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    タグ:イワン

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    モスクワ大公は、イワン3世の孫の雷帝イワン4世の時からツァーリと名乗る
    ようになり、クレムリンには、歴代の大公とその家族が暮らしていた。
    ツァーリは、ローマのカエザル・シーザーに由来している称号であり、
    モスクワ大公が代々使用して来た称号である。

    しかし、クレムリンに住んでいたのは、最高権力者だけではなかった。
    1600年にアムステルダムで出版された絵図によれば、今と同様に、正門は
    赤の広場から入るスパスカヤ門(当時の呼び名はフロロフスカヤ門)であった。
    門を入るとすぐ右手にヴェズネセンスキー尼僧院とチュードフ修道院があったが、
    現在、その場所は、新しい建物になっていて、ロシア大統領の官邸となっている。

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    左手には、ロシア各地の大修道院の分院が建っており、現在、その場所は、
    空き地になっている。 広場を通り過ぎると、クレムリンの中でもずば抜けて
    高い81mの『大イワン』と呼ばれる鐘楼がある。 これをイワン大帝と呼ぶのは
    紛らわしく、キリスト教の古い聖者ヨハネ(ロシア語ではイワン)に由来
    している。 この大鐘楼は、物見の塔の役割を果たしていた。 

    鐘楼の先には、ウスペンスキー大聖堂、アルハンゲルスキー大聖堂、
    ブラゴベシェンスキー大聖堂が立ち並び、その背後から国事を行う宮廷、並びに、
    ツァーリと皇族の私的な居住空間となっていた。 後者は、一段と高い丘の上に
    立ち、周囲からは隔絶していた。 この大クレムリン宮殿は、ツァーリの
    モスクワでの居城であった。 現在の建物は、ニコライ1世の命で建てられた
    ものである。 大鐘楼、大聖堂群、多陵宮を除けば、ニコライ1世以前から
    現存している建物は、ほとんどない。

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    ツァーリの宮殿から程遠くない場所には、総主教館があった。 この聖界と
    俗界のトップの他に、1600年の時点で12家の貴族がクレムリン内に邸を与え
    られていた。 モスクワ国家の全ての貴族と高官は、毎日、早朝ツァーリの
    宮廷に伺候することが義務付けられていたたため、クレムリン内に舘がある
    ことは、相当な特権であったと想像出来る。

    前述の大聖堂の他にも、聖堂(教会)と称するものが19堂、修道院分院と
    呼ばれるものが6堂を数えるため、政治と宗教が分かちがたく結び付いていた
    ことが分かる。 現在の外務省に相当する使節官署、財務省に相当する出納寮、
    警察庁に相当する盗賊取締官署等もクレムリンの中に置かれていた。 すなわち、
    全ロシアの中枢が全てクレムリンに集中していたのである。

    現在と比較して、変わったのは外堀で、西の城壁のわきには、ネグリンスカヤ川が
    流れ、東側、つまり、赤の広場の側には、ネグリンスカヤから分水して堀が掘られ、
    モスクワ川から流れ落ちていた。 堀の深さは、10mあり、幅は35mで、
    スカスカヤ門に入るには、跳ね橋を渡る必要性があった。 19世紀の初めに
    なって堀は埋め立てられ、続いてネグリンスカヤ川も河口から3kmの地点まで
    埋め立てられた。

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    乱世の権力闘争を制して、モスクワが覇権を握ったのには2つの要因が
    あったとされている。 まず、地理的条件。 モスクワは、ロシア平原の
    ほぼ中央にあって、周囲を森で囲まれていた。 タタール勢の襲撃を
    受けにくい比較的安全な場所だった。 また、モスクワ川によって
    ロシア各地と結ばれていた。 中世では、河川は重要な交通手段だった。
    交易の中継をすることでモスクワは莫大な経済的な利益を得た。

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    次に挙げられるのが、歴代の君主の巧妙な外交手段である。 その点で
    とりわけ目立ったのは、ダニールの息子でカリター(銭袋)とあだ名された
    イワン1世であった。 イワンはタタールに取り入って、ロシアから
    キプチャク・ハン国に納入すべき貢税の徴収権を手に入れた。 そして、
    豊富な資金に物を言わせて、モスクワ公国に隣接する諸侯から土地を
    買い入れて領土を拡大して行った。 ロシア全土のキリスト教会を
    統轄するキエフ府主教は、タタールの襲来以来、以後ウラジーミルに
    居を移していたが、それが招かれてモスクワに腰を落ち着けたことも、
    新参のモスクワの権威を高めるのに役立った。

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    それにつれて、クレムリンの内部も次第に拡張されて行く。 考古学的な
    発掘で確められるところでは、イワン1世の代には既にアルハンゲリスキー、
    ブロゴベーシェンスキー、ウスペンスキー等の大聖堂が揃って立ち、
    ハン国の客人を宿泊させるためのタタール館やチュードフ修道院が
    クレムリンの内側に建てられていた。 クレムリンの中に住むのは、
    公の家族と貴族や僧侶で、商業が行われるのは、初めのうちモスクワ川と
    クレムリンの城塞の間の空き地だった。 それが、ポサードと呼ばれた。
    イワン1世の治世になって、市の立つ場所をクレムリンの東側に移した。
    赤の広場の原型が姿を現したのである。

    イワン1世の孫にあたるドミトリー大公の代にモスクワの興隆は一段と
    進み、ドミトリーは、ロシア諸侯の連合軍を率いて、タタール軍を
    南ロシアのドン川の彼方、クリコヴォで打ち破った。 ドミトリー大公は
    この勝利によって、ドンスコイ(ドンの英雄)と呼ばれるようになった。

    ドミトリーの功績のひとつは、クレムリンをほぼ現在の規模にまで
    広げて、1367年の火災で焼け落ちた木の柵の代わりに石炭岩でクレムリンを
    囲ったことである。 「白亜の石のモスクワ」という美称がここから
    生まれた。

    また、14世紀の後半には、モスクワの周りにアンドロニコフ、
    シーモノフ、ロジェストヴェンスキー、スレーチェンスキー等のような
    修道院が次々と開かれた。修道院と言っても、有事の際には、出城の
    役割を果たすように広い敷地を持ち、賢固に築かれていた。 これらの
    修道院は現存していて、あるものは修行の場に、あるものは博物館に
    なっている。 もっとも、現存の建物は、いずれも後代のものである。

    ドミトリー・ドンスコイ大公が没する頃のモスクワの人口は、3万
    ないし4万人に達していたものと推測されている。

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