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    タグ:イングランド

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    アンジュー朝のヘンリーは、、ヘンリー2世としてアンジュー朝の初代王となる。
    この王朝の紋章は、エニシダの小枝で、フランス語では、プランタジネットと言う。
    アンジュー朝の人々は、 プランタジネットという苗字を良く使い、アンジュー
    朝は、プランタジネット朝とも呼ばれた。

    AS2015100

    この王朝は、イングランドとフランスに領地があったため、イングランドの
    対ヨーロッパ貿易は、飛躍的に伸びた。 イングランド産のウールは、良質で
    輸出に向き、やがてイングランドは毛織物の産地としてヨーロッパ中で有名に
    なった。 イングランド庶民の大部分は、裕福な貴族の農地で働いてた。
    この農奴と呼ばれる人々は、土地を持っていないため、土地所有者である
    貴族への奉仕から逃れることは、奴隷のように不可能に近かった。 農奴に
    比べ、職人や商人は、個人の自由はあったが、職業に関する厳しい規則があり、
    働く場所や方法を規制されることが多かった。

    プランタジネット朝歴代の王の統治で、イングランドの政情はある程度安定
    したが、対立がないとは言えなかった。 ヘンリー2世は、法制改革を行おう
    としてローマ教会と争った。 イングランドのカンタベリー大司祭トマス・
    ベケットは、教会の権利擁護のため、王と戦った。 王に反対し続けたため、
    ベケットは、1170年、カンタベリー寺院内で暗殺された。 ヘンリー2世は、
    大司教殺害の責任を取って公衆の前で懺悔した。

    ヘンリー2世の息子ジョン王は、多くの封建領主と争った。 この領主たちは、
    ジョン王の政治は不公平で非能率的だと考え、両者の抗争の結果、1215年、
    マグナ・カルタ(大憲章)が生まれた。 この憲章は、領主たちがジョン王に
    認めさせた特許状である。

    この憲章は、善政を行うのに大切だと考えられる権利を明確化した。 権利には
    不法課税の阻止、王権からの教会の自由などが含まれ、マグナ・カルタは、
    イギリス憲法の礎ともなった。 ジョン王の息子ヘンリー3世も、シモン・ドゥ・
    モンフォールらを中心とした領主たちの抵抗にあう。 この結果、領主たちが
    勝利し、王権の制限を勝ち取った。 ヘンリー3世は、短期間、続くエドワード
    1世は、定期的に、議会に助言をあおいで王政を行った。

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    【デンマークによる征服】
    アルフレッド王死後も、王国の統一は破られず、平和が続いた。 だが、11世紀
    初頭に再びデンマークが侵入して来ると、ウェセックスのエセルレッド王は、
    デーン税と呼ばれる税金を徴収し、この金でバイキングを買収し、その襲来を
    防ごうとした。 しかし、これも長続きせず、1013年にデンマーク人が大軍で
    襲って来た。 スウェイン王の下、デンマークのバイキングはエセルレッドの
    領土を征服した。

    スウェイン王が1014年に死んだ後、王国は息子のカヌートが引き継いだ。
    カヌートは、イングランド人にもデンマーク人にも支持されたが、カヌートの
    後継者には人望のあつい者が出ず、また、直径の跡継ぎも残さずに死んだ。

    1042年、ウェウセックスの指導者達は、エセルレッド王の息子であり、
    ノルマンディー(現在のフランス北西部地方)で育てられたエドワードを
    イングランド王に選んだ。 懺悔王のあだ名を持つエドワードは、信仰心があつく、
    治世の大半をロンドンの寺院建設に費やした。 現在のウェストミンスター
    寺院がそれである。

    1066年、エドワード王が跡継ぎを残さずに死ぬと、イングランドの指導者達は、
    義理の弟ハロルドを王位に就けようとしたが、ハロルドは、その難しさを
    知っていた。 故エドワードの遠縁ノルマンディー公ウィリアムなどが王位
    継承を主張していたからだ。 ウィリアムは兵を率いて、イングランド南部に
    上陸、1066年10月14日ヘースティングスの戦いでハロルドを破った。
    ウィリアムは、ノルマン人初のイングランド王となり、ウィリアム征服王と
    呼ばれた。

    westminster

    【ノルマン人治下での変化】

    ノルマン人の勝利の後、ノルマン人の貴族、聖職者、役人、職人、商人が
    大挙してイングランドに渡り、ウィリアム征服王は、イングランド人から
    奪った土地を彼らに分け与えた。 ノルマン人は、独特の建築様式を持ち込み、
    新たに建てられた城塞や聖堂に反映された。

    ノルマン人の言語であるフランス語は、裕福で教養のある上流階級の言葉
    となるが、一般の人々は、アングロ・サクソンの言語から発達した初期の
    英語(古英語)を依然として使っていた。 ノルマン征服はまた、
    イングランドの権力構造を激変させた。 土地所有者は、資力がどれほど
    大きくとも、その地位は、王位の下にあり、また、王室を除く全ての人は、
    自分より上の地位にある人に責任を負うことになった。

    paradigm

    ウィリアムとその後継者達は、この封建制と呼ばれる制度を1世紀掛けて強化して
    行く。 内乱や、不満を募らせたノルマン人、イングランド人貴族の小さ反乱は
    あったが、封建制は続き、1154年までにノルマンの政治形態が確立された。

    この年、ウィリアムの曾孫アンジュー(ノルマンディーの南)のヘンリーが
    イングランド王となり、フランスのアンジュー、アキテーヌ、ノルマンディーの
    地に加え、イングランドも所領として支配することになった。

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    ローマ人が去った後、様々なゲルマン民族、特にアングル族とサクソン族が
    イギリス諸島を侵略し始めた。 ゲルマン民族の活動とケルト文化の復興に
    よって、ローマ文化は大部分ブリタニアから消え去った。

    アングロ・サクソン人の侵略に加え、6世紀半ばに伝染病が流行、ケルト人の
    人口が減り、ゲルマン人は今日のウェールズ、カンブリア、コーンウォール等
    西や北の端へ逃げた。6世紀後半、7人のアングロ・サクソン王がイングランドの
    地に、それぞれ王国を創った。 ケント、ノーサンブリア、東アングリア、
    マーシア、ウェセックス、サセックス、エセックスの7王国である。

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    この後597年、キリスト教の中心地、ローマからイングランドに宣教師が来て、
    アングロ・サクソン人にキリスト教を布教した。 ケントに上陸した宣教師一行の
    指導者が修道士アウグスティヌスで、ケント国王エセルバードを始め、多くの
    ケントの人々に洗礼を施した。

    エセルバードは、アウグスティヌスにカンタベリーの土地を与え、ここから
    キリスト教がイングランドに広まって行く。 やがて、他の6人の王もキリスト教を
    受け入れた。 キリスト教とアングロ・サクソン芸術は次第に融合、7王国の
    中でもノーサンブリアでその芸術は頂点に達した。 リンディスファーン修道院等で
    写本が作られ、ラテン語で書物も書かれた。

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    【マーシア、ウェセックスとバイキング】
    7王国に代わって、8世紀には強力なキリスト教国が力を伸ばした。 757年から
    796年まで勢力を広げたのは、オッファを指導とするマーシア王国(イングランド
    中西部)である。 オッファは、ウェールズとの国境沿いに『オッファの防壁』と
    呼ばれる長い堤を築き、西の国境を守った。 オッファの後を継いだマーシア王達は
    力が弱く、9世紀にはイングランド中央部から南西部に位置したウェセックスが
    最強の王国となる。

    ほぼ同時期に、優れた航海技術と戦闘技術を持ったバイキングと呼ばれる冒険
    好きの民族がイングランドに攻撃を仕掛けた。 この民族は、スカンジナビア
    地方の民族で、973年にリンディスファーンを略奪、また、別の攻撃で、790年代
    には、ウェセックスを襲撃した。

    海賊行為を繰り返した後、デンマークのバイキングはウェセックスを襲った。
    イングランド周辺に定住し、貿易が出来るようにイングランドを征服しようと
    したのだった。 だが、878年の春ウェセックスのアルフレッド王が、
    グートルム王率いるデンマーク軍をエディントンで破り、886年アルフレッド王と
    グートルム王は、それぞれの王国の国境を定め、イングランド北東部の大半が
    デンマーク領となった。

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    イギリス諸島は、元からヨーロッパ大陸とは離れていたと思われていたが、
    4万年前は、地続きであった。 紀元前5000年に最後の氷河期が終わり、氷が
    溶けて水位が上がったため、大ブリテン島とヨーロッパ大陸の間に狭い海峡が
    生まれ、イギリスは島国となった。

    当初、大ブリテン島に住んでいたのは、大陸からやって来た人々であった。
    彼らは、石や骨格製の道具を使って巨大な森林を開き、農耕を営んだ。

    紀元前3000年頃にヨーロッパから新たな人々が移住し始め、紀元前2000年前後
    には、今日のドイツから大集団がやって来た。 彼らは、青銅器を使い、石や
    木でヘンジと呼ばれる円形の祭場を作った。 ストーンヘンジはそのひとつで、
    南イングランド中央部のソールズベリーに現存する。

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    約1500年後には、また新たな人々が移住して来た。 ケルト人と呼ばれる
    好戦的な彼らは、北ヨーロッパ出身で、鉄製武器を使い、やがて大ブリテン島を
    征服した。 ケルト人は、クランと呼ばれる氏族に分かれ、氏族間で権力を争った。
    落ち着くと、農耕を営み、紀元前500~100年には、イングランドは農業国
    となった。 言葉はクランで共通のケルト語を使った。

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    【ローマ時代】
    イングランドは、ヨーロッパ本土とは海で隔てられていたため、イタリアに中心
    勢力を持つローマ帝国の支配力は及んでいなかった。 しかし、紀元前55年には、
    ローマ軍指令官ジュリアス・シーザーがイギリス海峡を渡り、短期間だけだが
    イングランド南東部を襲撃、翌年更に大きな軍隊を率いて来た。

    ケルト人は、必死に抵抗したが、ローマ軍に敗北した。 シーザーは、和平条件を
    示したが、ケルト人はフランスの地で反逆活動を行い抵抗した。 シーザーは、
    イングランド支配を諦め引き上げた。

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    紀元前43年、ローマ皇帝クラウディウスは、軍隊をイングランド南東部に出動
    させた。 ケルト人は、ボアディケア女王を中心に、激しく抵抗したが、奮戦
    むなしく、1世紀末には、島を征服された。 ローマ人は新しい領土をケルトの
    1クラン、ブリトンにちなんで、ブリタニアと名付けた。

    征服者となったローマ人は、イングランドに道路を敷き、砦や都市を築いた。
    紀元後120年代には、ローマ皇帝ハドリアヌスの指揮の下、ローマ人は制圧
    出来なかった大ブリテン島最北の民族がイングランドへ侵入するのを防ぐために、
    『ハドリアヌスの長城』と呼ばれる城壁を築いた。

    ローマ支配が進むにつれて、ラテン語がケルト語に入り込んだ。 3世紀には、
    ローマ人宣教師がキリスト教布教のために来島した。

    文化的には強い影響力を持っていたのだが、ローマ帝国は、4世紀には崩壊し
    始めた。 ローマ軍司司令官や貴族達が権力争いをし、ローマの領地に及ぶ
    支配力が弱まった。 イングランド駐屯のローマ部隊は、帝国の他の地域を
    防衛するためにブリタニアを去った。

    4世紀後半、大陸ではゲルマン人達が反抗していたが、ローマ人は強いて鎮圧し
    ようとはしなかった。 5世紀半ばには、ローマはブリタニア支配を放棄していた。

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    イギリスの首都であるロンドンは、イングランドの首都でもあり、イングランド
    南東部にある。 ロンドン市と郊外を合わせてグレーター・ロンドン
    (大ロンドン)と呼び、人口は約820万人以上となっている。  ロンドンには
    2000年以上も前から人が住んでいた。 古代にはラテン語で、ロンディニウムと
    呼ばれるローマ人の町だった。 5~14世紀まで続いた中世には、活発な貿易都市
    として栄えた。



    ロンドンの現在の中心地は、シティ・オブ・ロンドンまたはシティ)と呼ばれ、
    紀元前1世紀、ローマ人が住み着いたのはここである。 今はイギリスの金融
    機関が軒を並べ、また、近代的なビルの間にセントポール大聖堂やイングランド
    銀行等、由緒ある建築物がある。

    国会議事堂等の政治の中心やショッピング街、歓楽街もロンドンの中心部にある。
    近年、開発によって、海軍造船所があったところ(かつてロンドンの大商業活動の
    中心地)は、印刷工場、商店、レストラン、事務所、高級住宅街等に姿を変えた。
    これkらの地域の他、大ロンドンには、活気ある地域や、歴史的に有名な地域が
    あり、多様性に富んでいる。

    首都ロンドンを取り囲んでいるのが『グリーンベルト』と呼ばれる緑地帯で、
    ロンドンが広がり過ぎないように作られた。 市の住宅課には、グリーンベルトの
    外にあるニュータウンに住宅を確保し、低所得者層をロンドン中心部を取り囲む
    スラム街から移転させた。 だが、ロンドンには多くの都市と同じように、過密、
    犯罪、貧困という問題に直面している。 外国人移住者達の間で暴力事件が起きて
    いる自治区も多い。

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    【イングランドのその他の都市】
    ロンドンはイングランド最大の都市だが、他にも人口の多い都市がある。 多くは
    19世紀の産業革命によって、産業が拡大し、就職口が増え、労働者を引き寄せ、
    人口が急増する形で発展して来た。 このうち6つの都市(バーミンガム、
    マンチェスター、リーズ、リバプール)は、1974年のイングランド地方制度改革
    により、周辺の都市群を含めて特別都市とされ、州と同格になった。

    バーミンガム(人口100万人)は、12世紀に既に産業が興り、19世紀には、天然
    資源のうち石炭と鉄鉱石の鉱床があったことで、重要な製造業の中心となり、
    人口が激増した。 第二次世界大戦(1939~1945年)では、大爆撃を受けたが
    再建され、更に発展した。 主な産業は、自動車、電子機器、機械である。

    マンチェスター(人口約49万人)は、19世紀に繊維産業の中心地になった。
    マンチェスターシップ運河によってマージー川と結ばれ、大型貨物船も運航出来る
    ようになった。 また、金融業も盛んで、国際空港もあり、他の都市への鉄道の
    接続も良い。 特に化学製品、衣料、コンピューター、食料、機械、電子機器が
    作られている。

    リーズ(人口約71万人)は、毛織産業の中心地で、イギリスの毛織産業や化学
    繊維の多くは、ここで生産される。 イングランド北部の中心地、エア川沿いに
    あり、エア川は運河でリバプールに繋がっている。 14世紀に毛織産業の要として
    建設されたが、今日では、工業、文化、教育分野のイングランド北部における
    中心地ともなっている。リーズ大学は、イギリス最大の高等教育機関のひとつ
    となっている。

    マンチェスターの西にあるのがリバプール(人口約44万人)で、アイリッシュ海に
    面するイングランドの主要港がある。 しかし、第二次世界大戦で埠頭が大被害を
    受けてからは、寂れている。 失業率は高く、港湾設備は不十分だが、それでも
    リバプールは港による収入に頼るしかない。 他にも、自動車組み立て工場、
    製粉所、精糖所等がある。 1960年には、ポピュラー音楽に革命をもたらした
    ビートルズの本拠地として有名になった。

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    イングランドは、ヨーロッパにあるイギリス(正式名称は『グレートブリテン及び
    北部アイルランド連合王国』)の中の一地域を指す。 グレート(大)ブリテンは、
    イングランド、スコットランド、ウェールズの3地域から成り、北アイルランドは、
    大ブリテンの西にあるアイルランド島の北端の部分を占めている。 イングランドは
    イギリスを構成する4地域の中では、一番広い。

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    この4地域は以前はそれぞれひとつの国であったが、1707年に統一されて連合王国と
    なった。  連合王国の歴史も波乱に満ちているが、4地域それぞれもまた独自の
    歴史を誇っている。 紀元前約500年頃から紀元後1066年の間に、ケルト人、
    ローマ人、アングロ・サクソン人、デーン人、ノルマン人等が断続的に
    イングランドに侵入し、今日まで受け継がれている法律、王室政体、文学、
    言語等を形成した。

    イングランドは、地理的条件が良く、港が多いため貿易が盛んで、1850年代までは
    6つの大陸にまたがる大商業帝国の中心であった。 ところが、20世紀の2回に渡る
    世界大戦と国際競争の激化により、市場の縮小を強いられた。 しかし、
    イングランドは鉄鋼業から電子工業へ、また、織物業からプラスチック工業へ移行
    することで苦境に対応して来た。 この他、経済等の政策において、互いの利益を
    与えるEUの一員として、ヨーロッパの他の国々と協力しながら時刻の発展を
    図っている。

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    とは言え、イングランドの将来には、不安な要素があることも確かだ。 例えば、
    1980年代に繁栄した南イングランドと、逆に衰退した北イングランドとの亀裂が
    広まっており、北イングランドの失業率やインフレが高くなっている。 また、
    2016年6月のEU離脱に関する国民投票においても、EU離脱派が勝利し、現在、
    イギリス国内では、混乱が続いている。

    更に、かつでのイギリス植民地であった国々やEUの住民がイングランドに大量に
    移住して来ており、これらの人々が仕事や社会福祉を奪っていると考えている
    人もいる。 不況の影響を直接受けているところでは、人種差別による暴力事件も
    起きており、最近では、移民の中で最も数が多いとされている、ポーランド系
    移民にその怒りの矛先が向けられた。 更には、EU残留派が勝利している
    スコットランドでは、EU残留を求めて、イギリスからの独立が囁かれている。

    EUからの離脱を巡って、今後もしばらくは世界市場経済では混乱が続くと
    思われるが、例えイングランドがEUから離脱するにしても、残留するにしても、
    国民が納得出来る結果にして欲しい。

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    エリザベス1世には、子供がなかった。 女王が死ぬと、いとこで
    スコットランド王のジェームズ6世が王位を継ぎ、イングランド王ジェームズ1世
    となった。 これによって、イングランドとスコットランドが初めて統一された。
    しかし、この国は不安定だった。 ヘンリー8世がローマン・カトリック教会を
    離脱したことで、宗教問題が起きていたのだ。

    国教は、プロテスタントだったが、多くの人々は、カトリックのままでいたいと
    思っていた。 また、プロテスタントの中にも、拝礼の方法について、異を
    唱える派があった。

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    その中の有力なグループが、清教徒だった。 彼らは、神以外の全ての影響を
    排除して、宗教を純粋なものにしようとした。 清教徒の中には、信仰の自由を
    求めて、イングランドを離れる人達も居た。 その多くは、オランダやアメリカに
    移住した。

    イングランドでは、宗教の違いによって、王と立法機関である議会との間に争いが
    生じた。 内乱が起き、議会派が勝利した。 1649年に議会の命によって、
    チャールズ1世が打ち首に処せられ、議会が国の実権を握った。 1660年になって
    ようやく、チャールズ1世の息子、チャールズ2世が次の王位に就くよう要請された。

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    410年にローマ人がイギリスから撤退すると、イングランドとウェールズは、
    地方の支配者が統治する幾つもの小さな王国に分裂した。 ピクトランドと
    アイルランドは、一度もローマに征服されることはなかった。 ピクトランド
    には、ピクト人が住んでおり、アイルランドには、スコットランド人が住んで
    いた。 スコットランド人は、ピクトランドを侵略し、自分達の民族の名前を
    とって、スコットランドという名前を付けた。

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    6世紀には、アングル人、サクソン人、ジュート人、と呼ばれるゲルマン人が
    大挙して北ヨーロッパからイギリスへやって来るようになった。 彼らは、
    その後の100年の間に、イングランドのほとんどの地域とスコットランドの
    低地に定住した。 アングル人は、その名を取って、イングランドとし、この時
    から、イングランドに住む人々は、アングロサクソンと呼ばれるようになった。
    元々、イングランドに住んでいたケルト人は、西方のコーンウォールと
    ウェールズへ追いやられた。 6世紀から7世紀には、ヨーロッパから
    宣教師がやって来て、アングロ・サクソン人をキリスト教徒にした。

    アイルランドには、既に432年、聖パトリックがキリスト教をもたらしていた。
    その後の500年代に、聖コルンバがスコットランドとイングランド北部に
    キリスト教を広めた。 一方、イングランド南部には、カトリックの総本山の
    ローマからの聖アウグスティヌスが派遣され、人々をキリスト教に改宗させた。

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    900年代には、バイキングがイギリスの海岸を襲った。 1016年以降は、
    カヌートというデンマークのバイキングがイングランドを治めた。 伝説に
    よると、カヌート王の家来は、王には神のような力があると信じていた。
    そのような力は、持っていないことを示すため、カヌート王は、陸へ打ち
    寄せる波に止まるように命じたという。 もちろん、波は止まらず、水位は
    上昇し続けた。 デンマークによる支配が終わって間もなく、イングランドは、
    別のバイキングに征服された。 1066年、北フランスのノルマン人が侵略した
    のである。

    ノルマンの王たちは、国中に城を築いて権力を示し続けた。 支配者である
    ノルマン人は、フランス語を話し、それが次第にアングロ・サクソン語と
    混じって行き、現在の英語の元となった。

    イングランドを支配下に置いたノルマンの王たちは、1171年にアイルランドを、
    1289年には、ウェールズを征服した。 しかし、かつての支配者だったローマ人
    同様、スコットランドには撃退された。

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    イギリスには、4つの地域がある。 イングランド、ウェールズ、スコットランド、
    北アイルランド。 イングランドとスコットランドは、王国であり、ウェールズは、
    皇太子の統治する公国、北アイルランドは、行政区として位置づけられている。

    どの地域の人々も皆、イギリス人と呼ぶことが出来るが、彼ら自身は、
    イングランド人とか、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人という
    ように、住んでいるところや、先祖の出身地を表す言い方の方を好む傾向がある。

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    イギリスは、ヨーロッパ大陸北西部の海に浮かぶ幾つもの島からなる島国で、
    大陸側のフランスまで、一番近い場所では、わずか30キロしか離れていない。
    グレート・ブリテン島もひとつの国だと思っている人が多いが、実際には、
    グレート・ブリテン島は、イギリス最大の島で、面積は、アメリカのオレゴン州
    とほぼ同じである。 グレート・ブリテン島には、イングランド、ウェールズ、
    スコットランドがある。 北アイルランドは、グレート・ブリテン島の西にある
    大きな島、アイルランド島の北東部にあたる。 アイルランド島の北アイルランド
    以外の部分は、アイルランドという別の国である。

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    グレート・ブリテン島とアイルランド島と合わせて、イギリス諸島と呼び、
    これには、周りにある沢山の小さな島も含まれる。 ワイト島、ランディ島、
    アングルシー島をはじめ、こうした小さな島々の多くは、イギリスの一部である。

    イギリスで一番島が多いのは、スコットランドである。 ヘブリディーズ諸島、
    オークニー諸島、シェトランド諸島などがある。 シェトランド諸島は、
    イギリスの国土の最北端に位置し、イングランドよりもノルウェーの方が近い。

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    イギリスは、世界の主要国として、3つの領域で重要な役割を担っている。
    まず、1993年以来、ずっとヨーロッパ連合(EU)のメンバーである。 ふたつ目に、
    その殆どが、大英帝国時代の植民地であった53カ国からなるイギリス連邦を
    率いている。 そして、最も親密な同盟国のひとつであるアメリカと特別な
    関係を持っている。

    こうした役割は、この国の発展の歴史に根ざすものだ。 1500年代から1600年代、
    イギリスは、大西洋の海洋貿易で主導的な立場にあった。 1700年代後半には、
    工業の近代化によって、世界をリードする工業大国となり、1900年代末まで
    その勢いは続いた。 そして、大英帝国を築き、最盛期には、世界の3分の1を
    領土とした。

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    しかし、19世紀に農業が衰退し始めた。 それに続いて、20世紀には、工業も
    力を失い始めた。 現在は、サービス産業が経済の中心となり、イギリスは、
    主要経済大国としての地位を保っている。 福祉国家であるイギリスでは、
    全ての国民が無料の医療と教育、社会保障を受けられる。 しかし、かつてに
    比べて貧富の差が遥かに広がっている。

    イギリスは、政治的には、イングランド、ウェールズ、スコットランド、
    北アイルランドという4つの国からなる連合王国である。 スコットランド、
    ウェールズ、北アイルランドは、それぞれ独自の議会を設立して、自治権を
    拡大して来た。 イングランドでも各地域で議会が設立されているが、
    そのうち、大ロンドンの議会だけが選挙によって選ばれる。

    地理的に見ると、複雑な地質が変化に富んだ地形を生み出し、様々な動物や
    植物が生息している。 雨が多く、風の強いこの島々には、1万年に渡って
    人が住み、その中で現在のイギリスの景観が作られてきた。 森が切り開かれ、
    沼地や湿原は干拓され、畑や道が作られた。 村が出来、そして、廃れ、
    都市や郊外の住宅地が開発された。

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    イギリス人とは、この地にやって来た支配者と移民によって作られた国民である。
    初期に住み着いたのは、ケルト人、ローマ人、アングロサクソン人、バイキング、
    ノルマン人だった。 産業革命の時代には、アイルランド人がやって来た。
    1950年代から60年代に掛けては、かつての植民地であったカリブ海、アフリカ、
    アジアの国々から移民が、労働力の不足を補った。 その後、難民や亡命を
    求める人達、他のヨーロッパ諸国からの人々もやって来てイギリスの社会は、
    多種多様な文化を持つものとなった。

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