横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

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    タグ:イタリア

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    フランツ・ヨーゼフ皇帝は、人民代表議会を廃止して、ハプスブルグ政権の
    権威を回復した。 1855年、皇帝は国内の学校の管理をヨーゼフ2世の改革
    以前のように、カトリック教会に委ねた。 皇帝はまた、ロシア軍の来援を
    要請してハンガリー領内の反乱を鎮圧した。

    皇帝は、国内ではこのような強圧策を取る一方で、外交の上では、数々の戦争で
    敗北を重ねた。 1859年、オーストリアはイタリア北西部の王国サルディニアに
    敗北し、イタリア北部の領土の半ばを失った。 これは1864年のイタリア王国
    成立へと繋がった。 また、1866年、プロイセンとの戦争に破れ、ドイツ連邦の
    盟主としての地位を放棄した。 この時プロイセンに味方したのは、イタリアに
    ヴェネチアを割譲し、帝国はイタリアの領土をことごとく失った。

    これらの失敗が続く中、国内の各都市に民衆のデモが起こり、皇帝は新たな立法
    機関として、帝国議会の設置を認めねばならなくなった。 帝国議会は、全ての
    オーストリア市民に基本的人権を保障する法律を制定した。

    1867年、皇帝は、ハンガリーに別個の憲法の制定と独立の王国の成立を認めた。
    こうして、オーストリア帝国は、オーストリア・ハンガリー帝国として、2つの
    君主国の合同国家となった。 1870年には、プロイセンを盟主とする新たな
    ドイツ帝国が創設されたが、1882年、オーストリア・ハンガリーは、ドイツ帝国、
    および、振興のイタリア王国と三国同盟を結んだ。

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    【帝国の内紛】
    19世紀末に、更に新たな市民権を認められたオーストリア人達は、次々に
    新政党を結成した。 成長する中産階級を代表する政党として自由党が出来、
    カトリック教会を代表する支持する農民と労働者の党として、キリスト教
    社会党が出来た。 社会民主党は経済システムの変革と私営企業の国営化を
    主張した。

    国内では、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、スロベニア人、
    クロアチア人などの民族グループが、自治を望んでいた。 だが、これらの
    諸民族に自治を認める立法は、どの政党の支持も得られなかった。 これらの
    少数民族グループには、ロシア帝国と東南ヨーロッパの新興国セルビア王国の
    後援があった。

    1908年、オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに隣接するボスニア・
    ヘルツェゴビナの両州を併合するにおよんで、帝国とセルビアとの関係は、
    ますます悪化した。 元々トルコの領土だった両地域は、かねがねセルビアが
    併合したいと望んでいたのである。

    1914年、セルビアの一青年がオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを
    暗殺した。 同盟関係によってヨーロッパのほとんどの国々が戦乱に巻き込まれ、
    第一次世界大戦が始まった。 何週間としないうちに、オーストリア・
    ハンガリーはどドイツは、ブルガリアとトルコだけを同盟国として、イギリス、
    フランス、セルビア、イタリア、ロシア、日本を敵にして戦っていた。 この
    連合国側には、後にアメリカが加わった。

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    カタルーニャ語は、スペイン語、フランス語、ポルトガル語などと同じく
    ロマンス語の1つで、その地理的位置を反映して、スペイン語とフランス語の
    中間的な特徴を少なからず持っている。 まず、発音は、スペイン語、
    フランス語の母音がそれぞれ5つ、16であるのに対し、カタルーニャ語の
    母音は8つとなっている。 スペイン語と違い、曖昧母音 ə もあるが、
    フランス語のような鼻母音はない。

    語彙では、『食べる』は comer(西)、menjar(カ)、manger(仏)となるが、
    『ビール』は、cerveza(西)、cervesa(カ)、bière(仏)となり、単語によって
    西仏どちらかに似ていることが分かる。 文法に関しても同じで、英語のbe動詞に
    あたるものは、スペイン語ではser と estar の2つがあり、フランス語では être
    1つとなる。 スペイン語には見られない副詞的代名詞の hi、en があるのは、
    フランス語に似ている。

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    もちろん、カタルーニャ語独自の特徴もあり、スペイン語ともフランス語とも
    異なり、カタルーニャ語は anar (行く)+不定詞で過去を表す。 このように
    全体的には、お互いに近い関係にある3言語だが、それぞれの話者が初めて
    出会って、自分達の言葉で話すと、ほとんど理解出来ないが、書けば理解度が
    増す。

    また、カタルーニャ語は隣接する大言語、スペイン語からの言語的干渉に常に
    さらされている。 例えば、スペイン語で義務を表す tener(持つ)+que
    (接続詞)という表現の影響で、本来カタルーニャ語にはない tenir+que+
    不定詞という表現を使う人が少なくない。 このような例は、他にも少なくない。



    【カタルーニャ語の今】
    カタルーニャ語の言語人口は、約600万人で、デンマーク語、フィンランド語などを
    上回っている。 カタルーニャ語の使用能力となると、それぞれの地域の歴史的
    背景、政治・社会的現状により異なる。 バルセロナを中心とするカタルーニャ
    自治州、マリョルカ島などのバレアレス諸島、アンドラでは高く、フランスや
    イタリアに含まれる地域ではかなり低いと言える。

    例えば、カタルーニャ自治州の場合、2003年の時点でカタルーニャ語を聞いて
    理解出来る人は住民の97.4%、話すことが出来る人は84.7%、読むことが出来る
    人は90.5%、書くことが出来る人は62.3%であった。 フランス領北カタルーニャ
    では、2004年の時点でそれぞれ65.3%、37.1%、31.4%、10.6%となっている。

    現存する最古のカタルーニャ語の文章は、11世紀のウルガニャー説教集で、その後、
    中世に哲学者ラモン・リュイなどが出るに至って、文学語として確立された。
    方言としては、大きく東部方言と西武方言に分けられる。 現在の標準
    カタルーニャ語は、東部方言の中の中央方言(バルセロナ周辺の方言)に基づいて
    定められている。

    カタルーニャ語は長い歴史の中で、何度も存亡の危機を経験したが、中でも最大の
    危機はスペイン内戦(1936-39)後に成立したフランコ独裁政権による弾圧だった。
     しかし、それも何とかしのぎ、フランコ体制後に制定された現行の民主的憲法
    (1978年制定)とカタルーニャの自治憲章に基づき、現在カタルーニャ語は、
    スペイン語と共に自治州の公用語とされている。



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    元々、チロルはひとつだったが、第一次世界大戦後、ハプスブルグ帝国の
    崩壊と共に、南チロルは、オーストリア領からイタリア領となった。 しかし、
    この地域では、今でも『チロル』としての住民意識が根強く、イタリア内に
    ありながら、多くの人達が今でもドイツ語で生活をしている。

    現在は、イタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジェ州ボルツァーノ
    自治県に属しており、街で飛び交う言語は、ドイツ語が最も多い。 街の通りは
    ドイツ語とイタリア語が併記されており、南チロルでは、イタリア語が強制
    されたことから、衝突が生じた時代もあったが、今では、ドイツ語で教える
    学校もあり、各家庭で子供をどちらで学ばせるかを選択出来るようになっている。



    【メラーノ(Merano) / メラーン(Meran)
    チロル地方の古都、メラーノは、ドイツ語では『メラーン』と呼ばれており、
    13世紀にチロル地方の都として定められた。 公式には、19世紀まで都であり
    続けたが、実際のところは、名ばかりであったため、現在では、緑あふれる
    気品のある街となっている。 ブルグラヴィアート(ブルクグラーフェンアムト)
    地方 (Burggrafenamt) の中心都市となっており、県都ボルツァーノからは、
    北西へ約25km、州都トレントからは、北へ約66kmの距離にあり、保養地
    として整備されているため、街歩きも実に楽しい。



    【ボルツァーノ(Bolzano) / ボーツェン(Bozen)】
    ボルツァーノは、ドイツ語では『ボーツェン』と呼ばれており、イタリア共和国
    トレンティーノ=アルト・アディジェ州北部の都市で、その周辺地域を含む人口
    約10万人の基礎自治体(コムーネ)で、ボルツァーノ自治県の県都となっている。
    古都メラーノの街からは、約25キロの場所にあり、山に囲まれた地理的な条件は
    同じだが、非常に対象的な街となっている。 緑の街であるメラーノに対して、
    ボルツァーノは石の町。 都であるメラーノに対して、ボルツァーノは商業の
    街だった。

    ボルツァーノの旧市街は意外に広く、街が古くから繁栄して来たことを意味して
    いる。 大きな広場を中心に、石畳の路地や、建物の中を通り抜けられる道が
    張り巡らされている。 建物には、壁画や彫刻を施されたものが目に付く。
    ボルツァーノは、石造りの特有の重々しい印象があるが、南チロルに降り注ぐ
    力強い日差しがそれを跳ね返し、街全体をとても明るくしている。 同じ
    チロルにある石造りの街、インスブルックと比較してみるのも興味深い。

    旧市街は、1本の川が境界線となっており、川沿いの道は、緑の多い公園と
    なっている。 古くは、ローマ時代まで遡る街だが、中世時代に、年に4回
    ほど大きな市が開かれたため、街が発展した。 その歴史を受け継ぎ、市が
    立つ通りが今でもある。

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    国際連合が2015年度版の世界人口推計を公表した。 前回発表された2012年版
    では、主要国の中で
    人口減少に転じている国として、特に日本、ロシア、ドイツが
    指摘された。



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    2000年を100とした指数を以下の図で見ると、2012年に予想されていた2070年度の
    日本の人口は、
    77の23%減と見込まれていたが、2015年度版では、76の24%減と
    下方修正された。

    平均寿命の短いロシアは、2012年度版の予想では、2070年時点の
    人口が75と予想されていた
    ものの、2015年度版では、82と大幅に改善された。

    一方、ドイツは、2012年度版では、78と予想されており、日本とほぼ同様のペースで
    減少する見込みとなっている。

    一人っ子政策の影響により、中国の人口も2070年頃からは、減少に転じるとされている。
    今回の2015年度版で見ると、2070年時点で人口減少となる主要国は、日本、ロシア、
    ドイツ、
    中国の上記4カ国に加えて、韓国、イタリアの2カ国が加わっている。

    2100年の時点で、世界全体の人口は183となっており、全体では人口増加が続いて
    いるものの、
    スペイン、インド、インドネシア、メキシコ、ブラジルといった国々でも、既に
    人口減少が始まって
    いることが確認出来る。

    この先も順調に人口が増加し続ける国は、イギリス、フランス、アメリカ
    ぐらいである。
    日本をはじめとする、人口減少が進む国々の状況を見てみると、2012年度から見た
    2070年度の
    推計では、ロシアが75となっていたものの、2015年度の推計は82と大幅に
    改善されており、
    人口減少のペースが鈍化しているのが分かる。 また、ドイツも、
    2012年度の推計では78だった
    ものが、84となっており、ロシアと同様に鈍化が確認
    出来る。

    2100年の予想を見ると、ロシアは80となっており、2012年度に予想されていた落ち
    込みを回避し、
    また、ドイツも77と減少ペースが減少している。

    一方、日本の2070年度の予想を見ると、2012年度に予想された数値は77だったのに
    対し、2015年度においても76と改善は見られず、2100年には、66という大幅な下落が
    見込まれている。

    中国は2015年度の予想を見ると、2100年時点で79と急速に悪化するが、統計外
    人口の存在が確実視されており、統計の真正性にも疑念が残っている。 日本の2100年
    時点の人口は、8,300万人台と見込まれており、この66という指数は、2000年当時の
    人口と比較すると、約3分の2程度の人口しか維持出来ないという状況となっている。

    日本の65歳以上の高齢者が生産年齢人口に対する比率は、2000年には36%であった
    ものが、2100年には69.2%と大幅に上昇する見通しとなっている。

    日本以上に人口減少する見込みの国は、台湾、アルメニア、ジョージア、ブルガリア、
    ポーランド、
    モルドバ、ルーマニア、ウクライナ、エストニア、ラトビア、リトアニア、
    アルバニア、クロアチア、
    セルビア、ボスニアヘルツェゴビナ、プエルトリコ、米領
    バージン諸島、バミューダ、北マリアナ諸島
    だけとなっている。

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    イタリアのボルツァーノ自治県は、イタリア共和国トレンティーノ=アルト・
    アディジェ特別自治州に属する県で、県都はボルツァーノ。 イタリアでは
    唯一、イタリア語・ドイツ語・ラディン語の3つの公用語を併用する県と
    なっている。 歴史的には、「チロル」と呼ばれた地域の一部で、「南チロル」
    とも呼ばれている。 この地域では、ドイツ語を母語とするドイツ系住民が
    人口の半分以上を占める他、レト・ロマンス語群の言語である、ラディン語の
    話者も居るため、地域内での言語事情が非常に複雑となっている。
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    1922年にムッソリーニ政権が誕生すると、ボルツァーノ県では、イタリア化
    政策が推進されたため、ドイツ語の使用が禁止となり、人名、地名は全て
    イタリア語に変更された。

    学校教育もイタリア語で行われるようになった他、イタリア南部からの移住も
    推奨され、徐々にイタリア語系住民の比率が高まって行った。 1939年、
    ムッソリーニは、アドルフ・ヒトラーから、ドイツ語系住民に、ドイツへの
    移住か、イタリアに留まり、イタリア人との同化政策を受け入れるかの選択を
    させる事を提案され、同意した。 住民は、故郷を捨てるか、母語を捨てるか
    という苦渋の選択を迫られた。

    第二次世界大戦後期の1943年、イタリア王国が連合国に降伏すると、直ちに
    ドイツ軍はイタリア北部を占領する。 ボルツァーノ県域は、名目上、イタリア
    社会共和国に属するとされたものの、ドイツ軍の占領統治下に置かれた。
    1945年5月のドイツ降伏に先立ち、4月27日にドイツからの独立を宣言した
    オーストリアの臨時政府は、1938年の独墺合邦の無効を宣言し、チロル州も
    オーストリア領に復した。 ボルツァーノ県の住民も南チロル人民党を結成
    するなど、オーストリアへの復帰を望んだが、国際情勢がそれを許さなかった。

    1946年9月5日、パリにおいて、イタリアのデ・ガスペリ首相兼外相と
    オーストリアのグルーパー外相との間で会談が行われ、同県のイタリア領有、
    および、ドイツ語系住民への自治権の付与について合意に達した。 1948年
    1月の法律で、自治権が保障されたが、パリでの合意に及ぶものではなく、
    ドイツ語系住民にとっては、不十分な内容であった。

    また、中央政府が南イタリアからの移住を推進した事に対しても不満があった。
    このため、完全自治、あるいは、チロル再統一を要求する組織が作られ、
    1950年代半ば以降、テロ活動が続き、1960年代には激しさを増した。
    1960年には、国際連合でも議題にあげられ、平和的解決が求められた。


    家庭内の会話における使用言語全国
    イタリア語のみ、あるいは主にイタリア語45.5%25.2%
    地方言語のみ、あるいは主に地方言語16.0%1.5%
    イタリア語と地方言語の双方32.5%4.1%
    他の言語5.1%65.5%

    【ドイツ語】
    ドイツ語話者は、県人口の約70%を占める。 2011年の「言語集団調査」に
    よれば、県の116コムーネのうち、103コムーネでドイツ語話者が過半数を占める。
    住民のほぼ全てが、ドイツ語話者であるコムーネも多く、ドイツ語話者が人口の
    90%以上を占めるコムーネが77コムーネ、98%以上を占めるコムーネが
    26コムーネある。 マルテッロでは、ドイツ語話者が100%となっている。
     
    公文書や教育・メディアなどでは、標準ドイツ語が用いられている。 ただし、
    この地域で話されているドイツ語は方言で、県内でも地方ごとに差異があり、
    東部はバイエルン人/バイエルン語話者、西部はアレマン人/アレマン語話者が多い。

    【イタリア語】
    イタリア語話者は、県人口の約25%で、県都ボルツァーノをはじめとする南部に
    多い。 2011年の「言語集団調査」によれば、イタリア語話者が過半数を占める
    のは、5コムーネで、ボルツァーノ(73.80%)、ライヴェス (71.50%)、
    ブロンツォーロ (62.01%)、サロルノ (61.85%) 、ヴァーデナ(61.50%) となって
    いる。 これに次ぐのは、メラーノ (49.06%) で、ドイツ語話者と拮抗している。

    【ラディン語】
    ラディン語は、レト・ロマンス語群の言語で、イタリア語とは同じロマンス
    諸語に含まれる。ラディン語話者は、オルティゼーイをはじめとする、県東南部の
    ヴァル・ガルデーナ、および、ヴァル・バディーアに集住しており、8コムーネで
    過半数(いずれも80%以上)を占める。 2011年の「言語集団調査」によれば、
    ラディン語話者が最大の比率を占めるのはラ・ヴァッレ (97.66%) である。
    8コムーネ以外では、オルティゼーイに隣接するカステルロットで15.37%を占める。

    ラディン語話者はボルツァーノ自治県、トレント自治県、ベッルーノ県に
    またがる山間地域に集まっており、これらの地域は、「ラディニア」と呼ばれる。
    ラディン語話者は、全体で約3万人とされており、ユネスコの「危機に瀕する言語」
    では「危険」と評価されている。 ボルツァーノ県にはこのうち約2万人が
    暮らしている。



    オーストリアは、長年に渡り、イタリアに対して、ドイツ語話者の多い南チロルの
    返還を求めているが、イタリアは、これに応じず、南チロルは、未だイタリア領の
    まま現在に至っている。

    世界には、このような、国境と言語が一致していない個所が多く見られるが、
    むしろ、日本のように、国境と言語が一致している国の方が珍しいのかも知れない。

    【お勧めの一品】


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