多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳GoWest』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:イワン4世

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    カジミェシュ3世が跡継ぎのないまま1370年に死ぬと、甥のハンガリー王
    ラヨシュがポーランド王を兼ねた。 ラヨシュの娘ヤドヴィガが1382年に
    ポーランドの女王となり、4年後、リトアニア公ヨガイラと結婚した。

    ドイツ騎士団との戦いでリトアニアの援助を必要としていたポーランドの
    貴族達は、ヨガイラを1386年ポーランド国王に選び、彼はヴワディスワフ2世
    ヤギェウォと称した。 ポーランドとリトアニアはまだ別個の政府を持ち
    ながらも、同じヤギェウォ王家の支配を受けることになった。

    BorderPoland

    こうして大きな勢力を持つようになったポーランドは、リトアニアと連合し、
    1410年、その連合軍はタンネンベルグの戦いでドイツ騎士団を打ち破った。
    ヴワディスワフ2世の後継者のカジミェシュ4世も、その後何度かドイツ騎士団を
    破ったので、ついに騎士団はトルニの和議を結んで、プロイセンをポーランドに
    割譲した。

    トルニの和議の成立後、ポーランドは、中ヨーロッパ最強の国となり、経済と
    文化の面でも大きく発展した。 新しい大学が出来、学者達は、それまで
    ヨーロッパの宗教と学問で伝統的だったラテン語の代わりに、ポーランド語を
    使い始めた。 1520年頃、最初のポーランド語の書籍が印刷された。 ラテン名の
    コペルニクスで知られる天文学者ミコワイ・コペルニクは近代天文学の基礎を
    築いた。

    これら変化の進行中、キリスト教信仰は混乱状態に陥っていた。 ドイツでは
    マルティン・ルターの教えで宗教改革が始まり、カトリック教会に対する反乱が
    起こった。 教皇の権威を認めないプロテスタントの教会が、スウェーデンを
    含むヨーロッパ北部の幾つかの国で作られた。 ポーランドはカトリック国家の
    ままだったが、他の宗教にも自由な崇拝を認めた。 ポーランドは、ユダヤ人
    共同体は世界最大規模のひとつとなった。

    【ポーランド国会】

    カジミェシュ4世の統治時代、シュラフタと呼ばれる、軍人と地主を中心と
    する階級が勢いを増し、土地や農民を支配し始めた。 農民達には高い租税が
    課せられ、多くは農奴に転落して、地主の土地に縛り付けられた。 1493年、
    上流階級だけの国会が出来た。 国会は、裕福な貴族で構成される上院と、
    地主で構成されるセイム、つまり下院から成っていた。 1505年、国会は最初の
    憲法を制定した。

    憲法には、ポーランド王は国会の同意がなければ、いかなる法律も成立させる
    ことが出来ないと明記されていた。 下院はまた、国王の即位を投票によって
    承認する権限を与えられていた。

    1569年、ポーランドとリトアニアは、ポーランドの主権の下に、正式に
    合併された。 この統合によって、ポーランド王国はドイツ人、ポーランド人、
    リトアニア人、ウクライナ人を治める巨大な領土を支配することになった。
    ヤギェウォ王朝の最後の国王ジグムト2世は、この統合から間もない1572年に
    死んだ。

    Polski

    【外国人君主のポーランド統治】
    ジグムント2世の死後、貴族達はますます勢力を増して、国王を選挙する
    権限を握った。 激しい王位争奪戦が起こり、それを鎮めるために、国会は
    外国の王族や公族をポーランドの王位に就けた。 1575年、国会は
    ハンガリーの公子ステファン・バトリを国王に選んだ。 バトリは優れた
    軍指導者で、ロシア皇帝イワン4世の命を受けた侵略軍を打ち破った。

    1586年、スウェーデン王子ジグムント3世ヴァーサが、バトリに次いで国王と
    なった。 これは、以後3代続いたスウェーデン系ポーランド国王の初代である。
    これが原因でプロテスタント国家スウェーデンと、カトリック国家ポーランド
    との間に宗教紛争が起きた。 スウェーデン軍は、1655年ポーランドに侵入して、
    都市や農場を焼いたり略奪したりした。

    侵略はやがて阻止されたが、戦乱と経済不況が続いた。 この前から、
    ウクライナやロシアから、コサックという自由農民のグループが、ポーランド
    領内に定住していた。 コサックは外部の権威を全く認めず、ポーランドの
    統治に反感を持つ多くのウクライナ農民を仲間にした。 国家の権威が衰えるに
    連れ、ロシア帝国はポーランド東部に侵略の手を伸ばして来た。

    この頃、小アジアを根拠地とするオスマン・トルコが、コンスタンティノープルや
    ヨーロッパ東南部の大きな部分を征服していた。 1683年、トルコ軍は
    オーストリアの首府ウィーンを囲んだ。 その9年後にポーランド王となった
    ヤン3世はソビエスキは、ポーランド軍を率いてトルコ軍を撃退した。 これに
    よって、中ヨーロッパへのトルコの侵略は阻止された。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    モスクワの人口は、16世紀の末に12万人を数えていたと言われている。
    16世紀から17世紀に掛けて、ヨーロッパからロシアを訪れた使節や商人達が
    様々な紀行文を残しており、ロシア人自身による当時の記録も残っている。

    moscow-vintage-picture

    16世紀の中頃イワン4世に仕えるシリベストルという僧が『家庭訓』という
    書物を編んだ。 そこには、中世のロシアの人々の典型的な道徳観が示されて
    いる。 『まず大切なことは神を恐れ、ツァーリや貴族や聖職者を敬い、教会に
    通うことである。 両親を愛し、服従することもキリスト教徒としての義務である。
    妻や子供達が間違ったことをした場合には、彼等を罰しなければならない。
    しかし、いかなる罪に対しても、耳や目を打ったり、心臓を拳骨で殴ったり
    すべきではない。 良い妻は宝石よりも貴重である。』 

    シリベストルが非難するのは、教会の斎戒を守らないこと、同性愛、罵詈雑言を
    口にすること、みだらな歌を歌うこと、占いにふけることなどである。 その他、
    彼の教訓は、召使いをどう監督するか、領地をどう管理するか、1年分の食べ物を
    どう貯蓄するかなどの細々とした実用的な事柄にまで及んでいる。

    しかし、全てのモスクワの人達がこのような教えを守って暮らしていた訳ではない。
    17世紀の前半に2度に渡ってロシアを訪れたオレアリウスというドイツ人は、
    『遠くから眺めると、モスクワはクレムリンを中心に多くの聖堂の屋根がキラキラ
    輝いて聖なるエルサレムのように見えるが、中に入ると、貧しいベツレヘム
    (キリストの生まれた村)である』と書いている。 そして、彼は、町中では
    人々が互いに聞くに堪えない言葉で罵り合っているのを耳にした(ロシアの罵詈の
    凄まじには現在でも定評がある)。 悪口を禁止する発令が出ていたが、一度に
    あちこちから聞こえるので、役人も取り締まる暇がなかったと言う。

    キタイ・ゴロド、それに、白い町や土の町の屋根は大体が木造だったが、火事も
    多かった。 町中が焼けるうような大火が1世紀に2~3度起こり、1つか2つの
    街区が丸焼けになるというような火災が発生しない週はなかったという証言がある。
    統計的に見て、モスクワっ子は、一生に一度は焼け出される計算だったと述べる
    歴史家も居る。 要するに、『火事と喧嘩』はモスクワ名物だったらしい。

    『ロシア人は概して大酒飲みの上、にんにくが大好きで、クレムリンの宮殿の
    中までにんにくの臭いがした』というのは、オレアリウスの伝えるところである。
    モスクワの家の建て方自体が、ヨーロッパ人旅行者の目には異様に映った。
    1戸づつ敷地をたっぷりと取ってあり、家の周りが菜園に使われていた。 市内の
    道路でも舗装されたところは、ごく僅かで、夏の乾いた時には、土埃が舞い、
    雨が降るとぬかるみのようになった。 都市というよりは、大きな村のように
    見えたという。

    『夜になると街路ごとに道路は閉鎖され、番人が立った。 夜の間に明かりを
    持たずに往来する者は盗賊と見なされ、捕縛された。 それでも盗みと人殺しは
    後を絶たず、1晩のうちに、数人の死体が見つかることは普通だった。 ツァーリの
    即位などで恩赦令が出て因人が一斉に出獄した時などは、一夜で100人以上も
    殺された』と書いているのは、元外交官でモスクワからスウェーデンに亡命した
    コトシーヒンという人物である。

    moskva

    コトシーヒンは、17世紀の中頃、使節館署で働いていたため、クレムリンの
    内部事情に通じていた。 『ツァーリの幼い皇子と全ての皇女が外出する時には、
    周囲をすっかり布の幕で覆って人目に付かぬようにした』とか、『皇女は決して
    臣下に嫁がせず、改宗を恐れて、外国の王家にも出す習慣がないため生涯を
    涙のうちに泣き暮らすことになる』などとも述べている。 もっとも、
    『ツァーリの后を外国からの使節にも会わせないのは、教養のなさを隠す
    ためである』というような叙述にはいささか悪意が感じられない訳ではない。

    西欧人の観察では、ロシアでは肉付きの良い女性ほど美人と考えられていた。
    『貴族ともなると、白粉を顔一面に塗って紅をたっぷりと頬に付け、20人、
    ないし、30人の召使を引き連れて、夏は馬車、冬はソリで外出したという。
    男女を問わず、身分の高い者は徒歩では出歩くことは出来なかった。 そして、
    大勢の召使を抱えることが豊かさの証とされた。 満足な給料を与えられない
    召使の多いことが犯罪の温床になった』と指摘している外国人も居る。

    むろん、人間の社会であるため、モスクワの暮らしが暗黒ずくめだった筈がない。
    1年を通して、正教会の祭日には、各所で縁日が立って見世物の出る賑わいが
    あり、街区ごとに雪投げ、石投げ、素手の殴り合いなどの遊びがあり、所属
    する教区教会の祝日には講を組んで酒宴を催すというような楽しみ方もあった。

    1日のうちの正式な食事は昼食で、その後にゆっくりと昼寝をするため、真昼時
    には、町の人通りが消えてしまうというような19世紀まで続いた独特の習慣も
    既に成立していた。 

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    赤の広場に立つ旅行者の目をまず引き付けるのは、クレムリンの壁やグム・
    デパートではなくて広場の南側に立つ聖ワシリー大聖堂の特異な姿であろう。
    あの玉ねぎ型の屋根の群れ、それぞれの大胆なデザインと鮮やかな色彩の
    取り合わせは、一度見たら忘れることの出来ない強烈な印象を与える。

    この大聖堂は、ロシアによるカザン・ハン国に対する勝利を記念して1555年
    から61年に掛けて建立された。 カザンを征服してモスクワに凱旋した時の
    ツァーリは、まだ22歳のイワン4世だった。 建築を担当したのは、バルマと
    ポスニクという2人のロシア人である(同一人物とする説もある)。

    元々、対カザン戦争の勝利にちなむ8つの聖堂をひとつの大聖堂にまとめる
    という課題を果たすために、8基の祭壇と円屋根を設ける必要があった。
    そのうち、半分の4基は、大きな円屋根で、他の半分は、それぞれ多少とも
    小さめに造られた。 キリストを称えるという趣旨から、中央にひときわ高く
    テント型の屋根をそびえさせ、その頂上には、小ぶりのドームが付けられた。

    wasilij

    変わっているのは、それをそれぞれの円屋根の形が、たまねぎ型に統一
    されているものの、全部異なった意匠が施され、色合いも様々なことである。
    構成上の調和は全く無視されている。 勝利の日が10月だったことから、
    この大聖堂は、ポクロフスキーと命名された(旧暦の10月1日がポクロフ=
    聖母庇護祭にあたる)。 もうひとつ怪奇なことは、この大聖堂が落成して
    献堂式を拳行して間もない1558年、癒癩行者として知られたワシリーが
    聖者の列に加えられたのを記念して、堂内の祭壇に祀られた途端に、
    ポクロフスキーという正式な名称を忘れられ、福者(ブラジェンヌィー、
    聖者の位のひとつ)ワシリーと呼ばれるようになったことである。

    癒癩行者は、東方正教会に特有な現象で、狂気のふりをして(あるいは、実際に
    狂気に侵されて)社会通念に反するような奇行を演じたり、奇言を吐いたりする
    者のことである。その中で特に正教会では、聖者と認定していた。

    16世紀の末、モスクワのイギリス商館にフレッチャーという人物が勤務して
    いたが、彼は、その著作の中で次のようにワシリーの噂を伝えている。
    『ロシアにはある種の世捨て人が居て一枚の布切れを腰に巻いている他、裸で
    歩き回っている。 髪の毛は長く垂れて、肩の周りを覆っている。 冬の最中
    にも鉄の首輪や鎖を巻いている者も居る・・・そのうちのひとりバジレオ
    (ワシリーのこと)は、先帝イワン4世が人民に対して残虐な圧政を加え続けた
    ことを絶えず非難していた』。

    イワン雷帝のような専制君主を公然と批判するような行為は、癒癩行者にしか
    許されなかったであろう。 その雷帝が1584年に他界したところから、今は
    亡きワシリーが時代の英雄として担ぎ出されたのに違いない。

    聖ワシリー大聖堂と向かい合って赤の広場の反対側に立っているのが、国立
    歴史博物館である。 中世ロシアの伝統的な建築様式で建てられ、クレムリンに
    調和するように赤レンガで積み上げられている。 ただ、中央の主屋の台形の
    屋根やいくつかのテント型の塔の屋根をはじめ、全ての翼の尖った屋根が純白に
    塗られている。 それが、いかにもパンケーキの上に粉砂糖をふりかけたような
    メルヘン的な印象を与える。

    こちらは、比較的新しく19世紀の70~80年代に建てられたものであるが、
    赤の広場に良く似合っている。 行政上、この歴史博物館のアドレス表示は、
    赤の広場1番地であり、聖ワシリー大聖堂は、この博物館の分館のひとつと
    なっている。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    都市には市が付き物で、モスクワでは、14世紀の後半から、クレムリンの東側の
    城壁の外が商売の売り買いの場となっていた。 16世紀30年代にクレムリンと
    キタイ・ゴロドがまとめて囲まれた時、市の立つ広場は広げられた市域での
    中心地となった。 支配する者と支配される者が出会う場所という意味でも、
    それは国家の中心とも言えた。

    最初は単に市とか市の広場の名称で文献に現れるが、イワン3世が火事の際、
    火の手がクレムリンに及ぶのを防ぐ意味で、240mの幅の空間に建物を建てる
    ことを禁じたことから、16世紀には、ポジャール(火除け)の広場と呼ばれた。
    今のように赤の広場(赤は『美しい』を意味する)の名前が一般化するのは、
    17世紀の後半からである。

    建物は作れなくても、立売や露店を出して商売することは自由であった。
    時代が下ってからは、堀をまたぐスパスカヤ門の橋の上では、書物や版画が
    売られ、一番北の端のニコリスカヤ門の周りには、ブリヌイ(クレープ)や
    パイのような食べ物売りが集まり、その門の近くにある大砲の台座の脇には、
    クワス(黒パンから作る飲み物)やリンゴ、長革靴、ろうそくを商う店が
    並んでいた。 同業者が固まってひとつの列を成しているのが通例であった。

    karasnaya

    広場を挟んでクレムリンと向き合っているのが、キタイ・ゴロドである。
    赤の広場に建物を作らせない代わりに、16世紀の末、ボリス・ゴドゥノフの
    命令によって広場の脇にクレムリンと平行するように常設のゴスチーヌィー・
    ドゥヴォール(商人館)を建て、そこで商品を展示したり、営業を行わせ
    たりした。 ソ連時代には、グム・デパート(国営百貨店)となった。
    キタイ・ゴロドの一角には、イギリス、イタリア、ドイツ等の外国の商館も
    置かれていた。

    赤の広場のように人が集まる空間は、政治的なパフォーマンスの場にもなった。
    イワン3世とソフィアの孫にあたるイワン4世は、非常に残忍なツァーリだった
    ことで有名で、雷帝というのが彼の通り名であった。 国家を収め始めた
    初期には、宗教会議を招集して法律を定めたり、それまでの年代記を集大成
    したりして積極的な姿勢を示すが、1560年からは、周囲に対して、威圧的な
    態度で臨み、彼の治世の間に赤の広場で処刑された貴族や役人の数は、何百人、
    あるいは、何千人とも言われている。

    アムステルダムで発行された前述のクレムリンの図にも『処刑された人々の
    ための堀ばた教会』の絵が5堂も描かれている。 これらの教会は、18世紀に
    なって取り壊され、その祭壇がワシリー大聖堂に移されたので、今は姿を留めて
    いない。 赤の広場の一角にローブノエ・メストと呼ばれる円形の石壇があるが、
    かつてここは、ツァーリの発布する法令が読み上がられた場所である。

    112117a

    17世紀に最も多くの群衆を集めたのは、復活祭1週間前の聖枝祭の行列だった。
    キリストがエルサレムに入ったとされるこの日、総主教が乗るロバの手綱を
    ツァーリが握り、全ての貴族や聖職者や聖歌隊や銃兵隊等が付き従って、
    ウスペンスキー大聖堂からスパスカヤ門を通って、赤の広場に出て、ローブノエ・
    メストまでにぎにぎしく行進したのである。 それは、国家の最高権力者たる
    ツァーリが謙譲の美徳を民衆の前に示すための行事だったと考えられる。
    行進の最後には、ツァーリと総主教がローブノエ・メストに並んで立ち、民衆の
    歓呼の声に応えることで締めくくられた。

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ