多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。

    英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、
    スペイン語、スウェーデン語他の多言語通訳/翻訳業を行っております (^-^)
    仙台弁、石巻弁、宮城弁、東北弁の方言指導、テープ起こしも致します。
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    タグ:ウィーン

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    オーストリアの最も古い音楽は、バーベンベルグ家王朝時代に教会や修道院で演奏
    された宗教的ナ賛美歌や聖歌である。 12世紀のミンネジンガーたちの叙事詩は、
    各種の楽器による伴奏付きで、当時の支配者たちの人気を集めた。

    14世紀から16世紀に掛けて、ドイツの音楽家たちがオーストリアへ来て、合唱団や
    楽団の指揮を執った。 17世紀には、イタリア音楽が流行し、オーストリアの
    作曲家たちは、イタリア音楽の形式を自国の民衆音楽と結合させて、
    ジングシュピーレと呼ばれる軽演劇を創造した。

    18世紀には音楽は、王侯貴族たちの後援を受けて、ウィーンその他の都市で盛んに
    なった。 富裕な貴族エステルハージ公の音楽指揮者だったヨーゼフ・ハイドンは、
    管弦楽やソナタを数多く書いた。 彼は生前に多数の作品の楽譜を出版し、
    ヨーロッパで最も有名な作曲家の1人となった。 こうしてクラシック音楽は誕生
    した。



    モーツアルトは幼少時代に宮廷の聴衆を驚嘆させた早熟な演奏家で、優れた歌劇、
    管弦楽、器楽などを含む600曲以上の作品を作曲した。 彼の作品の多くは批評家
    たちに賞賛されたが、演奏家や歌手たちにとってモーツアルトの作品は演奏し
    にくかった。 生活苦と戦いながら、モーツアルトは35歳の生涯を閉じた。



    ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン(1770年~1827年)は、ドイツ生まれ
    だが、成人してからの生涯の大半をウィーンで過ごした。 ベートーベンは、
    作曲とピアノ演奏で、ウィーン市民の間で名士になった。 しかし、生涯の
    絶頂期に聴力を失い始めた、聴衆の前で演奏が出来なくなった。 聴力を失った
    後も、表現力豊かで力強い音楽を書き続け、後世のヨーロッパの作曲家たちに
    影響を与えた。

    フランツ・シューベルト(1797年~1828年)は、ピアノ曲、管弦楽、室内楽を
    数百曲も作曲した。 彼の作品の中で最もポピュラーなのは、ピアノ伴奏付きの
    歌曲、リートである。



    グスターフ・マーラーとアントン・ブルックナーはどちらも19世紀後期に長大で
    劇的な管弦楽を作曲した。 ヨハン・シュトラウスとその同名の息子は、ウィンナ・
    ワルツを多数作曲し、父は『ワルツの父』、息子は『ワルツ王』と呼ばれた。
    フランツ・フォン・ズッペとフランツ・レハールは、オペレッタの作曲家で、
    彼らの作品は、今でもウィーンでは人気が高い。

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    オーストリアの義務教育は日本と同じく9年間。 大学まで教育費は無料と
    なっており、これは、外国人でも同じ。 オーストリアに義務教育を導入した
    のは、ハプスブルグ家唯一の女帝で『オーストリアの母』と呼ばれている
    マリア・テレジア。 フランス革命により、断頭台の露と消えた、マリー・
    アントワネットの実母。

    1773年、イエズス会禁止により職が無くなった下位聖職者たちを中心に教員
    として採用し、他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設、義務教育を確立
    させた。 全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が
    行われた。 その結果、国民の知的水準が大きく上昇した。

    oesterrei01

    オーストリアの大学は、基本的が学費はない。 年間登録料と施設維持費
    として、年間約7万円程度掛かるだけ。 これは、外国人も同じ条件。

    ドイツ語圏最古の大学、ウィーン大学をはじめ、教育水準も非常に高く、
    ウィーン市内のバスは、地下鉄が終了しても、24時間運行している。 市内の
    全ての鉄道に乗れる定期代は月5,000円程度。 改札口は一切ないので、キセルも
    出来るのだが、車内で抜き打ちで行われる、検札で見つかると定期代とほぼ同額の
    5,000円程罰金として徴収される。 切符は、持っているだけではダメで、
    車内、あるいは、地下鉄の入り口にある機械で、しっかりとパンチを入れないと
    有効にはならない。

    ドイツ語圏の治安は、日本とさほど違わないので、かなり安全。 尚、ウィーンの
    IKEAは、ギリギリウィーン市外にあるため、ちゃんと切符を購入し、パンチして
    置かないと、コントローラーに見つかった場合、罰金を取られる場所にあるため、
    要注意。

    Wiengh1

    オーストリアの税率は、日本に比べると高いという印象を受けるが、教育費や
    医療費の無償化に成功しているため、税制度として成功している国のひとつだと
    言える。 主な税率としては、消費税(20%・食品などの軽減税率対象物は10%)、
    所得税(50%〜55%)、法人税(25%)となっているが、外国人の場合は、帰国時に
    ある程度の税金の還付を受けることが出来る。

    医療費、大学までの学費が無料!? オーストリア充実の社会保障制度

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    ヤン・フス の出現以来、プロテスタント信仰はスロバキア貴族の間に広まった。
    17世紀始めに、ハンガリーやスロバキアのプロテスタントは、強固なカトリックで
    あるハプスブルグの支配に対抗した。

    1618年、ボヘミアの首都プラハでハプスブルグに対する反乱が起こり、
    ヨーロッパのカトリック諸国とプロテスタント諸国の争いである三十年戦争
    (1618~1640年)が始まった。

    戦争中、トランシルバニアの支配者で、プロテスタントのガボール・ベトレンは、
    スロバキアのハプスブルグ家に反抗した。 1620年、ベトレンは、ハンガリー
    議会によって王国に選ばれたが、翌年、その称号を捨て、ハプスブルグと
    和解した。 ハプスブルグ支配下で、大勢のハンガリー貴族は改宗して、
    カトリックに戻った。

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    三十年戦争の終わりに結ばれたウェストファリア条約で、ハンガリー議会は
    権力を排除され、ハプスブルグはスロバキア支配を回復した。 17世紀の
    終わり、ハプスブルグ軍は、ハプスブルグ帝国の首都ウィーンでトルコ軍を
    破った。 この勝利は、ハンガリーをトルコの支配から解放したが、同時に
    スロバキアでのハプスブルグ支配を強めた。 オーストリアの言語である
    ドイツ語スロバキアの教育、行政の公用語となり、スロバキア語は死語も
    同然となった。

    同時に、ハプスブルグは、領地内の全てのプロテスタント宗派を禁止した。
    1703年に、ハンガリー人とスロバキア人は、ハプスブルグ支配に激しく抵抗し、
    反乱を起こした。 反乱は鎮圧されたが、ハプスブルグはブラチスラバで、
    ハンガリー議会を開くことを許可した。 1711年にハプスブルグは、トルコに
    征服されて失っていたハンガリー王国の国境線を回復した。

    だが、相変わらず、スロバキア人の大部分は貧困にあえぎ、ハプスブルグからの
    宗教的迫害を受けていた。 政治的権利は何もないのに、スロバキア人は
    税金を徴収され、兵役に就き、地主のために働くことを要求された。 こうした
    抑圧はやがて、スロバキア人がハプスブルグ領内で、自治を要求する動きに
    繋がった。

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    フランス革命のヨーロッパの人々に、社会変革に参加する勇気を与えた。
    1840年になると、チェコ人の作家や指導者たちは、政治改革とボヘミア、
    モラビア内部にあるドイツ権力に終止符を打つことを求めた。 パラツキーは、
    ボヘミア王国の歴史と文化を呼び覚ます『チェコ民族の歴史』を書いた。
    公立学校では、チェコ語を教え、詩人、作家、ジャーナリストはチェコ語で
    文章を書くようになった。

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    パラツキーは、有力な政治的指導者となり、1848年末、プラハ、ウィーンを
    はじめ、ヨーロッパ諸都市で革命が起こった。 しかし、ハプスブルグ皇帝、
    フランツ・ヨーゼフはスラブ民族会議の提案を拒否。 ハプスブルグ軍は、
    プラハの革命を鎮圧し、ボヘミアとモラビアに戒厳令を敷いた。 180年代に
    入ると、ボヘミア王国領であるボヘミアとモラビアは、オーストリア帝国に
    取って代わったオーストリア・ハンガリー二重帝国に編入された。

    1800年代終わり、ボヘミアとモラビアに住むドイツ人と、チェコ人との間の
    長年の対立が深まっていたが、政府は、帝国内の諸民族の平等の権利を打ち出す
    政策を採り、チェコ人のためにチェコ語で法律を書くようになった。

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    1790年のヨーゼフ2世の死後、弟のレオポルド2世と、その息子、フランツ2世は、
    相次いで皇帝となり、ヨーゼフの改革に逆行して、言論と出版を厳しく制限した。
    この頃、フランスでは革命が起こり、レオポルド2世の妹でフランス王妃となっていた
    マリー・アントワネットは処刑された。 1795年、オーストリアとフランスの戦争が
    始まり、オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)は占領された。

    1800年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍を討つ破った。
    1804年、フランツ2世は、自らオーストリア帝国皇帝と称した。 この新しい帝国は、
    現在のオーストリア諸州の他、ハンガリー、ベーメン、その他、東南ヨーロッパの
    諸小国を含むものだった。 1806年、領邦の弱い連合体になっていた神聖ローマ
    帝国は、崩壊した。

    ナポレオンは、フランスの皇帝となり、フランツ2世は、これに対抗して、イギリス、
    ロシア、プロイセンと同盟を結んだ。 ナポレオンは、1809年オーストリアに侵入
    して、フランツ2世は、娘マリー・ルイズをナポレオンと結婚させた。 だが1812年、
    ナポレオンがロシアに敗北すると、フランツ2世は、再度同盟を結んで、ナポレオンと
    戦った。 1815年、同盟国側は最終的な勝利をおさめ、ウィーン会議を開いて
    ヨーロッパ各国の国境を定めた。 この会議でオーストリアはヨーロッパの中心
    および、東部での支配権を確立した。 独立の領邦だったザルツブルク大司教
    管区と、北イタリアのヴェネツィア共和国もオーストリアの領域となった。
    神聖ローマ帝国に代わって、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立した。

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    【メツテニッヒの時代】

    ウィーン会議でオーストリア代表として活躍したクレメンス・フォン・メツテニッヒは、
    その後、国内の政治を一手におさめた。 彼は、ハプスブルク王朝を維持する
    ため、政治活動を制限し、出版の自由を規制する政策をとった。

    新しい産業の興隆によって、オーストリアの各都市には、膨大な数の労働者が
    流入した。 労働者の多くは、不健康な住居に群れをなして住み、賃金は低かった。
    ウィーン、リンツ、グラーツなどの都市では、労働者は、農民と連帯して、ハプスブルク
    政府の変革を要求し始めた。

    1835年にオーストリア皇帝となったフェルディナント1世は、統治者としての力が
    弱く、ハプスブルク一族の者たちに権限を委ねた。

    一族同士の反目から、賃金や労働条件の改善は一向に進まず、1840年代半ばには、
    経済危機と食料不足のため、農民と労働者の間に暴動が続発した。 大学の
    学生たちも労働者と合流して、新しい政府と憲法を要求した。 主席大臣の
    メルテニッヒは、民衆からも政界からも強い批判を受けた。 1848年、メルテニッヒは
    辞任して、イギリスに亡命した。

    メルテニッヒ政権に代わって、比較的リベラルな政権が出来、人民代表議会が
    開かれた。 人民代表議会は、まだ残っていた領主の特権を廃止したが、その他の
    法律については、合意に達することが出来なかった。 ウィーンの街頭で暴動が
    起こり、フェルディナント1世は、首府から逃亡した。 1848年10月、ハプスブルク家に
    忠実な軍来がウィーンに進駐して、街頭デモを暴力的に鎮圧した。 12月、ハプス
    ブルク一族や顧問官たちは、フェルディナントを説得して退位させ、その甥の
    フランツ・ヨーゼフを即位させた。

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    962年、ローマ教皇は、オットー1世に初代神聖ローマ帝国の帝冠を授けた。 この
    新帝国は、ドイツやイタリアにある数多くの小さな王国や、公国(公爵の領地)などの
    領邦から成り立っていた。 それらの領邦の君主の中で、7人が選挙候と呼ばれる
    地位を持ち、選挙候が皇帝を選ぶ仕組みであった。 976年、オットー1世の後継者
    であるオットー2世は、バーベンベルク家のレオポルドをオーストリア辺境伯(比較的
    地位の低い君主)に任命した。 オーストリアのバーベンベルク王朝の始まりである。

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    バーベンベルク王朝の初期には、バイエルンから多数がオーストリアに入植して、
    村落や農場を作った。 この王朝の君主達は、オーストリアと東のマジャール人の
    土地との境界のライタ川に防衛線を築いた。 道路網が新たに整備されて近隣諸国
    との交易が拡大された。 オーストリアは、神聖ローマ帝国内の一領邦ではあったが、
    実質的には、独立国の要素が大きかった。

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    12世紀中頃に、皇帝とローマ教皇との権力闘争が激しくなったが、バーベンベルク家は
    皇帝を支持した。 1156年、皇帝フリードリヒ1世は、オーストリア辺境伯ハインリッヒ2世
    ヤソミルゴットの地位を公爵に引き上げて、功労に報いた。 この初代オーストリア公は、
    初めてウィーンに定住した君主である。 この時期のオーストリアは、平和で繁栄を
    続けた。

    バーベンベルク家の君主達はまた、十字軍の後援者でもあった。 十字軍の戦士達は、
    イスラム教徒と戦うために、ドナウ川を経由して中東に向かうことが多かったため、
    オーストリアの経済的重要性が大きくなった。 リンツやクレムスなど川沿いの都市が
    この時期に誕生した。 1192年、隣国シュタイヤーマルクの君主が相続者のないまま
    死ぬと、バーベンベルク家は、事前の協定に従って、この公国の支配権を得た。

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    オーストリアの首都ウィーンは、スロヴァキアとの国境から、およそ64.4kmのドナウ川
    南岸にある。 人口は、約160万人で、国の総人口のおよそ5分の1となっている。
    市内や郊外に数多くある宮殿や歴史的な建造物は、かつて権力の中枢だったこの
    都市の重要性を良く示している。

    ウィーンは、ヨーロッパ中部の重要な交易ルート沿いに位置する。 およそ2000年前、
    ケルト人達は、ここに最初の定住地を建設した。 紀元前15年に、ローマから来た
    兵士達は、そのケルトの町の跡に、ウィンドボナという名の要塞を築いた。 ウィーンは、
    13世紀以来、政治の中心であり、文化と産業の中心でもある。

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    市街の最も古い部分は、リング(輪)と呼べれる大通りに囲まれている。 リングの1.6km
    外側には、ギュルテル(帯)という第二の環状道路があって、比較的新しいアパートや
    オフィスビルが、ギュルテル沿いに建っている。

    ウィーンの主な建造物は、第二次世界大戦中の爆撃で損害を被ったが、市民達は、
    せっせとそれを再建した。 15世紀に建てられた聖シュテファン寺院は、今でも街の
    中心にそびえている。 国立オペラ劇場は、1800年代にリング沿いに建てられた
    厳しい建造物の1つである。 かつてオーストリアの君主達が暮らしていたホーフブルグと
    シェーンブルンの両宮殿は、今では歴史と美術に関係のある、様々な文化財を展示する
    ために使われている。

    この国第一の工業都市であるウィーンは、機械、薬品、繊維、電気製品、食品、
    各種手芸品等が生産されている。 ウィーン大学の他、美術、音楽の大学もここには
    ある。 国家間の協議や平和会議もしばしばここで開かれた。 国連の機関のいくつもが
    ウィーンに置かれている。

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    【その他の都市】

    シュタイヤーマルク州の州都であるグラーツは、人口25万人で、かつてここには大きな
    要塞があり、トルコ軍の攻撃から何度か、ウィーンとハプスブルグ帝国を防衛した。
    現在のグラーツは、工業都市で、薬品、鉄鋼、自動車等の工場がある。 近くの鉱山
    からは、鉄鉱と石炭が採掘される。

    ドナウ川沿いの都市リンツは、人口20万人で、古代のローマの時代から河港として
    交易の中心だった。 リンツは、ヨーロッパの北部と西部諸国を、東部と南部諸国に
    結び付ける重要拠点だった時期もある。 1832年、リンツと現在のチェコ領との間に
    オーストリア最初の鉄道が開通した。 現在、この都市には、大型機械、薬品、鉄鋼を
    生産する大工業コンビナートがある。

    人口13万8,000人の都市ザルツブルグは、付近でザルツ(岩塩)が採掘されることから
    付けられた地名となっている。 ドイツとの国境に近いザルツァッハ河畔のこの都市は、
    18世紀の大作曲家モーツアルトの生まれ故郷で、毎年夏に開かれるモーツアルト
    音楽祭には、世界中から大勢の音楽愛好家達が集まる。 旧市街には、大きな要塞や
    教会等の歴史的建造物が多い。

    人口11万6,000人のインスブルックは、チロル州の首府で、13世紀に建設され、
    北ヨーロッパとイタリアとを結ぶ交易の重要な拠点として成長した。 ここでは、1964年と
    1976年の2回、冬季オリンピックが開催され、その際に建設されたスポーツ施設には、
    今でも冬季スポーツの愛好家達が多数訪れる。

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    かつて多民族帝国であったオーストリアの歴史は、現在でも、各地方の食事に
    ハッキリと現れている。 ウィーンのスイーツは、ウィンナー・コーヒーと
    同じく、ヨーロッパでは非常に有名で、それぞれのカフェでは、長年引き
    受け継いでいる伝統のレシピを用いて、各店独自のオリジナルケーキ作りが
    非常に盛んになっている。 カフェでコーヒーを飲みながら、ゆっくりと
    くつろいでケーキを食べるのは、もはや、ウィーン文化そのもの。

    Schnitzel

    シュニッツェルは、仔牛肉のカツレツで、元々はウィーンの名物だったが、
    今では、オーストリアで最も人気のある料理となっている。 麺類に様々な
    肉屋野菜を添えるのは、ケルンテンの名物料理。 チロルでは、おいしい
    チーズやベーコンが特産品となっている。 下オーストリア州やドナウ川の
    渓谷には、ぶどう畑が沢山あり、特産である甘い白ワインの醸造に用いられる。

    オーストリアの家庭の朝食は、通常、まずコーヒーか牛乳が出され、
    バターやマーマレードの付いたパンが出される。 午前10時頃に辛子付きの
    ソーセージをおやつとして食べる人もいる。 ウィーン風ソーセージは、
    日本では、そのまま『ウィンナー』と呼ばれている。

    wurst

    昼食は、一日の中で最も重要な食事となっており、まず、スープ、続いて牛肉、
    豚肉、鶏肉、ソーセージ、仔牛肉、魚等のメインディッシュが出される。
    新鮮な野菜、麺類、じゃがいも、肉団子等がこれに添えられる。 あるいは、
    たいていサラダが続く。

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    午後3時頃には、短い休憩を取り、コーヒーを飲みながら、ケーキ等のデザートを
    食べる。 オーストリアの各都市では、カフェが憩いの場となっており、社交の
    場としても人気が高い。

    夕食は、昼食よりも軽く、火を使わないコールド・ミート、チーズ、燻製の
    魚類等のオープンサンド等の軽いもので済ませることが多い。 寒い冬の
    季節には、スープかシチューを夕食にすることも多い。

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    オーストリアの国民の大部分は、ドイツ系であるが、その民族構成は、初期の
    歴史時代に起こった異民族の侵入や、移住を反映している。 ハプスブルク家が
    13世紀に権力を握る以前には、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人、マジャール人、
    スラブ人が次々とオーストリアの河川沿いや山間の谷間に植民地を建設した。

    その後、クロアチア人、スロベニア人、ハンガリー人らが、ブルゲンランド、
    ケルンテン、シュタイヤーマルクに移動した。 北部と東部では、異民族同士の
    結婚が多く見られた。 この地域では、道路やドナウ川の水運党の交通が発達
    したが、それは、旅行や定住が容易だったため。 チロル、フォアアールベルグ、
    ザルツブルグ等の山岳部諸州では、大多数の住民がドイツ系となっている

    オーストリア国民の大多数は、ドナウ川流域と国の東半分に住居している。
    このうち、約56%が農村部に住んでいる。 第二次世界大戦後、ユーゴスラビア、
    チェコスロバキア、ハンガリーからの移民や政治的亡命者が増えた。 1980年代
    には、トルコやユーゴスラビア等の比較的貧しい国から20万人近くの未熟練
    労働者達が、仕事を求めてオーストリアの各都市にやって来た。

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    【言語】
    ほとんどのオーストリア国民は、ドイツ語を使用している。 但し、この国の
    ドイツ語には、多数の外国語の単語が含まれている。 ブルゲンランドには、
    ハンガリー語を話す人達も居る。 ケルン店に住む2万人のスロベニア人の
    多くは、スロベニア語を使う学校に子供を通わせている。

    【音楽】
    オーストリアの最も古い音楽は、バーベンベルグ王朝時代に教会や修道院で
    演奏された宗教的な賛美歌や聖歌である。 12世紀のミンネジンガー達の
    叙情詩は、各種の楽器による伴奏付きで、当時の支配者達の人気を集めた。

    14世紀から16世紀に掛けては、ドイツの音楽家達がオーストリアに来て、
    合唱団や楽団の指揮を取った。 17世紀には、イタリア音楽が流行し、
    オーストリアの作曲家達は、イタリア音楽の形式を自国の民衆音楽と結合
    させて、ジングシュピーレと呼ばれる軽演劇を創造した。

    18世紀には音楽は、王侯貴族達の公演を受けて、ウィーンその他の都市で
    盛んになった。 富裕な貴族エステルハージ公の管弦楽やソナタを数多く
    書いた。 彼は、生前に多数の作品の楽譜を出版し、ヨーロッパで最も
    有名な作曲家の一人となった。 こうして現代音楽は誕生した。

    モーツアルトは、少年時代に宮廷の聴衆を驚嘆させた早熟な演奏家で、
    優れた歌劇、管弦楽、器楽等を含む600曲以上の作品を作曲した。 彼の
    作品の多くは、批評家達に賞賛されたが、演奏家や歌手達にとって、
    モーツアルトの曲は演奏しにくかった。 生活苦と闘いながら、
    モーツアルトは35歳の生涯を閉じた。



    ルートヴィヒ・ヴァン・ベートベンは、ドイツ生まれだが、成人してからの
    生涯の大半をウィーンで過ごした。 ベートベンは作曲とピアノの演奏で、
    ウィーン市民の間で名士になった。 しかし、生涯の絶頂期に聴力を失い始め、
    聴衆の前で演奏が出来なくなった。 聴力を失った後も、表現力豊かで力強い
    音楽を書き続け、後世のヨーロッパの作曲家達に影響を与えた。

    フランツ・シューベルトは、ピアノ曲、管弦楽、室内楽を数百曲も作曲した。
    彼の作品の中で、最もポピュラーなのは、ピアノ演奏付きの歌曲、リートである。
    グスタフ・マーラーとアントン・ブルックナーは、どちらも19世紀後期に長大で
    劇的な管弦楽を作曲した。



    ヨハン・シュトラウスとその同名の息子は、ウィンナ・ワルツを多数作曲し、
    父は、『ワルツの父』、息子は、『ワルツの王』と呼ばれた。 フランツ・
    レハールは、オペレッタの作曲家で、彼等の作品は、今もウィーンでは
    人気が高い。

    20世紀になって、この国の作曲家達は、洗練された新しい作曲技法を次々に
    作り上げた。 アルノルト・シェーンベルグ、アルマン・ベルグ、アントン・
    フォン・ウェーベルンは、伝統的なハーモニーを用いないで歌劇や管弦楽を
    作曲した。 エリッヒ・ウォルフガング・コルンゴルトは、ポピュラーソング、
    ミュージカル、映画音楽を作り出した。 この国では、今でも、軽い歌劇と
    重厚な管弦楽のどちらも盛んとなっている。

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    1790年のヨーゼフ2世の死後、弟のレオポルド2世と、その息子のフランツ2世が
    相次いで皇帝となり、ヨーゼフの改革に逆行して、言論と出版を厳しく規制した。
    この頃、フランスでは革命が起こり、レオポルド2世の妹でフランス王妃と
    なっていたマリー・アントワネットが処刑された。 1795年、オーストリアと
    フランスの戦争が始まり、オーストリア領ネーデルランド(現在のベルギー)は
    占領された。

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    1800年、フランスの将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍を打ち
    破った。 1804年、フランツ2世は、自らオーストリア帝国皇帝と称した。
    この新しい帝国は、現在のオーストリア諸州の他、ハンガリー、ボヘミア
    (チェコ)、その他、東南ヨーロッパの諸小国をも含むものだった。 1806年、
    領邦の弱い連合体になっていた神聖ローマ帝国は、ナポレオンによって、解体
    された。

    ナポレオンは、フランスの皇帝となり、フランツ2世は、これに対抗して、
    イギリス、ロシア、プロイセンと同盟を結んだ。 ナポレオンは、1809年に
    オーストリアに侵入、ウィーンを占拠し、フランツ2世は、娘であるマリー・
    ルイズをナポレオンと結婚させた。 だが、1812年、ナポレオンが、ロシアに
    敗北すると、フランツ2世は、再度同盟を結んで、ナポレオンと戦った。
    1815年、同盟国側は最終的な勝利をおさめ、ウィーン会議を開いて、
    ヨーロッパの国境を定めた。 この会議で、オーストリアは、ヨーロッパの
    中部、および、東部での支配権を確立した。 独立の領邦であった、
    ザルツブルグ大司教管区と、北イタリアのヴェネツィア共和国も
    オーストリアの領域となった。 神聖ローマ帝国に代わって、オーストリアを
    盟主とするドイツ連邦が成立した。

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    【ウィーン会議】
    ウィーン会議は、19世紀前半のウィーン体制を成立させることとなった
    重要な会議であり、パリ会議(1856年、クリミア戦争後の講和会議)、
    ベルリン会議(1878年、東方問題での国際会議)と並んで、19世紀の
    三大国際会議のひとつとされている。 ウィーン会議では、オーストリアの
    代表として活躍した、クレメンス・メッテルニヒは、その後国内の政治を
    一手におさめた。 彼は、ハプスブルク王朝を維持するために、政治活動を
    制限し、出版の自由を規制する政策を採った。

    『会議は踊る、されど進まず』という句は、ウィーン会議の議事が進行
    しないことを皮肉った言葉で、オーストリアの将軍リーニュ公が言った
    という。 ザクセン帰属問題、ドイツの組織問題、ワルシャワ大公国処理
    問題でオーストリア、プロイセン、ロシアが対立。 イギリスは、ロシアの
    進出を警戒し、各国代表は互いに牽制し合って話し合いは進展せず、舞踏会
    だけが綺羅びやかに続けられた。 しかし、1815年3月、ナポレオンの
    エルバ島脱出の知らせを受け、急遽結束することになった。

    新しい産業の興隆によって、オーストリアの各都市には、膨大な数の労働者が
    流入した。 労働者の多くは、不健康な住居に群れをなして住み、賃金は
    低かった。 ウィーン、リンツ、グラーツ等の都市では、労働者は農民と
    連帯して、ハプスブルク政府の変革を要求し始めた。

    1835年にオーストリア皇帝となったフェルディナント1世は、統治者としての
    力が弱く、ハプスブルク一族同士の反目から、賃金や労働条件の改善は、
    一向に進まず、1840年代半ばには、経済危機と食料不足のため、農民と
    労働者の間に暴動が続発した。 大学の学生達も労働者と合流して、新しい
    政府と憲法を要求した。 首相大臣のメッテルニヒは、辞任してイギリスへ
    亡命した。

    メッテルニヒ政権に代わって比較的リベラルな政府が出来、人民代表会議が
    開かれた。 人民代表会議は、まだ残っていた領主の特権を廃止したが、
    その他の法律については、合意に達することが出来なかった。 ウィーンの
    街頭で暴動が起こり、フェルディナント1世は、首府から逃亡した。 1848年
    8月、ハプスブルク家に忠実な軍隊がウィーンに進駐して、街頭デモを暴力的に
    鎮圧した。 12月、ハプスブルク一族や顧問官達は、フェルディナントと説得
    して退位させ、その甥のフランツ・ヨーゼフを即位させた。

    【ウィーン会議の時代のヨーロッパの国境】
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    【フランツ・ヨーゼフ皇帝】
    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人員代表会議廃止して、ハプスブルク政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は、国内の学生の管理を、ヨーゼフ2世の
    改革の以前のようにカトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の
    来援を要請してハンガリー内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策をとる一方、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアは、イタリア北西部の王国
    サルディニアに敗北し、イタリア北部の領土を半ばを失った。 これは、
    1864年、プロイセンとの戦争に敗れ、ドイツ領邦の盟主としての地位を
    放棄した。 この時プロイセンに味方したイタリアにヴェネツィアを割譲し、
    帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続くなか、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな
    立法機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。  帝国議会は、
    全てのオーストリア市民に基本的な人権を保証する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立した王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリー帝国は、
    ドイツ帝国、および、新興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新生党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として、自由党が出来、
    カトリック教会を支持する農民と労働者の党として、キリスト教社会党が
    出来た。 社会民主党は、経済システムの変革と私営企業の国営化を主張した。

    国内では、チェコ人、スロヴァキア人、ポーランド人、スロヴェニア人、
    クロアチア人等のグループが自治を望んでいた。 だが、これらの諸民族に
    自治を認める立法は、どこの政党の支持も得られなかった。 これらの少数
    民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    増々悪化した。 元々、トルコの領土であった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇帝フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によって、ヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き
    込まれ、第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーとドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵として戦っていた。
    この連合国側には、後に、アメリカが加わった。

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    【バーベンベルグ王朝】
    862年、ローマ教皇は、オットー1世に初代神聖ローマ帝国の帝冠を授けた。
    この新帝国は、ドイツやイタリアにある数多くの小さな王国や、公国等の
    領邦から成り立っていた。 それらの領邦の君主の中で、7人が選挙侯と
    呼ばれる地位を持ち、選挙侯が皇帝を選ぶ仕組みだった。 976年、オットー
    1世はの後継者オットー2世は、バーベンベルグ家のレオポルドをオーストリア
    辺境伯に任命した。 オーストリアのバーベンベルグ王朝の始まりである。

    バーベンベルグ王朝の初期には、バイエルンから多数がオーストリアに
    入植して、村落や農場を作った。 この王朝の君主達は、オーストリアと東の
    マジャール人の土地との境界のライタ川に防衛線を築いた。 道路網が新たに
    整備されて近隣諸国との交易が拡大された。 オーストリアは、神聖ローマ
    帝国内の一領邦ではあったが、実質的には、独立国の要素が大きかった。

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    12世紀中頃に、皇帝とローマ教皇との権力闘争が激しくなったが、
    バーベンベルグ家は皇帝を支持した。 1156年、皇帝フリードリヒ1世は、
    オーストリア辺境伯ハインリッヒ2世ヤスミルゴットの地位を侯爵に引き
    上げて、功労に報いた。 この初代オーストリア公は、初めてウィーンに
    定住した君主である。 この時期のオーストリアは、平和で繁栄を続けた。

    バーベンベルグ家の君主達はまた、十字軍の後援者だった。 十字軍の
    戦士達は、イスラム教徒と戦うために、ドナウ川を経由して中東に向かう
    ことが多かったので、オーストリアの経済的重要性は大きくなった。
    リンツやクレムス等川沿いの都市がこの時期に誕生した。 1192年隣国の
    シュタイヤーマルクの君主が相続者のないまま死ぬと、バーベンベルグ家は
    事前の協定に従って、この公国の支配権を得た。

    【ハプスブルク王朝】
    バーベンベルグ家の領土が拡大するに従って、マジャール人の攻撃がまた盛んに
    なった。 1246年、オーストリア公フリードリヒ2世は、マジャール人との戦いで
    戦死し、バーベンベルグ家は絶えた。 北隣のベーメン(チェコ)の国王
    オットカル2世は、フリードリヒ2世の未亡人と結婚し、オーストリアと
    シュタイヤーマルクを自分の領土に併合した。 1273年、選挙侯達は、スイスの
    裕福な一族の家長であるハプスブルク家のルドルフを神聖ローマ帝国皇帝に
    選出した。 1278年、ハプスブルク家の軍隊は、マルヒフェルトの戦いで
    オットカルを打ち破った。 オットカルの領土は、次々とルドルフの支配下に
    入った。 こうしてルドルフを初代とするハプスブルク王朝が始まり、以後、
    600年以上に渡ってオーストリアに君臨することとなる。

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    ハプスブルク家のオーストリア君主の殆どは、同時に神聖ローマ帝国皇帝でも
    あった。 ハプスブルク家は、結婚によって14世紀中に、ケルンテン、
    フォアアールベルグ、チロルをオーストリアに併合した。 だが、
    ハプスブルク家は、これらの新領土の絶対的な君主ではなく、どの地域でも
    貴族と聖職者達から成る議会の制約を受けた。 議会は、人民に課税し、軍隊を
    徴収する権限を持っていた。 農民達は、過酷な動労を強いられ、領主の許可が
    なければ、結婚も移住も出来なかった。 聖職者は、ローマ教皇以外の権威を
    認めなかた。

    ハプスブルク家は、新たに領土をオーストリア公国にもたらしたものの、秩序
    ある継承順序を定めてはいなかった。 相続者同士の争いはしばしば公国を
    混乱に陥れ、貴族達に対するハプスブルク家の支配力を更に弱めた。
    ハプスブルク家と貴族達の対立は、15世紀初期まで続き、オーストリアの
    経済を衰退させた。

    1463年、シュタイヤーマルクのフリードリヒは、相続争いの内戦を生き抜いて、
    チロル以外のオーストリア全土の支配者となった。 1477年、フリードリヒの
    息子、マクシミリアンは、ブルゴーニュ公の後継ぎマリアと結婚し、
    ネーデルランドの土地(オランダとベルギー)は残らずハプスブルク家の
    領域に編入された。

    1493年に神聖ローマ帝国皇帝となったマクシミリアンは、結婚によって
    ハプスブルク家の領土を拡大させる政策を続け、自分の息子をスペイン王
    フェルディナントの娘と結婚させた。 この結婚から生まれたカール5世は、
    1516年にスペイン王となり、1519年、神聖ローマ帝国皇帝に選出された。
    その結果、カールは、ドイツとスペインを含む広大な領域をハプスブルク家
    当主として支配することとなった。

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    カールの弟のフェルディナント1世は、オーストリアの支配者となり、ベーメンと
    ハンガリー両国の王を兼ねた。 ベーメンは、現在のチェコであり、ハンガリーは、
    マジャール人が創設した国である。 ハンガリー貴族の一部は、トルコの支援を
    得てフェルディナントに反抗した。 当時のトルコは、軍事大国で、バルカン
    半島の大部分を支配下に治めていた。 トルコ軍は、1529年にウィーンに
    迫ったが、フェルディナントの軍は、これを撃退した。

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    モーツアルトが、オーストリアのザルツブルグに生まれたのは、1756年のこと
    だった。 『神童』と呼ばれた彼は、大司教の宮廷副楽長だった父に連れられ、
    幼い頃からヨーロッパ中を演奏旅行に出掛けた。 モーツアルトの滞在を示す
    銘板が、各地で誇らしげに掲げられているのは、このためである。



    ザルツブルグには、モーツアルトの痕跡が至る所にある。 生家に住居、銅像、
    モーツアルトの名前を冠した『モーツアルト クーゲル』というチョコレート
    まである。 しかし、神童を迎え入れる宮廷はどこにもなかった。 ザルツブルグ
    もモーツアルトを評価した訳ではなかった。 父親の口利きで、何とか大司教に
    召し抱えられたものの、袂を分かち、ウィーンに移り住んだ。 順風満帆の筈
    だったが、華々しさの裏で、浪費癖は治らず、ギャンブルに明け暮れ、生活は
    逼迫した。 そして、数多くの名作を作りながら、わずか36歳でこの世を去った。



    ザルツブルグ音楽祭(Salzburger Fetsspiele)が始まったのは、1920年の事だった。
    1842年にモーツアルトの没後50周年を記念して開かれた音楽祭が基となった。
    モーツアルトの世界的な評価が高まり、ザルツブルグにもようやく認められる契機と
    なった。 それが、音楽、オペラ、演劇と総合的な音楽祭へと発展した。

    フルトヴェングラー、ベーム、カラヤンや、輩出した芸術家達が音楽祭を牽引して
    来た。 音楽祭の舞台のひとつ、『岩窟乗馬学校(Felsenreitschule)』は、元々、
    大司教が乗馬競技を見学するために創られた。 メンヒスブルグの岩盤を繰り
    抜いて造られた見物席がそのまま舞台に活かされている。 隣接する祝祭劇場は、
    世界最大級の舞台で、音響に細心の注意が払われて設計されている。
    ザルツブルグ音楽祭は、毎年7月から8月までの夏の期間に開催されている。



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