多言語のススメ ~ロシア・東欧情報~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    【プロフィール】
    旧ソ連・ロシア、オーストリア、カナダ、ベルギーに語学留学経験あり。
    1991年より、一貫して通訳・翻訳や海外営業等の語学専門職としての経験を
    積んでおり、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語他の多言語を扱う
    語学のプロ。 専門はロシア語⇔ドイツ語の通訳論、言語学、並びに心理学。
    詳細はLinkedInを参照。

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    タグ:イングランド

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    17世紀の末、ヌーベルフランスの商人たちは、領土の南側にあるイギリス
    植民地の商人たちと、毛皮交易の主導権をめぐって争っていた。 ハドソン湾
    周辺の土地の領有権についても、イギリスとフランスの両勢力が対立していた。

    1670年、イングランド王チャールズ2世により、ハドソン湾会社が設立された。
    同社は、当時の情勢に不満を持つフランスの毛皮商人の助けを得て、ハドソン湾
    沿岸の数地点に出先機関を設け、要塞を築いた。 ここで銃、ナイフ、調理道具と
    毛皮が交換された。

    多くの販路を持つハドソン湾会社は、インディアンや植民地の取引先に気に入られて
    勢力を広げ、フランスにとっては交易の重要な収入源を断たれる脅威となった。
    そのため、フランスが同社の出先機関を攻撃すると、イギリスも仕返しをした。
    この争いは、数十年続き、この地域でのイギリス・フランス間の緊張は高まった。

    1702年から1713年に掛けて、ヨーロッパでも両国間の運命を左右することに
    なった。 この間、新世界では、イギリス・フランス両軍が戦った。
    アン女王戦争と呼ばれるこの戦いは、1713年にユトレヒト条約が結ばれて
    終結した。 同条約により、フランスは、ハドソン湾岸とアカディア
    (後にノバスコシアと改名)、ニューファウンドランドを正式にイギリス領で
    あると認めた。

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    【フランスの最後の敗北】

    こうしてイギリスがフランスの領土を獲得すると、そこへイギリスの交易商人や
    開拓者たちが移住し始めた。 そのため、イギリス・フランス間の緊張は更に
    高まり、1753年に北アメリカ大陸で両国の武力衝突が起きて、1756年には、
    ヨーロッパにまで戦いが広がった。

    この戦争でイギリス側では、植民地の民兵、および、イギリスと同盟を結んでいた
    インディアン部族が戦い、フランス側にもインディアンの部族が付いた。 数の
    上で優勢なイギリスは、北アメリカ大陸からフランス人を追い出すことを狙った。


    イギリス軍は1759年にケベックを、1760年には、モントリオールを攻め取った。
    1763年のパリ条約で、現在のカナダにおけるフランス領は全てイギリスに譲渡
    された。

    既にアカディアを統治していたイギリスは戦争の間、アカディア人を北アメリカの
    各地へ強制的に移住された。 フランス人の子孫であるアカディア人が反イギリス
    活動に出るのを防ぐためである。 その結果、多くのアカディア人は、アメリカ
    合衆国に定住した。 戦争が終わるのを待って故郷に帰ったアカディア人も居たが、
    自分たちの住居や農場や既に他の人々に奪われていた。

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    英語の歴史は1500年以上にも及ぶ。 5世紀にアングロ・サクソン人たちによって
    イングランドにもたらされた英語は、イングランド全域に定着するだけでも1000年
    以上の歳月を要している。 イギリス諸島を離れて本格的に海外進出を始めたのは
    17世紀初頭になってからのこと。

    英国史上に残る様々な出来事は、英語の伝播においてもターニングポイントと
    なった。 1066年のノルマン征服を境にアングロ・サクソン人による支配が
    終わりを告げ、フランス出身の王たちがイングランドを支配するようになる。
    フランス語およびラテン語が公的な言語となり、標準語として徐々に発達しつつ
    あった英語は、一転して庶民の使う日常語という地位に甘んじることになった。

    しかし英仏百年戦争(1337~1453)によって、フランス語への敵意と、英語が自国語
    であるという意識が芽生えてくる。そして16世紀頃になると宗教改革が起こり、
    格調高いが専門家しか理解できないラテン語の書物よりも、多少拙くとも誰にでも
    わかる土着語による書物が重んじられ始めた。 さらに印刷技術の普及も相まって
    英語の「社会進出」は加速して行く。 

    そんな個々のプロセスから、さらに一歩視点を下げて大きな流れを見て行くと、
    他の言語から取り入れられた「借用語」が英語発展の鍵になっていることがわかる。

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    英語で洗練された文章を書こうとすると、語彙不足のために満足な表現ができない
    ことが度々あったため、表現力不足を解消する1つの方法として作家や翻訳家たちが
    行っていたのが、外国語から語彙を借用することだった。

    フランスからの借用語は政治や宗教、軍事、ファッション、食文化、学問などに
    関するものが多く、ギリシア語は専門的で高度な語が多い。 ラテン語は借用の
    時期によって傾向が全く異なる。 至るところで、おなじみの単語の意外な
    ルーツに出くわす。 語彙の乏しさによる劣等感をバネに、英語が他の言語を
    巻き込みながらうねるように広まっていた様子が分かる。

    国際標準語として不動の地位を確立した英語。 メインの言語として話す
    「母語話者」がいない会話でも使われるほど、その影響力は大きい。だが元を
    辿れば、英語にも北ヨーロッパの片田舎で使われる言語に過ぎなかった時代がある。

    オランダやドイツの一部地域で使われる、フリジア語という言語があるそうだ。
    現在の話者は約50万人で、そのほとんどがオランダ語あるいはドイツ語との
    二言語併用者である。 実は、フリジア語と英語それぞれの元になった言語は、
    隣り合う地域で使われる方言同士だった。 英語史を勉強すると、英語と最も
    系統の近い言語としてフリジア語の名が出されるという。

    地理的にも言語的にも事実上同じところから出発したと言っていいような言語が、
    片や世界的な存在に、片や母語話者もほとんどいない状態になっているのは、
    英語史を紐解く上で、非常に興味深い。

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    イングランドでは、イギリス国教会が国教となっており、19世紀半ばまでは、イギリス
    国教会信者でない者は、国会議員にはなれず、オックスフォード大学には入学出来ず、
    ケンブリッジ大学では、学位を取る事が出来なかった。  しかし、今はこのような差別は
    ない。 イングランドの人々の多くはイギリス国教徒だが、今では欠かさず教会に
    通う程敬虔な人は少ない。

    イギリス国教徒以外の人は、イギリスでは非国教徒と言われる。 中でも、新教に
    属する宗派は、イギリス国教会から分かれたという意味で、分離派と呼ばれ、
    メソディスト派、バプティスト派などがある。 どの派も厳しい迫害の中で発展して来た。
    ローマ・カトリック教会も、16~19世紀まで受けて来た差別は現在はなく、学校や教会を
    設立する程の力を持っている。

    イングランドには、ヨーロッパでも有数のユダヤ人社会があり、その人口は40万人にも
    昇る。 ユダヤ人の多くは、20世紀前半ドイツ、ソ連、東欧での迫害を逃れてやって来た。
    ユダヤ人の地域社会では、独自の学校や、高齢者や障害者のための福祉事業が運営
    されている。

    近年、多くの国から移住して来る人が多いため、イングランドの都市にはシーク教徒、
    ヒンドゥー教徒が主にインド出身であるのに対して、イスラム教徒はパキスタン、
    バングラディッシュ、中東などから来ており、両者共に、宗教的伝統を保つため、独自の
    学校を運営している事が多い。

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    移民には母国語を話している者が多いが、イングランドの公用語は英語である。 英語は
    アングロ・サクソン人の言語であったゲルマン語から発展したもので、発達の段階に
    よって、時代順に古英語、中英語、近代英語の3つに分けられる。 アングロ・サクソン
    年代記など、最も初期の文献に見られる古英語は、およそ1100年まで使われた。
    ノルマン語の影響を受けている中英語は、1100年から1400年後半に掛けて使われた。

    その後は、近代英語の時代だが、この英語は17世紀の『欽定英訳聖書』で使われた。
    この聖書は、後の英語に大きな影響を与えた。 イングランドの人々の話す英語には、
    地方によって方言も多い。 例えば、リヴァプール出身の人は、スカウスと呼ばれる方言、
    ニューカッスル・アポン・タインでは、ジョーディーという方言を話す。 ロンドンっ子の
    中には、コックニーと言われるロンドン訛りを使う人もいる。

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    方言は、その土地の人でなければ分かりづらい。 何十年に渡ってラジオやテレビで
    標準とされる英語が流されてはいるが、未だに言葉の違いが階級の差を強めている
    事もある。

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    イングランドでは、5歳から16歳の子供は、義務教育を受けなければならないことに
    なっている。 識字率は、99%で、ほとんどの子供が公立の学校に通っている。
    これらの学校の中には、イギリス国教会やローマ・カトリック教会など、宗教的な
    つながりを持つものも多い。

    イートン校、ハロウ校、チャーターハウス校など私立の学校に通う者も少数いる。
    これらの学校では、授業料を取り、私立であるが、パブリックスクールと呼ばれて来た。

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    初等教育は大体11歳で終わり、中等教育は16歳までである。 中等教育のほとんどは、
    総合中学校で、生徒達は多くのコースの中から自分に合ったものを選ぶことが出来、
    また、能力によって区別されることはない。

    中等教育修了後は、技術や職業訓練を受ける学校に通うことも出来るし、大学に入る
    ための勉強を続けることも出来る。

    イングランドの最も有名な大学は、12世紀に創設されたオックスフォード大学と
    13世紀創設されたケンブリッジ大学である。 最高レベルの教育を誇るこれらの大学は、
    いくつものコレッジ(学寮)から成っている。 1945年以来、政府は放送大学などの
    大学を創設して来た。 放送大学はキャンパスを持たずにテレビ、ラジオ、ビデオ、
    郵便などを通じて授業をする大学である。

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    現在、イギリスに住む人の多くはケルト人、ローマ人、アングロ・サクソン人、デーン人、
    ノルマン人など、かつてイギリスに侵入し、住み着いたヨーロッパ民族の子孫である。
    イングランドには、ケルト人が刻んだ石灰石の像や、ノルマン人が建てた聖堂など、
    先祖の造った物が残っている。

    18、19世紀に激しかった貧富の差は、2回の世界大戦で縮まった。 社会的差別は
    尚もあるものの、以前ほど厳しいものではない。 例として、1964年以降、どの首相も
    中流ないし、労働者階級の出であることがあげられる。 また、若者は、独自の流行や
    言葉を生み出し、かつては服装や言葉遣いにハッキリ見られた階級差は消えた。

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    20世紀にはヨーロッパ、インド、パキスタン、香港、カリブ諸島から難民として、あるいは、
    かつての植民地からよりよい暮らしを求めて、大勢の人がイングランドに移住して来た。
    1990年代前半には、移民は500万人にも上った。 その多くは、都市のスラム街に
    住んでおり、少数派であるがために、住居や職を探すのに差別を受けることがある。

    民族の違いから来る都市生活の不安も、イギリスにおける新しい問題である。 ロンドン、
    リバプール、ブリストル、バーミンガムなどでは、黒人や東洋人の住んでいる地区で
    暴動が起きている。 原因は、失業率の高さなどの経済問題や、警察と住民の関係の
    悪さにあると考えている人が多い。

    しかし、最近の総選挙では、東洋系や黒人の下院議員が誕生しており、また、少数
    民族が地域ごとに、自分達自身の力で問題解決の計画を立て、運営するなど、明るい
    動きも見られる。

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    労働党から政権の座を引き継いだのは、マーガレット・サッチャーを党首とする保守党で
    あった。 サッチャーは、イギリス連合王国初の女性首相となった。 サッチャーが
    目指したのは、国有化されていた企業を私有化し、労働組合の力を弱め、社会福祉への
    支出を減らすことなどだった。 これらの政策で、インフレは抑えられたが、失業率は
    上がり、ストライキも止まらなかった。

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    ところが、1982年、一時的にではあるが、イギリス国民が経済上の不安を忘れる
    事件が起きた。 イギリス・アルゼンチン紛争である。 南アメリカ大陸近くの小さな
    島が集まったフォークランド諸島の所有権を主張して、イギリスとアルゼンチンが
    争ったのだ。 イギリスは、1万人の兵士から成る特別部隊を送り、アルゼンチン軍を
    撃破した。 フォークランド紛争の勝利により、サッチャー首相の人気は急上昇した。

    サッチャーは、人気の高まりを利用して、1983年の総選挙で保守党が再び多数党となり、
    政権を握った。 また、1987年の総選挙でサッチャーは、首相として史上初の連続3選を
    果たした。 勝利原因は、労働党内部の統一が取れなかったこと、つまり、労働党内の
    不満グループが新党、社会民主党を結成したことである。

    サッチャー政府は、政府支出の削減や、国有企業の私的法人への売却を図った。 だが、
    1990年には、激しいインフレと高い失業率などが原因で、保守党支持は弱まった。
    人頭税と呼ばれる地方税の導入計画も、保守党政府の不人気の元となった。 1990年
    4月、ロンドンでこの税に反対する市民の怒りが爆発、暴動となった。 サッチャーは、
    人気が落ち、12月に保守党の仲間から党首を辞めるよう要請された。 保守党は
    大蔵大臣だったジョン・メージャーを党首に選び、メージャーが新首相となった。

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    1992年4月の総選挙で再び保守党が議会の多数を占め、メージャーが首相を続けた。
    メージャーの考えは、サッチャーと共通なものが多いが、ECと協力して行くことに
    サッチャーほど反対していない。

    1992年にはEC加盟国はヨーロッパの更なる統合を目指して、マーストリヒト条約(欧州
    連合条約)に調印、1993年からEU(欧州連合)として、ひとつの貿易圏を形成している。
    1994年には、イギリスとフランスを結ぶ海峡横断トンネル(ユーロトンネル)が開通し、
    両国が結ばれるようになった。

    しかし、このような動きがあったにも関わらず、イングランドの人々は、自分達は
    ヨーロッパ大陸の人々とは別だと考え、イングランドの長い歴史や文化を誇りに思って
    いる。

    イングランド自身、北部と南部に分裂しようとしていると言う人もある。 保守党の
    拠点であるイングランド南部は、サッチャー、メージャーの下で繁栄して来た。 北部は、
    失業者も増え、経済も衰えた。 大きな都市は、今尚労働党支持が多い。 イングランドの
    将来は、これらの経済、および、社会問題の解決にかかっている。

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    1930年代後半、第一次世界大戦の時と同じような軍事問題が再び起きて来た。
    しかし、今回はイギリス政府は、以前ほど積極的に国際紛争に関わろうとしなかった。
    保守党首相ネヴィル・チェンバレンは、国内問題を優先した。

    しかし、1939年9月、ドイツがイギリスの同盟国ポーランドに侵攻した時、チェンバレンは
    仕方なく宣戦を布告した。 その後まもなく、チェンバレンは辞職し、ウインストン・
    チャーチルが自由党、労働党、保守党の連立内閣の首相となった。 イギリスと
    連合国(ソ連、アメリカ、フランス)が枢軸国のドイツ、イタリア、日本と戦った。
    第二次世界大戦である。

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    1940年、ドイツ空軍がイギリスの海岸や主要都市を連日のように空爆して、ロンドン、
    コヴェントリー、リヴァプール、ハル、ブリストル、プリマスの鉄道、港湾設備、工場、
    住宅が破壊された。 海外からイギリスへ何トンもの物資を輸送する船が、ドイツの
    潜水艦に撃沈されたため、イギリスでは食料、物資の配給が日常のことになった。
    だが、イギリス国民は、戦争支持の決意をあらわにした。

    結局ドイツ軍は、イギリス侵攻を果たせず、1943年、戦争の流れは連合国に有利と
    なり、1945年に連合国側勝利で終戦となった。 しかし、イングランドの都市の多くは、
    廃墟と化し、国民は大きな損害を被った。

    戦後、クレメンツ・アトリーを党首とする労働党政府は、破壊された工場や市場の
    減少、資金の不足などの問題と取り組んだ。 破綻したイギリス経済の建て直しには、
    アメリカからの借入金があてられた。

    アトリー政府は、国有化計画の実施も図った。 これは石炭、鉄鋼、鉄道など基幹
    産業の所有を、個人の手から国家へ移すものだった。 イングランド銀行さえ国家の
    管理下に入った。

    労働党が強く目指したのは、広い社会福祉関係の立法であった。 議会は。退職者や
    失業者のための国民健康保険を規定する法案を通過させた。 新しい国民健康保険
    により、国民は安い費用で医療を受けられるようになった。

    1952年に即位した女王エリザベス2世の名の下、1950年~60年代には、保守党政権が
    続いて経済力は弱まり、求人は増え、賃金も上がった。 その結果、人々は自分の
    家を持ち、冷蔵庫やテレビも買う余裕が出来た。 イングランドの全ての階級の
    人々が余暇を様々な活動に使い、ヨーロッパ大陸などへ旅行する余裕も生まれた。

    大学も新設され、奨学金も増設された。 また、より良い生活を求めて、イギリスの
    植民地から何千人もの人々がイングランドに移住して来た。

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    【経済の衰え】

    戦時の荒廃から急速に回復したため、1960年代半ばから70年代には、イングランド
    経済に歪みが生じた。 新しい社会福祉計画は、財政負担を増やした。 アジアから
    海軍を呼び戻し、植民地の多くに自治を認めたため、イギリスの国際的影響力は
    弱まっていた。

    イギリスの持つ海外市場が減少すると共に、国内では失業者が増えて、また生活費は
    急激に膨張した。 労働組合は1972年~79年に掛けて、賃上げを要求して何度も
    ストライキを行った。 労働党政府は、連続して政権を取る中で、これらの問題解決に
    努めた。 例えば、イギリスは、1973年にEC(欧州共同体)に加盟したが、これは
    イギリスの商品をヨーロッパ市場に参入させて、市場の拡大を図ろうとする動きの
    ひとつだった。

    最近発見された北海油田開発のために資金が投入されたが、これは自国の石油を
    増産させて、石油の輸入を減らそうとの考えだった。

    しかし、なお失業率は高く、インフレはひどくなり、ストライキは頻繁に起こるなど、
    問題が重なり、労働党政府の力は弱まった。 また、与党であった労働党が非核武装
    問題で分裂することもあった。 労働党内部に、非核武装を国の政策にしたいと
    思う人がいたからだ。 このようなことで労働党政府は、1979年に政権を失った。

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    ビクトリア女王の死去した1901年には、他の国々、中でもドイツとアメリカ合衆国は、
    製造業や鉄鋼生産の面でイギリスの強敵になっていた。 ドイツは海軍力と工業力を
    伸ばし、植民地、国際市場、外交の点でイギリスの敵対国となっていた。

    1914年、オーストリア(ドイツの同盟国)が東ヨーロッパのセルビアを攻撃したのが発端で、
    19~20世紀に掛けて結んでいた種々の同盟関係によって、イギリス、フランス、ロシアが
    参戦して世界大戦となった。 これが第一次世界大戦である。 イギリス、フランス、
    ロシアは、ドイツ、オーストリア、トルコを相手に戦った。

    あらゆる階級や職業の何百万人ものイギリス人が志願、または、徴兵によりイギリス軍に
    編入されて、フランス、ベルギー、中東の地で戦った。 イングランド諸州も軍隊を送った。
    国民がこの戦争を支持したからだ。

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    戦争に勝つために工場に出たり、看護師として海外へ行く女性もいた。 広い自分の
    屋敷を傷病兵の収容病院のために提供する人もいた。

    しかし、戦争が長引き、多数の若者が見込みもないまま戦闘で戦って死んで行くにつれて、
    大衆の支持は弱まった。 1918年、対戦終結には80万人以上ものイギリス人が命を
    落としていた。 この世界規模の戦争は、イギリス社会に大きな変化をもたらした。
    ビクトリア女王の時代には階級の区別がはっきりしていたが、大戦後の、女王の孫
    ジョージ5世の代には薄れていた。

    イギリス女性達は、対戦中に手に入れていた自立を守ろうとし、1918年には選挙権を
    勝ち得た。 労働党は、自由党をジリジリと追い出し、政権は労働党と保守党の間で
    交代した。 これまで地主や工場経営者と戦って来た農民や労働者も、繁栄の恩恵に
    あずかることを期待した。

    だが期待は外れた。 1930年代の世界的大不況でイングランドの農工業は、苦境に
    陥り、労働党、保守党どちらが政権を取っても300万人の失業者、市場の減少、植民地
    での暴動を解決出来なかった。 また、第一次世界大戦で敗戦したドイツが再び
    陸海軍力、経済力を強めて来た。

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    19世紀前半にはイングランドは、経済の重点を農業から商工業へ移していた。 ロンドンの
    イングランド銀行は、金融の国際的中心となり、イングランドの投資家達は、6大陸の事業に
    資金を提供した。 こうした変化と共に、イングランドの社会は階層化し、上流、中流、
    下層と厳密に分かれるようになった。

    この間にイギリスは、自国の市場や海上の通商航路支配権を守るため、ナポレオン・
    ボナパルト率いるフランス軍と戦った。 1805年、スペインに近いトラファルガー岬沖で、
    またベルギーのウォータールーでフランス軍を破り、世界最強国としての地位を確立した。

    イングランドの繁栄は上、中流階級には利益をもたらしたが、大多数の下層の人々の
    生活は貧しかった。 工業の労働条件や都市の生活条件は劣悪で、賃金も低く、労働者は
    教育を受けることはまずなく、選挙権もなく、生活は苦しく、不潔であった。 健康管理も
    不十分で、幼い子供が危険な労働環境の下で長時間、働かされることも良くあった。

    1830年代に議会がこれらの問題に関心を寄せ、工場の労働条件を規制し、児童の労働
    問題を制限する法律を制定した。 労働組合が法的に認められ、選挙権が中流階級の
    男子まで広げられた。 不公平な刑罰を廃止するため、議会は古い法制度を改革し、
    また、全てのイギリス植民地での奴隷制度を不法とした。

    議会そのものも改革された。 以前は広大な土地を所有する家柄の者だけが議会を
    占めていた。 それが、1832年に選挙法改正法案が議会を通過すると、人口が増加して
    いるにも関わらず、代表者を送ることが出来なかった、リーズ、バーミンガム、マンチェスター
    等の大都市が、議席を確保出来るようになった。 過疎化した地域は、代表を送る権利を
    なくした。

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    【ビクトリア朝時代】

    産業革命は、ビクトリア女王(1837年即位)の時代に最高潮になった。 議会は、産業を
    奨励した。 当時のイギリス帝国の植民地は、インド、オーストラリア、ニュージーランド、
    カナダとアメリカ、アジア、カリブ諸島のある地域だった。 しかし、この頃のイングランドの
    発達は偏っていた。 鉱山は世界全体の鉄の2分の1を産出したが、食糧不足は深刻
    だった。 イングランドの貿易額は、他の国々全てを合わせた貿易量をしのいでいたが、
    労働者は選挙権もなかった。 このような状況が、更に新しい改革の波を呼び起こした。

    公衆衛生法が成立して労働者の悲惨な生活はある程度改善した。 政治の変革で、
    旧ホイッグ党とトーリー党が、それぞれ自由党と保守党に生まれ変わった。 ウィリアム・
    グラッドストンが自由党、ベンジャミン・ディズレイリが保守党の党首となった。

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    二人は1868年~1885年の間内閣総理大臣の地位を交代し合い、選挙権を労働者に
    広げる法や、国民教育制度を確立する法の成立につくした。 続く党首達も改革に
    努力し、退職者、病人や失業者に財産的援助を与える法律を制定した。

    やがて、これらの改革を通して、労働者の利益を代表する労働党が結成された。 これで
    イギリス社会の全ての階級が、何らかの政治力を持つことになった。 国際舞台では、
    イギリスは、自国の通商、軍事両面の支配権を利用して、ヨーロッパの重要事態の方向を
    決定した。 また、複雑な軍事同盟を結んで、19世紀後半の主な戦争に巻き込まれるのを
    避けた。



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    アン女王が1714年に死去し、アンの親戚のドイツのハノバー家(新教徒) がイギリスの
    王位を継いだ。 ハノバー朝の治世にイギリスは新大陸の探検、戦争の勝利、有利な
    平和条約により、貿易力、軍事力を伸ばし、北アメリカやカリブ諸国の大半を支配下に
    収めた。 イギリス商人の活躍でアジア、南アメリカ、インド、アフリカでの商品や奴隷の
    市場が広がった。

    ハノーバー朝の王は、議会の合議に国政を行う権限を与えたので、王権は弱まり、議会の
    力が強くなった。 大臣を率いるリーダーの役割と義務が増えて、総理大臣という地位が
    生み出され、議会に対し数人の大臣が責任を負う内閣制が確立した。 内閣は商業を
    重視して貿易を推進したので、植民地支配力が強まった。

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    18世紀後半、北アメリカのイギリス植民地のうち、13植民地が分離を求めて独立し、
    アメリカ合衆国を建国した。 イギリスは、植民地は減ったものの、その後は綿花を
    合衆国から大量に買い付けた。 やがて新しい紡績、紡織機械が発明され織物業が
    発達した。 綿花貿易も栄えて撚糸の改良や製品化の努力もなされた。 この産業が
    起こったのは、イングランド中央と北西部だった。 このようにして生まれた工業都市へ
    多くの人々が流入して、イングランドの人口は増えた。 特に、バーミンガム、リーズ、
    マンチェスター、リバプールでは激増した。

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    これらの都市は、水路や港に近く、炭鉱もあり、蒸気を使う新しい工場に最適だった。
    また、鉄鉱山があったことも機械や設備の建造に必要な鉄鋼の供給に便利だった。

    工業製品の生産量が増えるにつれて、輸送面が改善された。 大量の労働者が動員
    されて道路が修理され、河川と港を繋ぐ運河が建設された。 やがて鉄道網が
    イングランド中に張り巡らされた。 この一連の経済活動を産業革命と言う。 産業
    革命の波は、イギリス中に広がりつつあった。

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    エリザベス1世は、直系の跡継ぎを残さなかったため、スコットランド国王ジェームス6世が
    王位に就いた。 ヘンリー8世の姉がスコットランド王と結婚、その曾孫がジェームス6世と
    なった。 ジェームス6世は1603年、ジェームス1世としてステュアート朝初代王となった。
    ジェームス1世は、イングランド国王とスコットランド国王を兼ねたが、政治を行う時には、
    それぞれの王国を別々に統治した。

    ジェームス1世の統治法は、イングランドの標準的な方法とは異なり、王が絶対的支配者
    として支配し、議会の意見を無視した。 このため、議会の反抗にあい、やがて内乱となる。

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    1625年、ジェームズ1世の死後、その子チャールズ1世は、財政問題で議会と争い、
    勝手に議会を解散、召集した。 1640年代には、議員の多くや大商人達は、変化を
    求め始めていた。 内乱は1642年に始まった。 王党派は、王を支持、王に反対
    する議会派は、議会を支持した。 議会派の中心、オリヴァー・クロムウェルの指揮下、
    議会派軍は1644年、マーストン・ムアにて、また、1645年には、チャールズ1世が
    議会派軍の手に落ち、王の長男もヨーロッパ大陸へ亡命した。 1649年、民衆裁判の
    後、チャールズ1世は斬首される。 これを清教徒革命という。

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    クロムウェルの勝利とチャールズ1世の処刑で、議会による国家支配が確立した。
    この後、イングランドには、10年以上王は存在せず、共和国となる。 クロムウェルは、
    清教徒主義と呼ばれる厳格な新教の1派に属し、政治にも清教主義を押し付けた。
    軍事能力に秀でたクロムウェルは、政治的支配権を獲得して、共和制を永続させ
    ようとしたが、1658年に死亡した。 1660年に新議会は、チャールズ1世の息子
    チャールズ2世を王位に就けた。

    【議会と王政復古】

    議会と王は、互いに協力して政治を行う事を望んだため、王政が復活した。 チャールズ
    2世の治世の時に、イングランドに始めて政党が生まれた。 ひとつは、ホイッグ党と
    言われる革新系の党で、産業革命に有利な政策をとった。

    1685年にチャールズ2世の弟ジェームズが王位に就き、ジェームズ2世となる。 この
    新王は旧教徒であった。 新教徒、旧教徒間の緊張は、既にチャールズ2世の代に
    見られたが、旧教徒が王になった事で激化した。

    1689年、議会はジェームズ2世の娘、新教徒であるメアリーとメアリーの夫ウィリアムスに
    王位を授け、ジェームズ2世は亡命した。 これを名誉革命と呼ぶ。 2人の王は、権利の
    章典(言論の自由、公正な裁判を保証する法)を承認し、議会の力は伸びた。 王は、
    何らかの権威は保持したが、以後は、議会がイングランドを支配する。

    1645

    1702年、メアリーの妹アンが王位に就いた。 アンの治世には、イングランドはフランスや
    スペインとの戦争に勝つに連れて、軍事力を伸ばし、アジア、アフリカ、北アメリカの
    植民地を広げて行った。

    1707年にアンは、合同法に署名し、これにより、イングランド、ウェールズ、スコットランドが
    正式に合併し、グレートブリテン(イギリス)連合王国としての国家が確立した。

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    ヘンリー7世在位中のイングランドは、1066年のノルマン征服時に比べ、
    大きく変化していた。 ノルマン人とアングロ・サクソン人の違いは、ほぼ
    なくなっていた。 400年もの間に両者の結婚、混血が進んでいた。 14世紀の
    腺ペストの流行でイングランドの人口は、減ったが、15世紀には、また増え
    始めた。

    全ヨーロッパからの産物が首都ロンドンに運ばれた。 イングランドの羊は、
    数百万頭におよび、羊毛は輸出されたり、勃興期の織物業の原料となった。
    織物業の中心地であるリーズ、ハリファックス、ブラッドフォードは、未加工の
    羊毛を輸出する他の都市より栄えた。

    倹約家で頭の切れたヘンリー7世は、テューダ朝を強化、イングランドの財政
    状態を改善した。 1509年、富み安定した王国は、ヘンリー8世に引き継がれた。
    新王は、強力な海軍を編成して、フランスと戦い、正式にイングランドと
    ウェールズを統一した。

    ヘンリー8世は宗教書も著し、ローマ法王の認可を得た。 一方、この頃
    ヨーロッパでは、多くの人々がローマ・カトリック教会の権威を否定する活動を
    起こしていた。 これを宗教改革と言う。

    当時、イングランド王国の王位継承権は、男子のみを認めようとする人々が
    大半であったが、時のヘンリー8世は、スペイン王室から嫁いで来た妻との間に、
    娘は居たが、存命の息子は居なかった。 ヘンリー8世は、男児を得るため妻と
    離婚し、別の女性と結婚出来るようローマ法王に願い出るが、法王は離婚を
    認めず、1533年、ヘンリー8世は、自分がイギリス国教会の首長となる宣言をし、
    イングランドは、ローマ・カトリック教会とは別れて宗教改革へと動いた。

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    【エリザベス1世の時代】
    ヘンリー8世は1547年に死ぬまで6回結婚したが、子供3人は全て王位に
    就いている。 その中で、末子エリザベスは、女性ということで世間の偏見は
    あったが、エリザベス1世として1558年、25歳で王位に就いた。 エリザベスは、
    イングランドを小海洋国家から大海軍国へと成長させた。

    新教徒であったエリザベスは、イギリス国教会がイングランドの正式な宗教、
    つまり、国教であることを確認した。 また、エリザベスは、閣僚の選択にも
    優れ、議会の扱いも 巧みで、議会も女王を支えた。

    16世紀半ば、議会は単なる諮問機関から、国王政府の重要な1組織となっていた。
    この立法府は、上院と下院から成り、課税と立法にあたった。 上院は、貴族と
    イギリス国教会の高位聖職者から成り、下院は、貴族に次ぐ階層から成っていた。

    イングランド海軍は、その基礎をエリザベスの父ヘンリー8世により強力に固め
    られていた。 そのため、スペインが1588年に海路、イングランドに侵入しよう
    とした時、イングランド海軍は、既に対抗力が付いていた。 スペインのアルマダ
    艦隊は、イングランドの執拗な抵抗にあい敗走した。 この勝利により、
    イングランドは、ヨーロッパ強国としての地位を築いて行く。

    【お勧めの一品】


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