18世紀末、フランスの革命家達は、自分達の王を退位させて、国の支配権を
握った。 彼等は、他のヨーロッパ諸国の人民を応援して、それぞれの国の
君主制を倒させそうとした。 1792年、フランス軍は、ベルギー領域に侵入し、
スヘルデ川をオランダの手から開放した。 将軍ナポレオン・ボナパルトの
率いるフランス軍は、1796年、ベルギー領域を占領して併合した。

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貿易ルートの再開によって、ワロン地域圏は繁栄した。 ことにリエージュは、
付近に鉄鉱石が発見され、武器の製造と輸出が盛んになった。 ゲントの繊維
産業も膨張した。 フランス政府は、ベルギー領域を再編成して、カトリック教会
から取り上げた土地を農民に与えた。 その一方では、フランス政府は、戦費を
賄うためにベルギー領域に重税を課し、オランダ語の使用を制限した。

ナポレオンの強力な中央政府は、人々の反感を招いた。 また、フランス人の
反宗教的な姿勢は、この領域の人々のカトリック的伝統に反するものだった。
そして、一般市民が強制的にフランスの軍隊に編入されることは、人々の怒りを
買った。

1804年にフランス皇帝になったナポレオンは、1810年までにヨーロッパ大陸の
大半を征服し終えた。 ナポレオンの野心に対抗して、オーストリア、イギリス、
プロイセン(現在のドイツ)、スペイン、ロシアが同盟した。 同盟軍は、
ナポレオンの軍隊をヨーロッパの南部と中央部から追い払った。 1815年に
ブリュッセルの5キロほどにあるワーテルローで、ナポレオンは、最終的な
敗北を喫した。

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ナポレオンを打ち破った各国は、1815年にウィーン会議を開いた。 各国は、
ヨーロッパに新しい境界線を引いて、フランスが再び大きな力を持つのを阻止
しようと考えた。 オーストリアは、イタリアでの領土獲得と交換に、ベルギー
領域に対する権利を放棄した。 こうして、ベルギーとルクセンブルグは、
オランダの領土となった。 だが、カトリック教徒の多いオランダの統合には、
無理があった。 ベルギー領域の人々は、差別されていると感じた。 完全な
平等を認める協定が調印されたにも関わらず、ベルギー領域の人々は、高い
地位の公務員になることが出来ず、また、国会での議員数もオランダ人より
少なかった。

オランダ王ウィレム1世は、カトリック系の学校をオランダ政府の支配下に置こう
とした。 また、1828年、オランダ政府は、ウィレムの政策を批判した新聞を
発行禁止にしようとした。 このような政策に対し、人々は、皆憤慨した。
オランダ語を話すフラマンの人々とフランス語を話すワロンの人々は、長年の
争いを乗り越えて協力し、ウィレムに抵抗した。 こうして、オランダに対抗する
『反抗同盟』が出来、人々は、民族的な独自性と誇りの感覚を発展させて行った。

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