受けていたことになる。 大平原の真っ只中に
    丸腰で立っているような不安定な時期であった。

    リトアニア大公国がポーランド東部にあるルブリンの町で条約を結び、ポーランド
    王国と同君連合に入ったのは、1569年のことである。 この結果、キエフを含む
    ウクライナは、事実上、ポーランドの支配下に入った。 信仰の点で寛容だった
    リトアニアの公やその代官達とは異なり、カトリックを固く信じるポーランド人が
    政治上の新しい主人として現れたことは、様々な点で大きな影響を及ぼすことと
    なる。

    PolishLithuanianCommonwealth

    それは、まずキエフの住民の上層部がカトリックに改宗するという形で現れた。
    ウクライナの中でも、ポーランドに近い西部の住民達の場合には、正教の
    信仰を持ち、従来の正教風の儀式を行いながら、ロシア正教会の管轄を離れて、
    カトリック教会の傘下に入るという変則的な自体が生じた。 1596年に現在の
    ベラルーシのブレストにポーランド支配下にある教会の司祭達が集まり、ギリシャ
    伝来のビザンチン式典礼を保持したまま、ローマ教皇の首長権を認めることを
    決議した。 これは、教会合同と呼ばれ、これに属する人々が合同派である。
    このグループの処遇を巡っては、現在でも尚、ロシア正教会とカトリック教会との
    対立が続いている。

    モスクワ総主教とローマ教皇の会合が2016年02月13日までなかなか実現しなかった
    理由は、これが原因であると言われている。 キエフのソフィア大聖堂すら、16世紀
    には一時的に教会合同派に属していたことがあった。 このように、ポーランドは、
    宗教上の相剋という複雑な関係を引き起こしたけれども、他方で、それまで正教圏
    には知られていなかった西ヨーロッパ世界の進んだ文化をもたらすという役割を
    演じたのも事実である。

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    キエフがロシア全土の首都だった頃、この街の人口がどれほどのものだったのか、
    歴史家によって、その見解は大きく異なるが、内輪に見積もって、3万人、4万人、
    ないし、5万人とする者が多く、中には、大きく10万人とする学者もいる。
    最盛期は11世紀から12世紀に掛けてだったと見られる。

    当時からキエフは丘の上の街と、ドニエプル川沿いにある麓の街の2つに画然と
    分かれていた。 上の街には、支配者である公とその従者達、それに、高僧や
    富裕な商人達が居を構え、下の街には、商人や職人達のように身分の低い人達が
    住んでいた。 12世紀のキエフの総人口を3万人とする推定では、上の街の人口が、
    2万5,000人であるのに対して、下の街の人口は、5,000人であったという。
    麓の街の方が、遅く開けたのである。

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    アジアのモンゴル族のヨーロッパへの進出は、1220年代から始まっていたが、
    1240年にバトゥ・ハンの率いる大軍が到着して、キエフを包囲した。 4週間と
    4日に及ぶ籠城の末、キエフはついに陥落した。 最後の砦となったのは、
    デシャチンナヤ教会で、そこには女や子供や老人達が立てこもっていたが、破石槌と
    呼ばれる武器で石の壁が破壊され、1人残らず殺戮された。 この時、上の街は
    もちろん、下の街も全滅した。

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    キエフの街の人口が、12世紀の水準に達するのは、19世紀になってからである。
    特に上の街の衰退は著しく、一旦、政治的な権威を失ったとなると、わざわざ
    居住性の悪い不便な丘の上に人々は住もうとしなくなったのである。 キエフの
    1900年の人口は、26万人、現在の人口が、約250万人である。 最近の1世紀で
    人口が10倍に増えたことになる。

    モンゴル・タタールの略奪と破壊によって、キエフは廃墟と化したが、アジア
    からやって来た新しい遊牧民に征服された都市の徹底した荒廃ぶりを描いて、
    ロシアの年代記は、こう書いている。 『子の子をなげく親もなく、親を慕う
    子も居なかった』。タタールの襲撃は、キエフで止まった訳ではない。 その
    翌年の1241年~42年には、ポーランド、ハンガリー、ダルマチアにまで進出した。
    本国の大ハンが亡くなったため、バトゥ・ハンは、一旦モンゴルに戻るが、その後、
    ボルガ川下流のサライ・バトゥを都として、自分が征服した国々を領域とする
    キプチャク・ハン国を創設した。

    13世紀後半には、キプチャク・ハン国に服従する公がこの辺りを支配したが、
    14世紀に入ると、バルト海に面した地を本拠地とし、ビリニュスに都を置く
    リトアニアが勢力を伸ばし始め、1360年代には、アルギルダス大公がキエフを
    併合し、余勢をかって、黒海に達するような大国家を築いた。 リトアニアによる
    キエフ支配は、約2世紀続いたが、この当時のキエフの人口は、3,000人~4,000人
    程度で、それほど大きなものではなかった。

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    キエフは、今も昔もウクライナの首都であり、広大な国土の中心にあるが、
    ここで活躍をしたのは、ポリャーネ族をはじめとする、土着の東スラブ人ばかり
    ではなかった。 ケンブリッジ大学にキエフ書簡と呼ばれる羊皮紙に書かれた
    1通の手紙が所蔵されている。 エジプトの古いシナゴーク(ユダヤ教の教会)で
    発見されたもので、古代ヘブライ語で書かれている。 手紙を出したのは、
    キエフのユダヤ人の団体で、自分の兄弟の保証人になった仲間のヤコブ・ベン・
    ハヌッケなる人物の救援を依頼するのが手紙の内容である。



    その兄弟なる者がある異邦人から金を借りたが、殺されて金を奪われてしまった。
    貸主は保証人のヤコフを捕らえて軟禁した。 ユダヤ人団体は、借金の一部を
    返済したが、全部は返し切れないので、篤志家の寄付を募っているという趣旨
    である。 手紙の書かれた時期は9世紀から10世紀とされる。 その頃、キエフの
    隣国ともいうべきハザール・汗国の支配層はユダヤ教を信じていた。 ユダヤ人
    商人団、あるいは、ユダヤ教徒のハザール人達がキエフで大きな勢力を振るって
    いた可能性がある。

    キリスト教受容と共に、ギリシャから主教や大勢の技術者が招かれたのは、当然で
    あるが、ある聖者の伝記によると、公の1人は、シリア人の医師を抱えていた。
    ウラジーミル公が東ローマ帝国の皇帝の妹を后としたのをはじめ、ソフィア
    大聖堂を建立したヤロスラフ賢公は、スウェーデン王の娘、イリーナと結婚
    したが、彼等の間に3人の娘が生まれた。 長女のエリザベータは、ノルウェーの
    王子と結婚し、後に、王妃となった。 三女のアンナは、フランスのアンリ1世に
    輿入れした。 アンリの没後は、まだ幼いフィリップが王位に就いたので、彼女は、
    王母として国政に参加した。

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    大体、支配者とその従士達が北ヨーロッパのノルマン人たるバイキングだった。
    そして、彼等が緊急に硬軟さまざまな外交関係を結ばなければならなかった相手は、
    キエフの東や南に広がる野原の主たる遊牧民である。 10世紀から11世紀前半に
    掛けては、ペチェネーグ族がしばしばキエフに押し寄せた。

    スビャトスラフ公は、ドニエプル川の下流で彼等の攻撃を受けて殺された。
    やっとヤロスラフ賢公の代になって、彼等を決定的に打ち破った。 続いて、
    ポーロヴェッツ族が現れた。 彼等は、脚の速い馬に乗り、時期を見計らって
    来襲しては、収穫した穀物や家畜を奪い、更には、女子供をさらって行った。
    ただ、キエフやその他の町の周辺に住み着くポーロヴェッツ人もいたし、彼等の
    支配者であるハンと公の間では、しばしば婚姻関係が結ばれていた。 公同士の
    内紛の際に、ポーロヴェッツのハンが婿である公の助太刀に現れることも珍しく
    なかった。

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