エリザベス1世は、直系の跡継ぎを残さなかったため、スコットランド国王
ジェームス6世が王位に就いた。 ヘンリー8世の姉がスコットランド王と結婚、
その曾孫がジェームス6世となった。 ジェームス6世は1603年、ジェームス1世
としてステュアート朝初代王となった。 ジェームス1世は、イングランド国王と
スコットランド国王を兼ねたが、政治を行う時には、それぞれの王国を別々に
統治した。
ジェームス1世の統治法は、イングランドの標準的な方法とは異なり、王が絶対的
支配者として支配し、議会の意見を無視した。 このため、議会の反抗にあい、
やがて内乱となる。
1625年、ジェームズ1世の死後、その子チャールズ1世は、財政問題で議会と争い、
勝手に議会を解散、召集した。 1640年代には、議員の多くや大商人達は、変化を
求め始めていた。 内乱は1642年に始まった。 王党派は、王を支持、王に反対
する議会派は、議会を支持した。 議会派の中心、オリヴァー・クロムウェルの
指揮下、議会派軍は1644年、マーストン・ムアにて、また、1645年には、
チャールズ1世が議会派軍の手に落ち、王の長男もヨーロッパ大陸へ亡命した。
1649年、民衆裁判の後、チャールズ1世は斬首される。 これを清教徒革命という。
クロムウェルの勝利とチャールズ1世の処刑で、議会による国家支配が確立した。
この後、イングランドには、10年以上王は存在せず、共和国となる。
クロムウェルは、清教徒主義と呼ばれる厳格な新教の1派に属し、政治にも
清教主義を押し付けた。 軍事能力に秀でたクロムウェルは、政治的支配権を
獲得して、共和制を永続させようとしたが、1658年に死亡した。 1660年に
新議会は、チャールズ1世の息子チャールズ2世を王位に就けた。
【議会と王政復古】
議会と王は、互いに協力して政治を行う事を望んだため、王政が復活した。
チャールズ2世の治世の時に、イングランドに始めて政党が生まれた。 ひとつは、
ホイッグ党と言われる革新系の党で、産業革命に有利な政策をとった。
1685年にチャールズ2世の弟ジェームズが王位に就き、ジェームズ2世となる。
この新王は旧教徒であった。 新教徒、旧教徒間の緊張は、既にチャールズ
2世の代に見られたが、旧教徒が王になった事で激化した。
1689年、議会はジェームズ2世の娘、新教徒であるメアリーとメアリーの夫
ウィリアムスに王位を授け、ジェームズ2世は亡命した。 これを名誉革命と呼ぶ。
2人の王は、権利の章典(言論の自由、公正な裁判を保証する法)を承認し、
議会の力は伸びた。 王は、何らかの権威は保持したが、以後は、議会が
イングランドを支配する。
1702年、メアリーの妹アンが王位に就いた。 アンの治世には、イングランドは
フランスやスペインとの戦争に勝つに連れて、軍事力を伸ばし、アジア、アフリカ、
北アメリカの植民地を広げて行った。
1707年にアンは、合同法に署名し、これにより、イングランド、ウェールズ、
スコットランドが正式に合併し、グレートブリテン(イギリス)連合王国としての
国家が確立した。
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